レビ記11章
11:1 主はモーセとアロンに告げて、こう彼らに言われた。
11:2 「イスラエルの子らに告げよ。次のものは、地上のすべての動物のうちで、あなたがたが食べてもよい生き物である。
初めに食べて良い生き物について示されました。食べることは、それを受け入れ自分自身がそのようになることを表しています。霊的には、私たちがそれらから教えを受け、自分自身が倣うべきものを表しています。そのことは、四十五節に示されているように、聖なる者となるためです。逆に、汚れた物として示されているものを食べたり触れたりすることで汚れてはならないことは、そこに示されているような汚れに染まることで、汚れた者とならないためです。
11:3 動物のうち、すべてひづめが分かれ、完全にひづめが割れているもので、反芻するもの。それは食べてもよい。
全ての蹄が分かれていて、完全に蹄が分かれているもので、かつ反芻するものです。
蹄が分かれていることで、歩く場所がどのような所でも歩くことができます。平らな面は当然ですが、岩山や傾斜地を歩くことができます。また、水牛のように、湿地帯も歩くことができます。霊的には、確かな確実な歩みを表しています。歩く環境に左右されないで、歩くことができることです。人は、困難や、悲しみや苦しみのある道を避けようとします。霊的には、そのようなことは、神の目に適う歩みとは言えません。イエス様の歩みのように、神の御心を全うすることが幸いなのです。
反芻は、消化吸収のためです。全ての動物は、反芻しないと食物から栄養を吸収できないわけではありません。これは、神の御心を知ることに関して、特に御言葉に関して、繰り返し覚えて自分のものにすることを表しています。掟については、口ずさむように命じられています。それは、一度受け入れた教えを繰り返し覚えることで、自分自身のものにすることを教えています。
11:4 ただし、反芻するもの、あるいは、ひづめが分かれているものの中でも、次のものは食べてはならない。らくだ。これは反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:5 岩だぬき。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:6 野うさぎ。これも反芻はするが、ひづめが分かれていないので、あなたがたには汚れたものである。
11:7 豚。これはひづめが分かれていて、完全に割れてはいるが、反芻しないので、あなたがたには汚れたものである。
11:8 あなたがたは、それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸に触れてもいけない。それらは、あなたがたには汚れたものである。
しかし、蹄が割れていることと反芻することは、両方必要なこととして示されています。どちらか一方があれば良いということではありません。両方揃っていて初めて、汚れていないとされます。それは、御言葉を受け入れて繰り返し覚えることと、それを常に実践することの両方が必要であることを教えています。
このような動物の肉を食べることは、その教えを受け入れることを表しています。御言葉を繰り返し覚えることをしない、あるいは、どのような中にも御心を行うことをしようとはしないとです。そして、その死骸は、すでにそのような歩みをしている人のことを表しています。そのような人と交わり、仲間となってはならないことを教えています。
11:9 水の中にいるすべてのもののうちで次のものを、あなたがたは食べてもよい。海でも川でも水の中にいるもので、ひれと鱗のあるものはすべて食べてもよい。
鰭の役割は、水中を泳ぐこと、また、水の流れや波浪に対して姿勢を保つことです。鱗は外敵から身を守るだけでなく、水の抵抗を減らす役割もあります。
鰭と鱗のあるものは、食べても良いとされています。
11:10 しかし海でも川でも、すべて水に群がるもの、またはすべて水の中にいる生き物のうち、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
それらの生き物は、海や川などの水の中にいます。海は、神に敵対する勢力を表しています。川は、多くは、聖霊の比喩ですが、霊の流れを表していて、川に例えられる時、人が皆同じように間違った考えによって流れていることを例えています。そのような中で流されることなく生きていくことが鰭の比喩です。鱗は、そのような誤った教えの影響を受けないことを表しています。
11:11 これらは、あなたがたには忌むべきものである。それらの肉を食べてはならない。また、それらの死骸を忌むべきものとしなければならない。
それらは、忌むべきものなので、食べてはなりません。肉を食べると記されることで、神の教えに敵わない歩みをしている者たちは、肉による生き方なのです。それで、そのような考えを受け入れてはならないのです。また、神の前に死んでいる彼らと交わり、同じ歩みをしてはならないのです。
