ルカ13章
13:1 ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。
ピラトは、ガリラヤ人を殺しました。しかも、ガリラヤ人がいけにえを捧げている時にそれをしました。血を混ぜたとありますが、いけにえの血が流されている時、ガリラヤ人の血も流されたのです。捧げ物は、祭司を通して捧げられます。彼らが犯罪者であれば、彼らはいけにえを捧げることはできません。しかし、ピラトにとっては、殺さなければならない対象であったのです。
13:2 イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。
13:3 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
イエス様は、人々がその事件に対してどのように考えているかを見透かされました。彼らの考えは、そのガリラヤ人たちは、誰よりも罪深いからそのような災難にあったとするものです。イエス様は、それを否定されました。その上で、彼ら一人ひとりについて、あなた方も悔い改めないならば、みな滅びると強く警告されました。彼らは、自分たちはそのような災難に遭うような罪人ではないと考えていたことが問題です。言い換えるならば、自分たちは、罪を処罰されるような不正な者ではないと考えていたことです。それに対して、イエス様は、彼らも滅びに値することを示されました。悔い改めるとは、自分は正しい者であるという考えを捨て、神の前に正しいことを求めることを表しています。生ける神の御子キリストとして来られた方を信じることであるのです。考えを変え、向きを変えることであるのです。考えを変えて立ち返るのです。必ずしも、今犯している罪を止めることを指してはいません。また、そのような人間の努力が人を救うことにはなりません。
同じように滅びると言われましたが、ガリラヤ人たちは、肉体の死を経験しました。それと同じように、考えを変えて神に立ち返らなければ、彼らは、滅びるのです。滅びについては、個々の人の状態に応じて意味は異なります。信仰がないのであれば、火の池に入れられる永遠の滅びです。信仰を持っている者であれば、神の前に実を結ばす、永遠の報いのないことを意味する滅びです。全ての人が同じ霊的状態にあることは考えられません。
13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。
13:5 そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」
さらに、シロアムの塔が倒れて十八人が死んだことを話しました。それは、エルサレムにありました。死んだ人たちは、エルサレムに住む誰よりも罪の負債があったのかと問われました。イエス様は、これを否定され、考えを変えて神に立ち返らなければ、みな同じように滅びると言われました。
13:6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。そして、実を探しに来たが、見つからなかった。
13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか。』
葡萄園に植えられたいちじくが実を付けませんでした。主人は、探しに来たとあり、実を期待していたのです。この主人は、神様の比喩です。実を結ぶことを望んでおられます。
三年間待ちましたが、実を結びませんでした。実を結ばない木は、無用なのです。土地を無駄にしています。他の実を結ぶ物を植えた方が良いのです。
13:8 番人は答えた。『ご主人様、どうか、今年もう一年そのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥料をやってみます。
13:9 それで来年、実を結べばよいでしょう。それでもだめなら、切り倒してください。』」
番人は、もう一年そのままにしておくことを願い出ました。木の周りを掘り、肥料をやって、実を結ぶことを期待しました。だめならば、切り倒して下さいと。
このように、神の前に実を結ばないで、そのまま済まされるわけではないのです。期限があります。それまでに考えを変え、神に立ち返り、実を結ぶことが求められています。イエス様を信じ、その方を主として従うことで実を結ぶのです。
いちじくは、日当たりの良い水はけの良い、肥沃な土地でよく育つと言われますが、時として、圃場の中でも、生育の悪い木もあります。原因は、今日でも分かっていません。
13:10 (さて、)イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。
13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全く伸ばすことができない女の人がいた。
安息日に、イエス様が会堂で教えておられる時、そこに腰が曲がる病の人がいました。彼女は、全く腰を伸ばすことができませんでした。
13:12 イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、「女の方、あなたは病から解放されました」と言われた。
イエス様が彼女見ました。そして、呼び寄せられたのです。ここには、信仰に応えてそれをされたことは記されていません。主イエス様の方からこのことを言われました。病から解放されたと。
病が癒やされたとは言われませんでした。イエス様は、最初から安息日に癒すことに対して反対する者がいることをご存知でこれをされました。
13:13 そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。
