ルカ22章

22:1 さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。

 種なしパンの祭りがこの祭全体を指す言葉です。過越の祭りと言われるのは、その最初の日に行われることに注目しているからです。それは、滅びからの救いのを比喩として表わされています。屠られた子羊は、イエス様の比喩です。種なしパンは、清い歩みの比喩です。

 過越は、信者にとって大切なものです。しかし、清められるという目的があることを覚えることも大切です。

22:2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。

 祭司長、律法学者たちは、イエス様を殺すための良い方法を探していました。それは、民を恐れていたからです。民の反発を買うような方法を取ることはできないからです。

22:3 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。

 ユダは、サタンが入ったことを認識したわけではありません。しかし、彼は、サタンの強い支配のもとに行動するようになります。彼自身がイエス様を売り渡す行動に出たことがそのことを明らかにしています。ユダ自身は、自分の欲望に従って行動したのです。彼は、イエス様が王として立つことなく、死ぬことを知って、イエス様を見限っていましたし、金入れの金をいつも盗んでいたように、金に執着していましたから、金のためにイエス様を売ることを計画したのです。悪魔は、そのような強い欲望を用いるのです。彼を強く誘惑し、彼はそれに乗りました。

22:4 ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。

 相談の相手は、祭司長たちや宮の守衛長たちです。祭司とレビ人の門衛の、最高責任者たちに相談しました。彼らは、イスラエルの霊的指導者です。

22:5 彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。

 その彼らは、イエス様を殺す良い機会が与えられたことを喜びました。ユダに金をやる約束をしました。

22:6 ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。

 ユダは、群衆がいないときにイエス様を引き渡そうと機会を狙っていました。彼も群衆がいては都合が悪いことは承知していました。

22:7 過越の子羊が屠られる、種なしパンの祭りの日が来た。

 この祭りが種なしパンの祭りであることがわかります。過越の子羊が屠られることも説明されていますが、これは、種なしパンの祭りです。

22:8 イエスは、「過越の食事ができるように、行って用意をしなさい」と言って、ペテロとヨハネを遣わされた。

 イエス様は、ペテロとヨハネに過越の食事の用意をするように命じられました。

22:9 彼らがイエスに、「どこに用意しましょうか」と言うと、

22:10 イエスは言われた。「いいですか。都に入ると、水がめを運んでいる人に会います。その人が入る家までついて行きなさい。

22:11 そして、その家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っております』と言いなさい。

22:12 すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこに用意をしなさい。」

 弟子たちは、どこに用意しましょうかと尋ねました。イエス様は、すでにそれがどこであるかをご存知であり、しかも、その家への案内人は、水瓶を運んでいる人であり、弟子たちは、その人に出会うことも告げられました。そして、家の主人に、先生であるイエス様の言葉として、弟子たちと一緒に過越の食事をする客間は、どこかと告げるように言われました。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれるので、そこに用意するように言われました。

 この家の主人は、イエス様のために二階の大広間の客間を用意していたのです。弟子たちと共に食事ができる広さがありました。そこまで考えて整えていたのです。

22:13 彼らが行ってみると、イエスが言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。

 弟子たちは、そのイエス様の言葉を信じて出かけました。都の中で水瓶を運ぶ人に出会うことは、神様がそのように導かなければ、起こらないことです。でも、弟子たちは、イエス様の言われた通りであることを経験したのです。

22:14 その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。

 夕暮れになりました。その時刻が来て、イエス様は席に着かれました。次節のイエス様の言葉のように、イエス様が弟子たちと共にその食事することを強く願われたからです。

22:15 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。

 イエス様は、苦しみを受ける前に、弟子たちと一緒にこの食事をすることを切に願っていました。その食事は、イエス様を覚えることを表しています。弟子たちがイエス様を覚えることは、彼らの霊的成長にとっては、とても大切なことです。主は、それを喜ばれました。

22:16 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」

 過越が神の国で成就するときは、十字架の御業が完成するときです。それは、イエス様が信じた者が滅びを免れことを表していて、イエス様を信じて救われる者が起こされる最後の時まで続きます。

22:17 そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。

 初めに杯を取り、互いの間で分けて飲むように言われました。この杯については、イエス様を覚えることと関連づけては言われませんでした。

22:18 (なぜならば)あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」

 その理由を示し、イエス様は、今から神の国が来る時まで、葡萄の実からできた物を飲むことはないからであると言われました。前節で、過越が神の国で成就するまでと言われたことは、神の国が来る時までのことです。神の国は、人が信仰によって神の御心を行なって報いを受けることを指しています。その時が来るのです。それは、主イエス様を信じ、従って生きた者が報いを受ける時です。弟子たちは、その時まで、葡萄酒が表すように自分を捨てて生きるのです。そして、豊かな報いを受けるのです。そのことが全ての人に関して終わり、全ての人が報いを受けるその時まで続きます。主は、それまでは、その葡萄酒を飲むことはありません。主は、すでにご自分を捨てて、御業を完成されたのです。今度は、信者が同じ歩みをするのです。葡萄の実からできた物と言われたのは、自分を捨てる比喩を明確にするためです。自分を捨てる時、それは、その人を満たす喜びをもたらします。先導者である主は、人が自分を捨てる戦いをしている間、その葡萄酒がもたらす喜びと祝福を味わうことはないのです。戦いの中にある信者がいる間、それを味わうことはないのです。

