ルカ19章
19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。
19:2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。
ザアカイは、イエス様に関心がありました。どんな方か見ようとしていました。彼は、群衆のために見ることができませんでした。しかし、それで諦めませんでした。何としても見ようとして、いちじく桑の木に登ったのです。しかも、見上げなければならないほどの高さに登りました。大人はあまりしないことですが、彼のイエス様への関心の強さを表しています。
イエス様の公の生涯の三年目の時です。前から噂は聞いていました。そして、エリコの近くで、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」と叫んだ盲人が癒やされたのです。彼は、キリストとして告白されているその方に関心があったのです。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。
イエス様は、その場所に来ると彼に言われました。ザアカイと名を呼ばれ、彼について知っていることが明らかになります。これは、イエス様がどういう方であるかを明確にする出来事でした。彼は、その力を自分の経験として知ったのです。
しかも、今日彼の家に泊まると言われました。彼は、取税人であり、人々は、イエス様が罪人である彼のところに行って客となられたと言って文句を言いました。自分たちは、彼が罪人であるとして避けて来たのです。冷たい目で見られていました。イエス様は、そのような人に自分から声をかけられ、客になられました。泊まるというのはよほど心を許さないとできないことです。イエス様がご自分の方からそうされたのです。彼は、喜んでイエス様を迎えました。彼の心は、一瞬にして開かれたのです。キリストである神の子が罪人である自分の罪を赦し、受け入れてくださるのを知ったのです。彼は、この方を信じたのです。喜んで迎えました。
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」
ザアカイは、この方を主と言い表しました。それは、従うべき神です。ルカも、「主に言った。」と記していて、ザアカイがこの時、イエス様を主としたことを認めています。彼の信仰は、確かなものであるのです。彼は、義とされる信仰があったのです。
その上で、彼は、正しいことを求めました。金持ちでしたが、財産の半分を貧しい人たちに分け与えることを表明ました。騙し取ったものは、四倍にして返しますと。実際の罪の精算を表明しました。
19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
イエス様は、救いがこの家に来たと言われました。彼は、信じて義とされたことだけでなく、彼は、天に宝を積むことをしようとしていました。ただし、まだ行っていません。主は、彼が信じた信仰をご覧になったのです。「救いが来ました」と言われた時、「来る」はアオリストです。過去のある一回の出来事です。彼が信仰を持った時、救われたのです。それが信仰によることが、アブラハムの子であると説明されています。アブラハムも、信仰によって義とされたのです。
19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」
イエス様が人となって来られた目的は、失われた者を捜して、救うためです。
19:11 人々がこれらのことばに耳を傾けていたとき、イエスは続けて一つのたとえを話された。イエスがエルサレムの近くに来ていて、人々が神の国がすぐに現れると思っていたからである。
人々は、神の国がすぐに現れると思っていました。
19:12 イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が遠い国に行った。王位を授かって戻って来るためであった。
イエス様は、そのことに関連して例えを話されました。初めは、身分の高い人が王位を受けるために遠い国に行ったことです。人々が、神の国がすぐにでも現れると思っていたことに対して、すぐには現れないことを説明する内容です。イエス様は、神の御子であり、身分の高い方です。しかし、王位を受けるのは今ではなく、一度父の元へ帰られる必要があるのです。十字架の御業を完成しなければなりません。
続く話は、その主人の留守の間にしもべに商売をさせた話です。その働きに対してしもべが報いを受けます。神の国に入ることは、報いを受けることであることを示されます。
19:13 彼はしもべを十人呼んで、彼らに十ミナを与え、『私が帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
しもべが十人呼ばれ、十ミナが与えられました。十人のしもべに十ミナで一人一ミナです。そして、商売するように命じられました。「商売をしなさい」は、アオリスト命令形です。アオリストの命令形が意味することは、相手にある決定的な決断を促す意味を込めた命令です。確かに商売するように命じられたのです。これは、イエス様を信じた者が必ずしなければならないこととして命じられていることを表しています。
19:14 一方、その国の人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、『この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません』と伝えた。
その国の人々は、その人が王になることを望んでいませんと使者を送りました。彼を憎んでいたからです。その人々は、イスラエルの人々のことです。
19:15 さて、彼は王位を授かって帰って来ると、金を与えておいたしもべたちを呼び出すように命じた。彼らがどんな商売をしたかを知ろうと思ったのである。
その人は、王位を受けて帰って来ました。その時、金を与えたしもべたちが呼び出されました。彼らがどんな商売をしたかを確かに知ろうとしたからです。
19:16 最初のしもべが進み出て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで十ミナをもうけました。』
最初のしもべは、主人の一ミナで、十ミナ儲けしまた。原資の一ミナは、数字の一によって独り子の御子を表しています。その商売は、いかに御子を現す者になるかということです。原資として与えられている一ミナは、私たちの内に住まわれるキリストです。それは、主人から与えられたものです。私たちの力によって御子を現すことはできません。私たちの内に住まわれる主イエス様の働きによるのです。