イエス様が手を置かれると、彼女の腰は直ちに伸びました。彼女は、神を崇めました。
13:14 すると、会堂司はイエスが安息日に癒やしを行ったことに憤って、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。だから、その間に来て治してもらいなさい。安息日にはいけない。」
会堂司は、憤りました。安息日に癒したからです。その根拠は、癒しを安息日にしてはならない労働と考えたからです。
しかし、安息日を破ることは、死に値します。しかし、会堂司は、これが死刑に当たる行為であるとは考えていません。憤り、それをやめさせましたが、死刑に相当するとは認識していないのです。
出エジプト記
31:15 六日間は仕事をする。 しかし、 七日目は主の聖なる全き安息である。 安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
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13:15 しかし、主は彼に答えられた。「偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。
13:16 この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」
13:17 イエスがこう話されると、反対していた者たちはみな恥じ入り、群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。
イエス様は、会堂司の言葉は、偽善であることを指摘されました。それは、彼らは、安息日にも自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませていたからです。この女の人もサタンに束縛されていました。病の悪霊に憑かれていたからです。イエス様が癒しの時に、「解放されました」と言われた通りです。
彼女は、安息日に当然解放されるべきであることを示されました。「解いてやるべき」と言われました。必要なことであり、しなければならないこととして示されたのです。それは、彼女がアブラハムの子孫であるからです。信仰による人を指す言葉です。「(見よ!)十八年の間」と言われ、それが非常に長い間束縛されていたことを強調されました。そして、それは、安息日が相応しかったのです。信仰者が、真に解放されるのは、永遠の安息です。安息日は、それを表しています。彼女がこの日安息を得たことは、永遠の安息を表す日の出来事に相応しかったのです。
反対していた人たちは、みな恥入りました。群衆は、イエス様の栄光を喜びました。それは、癒しの奇跡のことよりも、イエス様が答えられた言葉です。会堂司の言葉のように、表面的な偽善に満ちた言葉ではなく、神の前に真に価値のあることが何かを示す言葉であったからです。
・「束縛」→十二節の「解放する」と言われたのは、束縛を解くこと。
・「輝かしさ」→栄光。栄誉。
13:18 そこで、イエスはこう言われた。「神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。
「そこで」→接続詞。十節には、訳出されていませんが、接続詞があり、文脈から、話の切り替えがされています。「さて」が意味されています。ですから、十節から十七節までの話を受けて、「そこで」となっています。
ここからの例え話は、十節からのことを受けてのことです。そこで明らかにされていることは、安息日に人を癒やすことはしてはいけないという誤った考えが正されたことです。この例え話は、教えの誤りに関することです。そして、神の国が何に似ているかということから初めていますが、この神の国は、現状のイスラエルのことです。今日の教会に関することではありません。ただし、教えの誤りが蔓延することは、いつの時代でも起こることであり、教訓として学ぶことができます。
13:19 それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」
からし種は、ここには語られていませんが、聖書の他の箇所から非常に小さいものです。しかし、成長して木になることが示されていて、非常に大きくなるのです。しかも、その木は、鳥によって現されている悪魔の住処です。この木は、悪魔に利用されているのです。
「からし」は、教えです。悪魔が持ち込む教えです。僅かな誤った教えが蔓延することを表しています。当時、蔓延していた教えは、一見正しそうに見えますが、偽善であり、神の御心を正しく理解して行うことではありませんでした。
13:20 再びイエスは言われた。「神の国を何にたとえたらよいでしょうか。
13:21 それはパン種に似ています。女の人がそれを取って三サトンの粉に混ぜると、全体がふくらみました。」
パン種のたとえも、僅かな混入された教えが、全体に蔓延することを表しています。粉のままであれば、聖いのです。「三」が表していることは、欠けのない完全さです。神の教えは、完全です。しかし、パン種は、僅かな誤りとして入ってきますが、全体に蔓延し、汚すのです。
当時の社会には、このような誤った教えが蔓延していたのです。
13:22 (そして、)イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。
13:23 すると、ある人が言った。「主よ、救われる人は少ないのですか。」イエスは人々に言われた。
ある人が、救われる人は少ないのですかと問いました。救われることは、神の国に入ることです。すなわち、神の国で報いを受けることを指しています。
