ルカ15章
15:1 さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。
15:2 すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と文句を言った。
イエス様のもとに取税人や罪人が皆、話を聞こうとして近くにやって来ました。イエス様と一緒に食事をしたのです。それを見たパリサイ人は、イエス様をこの人と呼び、罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしていると文句を言いました。そのようなことはすべきでないという考えから言っているのです。
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
イエス様は、例えを話されました。初めは、いなくなった一匹の羊の話です。羊飼いにとって、羊を百匹も持っていても、一匹がいなくなれば、探し歩くのです。九十九匹は、残しておいて、一匹を見つけるまで探し歩きます。探し歩かないでしょうかと問われ、イスラエルでは、それは誰も知るところでした。確かに、サウロは、父の羊を探しに出ています。
羊は、迷いやすいのです。迷いでたら、羊飼いが探して見つける以外ないのです。自分の努力で立ち返ることができません。それで、羊飼いは見つけるまで探し歩くのです。それは、羊飼いの羊への愛の深さを表しています。
15:5 見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、
15:6 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
見つけたら喜んで羊を肩に担ぎます。それは、その一匹が大切なかけがえのないものであるからです。見つけたことを大いに喜び、羊を大事なものとして肩に担ぎます。羊は、歩けないわけではありませんが、愛おしいので肩に担ぐのです。
そして、一緒に喜ぶために、近所の人たちを呼び集めます。その喜びを一人のものにしておくことができないほどの喜びなのです。結婚式のような喜びの時にはそのように振る舞うこともあるでしょうが、これは、滅多にないことです。羊飼いにとっては、この上ない喜びなのです。
それと同じように、神様にとって一人の罪人が神から離れた歩みをやめて、神を求めるようになるならば、神様に従っている九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあります。神様が喜び、御使いも喜ぶのです。
15:8 また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
ドラクマ銀貨は、一日の労賃に相当する額で、一枚一万円くらいの価値があります。十枚持っていましたが、一月の生活費位です。そのうちの一枚は、貴重です。彼女は、一生懸命探すでしょう。
明かりをつけることは、失われた人々に光としての真理を示すことを表しています。家を掃いて、見つけるまで注意深く探さないでしょうか。迷い出た人ひとりは、見つけにくいところにいるのです。ごみに紛れて、銀貨があるようなところでないところに埋もれていることがあるのです。取税人や罪人も、そのようなところにいます。罪人に紛れているのです。イエス様は、そのような罪人の中を探されました。パリサイ人のように、初めからごみの山として探さなければ、見つからないのです。どうしようもない罪人と思われていた人が、価値ある存在なのです。-
・「ドラクマ」→ギリシャの銀貨。ドラクマは熟練労働者の1日分の賃金に相当し、ローマのデナリウスに似ていた。
15:9 見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」
その女の人は、近所の女たちを呼び集めて喜ぶほどの喜びを現します。一人の罪人が考えを変え、神様に従うようになるならば、神の御使いはそれを見て、大喜びするのです。御使いも期待していることなのです。
15:11 イエスはまた、こう話された。「ある人に二人の息子がいた。
15:12 弟のほうが父に、『お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい』と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
父は、弟息子の求めるままに、財産を二人の息子に分けてやりました。いずれ彼らに相続させるものです。
父は、神様の比喩で、息子たちは、人の比喩です。神様は、人に公平に受けるべきものを与えられる方です。
15:13 それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。
弟が考えていたことは、その財産で放蕩することです。父から遠く離れて、自分の好きなように財産を使いました。
これは、人に与えられた自由を神から離れて自分の思いのままに使う人の姿です。自分の欲望の実現のために全てを使ったのです。
15:14 何もかも使い果たした後、その地方全体に激しい飢饉が起こり、彼は食べることにも困り始めた。
彼が財産を使い果たした時、飢饉が起こり、彼は食べるにも困り始めました。彼は、欲望のままに生きることが命だと考えていました。しかし、そのような者は尽きるのです。いくら欲望を追求したとしても、それで満たされることはないのです。却って欠乏するのです。満たされず、飢えるのです。空しさの中に生きるようになります。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑に送って、豚の世話をさせた。
彼は、命を繋ぐために身を寄せた人は、豚の世話をさせました。その人は、悪魔の比喩です。彼が与える仕事は、汚れに満ちています。この世で、罪の奴隷とするのです。
15:16 彼は、豚が食べているいなご豆で腹を満たしたいほどだったが、だれも彼に与えてはくれなかった。
彼は、汚れた豚が食べるいなご豆で腹を満たしたかったのですが、誰も彼に与えませんでした。彼は、そこに命を見出すことはなかったのです。決して満たされませんでした。
15:17 しかし、彼は我に返って言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。
父のところには、真の満たしたがありました。雇人さえパンが有り余っていたのです。しかし、今、自分は、死にそうなのです。満たされることなく、死を迎えようとしていました。神から離れた人の姿です。自分を満たすために神から離れたのですが、結局は、満たされる命を味わうことなく、死を味わうのです。
15:18 立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。
15:19 もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」』