ちなみに、タラントの例えでは、能力に応じて与えられた金額が異なりました。能力は、聖霊の賜物としての能力です。 五タラント与えられたことは、神の御心を行う能力を与えられたことを表しています。彼は、それを用いて五タラントもうけ、能力を発揮したのです。二タラントは証しの能力を表しています。彼も、その能力を発揮しました。一タラント預かった者は、地の中に隠しました。地のもので聖霊の働きを塞ぎ、能力が発揮されないようにしたのです。この一タラントも独り子の御子を現すことを表しています。能力としては、最も小さい賜物です。ミナの例えでは、全ての人にその一ミナが与えられたように、全ての者がキリストを現す者になることが求められています。
なお、一ミナについて、全ての人に「機会」が与えられているとする解釈では、主人が与えた機会で、商売の結果、十倍の機会を作り出したことが褒められていることになります。機会が与えられても、何かをしたことにはなりません。そこで何をしたかを主人は、知ろうとしていたのです。
マタイ
25:15 彼はそれぞれその能力に応じて、一人には五タラント、一人には二タラント、もう一人には一タラントを渡して旅に出かけた。するとすぐに、
25:16 五タラント預かった者は出て行って、それで商売をし、ほかに五タラントをもうけた。
25:17 同じように、二タラント預かった者もほかに二タラントをもうけた。
25:18 一方、一タラント預かった者は出て行って地面に穴を掘り、主人の金を隠した。
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19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』
このしもべは、ことのほか褒められています。よくやった。良いしもべだと。しもべとして最も高い評価を受けたのです。十が表すことは、到達点であり、完全であることです。十ミナ儲けたことは、彼が達すべきところに達したことを表しています。彼に、まだ足りないところがあれば、よくやったとは言われません。
彼のしたことは、ほんの小さなことでした。タラントの例えからわかるように、それは、一番小さな賜物による働きです。
彼がしたことに対して、十の町の支配が与えられました。これが彼の報いです。王としてのイエス様に十の町の支配が委ねられるのです。彼がこの世でキリストを現したのですから、キリストが王になった時、キリストと同じように王として治めるのです。これは、ふさわしい報いです。
19:18 二番目のしもべが来て言った。『ご主人様、あなた様の一ミナで五ミナをもうけました。』
二番目のしもべは、五ミナ儲けました。
19:19 主人は彼にも言った。『おまえも五つの町を治めなさい。』
彼には、褒め言葉が与えられていません。到達点に達していないからです。しかし、彼もキリストを現した者として、キリストが王になったように、五つの町を支配する報いが与えられました。
19:20 また別のしもべが来て言った。『ご主人様、ご覧ください。あなた様の一ミナがございます。私は布に包んで、しまっておきました。
19:21 あなた様は預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取られる厳しい方ですから、怖かったのです。』
別のしもべは、その一ミナを布に包んでしまっておきました。ご覧くださいといい、その時まで、包んだままであったのです。彼は、恐れていました。預けなかった者を取り立てる方であると考えたからです。彼は、商売しても全く儲けることができないことを恐れたのです。まして、原資の一ミナを失うことを恐れていました。主人は、必ず儲けを出すことを要求しているで、恐れたのです。
これは、自分にはキリストを現すことができないと考える人のことです。自分は、罪深い物であり、肉があるからできないと考えるのです。
19:22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はおまえのことばによって、おまえをさばこう。おまえは、私が厳しい人間で、預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取ると、分かっていたというのか。
19:23 それなら、どうして私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうしておけば、私が帰って来たとき、それを利息と一緒に受け取れたのに。』
銀行に預けなかった事を咎められました。銀行は、神様の働きの比喩です。彼は、何もできないと考えても、祈って神様に委ねるならば、神様がしてくださいます。
19:24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナをこの者から取り上げて、十ミナ持っている者に与えなさい。』
主人は、その一ミナが活用されないのを見て、それを取り上げ、十ミナ持っている者に与えるように言われました。
19:25 すると彼らは、『ご主人様、あの人はすでに十ミナ持っています』と言った。
彼らの目には、すでに十ミナ持っている人に与えることが不思議に思われました。
19:26 彼は言った。『おまえたちに言うが、だれでも持っている者はさらに与えられ、持っていない者からは、持っている物までも取り上げられるのだ。
持っている人は、さらに与えられます。彼は、信仰を持っていた人です。全能の父なる神様が、御霊により、信仰により自分の内にイエス様を住まわせてくださると信じて、御子を現したのです。しかし、布に包んでいた人には、その信仰がありませんでした。神様に祈って委ねることもなかったのです。最もよくイエス様を現す人に神様は働かれます。
エペソ
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
3:17 信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
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19:27 またさらに、私が王になるのを望まなかったあの敵どもは、ここに連れて来て、私の目の前で打ち殺せ。』」
イエス様が王になることを望まなかった人たちは、確かに殺すように命じられました。
19:28 これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。
19:29 オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニアに近づいたとき、イエスはこう言って、二人の弟子を遣わされた。