・「救われる」→二十六節から「神の国に入っている」こと。そして、食卓に着くこと。食卓に着くことは、主人によって「知らない」と言われることと対比されています。それはまた、彼らが地上で主人と食事をし教えを受けたこととも関係していて、主人と非常に近いところで交わっていたにも関わらず知らないと言われるのです。彼らが知らないと言われる理由は、不義を行っていたからです。主人と交わり、教えを受けていたにも関わらず、不義を行っていたからです。
二十二節の冒頭には、接続詞「カイ」があり、「そして」「また」と訳すことができます。ここからの話は、教えを受けてそれを行うことで救いを得ることについて教えています。しかし、救いを受けることができない者が多いことが示されていて、正しい教えの中に生きなければ、救われないのです。すなわち、御国で報いを受けることができないのです。
ここでも、教えが正しく行われないことが主題となっています。
13:24 「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。
狭い門から入ることは、この例えのように、自分の考えでは良いと思っていた行動によって入れるとは限らないことを言っています。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってから、あなたがたが外に立って戸をたたき始め、『ご主人様、開けてください』と言っても、主人は、『おまえたちがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。
また、期限があることがわかります。後から入ろうと思っても入れないのです。
13:26 すると、あなたがたはこう言い始めるでしょう。『私たちは、あなたの面前で食べたり飲んだりいたしました。また、あなたは私たちの大通りでお教えくださいました。』
彼らの考えでは、入る資格があると思いました。一つは、面前で食事をしたことです。これは、親しい交わりを表しています。
もう一つは、大通りで教えを受けたことです。
13:27 しかし、主人はあなたがたに言います。『おまえたちがどこの者か、私は知らない。不義を行う者たち、みな私から離れて行け。』
しかし、主人にとっては、彼らのことは知らないのです。不義を行っていたからです。教えを受けたとしても、それを無視し、不義を行っているならば、主人にとっては、全く関係ないし、評価しないのです。
13:28 あなたがたは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分たちは外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするのです。
神の国に入ることは、御国において豊かに報いを受けることです。
・「神の国に入る」→ペテロ書には、「神の国に入る恵み」という記述があり、信者に適用されています。
ペテロ第二
1:11 このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。
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「御国に入る恵み」は、信じた者がより高い信仰の歩みをすることで御国において豊かに報いを受けることです。御国に入ることは、永遠の滅びから救われることだけを指しているのではありません。
さて、そこに入っているのは、アブラハムやイサクやヤコブ、またすべての預言者たちです。彼らは、神を信じたのであり、神を信じて歩んだのです。しかし、主に知らないと言われる彼らは、自分たちが放り出されているのを知るのです。ペテロ書から御国に入ることは、報いを受けることです。放り出されることは、全く評価されず、報いが与えられないことです。彼らは、不義を行なう人たちであったのです。神を信じ、神を恐れて従う人たちではなかったのです。信仰者のように見えましたが、不義を行っていたのです。彼らが報いを受けることはありません。
黙示録
22:14 自分の衣を洗う者たちは幸いである。彼らはいのちの木の実を食べる特権が与えられ、門を通って都に入れるようになる。
現在、衣を洗う者たちは、正しいことを行い続け、聖なる者とされ続けている人たちのことです。彼らは、命の木の実を食べる特権が与えられます。そして、門を通って都に入ることができます。
・「洗う」→現在形、分詞。衣を洗っている者。
・特権が「与えられ→ある」→未来形。
・「入れるようになる」→アオリスト、サブジャンクティブ。歴史も継続もない行為。純粋な形。別の行動の結果として起こる明確な結果。
22:15 犬ども、魔術を行う者、淫らなことを行う者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は、外にとどめられる。
現在、信者でありながら、これらの列挙されている者は、外に置かれます。彼らは、白い御座の裁きで火の池に入らず、永遠の滅びに入ることはありませんが、都には入れません。外に置かれるのです。命の木から食べることができません。
・偽りを「好み」→現在形、分詞。好んでいる。
・「行う」→現在形、分詞。行っている。
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13:29 人々が東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
食事をすることは、親しい交わりを表していますが、これは、外に放り出されることと対比されています。主にとって交わりを喜ぶような関係か、全く知らない関係なのかが対比されています。