22:19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

 パンを取り、裂いて弟子たちに与えられました。これは、あなた方のために与えられるわたしの体ですと。そのパンは、主の体を意味していました。主は、十字架の上にその体を捧げられました。

・「わたしを覚えて」→「前置詞エイス:G1519」特定の目的や結果への浸透を意味する 。わたしを覚えるために。

・「わたしを覚えて」→わたしの「回想:起こったことの効果(意図した結果)をよりよく理解するために行われる、意図的な回想」のために。

22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。

 杯も同じようにして言われました。

・「血による」→内部で。内で。~の領域で。(イエス様の血に)よる。

22:21 しかし見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓の上にあります。

22:22 (なぜならば )人の子は、定められたとおり去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。」

 イエス様は、ご自分を裏切る者が共にいることを証しされました。その理由を示して、それは、定めらた通りに 去って行くからです。神様が定めたことであることを証しされました。

 しかし、神様が定めた通りに去って行くのですが、裏切るその人は、災いであるのです。その人の責任は問われます。

22:23 そこで弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんなことをしようとしているのかと、互いに議論をし始めた。

22:24 また、彼らの間で、自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうか、という議論も起こった。

 弟子たちは、それをしようとしてる者が誰かを互いに議論しました。それとともに、自分たちの中で誰が一番偉いのだろうという議論も起こったのです。裏切る者が誰かを議論することは、本当のことを知ろうとしていたというよりも、自分は、そのような悪い者ではないという誇りのためです。それは、この中で誰が一番偉いだろうという議論をすることの根底にあるものと同じです。自分を誇る思いなのです。

22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々に対し権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

 異邦人の王たちは、人々を支配します。「守護者」と呼ばれる者たちも、民に対して権威を持っています。

・「守護者」→民に対して権威を持つ者として取り上げられています。民に対して善いことをする者として「恩恵」を意味する言葉が当てられていますが、イエス様は、民に対して権威を持つ支配者として取り上げています。

22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはいけません。あなたがたの間で一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい。

 しかし、弟子たちの間ではそうであってはならないことを示されました。一番偉い人は、一番若い者のようにしているのです。指導している者は、仕える者のようにしているのです。

22:27 食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょうか。食卓に着く人ではありませんか。しかし、わたしはあなたがたの間で、給仕する者のようにしています。

 その上で、イエス様は、ご自分の模範を示されました。イエス様は、弟子たちの間で、給仕する者のようにしていました。

22:28 あなたがたは、わたしの様々な試練の時に、一緒に踏みとどまってくれた人たちです。

 そして、弟子たちの良い点を取り上げました。自分を高くすることはよくないこととして教えられましたが、弟子たちは、イエス様と共に試練の中で踏みとどまりました。

22:29 わたしの父がわたしに王権を委ねてくださったように、わたしもあなたがたに王権を委ねます。

 そのような人たちに、イエス様が自分を低くして父の御心を全うしたことに対して父が王権を委ねたように、弟子たちにも王権を委ねることを示されました。

22:30 そうしてあなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食べたり飲んだりし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めるのです。

 主と共に食卓に着くその日が来ます。その時は、食べたり飲んだりします。それは、過越が神の国において成就した時です。その時、十二弟子は、王座についてイスラエルの十二部族を裁くことになります。これは、いわゆる千年王国のことです。

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。

 シモンにとって大切なことを告げるために、二度、名を呼び、「見なさい」と注意喚起して告げました。サタンが彼を麦のようにふるいにかけようと、彼の完全な引き渡しを要求しましたと。

・「エクサイテオマイ」→完全な「引き渡し」(完全な「引き継ぎ」)を要求する。

22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 彼の信仰が弱って、信仰が働かなくならないように祈ったのです。それで、立ち直った時に兄弟たちを力付けるように命じられました。サタンがなそうとすることに対して、完全な引き渡しではなく、彼の信仰が働くことを父の前に求めたのです。

・信仰が「なくならないように」→働かなくなる。弱る。なくなる。終わる。

22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

 ペテロは、イエス様の言葉を信じませんでした。自分がそのような状態になることを受け入れることができなかったのです。彼は、主と一緒なら、投獄されることや殺される覚悟はできていると表明しました。彼は、霊の世界でサタンと神様の駆け引きを告げられても、それを現実のこととして受け入れることができないのです。彼は、すでにイエス様の言葉を信じない不信仰な状態になっていました。