彼は、父の元に帰る決心をしました。そして、父の前に罪を告白し受け入れてもらい、満たされることを考えたのです。そのためには、息子としてではなく、雇人として受け入れてほしいと訴えようとしました。自分には、そんな資格はないと思ったのです。
取税人や罪人たちも同じでした。神に受け入れられるような者ではないことを承知していました。しかし、自分を受け入れてくれるイエス様を頼ったのです。
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
彼は、立ち上がって父の元へ向かいました。「ところが」家までは遠かったのに、父の方から彼を見つけ、かわいそうに思い、駆け寄ってきました。彼の首を抱き、口付けしました。父にとっては、非常に愛おしい存在だったのです。落ちぶれて帰ってきた姿をかわいそうに思いました。待ち侘びていたからこそ、遠くに見て駆け寄ったのです。
15:21 息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
彼は、神と父に罪を告白しました。そして、もう息子と呼ばれる資格はないと言いました。彼は、自分のした悪がよく分かりました。そして、父に愛されていながら、父から離れ、自分本位に行動し、父を本当に悲しませたことを思いました。このように、自分の姿を正しく認識できる人は幸いです。神様の御心を思いやることができる人は幸いです。
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
父は、彼をあくまでも息子として扱いました。一番良い衣を持ってきて着せ、手に指輪をはめさせ、足に靴を履かせるように言いました。雇人は、指輪のようなものを身につけることはできません。父の息子にふさわしいものを着させたのです。
それは、神のもとに立ち返った者が身につけるものを表しています。最良の着物は、キリストを現すことを表しています。指輪は、子であることの証しです。父の権威を表しています。それは、雇人ではないことを表しています。靴は、完全さのうちに歩むことを表しています。
エペソ
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
→「完全さの福音の備えの中の足を付けなさい。」すなわち、完全さをもたらす福音(神の言葉)に示されている(御心を行うならば御国で報いを受ける)ことに備える歩みを身につけることです。
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15:23 そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
肥えた子牛は、最良の食べ物です。父は、息子を真に満たすことができます。ここでは、「屠る」とわざわざ語られています。殺すのです。そして、食べるのです。食べることは、過去の一回の出来事でなく、継続します。その結果、喜ぶのです。
これは、子牛によって表されているキリストを覚えることを表しています。十字架の御業により屠り、父との交わりに入れられたのです。そして、共に食して喜ぶのは、キリストです。
・「食べる」→アオリスト、分詞。継続することを表す。
・「祝おう」→喜ぶ。アオリスト・サブジャンククティブ。当然の結果を表す。
15:24 (なぜならば)この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。
父が食べて喜ぶ理由が示されています。父にとって大事な息子が見つかったからです。死んでいたのに生き返ったからです。遠く離れてしまったのは、死んだのと同じです。父の元にいることは、生き返ることです。
神様の望むことは、死んでいた者が生き返ることです。神から離れていなくなっていた者が神のもとに帰ることです。そして、生きたものとして歩むことです。それを喜ばれます。それは、喜びの始まりでした。
・「祝宴」→喜ぶ。陽気にする。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえてきた。
15:26 それで、しもべの一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
15:27 しもべは彼に言った。『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事な姿でお迎えしたので、お父様が、肥えた子牛を屠られたのです。』
15:28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。
兄は、父が弟を迎え、喜びのために肥えた子牛を屠ったことに怒りました。父は、彼を宥めました。
15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』
兄は、父が自分の楽しみのために子山羊一匹をくれなかったことに不満をあらわにしました。遊女のために財産を食い潰した弟のために肥えた子牛を屠ったからです。兄は、自分が父に仕えて、戒めを破ったことが一度もない正しい者として歩んできたことと弟の堕落した姿を比較しました。自分が評価されるべきで、弟は価値がないと考えていたからです。
これは、自分を正しいとし、迷い出て落ちぶれた者を価値のないものとするパリサイ人の考え方と同じです。
15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
兄は、父から良い評価を受け、父は、兄に全てを渡しています。それは、父にとって喜ばしいことです。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」
しかし、弟を喜ぶことは、それに反するものではありません。弟は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのです。これを喜ぶのは当然なのです。たとい悪を行った者であっても、死んで失われることは父にとっては耐え難いことです。見つかったのだから喜ぶことは当然なのです。
兄は、行いの良し悪しでその人の存在価値を決める人です。しかし、父にとっては子であり、決して失われてはならない尊い存在なのです。子が不良になったら心を痛めるかもしれませんが、いなくなってもいいとは思わないのです。あくまでも尊い子なのです。
兄息子は、パリサイ人や律法学者の比喩です。彼らは、罪人が神に立ち返ることを喜ばない人たちです。一旦罪に身を落としたならば、もはや迎え入れるべきではないと考えている人たちなのです。この例え話では、父の心を知ることがないことがよく分かります。神様の喜びを理解できないのです。兄自身、父によって喜ばれていることを理解していませんでした。彼は、父と共にいて、父に仕え、父の戒めを守ることを喜びとはしていなかったのです。それで、父を喜んではいませんでした。ですから、父の心が分からないのです。死んで生き返ったことがどれほど尊いことであるかを知らなかったのです。