ルカ12章

12:1 そうしているうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに話し始められた。「パリサイ人のパン種、すなわち偽善には気をつけなさい。

 パリサイ人と律法学者の偽善を指摘していると、大勢の群衆が集まって来ました。彼らに、パリサイ人のパン種すなわち偽善には、気をつけるように言われました。

12:2 おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはありません。

 その偽善を行わないように気をつけるよう言われ、覆われている物で現されないものはないことを示されました。偽善は、人前によく見せて、その実を否定する行為です。自分の悪いものを隠しているのです。しかし、いくら隠しても現されないものはないのです。また、隠されているもので、知られずに済むものはありません。必ず知られるということです。偽善を行なっていれば、必ず知られるところとなるのです。その偽善を大いに恥じる時が来るのです。まして、神の前に出た時に、全てのことについて弁明することになります。

12:3 ですから、あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。

 暗闇で言ったことがみな明るみで聞かれてしまうのです。奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。人に明らかになるのです。

12:4 わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、その後はもう何もできない者たちを恐れてはいけません。

 そして、今度は、「わたしの友であるあなたがた」に言われました。イエス様を信じる者たちに語られたのです。人を恐れて自分の信仰を隠すようなことをしてはいけないことを教えるために、人を恐れてはいけないことを示されました。彼らは、体を殺すことができても、それ以上のことは出来ません。

12:5 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺した後で、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。

 恐れなければならない方は、殺した後にゲヘナに投げ込む権威を持っている方です。人を恐れて神から離れる最悪の結果について示されました。もし、人を恐れて信仰を否定するならば、ゲヘナに入ることになります。その人が歩みについてどのような選択をするかについては、裁きの権威を持つ方を恐れて決定しなければならないことを覚えさせたのです。この方を恐れて、この方からいただける最高の祝福を求めることこそ幸いなのです。人を恐れてはならないのです。

12:6 五羽の雀が、二アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でも、神の御前で忘れられてはいません。

 人の前には、価値のないと見られる雀さえも、神の前には忘れられてはいません。二羽で売られている時には、一アサリオンです。五羽では、割引が入って、二アサリオンです。

マタイ

10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。

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・「アサリオン」→ローマの少額硬貨。8レプタ(ユダヤの銅貨)。4コドラント(ローマの硬貨)。

12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、多くの雀よりも価値があるのです。

 抜け落ちる髪の毛も、主が数えておられます。主がその数を決めておられるのです。それで、主に覚えられているので、恐れる必要ながないのです。人は、多くの雀よりも価値があるものなのです。恐れる必要はないのです。

12:8 あなたがたに言います。だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神の御使いたちの前でその人を認めます。

 人々の前で主を認めることで、自分の信仰を表明することを恐れないならば、そのことは、主から高く評価されます。それは、主がその人を覚えておられて恐れる必要ながないと言われたことを信じて、人を恐れない行動をとるからです。その信仰が高く評価されます。それで、御使いたちの前で、その人を認めます。これは、主の前に出た時にそのように評価されることを表しています。御使いたちの前にも、その人の信仰が披露されるのです。

12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の御使いたちの前で知らないと言われます。

 しかし、人の目を恐れて、主を知らないという者は、御使いの前で知らないと言われます。全く評価されないのです。神様がその人を覚えていることを信ぜず、主を言い表さないのです。主を信じている者としての評価を受けることはありません。その人の行動が、主を信じていることを何一つ現さないからです。

 私たちが人目を気にして、信仰によらないで振る舞うならば、そのような振る舞いが評価されることはありません。正しい教えを教えられた通りに信じて行動するならば、評価されるのです。

12:10 人の子を悪く言う者はだれでも赦されます。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されません。

 人の子であるイエス様のことを悪く言う者は、誰でも赦されます。これは、イエス様を知らないと言うよりも悪いことです。それでも、赦されます。前節で、知らないと言われるのは、その信仰が価値あるものとは決して認められないことを言っていることがわかります。

 しかし、聖霊を冒涜する者は、赦されません。聖霊は、父の御心の実現のために働いておられます。その働きは、非常に尊いものです。それを冒涜することは、聖霊の働きを否定することになります。それは、赦されません。

 イエス様のことを悪く言ったとしても、イエス様は、赦されます。しかし、イエス様を通して聖霊の業が行われているのに、それを冒涜することは赦されないのです。その業を悪霊の働きだと言った人がありましたが、そのように言ったことは、赦されないのです。

