ルカ21章
21:1 イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。
21:2 そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、
21:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。
21:4 あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
イエス様は、献金を投げ入れている様子をご覧になっておられました。貧しいやもめが銅貨二枚を捧げたのをご覧になられて、誰よりも多く投げ入れたと言われました。金額としては非常に少額です。しかし、それを多いと評価されたのは、彼女が捧げたものは、持っていた生きる手立ての全てであるからです。それは、有り余る中から捧げた献金と対比されています。それを捧げた人にとっては、献金を捧げたことで生活支障が生じることはありませんでした。有り余っているものを捧げたからです。金額としては非常に多額になりますが、それが彼の生活に影響を与えないのです。
多くの人にとっては、神様に捧げることは、自分の生活にとって全く支障のない範囲ですることと捉えていたのです。自分たちのすべてが満たされて、その残りを捧げれば良いと考えていました。彼らにとっては、自分を満たすことがまず第一なのです。神様は二の次です。それだけの価値でしかないと思っているのです。彼らは、神様に捧げることがもたらす祝福について知りませんでした。その価値の偉大さがわかっていないのです。
やもめは、明日のことさえわからない状態でした。今日全てを捧げたのですから、明日は、何も食べ物もないことになるかも知れないのです。それでも、持てる物の全てを捧げました。イエス様は、それは最も多くを捧げたことであるとその行為を高く評価されました。百兆円の献金にも勝る献金なのです。それだけ価値ある献金であったのです。神様に、自分の命さえも捧げたからです。これは、イエス様に匹敵する捧げものです。
人の評価と神の評価は、異なります。この方が、神の前に大きな犠牲を払ったことは、神がその大きささを評価されます。人は、それに目を止めることができないのです。
21:5 さて、宮が美しい石や奉納物で飾られている、と何人かが話していたので、イエスは言われた。
21:6 「あなたがたが見ているこれらの物ですが、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることのない日が、やって来ます。」
弟子たちの何人かが、宮の石や飾りに目を見張っていました。イエス様は、その石が崩されずに、他の石に上に残ることがない日が来ると言われました。弟子たちが目を留めていたのは、神殿に神が目を留めておられるというような霊的なことではなく、美しい石や奉納物で飾られていることに注目したのです。しかし、それはこの世のものであり、神の前には価値がないものです。それで、イエス様は、それらが徹底的に崩される時が来ることを話されたのです。価値があるように見えても虚しいことを示したのです。
21:7 そこで彼らはイエスに尋ねた。「先生、それでは、いつ、そのようなことが起こるのですか。それが起こるときのしるしは、どのようなものですか。」
弟子たちは、それがいつ起こるのかを尋ねました。また、どのようなしるしが伴うかも尋ねました。
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れて、『私こそ、その者だ』とか『時は近づいた』とか言います。そんな人たちの後について行ってはいけません。
まず、終わりはすぐには来ないことを示すにあたって、惑わされないように注意を与えました。その時が来たと言う者たちが現れることを示し、惑わされないように言われました。イエス様の名を名乗る者が大勢現れるのです。彼らは、イエス様が来られると言われたことを捉えて、自分がその者であると言います。また、終わりの時が近づいたというのです。これは、その時が差し迫っていることを示す言葉です。私たちは、その時が差し迫っているというよなうことは、決していうべきではありません。その時は、決して分からないからです。時が経過すれば、以前よりは近づいたということはできますが、どの程度近づいたかは分からないのです。その時が近いという意味で言うべきではないのです。山に登る時、六号目から七号目まで登ったとして、もう頂上に近づきましたとは言えないのです。まして、標識がないならば、頂上に近づいたかも知れないが、どの程度近づいたか分からないのです。同じように、その近づいた程度が分からないならば、言うべき言葉ではないのです。「いつ」とかは、私たちが知らなくても良いのです。また、本当に近づいていると思っているならば、それに相応しい備えをしたら幸いです。言葉だけ、近づいたと言うのは、空しいことです。
21:9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」
戦争や暴動は、必ず起こりますが、終わりはすぐには来ません。ですから、世界にどのような戦争や暴動が起こったとしても、終わりが近づいたと言うことはできないのです。
21:10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
21:11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。
ここには、戦争や暴動が起こることとは、異なることが記されています。「天からの大きなしるし」が現れることです。一連の出来事が、神からのものであることを示すしるしを伴うのです。
21:12 しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。
それは、将来の出来事ですが、弟子たちが直面する出来事について話されました。彼らは、迫害されます。会堂や牢に引き渡されます。イエス様の名のために、王たちや総督の前に引き出されます。
21:13 それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。
21:14 ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。
21:15 あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。
それは、証しする機会となります。どのように弁明するかは、あらかじめ考えないと心に決めておくように強く命じられました。(アオリスト命令形)その理由は、主がその言葉を与えるからです。どんな人も対抗したり反論したりできない言葉と知恵を与えるからです。彼らの弁明は、人間の知恵によるのではなく、聖霊によるものです。ペテロやパウロの弁明は、聖霊によったのです。
21:16 あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られます。中には殺される人もいます。
21:17 また、わたしの名のために、すべての人に憎まれます。
イエス様の名のために、すべての人に憎まれます。両親、兄弟、親族、友人たちにも裏切られ、殺される人もいるのです。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一本も失われることはありません。
21:19 あなたがたは、忍耐することによって自分のいのちを勝ち取りなさい。
しかし、彼らの髪の毛一本も失われることはありません。これは、彼らの体が守られることではありません。殺される人もいるのです。「自分の命」と言われている命は、肉体の命ではありません。殺されても忍耐することで獲得することができる命です。これは、信仰が守られて、主に従うことからそれず、永遠の栄光に与ることを言っています。忍耐することでそれを勝ち取ることができるのです。