11:12 水の中にいるもので、ひれや鱗のないものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
鰭や鱗のないものは、忌むべきものです。これは、霊的教えのためです。
11:13 また、鳥のうちで次のものを忌むべきものとしなければならない。これらは忌むべきもので、食べることはできない。すなわち、禿鷲、禿鷹、黒禿鷹、
禿鷹の類は、頭に毛がありません。これは、自分を覆わないことを表しています。また、死んだ動物の肉を食べます。これは、神の前に死んでいるものたちを自分のものとしその生き方とすることを表しています。
11:14 鳶、
主に屍肉を食べる。小動物も食べる。
隼の類、
鳥、ネズミなどを食べる。鳥は、神の子たちの比喩。それを餌食にする。
11:15 烏の類すべて、
烏は、雑食。果実、昆虫、動物の死骸、生ごみ、鳥類の卵などいろいろなものを食べます。
11:16 だちょう、
雑食性で、草や葉、枝、木の実などの植物を中心に採食します。空を飛べない。
夜鷹、
主に夜行性で、飛翔しながら、がま口のような大きな口を開けて、飛行中の昆虫類を捕らえ、餌にしています。
夜行性であり、霊的比喩として、天に属していますが、光の中を歩まないことの比喩です。
かもめ、
魚、動物性なら何でも。鳩のような鳥も食べます。
鳥類は、神の子の比喩です。それらを餌食としています。
鷹の類、
ミサゴの食べ物は主に魚類を好んで捕食している。魚が捕れない場合は、ヘビなどの爬虫類や小さな哺乳類を稀に捕食する。
大鷹の食べ物は、主に鳥では、キジ、ヤマドリ、カモ類、ハト類、カケスなどの中形からやや大型の鳥類を好んで捕食する。哺乳類では、リス、ノウサギ、キツネやタヌキの子と言ったものを捕食している。鳥類と哺乳類の捕食の割合は、鳥類の方をやや好んで捕食している。
鳥類は、神の子の比喩です。それらを餌食としています。
11:17 ふくろう、
フクロウは猛禽類なので、基本的に肉食です。 野性の梟は、ハタネズミ等の哺乳類や雀などの鳥類など、色んなものを食べます。
鳥類は、神の子の比喩です。それらを餌食としています。
鵜、
食性は動物食で、ほとんど魚類です。潜水して捕食します。泳ぐ魚は、この世の流れに逆らい固く立つ信者の比喩です。それを餌食にします。
みみずく、
食べ物はモグラ類、ネズミ類を主食にしていて、鳥も捕えています。夜行性です。
鳥類は、神の子の比喩です。それらを餌食としています。
11:18 白ふくろう、
完全な肉食の猛禽類で、普段はレミングというネズミの仲間を中心に、 ウサギ などのげっ歯類を獲物にしています。
肉を食べることから、肉による生き方をすることの比喩。
森ふくろう、
フクロウは肉食の鳥で、カエルはもちろん、小動物や小鳥、昆虫なども食べます。多くは、行動は夜間です。これは、食性において、また、光のない夜に行動することが霊的比喩として汚れています。肉を食べるものであり、天に属しながら光のうちを歩まないことの比喩です。
野雁、
食性は雑食で、植物の葉、花、果実、種子、昆虫、鳥類の卵や雛、小型哺乳類などを食べる。
鳥類は、神の子の比喩です。それらを餌食としています。
11:19 こうのとり、
食べもの ドジョウ、ナマズ等の魚類、カエル、ヘビ、貝類、昆虫類など、肉食の鳥です。
鷺の類、
哺乳類、鳥類、爬虫類、動物 の死がいなどを食べます。 ウ サギやヘビなどを捕まえて食 べます。
鳥類は、神の子の比喩です。それらを餌食としています。
肉を食べることは、肉による生き方を自分のものとすることの比喩。
動物の死骸を食べることは、死んだ行いを自分のものとすることの比喩。
やつがしら、
主として、地中に生息する虫たちを食べています。
やつがしらの特徴は、頭の冠羽です。冠のような飾り羽は美しいです。自らを飾り、誇ることの比喩です。
こうもりである。
蚊やユスリカなどの小さな昆虫が好物です。 コウモリが夕方以降になると空を飛び交うのは、昆虫を食べるためです。
食性に問題はないようです。しかし、その行動は通常夜間です。天に属しながら、光のうちを歩まないことの比喩です。
11:20 羽があって群がり、四本の足で歩き回るものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
11:21 ただし、羽があって群がり、四本の足で歩き回るもののうちで、それらの足より高い二本の跳ね足を持ち、それで地上を飛び跳ねるものは食べてもよい。
11:22 それらのうち、あなたがたが食べてもよいものは次のとおりである。いなごの類、毛のないいなごの類、コオロギの類、バッタの類。
11:23 しかし羽があって群がり、足が四本あるものはすべて、あなたがたには忌むべきものである。