22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 それで、イエス様は、ペテロにもっとはっきりと示されました。それは、今日起こることです。鶏が泣くのは朝です。しかも、三度も知らないと言うというのです。ペテロがイエス様の語られたことをそのまま信じることを求めておられます。

 ペテロは、自分の弱さを認めたくないのです。それで、イエス様が語られたことを信じようとしませんでした。

22:35 それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。

 イエス様は、今まで弟子たちが遣わされた時、足りないものがあったかを尋ねました。弟子たちは、なかったと答えました。財布や袋や履き物は、日常生活には必要なものです。遣わされたときは、そのようなものも持って行きませんでした。彼らが、人々によって養われるからです。弟子たち自身も、神様に頼りつつ生きることを学ぶためでした。

22:36 すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。

22:37 あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」

 しかし、今は違うことを示されました。イエス様が迫害をうけ不法者として扱われる時が来るからです。特別な訓練の期間は終わるのです。神様に委ねて歩むことは変わりありませんが、人に頼って生きるのではなく、自分で自分の生活を立てて生きる時が来るのです。それは、テサロニケの信者に当てた手紙にも明確に記されていることです。剣を持つことは、人との戦いのためではないことは、明らかです。イエス様は、捕らえられようとする時、べテロが剣を抜いて対祭司のしもべの耳を切り落とした時、それをとどめ、剣を取る者は剣で滅びますと教えられました。それ以外の用途が想定されています。獣に襲われることもあるのです。自衛のためです。

マタイ

26:51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。

26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

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22:38 彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。

 剣は、二本で十分でした。多くの人との戦いのためであるならば、二本では到底足りないのです。

22:39 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。

22:40 いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。

22:41 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。

 イエス様は、いつものように、オリーブ山に行かれ、いつもの場所に来られ、祈り続けられました。(未完了形)弟子たちには、誘惑に陥らないように祈り続けているように命じられました。

22:42 「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

 父よ、御心であるなら、この杯を取り去ってください(命令形)。しかし、わたしのお願いではなく、あなたが「なれ。すなわち実現せよ。」とすることがなりますように。

・「みこころがなりますように」→実現する、起こる。主動詞の延長・中動態形で、「~させる」、すなわち(反射的に)「~になる(ようになる)」。

22:43 〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた。

 一人の御使いが天から現れて、イエス様を力付けました。ただし、次節から、イエス様は、力付けを受けなかったことがわかります。その後も苦しみ悶えたと記されています。

 御使いは、父から遣わされなければ行動することはあり得ないのです。父の御心は、十字架の御業を完成することです。それ以外のことを御使いが語ることもあり得ないことです。もし、父からの最大の力づけの言葉が授けられたとすれば、父が計画通りに御業を実行するということです。父は、ご自分の苦しみを見ることなく、御業の実現を進めることを御子に告げることです。御子イエス様がその父の決定と心を知るならば、父を慮りつつも、進むことができます。主は、すでにそれが父の御心であることは承知していました。御使いが力づけたという文は、意味を持ちません。

22:44 イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕

 イエス様は、自分の苦しみのために、それを避けようとしていたわけではありません。弟子たちに誘惑に陥らないように祈ることを求められる方が、自分の苦しみのためにこれを避けようとするはずがないのです。イエス様は、ご自分のことではなく、父の悲しみを慮られていました。父が御悲しみを味わうことなく、事が実現することを求められたのです。

22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。

22:46 そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」

 イエス様が自分の苦しみを避けようとしていたのでないことは明らかです。弟子たちに誘惑に陥らないように祈るように言われる方が、自分の苦しみのためにそれを避けようとすることはあり得ないことです。

ヘブル

12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

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22:47 イエスがまだ話をしておられるうちに、見よ、群衆がやって来た。十二人の一人で、ユダという者が先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして近づいた。

22:48 しかし、イエスは彼に言われた。「ユダ、あなたは口づけで人の子を裏切るのか。」

 ユダは、群衆の先頭に立っていました。そして、イエス様に口づけしようとして近づきました。

22:49 イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。

22:50 そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。

22:51 するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。

 剣で打ったこと応じて、イエス様は、そこまでで我慢しなさい。すなわち、そこまでにしなさい。と命じられました。耳は、癒されました。剣は、戦うために用いることを許しませんでた。