21:20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
そして、終わりの時について示しました。それは、エルサレムが軍隊に囲まれる時で、滅亡の時です。滅亡が近づいたとわかるのです。これは、期限七十年の神殿が壊される時ではありません。それは、二十二節に記されているように、これが、「報復の日々」であるからです。また、二十七節には、天地のしるしの後に人の子が偉大な力と栄光と共に雲のうちに来られると記されているからです。これは、いわゆるイエス様の地上再臨です。空中再臨の時には、一切のしるしは伴わないからです。
一連の話は、神殿が破壊されることから始まっていますが、イエス様の話は、終わりの時の話になっています。
ゼカリヤ書
14:1 見よ、主の日が来る。あなたから奪われた戦利品が、あなたのただ中で分配される。
14:2 「わたしはすべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。都は取られ、家々は略奪され、女たちは犯される。都の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」
14:3 主が出て行かれる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。
14:4 その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。
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21:21 そのとき、ユダヤにいる人たちは山へ逃げなさい。都の中にいる人たちはそこから出て行きなさい。田舎にいる人たちは都に入ってはいけません。
21:22 書かれていることがすべて成就する、報復の日々だからです。
21:23 それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。この地に大きな苦難があり、この民に御怒りが臨むからです。
その時、都から離れるようにまた入らなように命じました。それは、この民すなわちユダヤ人に対する御怒りが臨むからです。この民に対する報復の日々なのです。大きな苦難があります。身重の女や乳飲み子を持つ女にもその苦難は臨みます。それは、可哀そうですが、預言通りに民の罪に対して報復がなされるのです。
21:24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となって、あらゆる国の人々のところに連れて行かれ、異邦人の時が満ちるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
人々は、剣の刃に倒れます。捕虜となってあらゆる国に連れて行かれます。そして、異邦人がエルサレムを踏み躙ります。エルサレムにいたならばその災いを受けます。
21:25 それから、太陽と月と星にしるしが現れ、地上では海と波が荒れどよめいて、諸国の民が不安に陥って苦悩します。
21:26 人々は、この世界に起ころうとしていることを予測して、恐ろしさのあまり気を失います。天のもろもろの力が揺り動かされるからです。
そして、太陽と月と星にしるしが現れます。地上では、海と波が荒れ響めきます。これは、患難時代に起こることです。人々は、恐ろしさに気を失います。世界に起ころうとしていることを予測するからです。
21:27 そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。
21:28 これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」
その時、人の子であるイエス様が、偉大な力と栄光と共に来るのを見ることになります。空中再臨の時、人々は見ることはありません。これは、地上再臨のことです。その時、生き残っている人たちは、身を起こして頭を上げるのです。神の方に向くのです。それは、神から贖いが来るからです。「あなたがた」とはイスラエルのことです。一連の話は、イスラエルに対する裁きとして語られています。イスラエルに対する預言により、罪が除かれる贖いが近づいたからです。彼らは、聖霊を注がれて聖霊によって歩みます。その時代は、千年間です。そして、白い御座の裁きを受けその時生き残るイスラエル人に対して語られているのです。
21:29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。
21:30 木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。
21:31 同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい。
木が芽を出せば夏が近いことがわかるように、一連のしるしが起こるのを見たならば、あなた方イスラエルは、神の国が近いことを知るように諭しました。神の国は、彼らが報いを受けることを指しています。彼らも、罪が除かれ、御霊によって歩み、最終的には、白い御座の裁きを受け、行いに応じて裁かれ、報いを受ける時が来るのです。
21:32 まことに、あなたがたに言います。すべてのことが起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
21:33 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。
この時代は、過ぎ去るのです。この時代とは、現在の天と地が続く間のことです。天地は、消え去るのです。イエス様が言われているのは、天地が消え去る時で、千年王国の終わりのことを言っています。その後、新天新地に至るのです。そして、この預言は、決して消え去るようなものではないことを示されました。確かにその時が来るのです。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。
彼らが地上のことだけに心をとめて生活している時に、その日が突然臨むことにならないように気をつけるように言われました。いつでも神様の前に歩むことを求めたのです。
21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。
その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨みます。
21:36 しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」
しかし、「あなたがた」には、祈りつつ、いつも目を覚ましているように命じました。(現在命令形)人の子の前に立つことができるように祈っているのです。彼らは、必ず起こるこれらすべてのことに打ち勝ち、人の子の前に立つことができるように祈るのです。主の前に立つことは、勝利者として立つことを表しています。
これは、弟子たちに対する言葉です。弟子たちに関しては、証しを担うことが初めに語られています。迫害の中で戦い、証しを担い勝利するのです。その後に語られた言葉は、イスラエルに対する報復であり、全地のすべての人に臨みます。弟子たちは、報復を受けることはないのです。また、この訳のように彼らが迫害を逃れるように祈ることを求めてはいません。なぜならば、迫害は、証しの機会となることが明確に示されているからです。
・「逃れて」→打ち勝つ。
21:37 こうしてイエスは、昼は宮で教え、夜は外に出てオリーブという山で過ごされた。
21:38 人々はみな朝早く、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとにやって来た。
人々の幸いなことは、朝早くから教えを聞こうとして、宮におられるイエス様のもとに来ていたことです。勿論、イエス様も朝早くから宮に来ていました。