ルカ17章
17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
17:2 その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。
イエス様は、弟子たちに躓きを起こすことの重大さを説かれました。躓き自体は、起こることが避けられないことを示されましたが、しかし、災いだ。躓きをもたらす者はと言われました。
首に挽き臼を結えられて海に投げ込まれることは、人にとって最悪の仕打ちです。しかし、これらの小さい一人を躓かせるよりも、その方が良いのです。躓かせることがいかに重大なことであるかを示されました。
17:3 あなたがたは、自分自身に気をつけなさい。兄弟が罪を犯したなら、戒めなさい。そして悔い改めるなら、赦しなさい。
17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回あなたのところに来て『悔い改めます』と言うなら、赦しなさい。」
そして、自分自身が躓きをもたらす者にならないか気をつけるように言われました。日常の交わりであるならば、躓きをもたらすようなことは少ないのですが、ここでは、兄弟が自分に対して罪を犯した場合が取り上げられていて、非常に躓きを引き起こす可能性の高い状況について話されました。罪を犯した人に対しても、躓きを起こさせないように注意するのです。
そのためにすることは、兄弟が罪を犯したならば戒めるのです。戒めることはしなければならないことです。そっとそのままにしておいてはなりません。そして、悔い改めるならば赦します。それを罪と認めて、考えを変えるならば、赦すのです。罪と認めない考えのままであるならば、赦すことは出来ません。人は、罪を指摘されても、罪と認めない場合があります。言葉では、認めても、納得していな場合もあります。悔い改めたならば、赦すのです。これが躓きを引き起こさない方法です。
一日に七回そのようなことがあっても、赦すのです。
17:5 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増し加えてください。」
17:6 すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。
使徒たちは、主に、自分たちの信仰を増してくださるように願いしまた。「主に」という語が使われていて、イエス様を主と仰ぎ、その権威により信仰を増してくださることを願いました。
イエス様のお答えは、弟子たちの信仰の状態を指摘するものになっています。弟子たちの信仰の状態は、「信仰を増す」以前のことでした。からし種ほどの信仰もありませんでした。もし、彼らにからし種ほどの信仰があれば、桑の木に命じて、根本から抜かれて海の中に植われと言うならば、彼らに従うのです。弟子たちは、信仰があると考えていました。そして、信仰が増されることを願い出たのですが、わずかな信仰もなかったのです。
17:7 あなたがたのだれかのところに、畑を耕すか羊を飼うしもべがいて、そのしもべが野から帰って来たら、『さあ、こちらに来て、食事をしなさい』と言うでしょうか。
イエス様は、たとえで話を続けられ、弟子たちが信仰を求めている動機についても指摘されました。それは、しもべが野の仕事から帰ってきた時、食事の用意をしておき、そのしもべに、食事を勧めるでしょうかと問われました。
しもべが野で働くのは、彼の当然の務めです。それをしたからと言って、主人に特別扱いされることはないということです。
弟子たちは、信仰による業をすることが彼らの誉であると考えていました。その信仰による業によって、人々からの誉を求めたのです。彼らには、信仰を誇る思いがあったのです。
17:8 むしろ、『私の夕食の用意をし、私が食べたり飲んだりする間、帯を締めて給仕しなさい。おまえはその後で食べたり飲んだりしなさい』と言うのではないでしょうか。
むしろ、しもべには、夕食の用意を命じ、休むことなく帯をしてしっかりと給仕させます。その後で自分の食事をするように言います。
17:9 しもべが命じられたことをしたからといって、主人はそのしもべに感謝するでしょうか。
しもべが命じられたことをしたからと言って主人は、そのしもべに感謝することはないのです。
17:10 同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」
弟子たちも、弟子たちの信仰を通して神様が業をなしたとしても、そのことを特別なこととして感謝することはないのです。自分の誇りとすべきことは何もないのです。それで、私たちは取るの足りないしもべです。なすべきことをしただけです。と言いなさいと言われました。弟子たちが信仰を働かせて、業をなしても、それは、なすべきことをしただけです。誇るべきものではないのです。
今日、全ての業は、信仰により御霊による働きです。もちろん、肉によるならば、御霊の働きとは言えません。しかし、信者は、もはや肉にはよらず、御霊によって歩むものとされています。もし、私たちがその業を誇る思いがあるとしたら、どのような動機でその業に与ろうとしているか考えなければなりません。