そして、神の教えを持っていると誇りながら、その教えを行わない者たちは、律法を持たない異邦人にも劣る者となるのです。
13:30 いいですか、後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」
異邦人とユダヤ人は、後にいる者と先にいる者との関係です。異邦人のほうが先に祝福を受け継ぐ者となったのです。ユダヤ人は、いわゆる千年王国の到来まで、それを待つことになります。
13:31 ちょうどそのとき、パリサイ人たちが何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここから立ち去りなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
このパリサイ人の言葉は、事実です。イエス様は、この話を受けて、自分が殺されることについて話し、更に、エルサレムが神が差し伸べた御手を拒むことについて話されているからです。
もし、パリサイ人の話がイエス様を陥れる策略として嘘をついているとすれば、イエス様の話は、根拠の無いことに基づく話であり、その預言も意味のないものになります。パリサイ人の中にも、イエス様を気遣う人がいたのです。
ルカ
7:36 さて、あるパリサイ人が一緒に食事をしたいとイエスを招いたので、イエスはそのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。
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シモンは、悪意のある人ではありませんでした。
13:32 イエスは彼らに言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。
今日と明日は、神の働きをします。奇跡だけを取り上げましたが、その業が神の業であることを示すためです。三日目に全うされるとは、三日目のよみがえりです。これで地上の業は完了します。今日と明日は、三日目に掛けた比喩です。よみがえりに至るまでのすべての日を指しています。今日と明日ということで、毎日欠かすことなく業を行うことを表してます。
三日目のよみがえりに言及されましたが、その前に、殺されることを含めています。
なお、ヘロデを狐に例えています。聖書では、狐は、ぶどうを荒らす悪さをしますが、また、力ないものとして例えられます。ネヘミヤの時代、再建されつつある城壁について異邦人が揶揄しました。
ネヘミヤ記
4:3 彼のそばには、アンモン人トビヤがいて、彼も「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」と言った。
詩篇
63:10 彼らは剣の力に渡され狐の餌食となるのです。
雅歌書
2:15 私たちのために、あなたがたは狐を捕らえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。私たちのぶどう畑は花盛りですから。
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ヘロデは、預言者を殺すようなことを謀る悪い者ですが、力がないのです。
13:33 しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。』
主が殺されることは定まったことです。それにもかかわらず、主は、そこかに逃げることはありません。進んでいくのです。預言者は北王国イスラエルは別として、エルサレムに遣わされました。そこは、神の都であり、民の指導者のいる場所でした。神の栄光を現す都であるのです。そこに神の言葉が語られる必要があるのです。今まで、預言者は、エルサレムに遣わされ、エルサレムで殺されました。同じように、神の言葉を委ねられた預言者としてのイエス様は、エルサレムで神の言葉を語り、それを拒む指導者によって殺されるのです。
13:34 エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。
その預言者を拒むエルサレムについて、神としての主がなしてこられたことは、雌鳥がひなを翼の下に集めるようにしてきたのです。翼の下に集めることは、羽毛で優しく覆い、翼によって表される神の力で覆うことを表しています。
詩篇
91:4 主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。
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雌鳥とひなの関係を示すことで、深い愛情によって翼の下に集めたことが表現されています。
13:35 見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」
エルサレムについては、「おまえたち→あなたがた」と言い換えられています。そこに住む一人ひとりのことを指しています。神の言葉を拒んだ彼らについて、彼らが捨てられることを預言しました。しかし、その一方で、彼らが回復される時が来ることも示されました。それは、主の御名によって来られる方が来る時です。その時彼らは、その方について、「祝福あれ。」と言います。すなわち、その方を受け入け、その方の栄光を求める状態に霊的に回復しているのです。
・「おまえたち」→あなた方。エルサレムの一人ひとりに対する主の愛は、非常に深いものであることを示されたくだりで呼び掛けられています。「おまえたち」では整合しない。