19:30 「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、連れて来なさい。
イエス様は、別の村に二人の弟子を遣わし、ろばの子を調達させました。
19:31 もし『どうして、ほどくのか』とだれかが尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
どうして解くのかと尋ねられた時の答えも授けました。
19:32 使いに出された二人が行って見ると、イエスが言われたとおりであった。
19:33 彼らが子ろばをほどいていると、持ち主たちが、「どうして、子ろばをほどくのか」と彼らに言った。
19:34 弟子たちは、「主がお入り用なのです」と言った。
主イエス様が言われた通りでした。持ち主たちが、どうしてろばの子をほどくのかと問いました。弟子たちは、主の言われた通りに答えました。彼らは、ろばの子を連れてくることができました。持ち主たちは、弟子の答えを受け入れたのです。主は、彼らの心をご存知あって、主にために捧げることができる人であったのです。その人は、向こうの村にいたのです。
19:35 二人はその子ろばをイエスのもとに連れて来た。そして、その上に自分たちの上着を掛けて、イエスをお乗せした。
二人は、ろばをイエス様のもとに連れてきました。ロバの上に自分たちの上着をかけて、イエス様をお乗せしました。弟子たちは、主に敬意を払ったのです。彼らは、ろばを連れてくるにあたり、主が全てのことをご存知であるのを見たのです。それで、この方を恐れて自分の上着を犠牲にし、ろばにかけたのです。主を崇め、敬ったのでそうしたのです。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は道に自分たちの上着を敷いた。
道を進んでいくと、人々が道に自分たちの上着を敷きました。それは、ろばが踏みつけることになるのですが、イエス様を崇めますので、そのような犠牲を厭いませんでした。
19:37 イエスがいよいよオリーブ山の下りにさしかかると、大勢の弟子たちはみな、自分たちが見たすべての力あるわざについて、喜びのあまりに大声で神を賛美し始めて、
19:38 こう言った。「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。」
彼らは、イエス様に賛美しました。彼らが見た全ての力ある業を覚えて喜んだからです。その力ある業によって、この方が預言されていた方であることを詩篇の言葉をもって賛美することで言い表しています。これは、主の名によって来られるキリストの預言です。「王」と言い表されていて、そのことが明確にされています。
それによってもたらされるものが天の「平和→神のみ心を行うことでもたらされる完全さ」と栄光です。キリストの来られた目的は、そこにあります。十字架の御業による永遠の滅びからの救いだけではありません。信じた者が、キリストの働きと御霊の内住により、神の御心を行い、完全な者とされることです。そのように完全な者とされた信者が天に集められることを言い表しているのです。また、それは、信者に栄光をもたらします。全ての業は、神の栄光としなされます。それで、その栄光を言い表しています。
・「平和」→神の御心を行うことでもたらされる完全さ。キリストの働きと聖霊の内在による完全性、健全性。
19:39 するとパリサイ人のうちの何人かが、群衆の中からイエスに向かって、「先生、あなたの弟子たちを叱ってください」と言った。
パリサイ人たちは、イエス様に、弟子たちを叱ってくださることを求めました。彼らは、イエス様をキリストと言い表していることについて、それが正しくないとしてそのように求めているのです。彼らは、全く信じていませんでした。
19:40 イエスは答えられた。「わたしは、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」
イエス様の答えは、強烈なものでした。もし、この人たちが黙れば、石が必ず叫びますと。
石は、通常は、声を出しませんが、神様が必要とされるならば、石に叫ばせるのです。それは、神様がお決めになったことであり、止めさせることはできないのです。
19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
19:42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
エルサレムは、神の都として神の栄光を現すべき町です。その都は、神の民を指していて、彼らが神の御心を行い完全になることが期待されていたのです。しかし、その祝福を彼らは逃しました。キリストが来られたこの日を彼らは、知りませんでした。「目から隠されている」と言われ、彼らが信仰によって受け入れなかったことが表されています。イエス様は、その不信仰をご覧になられて泣かれたのです。キリストを目の前にして、信じない不信仰をご覧になられたからです。
ラザロが死んで葬られた時も、マリヤとユダヤ人が泣いているのをご覧になられて涙を流されました。同情したのでなく、キリストを目の当たりにして不信仰であったからです。不信仰によっては、完全さに至ることはできません。
・「平和」→神の御心を行うことでもたらされる完全さ。キリストの働きと聖霊の内在による完全性、健全性。
19:43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」
そして、エルサレムが、必ず、敵に攻撃され、町の人々とその子供たちは地に叩きつけられて殺され、町が破壊されることを告げました。それは、彼らが神の訪れの時を知らなかったからです。
19:45 それからイエスは宮に入って、商売人たちを追い出し始め、
19:46 彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にした。」
イエス様は、宮に入って商売人たちを追い出しました。その商売は、強盗のような商売でした。祈りの家を利得のための道具としていたのです。
19:47 イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長たち、律法学者たち、そして民のおもだった者たちは、イエスを殺そうと狙っていたが、
19:48 何をしたらよいのか分からなかった。人々がみな、イエスのことばに熱心に耳を傾けていたからである。
民の指導者たちは、イエス様を殺そうとしていました。しかし、彼らにはできませんでした。人々は、熱心に耳を傾けていたからです。彼らは、イエス様を信じなことで躓き、殺人まで企てるようになったのです。