17:11 さて、イエスはエルサレムに向かう途中、サマリアとガリラヤの境を通られた。
17:12 ある村に入ると、ツァラアトに冒された十人の人がイエスを出迎えた。彼らは遠く離れたところに立ち、
17:13 声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った。
ツァラートに冒された十人の人は、イエス様に呼びかけました。彼らは、自分たちの病を承知していて、距離をとっていました。しかし、大声で叫びました。
イエス様と叫びましたが、続けて、「先生」と呼びました。これは、ルカの福音書にだけ七回使われている語で、所有権を持つ権威者を意味します。先生ではなく、「主」と訳すべき語です。万物の所有者としての権威を持つ方として呼びかけているのです。そうでないと、次のあわれんでくださいという語が根拠を持たないのです。これは、契約に対する忠誠を表していて、契約を持ち出す以上、この方を神の御子と信じる信仰が必要なのです。彼らは、それを「先生→主」という言葉で言い表しているのです。
・「先生」→所有権を持つ権威者。
・「憐れむ」→契約に対する忠誠による愛。
17:14 イエスはこれを見て彼らに言われた。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」すると彼らは行く途中できよめられた。
体を祭司に見せるのは、ツァラーとが清められていることを判定するのが祭司の役割であるからです。彼らが祭司のところへ行くことは、彼らの信仰の現れです。イエス様の言葉を信じたのです。契約に従い癒すことができると信じたので、祭司のもとへ向かったのです。彼らは、清められました。
17:15 そのうちの一人は、自分が癒やされたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
癒された一人は、その業をされた神を大声で褒め称えました。そして、イエス様の足元にひれ伏して感謝しました。神から遣われた神の御子を拝したのです。
17:17 すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。
17:18 この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」
九人は、自分が癒されたことで満足しました。信仰に応えて、神が御力を現されたのに、その神を崇めるために戻ってきませんでした。一人のサマリヤ人は、神を崇めるために戻ってきたのです。具体的には、イエス様にひれ伏すことでそれを現しました。それが、神を崇めることであったのです。イエス様は、注意深く、ご自分に栄光を帰すことはありませんでした。
17:19 それからイエスはその人に言われた。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」
癒された者は、信仰によって叫び求めたので救われたのです。彼は、この時、イエス様を神と信じたのですから、義とされ、罪の赦しを得たのです。そして、体も癒されました。
彼には、祭司に見せるために立ち上がって行くように言われたのです。彼は、社会的な復帰のためには、この時点では祭司に見せる必要がありました。
17:20 パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。
17:21 『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」
パリサイ人が、神の国はいつ来るのかと尋ねました。彼らは、キリストが支配する国が来ることを預言によって知っていました。それで、その時がいつなのかを尋ねました。
イエス様のお答えは、神の国は、目に見える形で来るものではないというものです。目に見えるならば、見よここだと言えますし、あそこだと言えます。しかし、そうではないと言われました。
神の国は、あなた方のただ中にあると言われました。これは、場所のことではありません。神の国は、神の御心を行って、永遠の報いを資産として受け継ぐことです。
あなた方のただ中が、そこにおられるイエス様を指していないことは明らかです。もし、イエス様であるとすれば、イエス様のおられる場所が神の国ということになります。しかし、地上の「ここだ」と言えるものではないと言われているからです。
さらに、いわゆる千年王国は、神の国ではありません。それは、この地上に打ち立てられる国であるからです。中心は、イスラエルになります。
17:22 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない日が来ます。
人の子の日とは、二十四節に記されているように、イエス様が天からおいでなる日です。弟子たちは、その日を一日でも見たいと願っても見られない日が来ます。それまでに、弟子たちは、世を去るからです。
17:23 人々は『見よ、あそこだ』とか、『見よ、ここだ』とか言いますが、行ってはいけません。追いかけてもいけません。