22:52 それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。

22:53 わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」

 彼らは、イエス様を捕えるために剣や棒を持ってきました。

22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。

 ペテロは、遠く離れてついて行きました。すでに、彼は、恐れを感じていたのです。

22:55 人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろした。

 ペテロは、人々が火を焚いて座り込んでいたので、中に交じって腰を下ろしました。目立たないように身を隠していたのです。

22:56 すると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」

 召使の女は、じっと見つめて分かりました。彼は、堂々と目立つようにしていたわけでないのです。彼は、目立たないようにしていたのです。

22:57 しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。

 ペテロは、すでに恐れていたのです。一人の女がイエス様と一緒にいたことを指摘した時、即座に否定しました。周りの人にそうと知られたくなかったのです。

22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。

 他の男が、彼らの仲間だと指摘した時、いや違うと答え、否定しました。そうと知られるのを恐れたのです。

22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」

22:60 しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。

 彼は、その後、一時間ほどそこに座っていました。彼がガリラヤ人だと知れました。外見だけでは分かりにくくても、その言葉を聞けば訛りなどから知れることがあります。ペテロは、そこにいた間に、それと知られたのです。

 ペテロは、分からないとしらばっくれました。わかっているのですが、人は、ごまかす時にわからないとよく言うのです。

22:61 主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。

22:62 そして、外に出て行って、激しく泣いた。

 主が、振り向いて見つめられた理由が記されています。ペテロが、イエス様が言われた「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出すためです。ペテロは、かつてその言葉を完全に否定しました。ですから、彼はそれを忘れていました。しかし、主が振り向いて見つめられたので思い出したのです。

 「主」は、振り向いたと記されています。人としてのイエス様ではなく、神としてのイエス様に強調点が置かれています、人間的な憐れみを示したわけではありません。主としてペテロを指導し、あらかじめペテロについて預言した方が、それをされたのです。思い出させたのです。

 人は、自分の考えに合わなければ、聖書の教えも、他の人の意見も否定し、受け入れません。そうすると、それは忘れられてしまうのです。鳥が道端に落ちた種をとっていくのです。

22:63 さて、イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、むちでたたいた。

22:64 そして目隠しをして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞いた。

 兵士たちは、イエス様が誰であるかを全く理解していませんでした。目隠しして鞭で叩いて、誰だか言うことができる方に、その仕打ちをしたのです。

22:65 また、ほかにも多くの冒涜のことばをイエスに浴びせた。

22:66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。

22:67 「おまえがキリストなら、そうだと言え。」しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。

22:68 わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。

 最高法院で、民の指導者たちは、キリストであるならそうだと言いなさいと言いました。彼らがこの方を全く信じていないことは明らかです。キリストであるという答えが真実であるならば、彼らは、神の裁きを免れません。全く信じていないので、このようなことが聞けるのです。この方がキリストであるなら、彼らのしていることはとんでもないことです。

 イエス様は、ご自分が彼らに答えたとしても、彼らが決して信じないと言われました。彼らは、聞いて、学んで、受け入れるためにそのことを言っているのではないからです。イエス様が尋ねたとしても、彼らは、分かっていたとしても答えないのです。真実を追求する心など全くないからです。自分たちの妬みから出てくる殺意だけから行動していたからです。自分たちに不都合なものを取り除きたいという一心から全てのことをしていたからです。

22:69 だが今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」

 イエス様は、それでもご自分のことをまっすぐに証しされました。それが彼らに必要なことであるからです。彼らが拒んで受け入れないことはわかっていました。しかし、真理を隠すことはしませんでした。たとい人間的な考えで人が拒もうとも、真理は、隠すことなく真っ直ぐに証しされなければならないのです。主は、そのことを昔から預言者に求めておられました。神様がそのことを証しさせたのです。主は、その通りを告げられました。それで、聞き入れない人たちは、その責任を問われます。本当のことを告げられたのに受け入れないことは、重い責任が問われます。まして、その真理に反することをあくまでも主張し続けるならば、さらに大きな責任を問われます。

22:70 彼らはみな言った。「では、おまえは神の子なのか。」イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」

 彼らは、イエス様が神の右の座に着くと言われた言葉を捉えて、イエス様に神の子なのかと問いました。イエス様は、彼らに言い続けられました。あなた方は(そのように)言います。なぜならば、「わたしはある」であるからですと。彼らが神の右に着くつくことは神の子であるということかを問うたたことに対して、イエス様は、もっと明快に、「わたしはある。」と言われ、神であることを示されたのです。

・彼らに「答えられ(言われ)」→未完了形、直接法、能動態。未完了形は、過去の動作の継続、または反復を意味します。

22:71 そこで彼らは「どうして、これ以上証言が必要だろうか。私たち自身が彼の口から聞いたのだ」と言った。

 彼らは、イエス様が「わたしはある。」と言い続けられましたので、これ以上、証人は必要ないと言いました。イエス様は、ご自分が何者であるかを、これ以上ない明快な言葉で答えられたのです。