羽がありながら飛ばず、群がり、四本の足で地を歩き回るものは、比喩としては、信者でありながら、この地に属する生き方を求める人々のことで、同じ考えの者と連なるのです。
飛び跳ねるものは、聖いとされました。地にありますが、地に属する生き方をせず、天に属する生き方をすることの比喩です。
11:24 次のことによっても、あなたがたは身を汚すことになる。すなわち、それらのものの死骸に触れる者はだれでも夕方まで汚れる。
11:25 また、それらの死骸を運ぶ者はみな、自分の衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。
死骸に触れることで汚れます。地に属する生き方をしていて、神の前に死んでいる人々の仲間になることが汚れたこととされています。
11:26 ひづめが分かれてはいても完全には割れていないか、あるいは反芻しない動物のことについては、これらはすべて、あなたがたにとって汚れたものである。これらに触れる者はだれでも汚れる。
そして、また、蹄が分かれていることと、反芻することがどちらか欠けているものについて、全て汚れていることがとりあげられ、それらに触れることで汚れることを示しました。これも、触れることで仲間になることを表しています。それにより汚れるのです。
11:27 また、四本の足で歩き回るすべての生き物のうち、足の裏のふくらみで歩くものはすべて、あなたがたにとって汚れたものである。その死骸に触れる者はみな夕方まで汚れる。
11:28 その死骸を運ぶ者は自分の衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。これらは、あなたがたには汚れたものである。
足の裏の膨らみで歩く四つ足の動物について、汚れているとされました。これは、忍足で獲物に近づくとき、音を出さないためです。隠れていて不意に襲います。そして、血を流すのです。
これは、悪い目的のために密かに忍び込む者の比喩です。それが会衆の中に潜り込む事で問題を起こします。
聖なることに対比して、地に属する生き方をするものたちのことが取り上げられています。肉に従い、この世のものを求めるのです。しかし、主は、上から来られた方として父の御心だけを行われました。それが聖なることです。
11:29 地に群がるもののうち次のものは、あなたがたにとって汚れたものである。すなわち、もぐら、跳びねずみ、大トカゲの類、
11:30 ヤモリ、ワニ、トカゲ、砂トカゲ、カメレオンである。
モグラは、光を避けた行動、跳びねずみは、夜行性。おおとかげの類は、肉食。やもりは、夜行性。ワニやトカゲは、地に這います。砂トカゲは、砂に潜って隠れる。カメレオンは、昆虫を食べる。体の色が変わります。
11:31 すべて群がるもののうち、これらは、あなたがたにとって汚れたものである。これらが死んだ状態のときに触れる者はだれでも夕方まで汚れる。
死骸に触ることは、死んだ行いの仲間になることの比喩です。それで汚れます。
11:32 また、それらのうちのあるものが死んで何かの上に落ち、それが木の器、衣服、皮、袋など、何かに用いる物である場合、それは汚れる。それは水の中に入れなければならず、夕方まで汚れ、その後きよくなる。
その死骸に触れたものは、何でも汚れます。それは、水の中に入れることで清くなります。夕方までは汚れます。水は、御言葉の比喩であり、死んだ行いから清められるためには、御言葉によって教えられ、汚れから清められる必要があります。それには、御言葉が自分のものになる必要があり、少し時間がかかります。
11:33 また、それらのうちの一つが、どのような土の器の中に落ちても、その中にあるものはすべて汚れる。その器は砕かなければならない。
土の器は、人の内面の比喩で、その内にあるものが全て汚れます。これは、汚れに染まった考えのことで、それは、器が壊されるように、それを砕き、捨てなければなりません。そのような心を残しておいてはならないのです。
11:34 また食べられる物で、それに水がかかっていれば、それはみな汚れる。また飲める物で、そのような器の中にあるものはみな汚れる。
食べられる聖い食べ物で、水がかかっているものは、御言葉によって聖められているものの比喩ですが、それが死んだ行いによって汚されているならば、それは、汚れたものになります。飲めるものもそうです。
テモテ第一
4:1 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
4:2 それは、良心が麻痺した、偽りを語る者たちの偽善によるものです。
4:3 彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人々が感謝して受けるように、神が造られたものです。
4:4 神が造られたものはすべて良いもので、感謝して受けるとき、捨てるべきものは何もありません。
4:5 神のことばと祈りによって、聖なるものとされるからです。