人々は、キリストの現れについて、あそこだとか、ここだとか言います。しかし、行ってはいけないし追いかけてもいけません。そのような現れ方をしないからです。
17:24 人の子の日、人の子は、稲妻がひらめいて天の端から天の端まで光るのと、ちょうど同じようになります。
イエス様が現れる人の子の日には、人の子としてのイエス様は、稲妻が閃くように全世界に明確にわかるように来られます。稲妻が天の端から天の端まで光るのと同じようになります。その光を見ない者はいないのです。これは、地上においでになる時です。もし、空中においでになる時であるならば、そこからが患難時代の始まりであることがわかるからです。しかし、それが「主の日」であることがわかるのは、荒らす憎むべき者が聖なる所に立つのを見た時です。イエス様の空中再臨は、地上の人にはわからないのです。
17:25 しかし、まず人の子は多くの苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければなりません。
しかし、そのような現れの前に、イエス様は、苦しみを受け、この時代の人々に捨てられなければならないことを示されました。
17:26 ちょうど、ノアの日に起こったのと同じことが、人の子の日にも起こります。
それは、ノアの日に起こったことと同じです。
17:27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていましたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
それは、全ての人が滅ぼされることを指しています。日常の生活が一変して、滅びたのです。ノアが箱舟に入った時にそれが起こりました。信仰によらない人々は、滅びたのです。
17:28 また、ロトの日に起こったことと同じようになります。人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、
17:29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こります。
ロトの日に起こったことと同じです。ロトがソドムから出て行ったその日に火と硫黄が天から降って来て全ての人を滅ぼしました。
人の子が現れる日にも、同じことが起こります。信仰による人々は救われ、全ての人が滅ぼされるのです。
17:31 その日、屋上にいる人は、家に家財があっても、それを持ち出すために下に降りてはいけません。同じように、畑にいる人も戻ってはいけません。
17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。
17:33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
家にある家財に心を囚われて、そのことのために行動することをしてはいけないと言われました。それは、ロトの妻の教訓を思い出すように言われているからです。
なお、これは、下の階に降りたり、畑から家に戻ってはならないということを言っているのは、家財のことに心を囚われてはならないことを言っています。
ロトの妻は、振り向いて塩の柱になりました。振り向いてはいけないと言われていたのに、振り向いたのです。彼女の心は、滅びていくソドムの財産にありました。柱は、証しを表していて、塩は、永遠を表しています。彼女は、この世のものに心を惹かれた者という不名誉な証しを担う者になり、永遠の契約に与っている者が、そのような物を求めてはならないことの教訓となっています。
自分の命を救おうと努める者は、この世において、肉の欲を満たすことを求める者です。この例えのように財産に心を奪われる人のことです。それを求めても、失うのです。死が来たならば、何もかも失います。自分自身を失うのです。逆にそれを失う者は、そのような物を捨てる人です。肉にはよらず、御霊によって神の御心を行う人です。
17:34 あなたがたに言いますが、その夜、同じ寝床で人が二人寝ていると、一人は取られ、もう一人は残されます。
17:35 同じところで臼をひいている女が二人いると、一人は取られ、もう一人は残されます。」
二人の人が共に寝ていても、同じ仕事をしていも、一人は取られます。これは、滅びる人のことです。一人は残ります。
17:36 本節欠如
17:37 弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言うと、イエスは彼らに言われた。「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります。」
弟子たちは、それがどこで起こるかを尋ねました。
イエス様のお答えは、「肉のあるところ。そこには、また、ハゲタカも集まります。」です。
「それ」は、人々が滅びることです。肉は、神の前に信仰がなく死んでいる人々のことです。そこには、また、禿鷹が集まります。禿鷹は、滅ぼす霊的存在者のことで、悪魔あるいは悪霊のことです。