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御言葉から外れた教えによる汚れが入る時、よいとされていたものまでも汚れることになります。
11:35 さらに、どのようなものでも、その上にこれらの死骸の一つが落ちたものは汚れる。それがかまどであれ炉であれ、打ち壊されなければならない。それは汚れていて、あなたがたには汚れたものとなる。
どのようなものであれ、死骸に触れるものは汚れ、かまどであれ炉であれ、壊さなければなりません。その汚れに染まったものを用いることできないのです。
教会における公の奉仕などは、特にそうです。器として働く者が御言葉に適わない教えによって汚れているならば、奉仕してはならないのです。
11:36 ただし泉、あるいは水のたまっている水溜めだけはきよい。しかし、それらの死骸に触れる者は汚れる。
泉は、聖霊の比喩です。また、水の溜まっている水溜は、御言葉の比喩です。それら自体が汚れることはありません。
11:37 また、蒔かれる種の上にそれらの死骸のどの一つが落ちても、それはきよい
11:38 しかし、種の上に水がかけられていて、その上にそれらの死骸のあるものが落ちたなら、それはあなたがたには汚れたものである。
蒔かれる種は成長し実を結ぶことが期待されています。水が撒かれていることは、御言葉の教えを受けていることを表しています。そこに汚れが入ったならば、汚れるのです。そこに健全な成長を期待できないのです。
水が撒かれていない物は、元々教えられていないことを表していて、御言葉による健全な教えが汚されることはないのです。
水が撒かれていることは、御言葉の教えがされていることを表していて、そこに汚れが入ることが問題とされています。
11:39 あなたがたが食用として飼っている動物の一匹が死んだとき、その死骸に触れる者は夕方まで汚れる。
11:40 その死骸を食べる者は自分の衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。また、その死骸を運ぶ者も自分の衣服を洗わなければならない。その人は夕方まで汚れる。
食物とするための動物は、本来その人の体を養うものとして聖いのです。しかし、死んだことは、聖書の言葉でも、その人にとって死んでいることがあるのです。単なる読み物になっていたり、御言葉の意味を考えずに読むような場合です。それを読んだり聞いたりしても、益にはならないのです。生きた食物として食べなければならないのです。
衣服を洗うことは、外に現れる行動を清めることです。聖書の言葉を生きたものとして受け入れていなければ、それは、その人の振る舞いとして外に現れるのです。それを清める必要があります。
11:41 地に群がるものはすべて忌むべきもので、食べることはできない。
地に群がるものは、地に属するものです。
11:42 地に群がるもののうち、腹で這うもの、また四本の足で歩くもの、あるいは多くの足のあるもの、これらのどれも、あなたがたは食べてはならない。それらは忌むべきものである。
這うもの、四本の足で歩くもの、多くの足を持つものは、地に張り付いていて、天に属するものとして行動がないのです。
11:43 あなたがたは、いかなる群がるものによっても、自分自身を忌むべきものとしてはならない。また、それによって身を汚し、それによって汚れてはならない。
求められていることは、身を汚してはならないことです。
11:44 わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別して、聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。あなたがたは、地の上を這ういかなる群がるものによっても、自分自身を汚してはならない。
主が聖であるので、聖なる者とならなければならないのです。
11:45 わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるからだ。あなたがたは聖なる者とならなければならない。わたしが聖だからである。」
エジプトから連れ出したのは、世から贖い、神にふさわしい者とするためです。この世の死んだ行いをしていてはならないし、それらに染まってはならないのです。聖なる者とならなければなりません。
11:46 以上が、動物と鳥、また水の中にうごめくすべての生き物と、地に群がるすべての生き物についてのおしえであり、
11:47 それによって、汚れたものときよいもの、食べてよい生き物と食べてはならない生き物とが分けられるのである。
彼らに、汚れたものと聖いものを教えました。食べてよい生き物と食べてはならない生き物を教えました。彼らは、実際の生活に適用しました。今日、すべてのものは、聖いとされています。しかし、その霊的比喩から聖いものとなることを学ぶことが大切です。