12:11 また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。

12:12 言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」

 また、人々が権力者の前に引き出した時、何をどのように弁明するかについて心配しなくて良いのです。言うべきことは、聖霊が教えて下さるからです。

 ですから、人を恐れる必要がないのです。心配することはないのです。

12:13 群衆の中の一人がイエスに言った。「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください。」

 群衆の中から、イエス様に求める者がいました。兄弟に遺産を分けるように言ってくださいと。

12:14 すると、イエスは彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」

 イエス様は、自分は裁判官でもないし調停人でもないと言われました。この世の富は、人にとって強い関心事です。しかし、イエス様が宣べ伝えたことは、神の国です。この世のものは空しいのです。そのようなことに関わるために来たのではありません。

 この人は、イエス様が自分のことを心配してくれると考えてきたのです。正しく裁いてくださると考えました。しかし、彼の求めていたことは、この世の幸いです。神の国に関心がなかったのです。

 このような考えは、信者の中にもあるものです。イエス様を主と言い表し、従う歩みをしているのですが、イエス様が自分の困難や、問題を解決してくださり、守ってくださる方と考えているのです。平安を与えてくださる方だと考えています。しかし、大事なことは、私たちが御国に入る備えをすることです。この世で、問題の解決をいただき、平安であったとしても、神の御心を行い、御国で栄光を受けるために歩むのでなければ、価値がありません。もちろん、その人の信仰が現れるために、様々な試練を与え、その中で信仰を現すことは幸なことです。しかし、時として、問題の解決が主体になることがあるのです。

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 イエス様は、真の命について話されました。それは、神の前に富むことです。これは、この地上にあって、たましいが神様の御心を行い、御国で報いを受けることです。

 この世で、有り余るほど持ったとしても。その人の命は、財産にありません。ですから、どんな貪欲にも気をつけ、警戒するように言われました。

12:16 それからイエスは人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

 イエス様は、例えを話されました。ある金持ちの畑が豊作でした。金持ちである上に、さらに豊作であったのです。良いことずくめです。

12:17 彼は心の中で考えた。『どうしよう。私の作物をしまっておく場所がない。』

12:18 そして言った。『こうしよう。私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。

 彼は、作物をしまっておく場所がないことに思案しました。得た結論は、今の倉を取り壊して新しいのを立てて、そこに穀物や財産をしまっておくことです。彼には、建て替えの費用もありました。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」』

12:20 しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

 金持ちの言葉と、神様の言葉が対比されています。いずれもたましいに関することです。金持ちは、たましいに言いました。さあ休めと。食べて、飲んで、楽しめと。これから先何年分もいっぱいものが貯められたので、安心して喜んで楽しむことを考えたのです。これが、この世のものを求める人の生き方です。自分の労苦を休み、自分の欲を満たし、それを楽しむことであるのです。

 しかし、神が彼のたましいに下した評価は異なります。愚か者です。彼のたましいが今夜取り上げられると言われました。その人のたましいの活動は、今夜終わるのです。たましいは、神の言葉に従う座です。彼が神の御心を行って、神の前に宝を積む機会は、終わるのです。

12:21 自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」

 彼は、神の前に富みませんでした。たましいが自分の喜びのためにだけ生きていたからです。今後もそれを求めようとしていました。それでは、神の前に実を結ぶことがありません。御国において報いを受けることがないのです。そのことは、三十二節と三十三節に記されているように、御国を与えられることであり、御国に尽きることがない宝を積むことです。彼には、宝がありませんでした。いくら地上の財産を得ても、神の前に実を結び御国に宝を持つのでなければ空しいのです。

12:22 それからイエスは弟子たちに言われた。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようかと、いのちのことで心配したり、何を着ようかと、からだのことで心配したりするのはやめなさい。

 いのちと訳されている語は、「たましい」のことです。「たましいのことで何を食べようかと心配するのはやめなさい。」すなわち、たましいの満たしのために何を食べようかと心配するのです。命を養うためだけに心配するのであれば、何を食べようかということは、言わないのです。何を食べようかと言うのは、食べる物による満足を求めているからです。

 体のことで、何を着ようかと心配するのはやめなさいと言われました。着る者さえない人とっては、ぼろでもありがたいのです。選り好みをしません。しかし、何を着ようかと心配するのは、それによって自分を表し誇る心の現れなのです。これも、肉の満たしを求める心から出てきます。体は、神のためにあります。肉欲の満たしとして自分を現すためにあるのではありません。

・「いのち」→たましい。

12:23 いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものだからです。

 たましいは、私たちが大事だと考えている食べ物よりも遥かに価値があります。たましいが神の御心に適って歩むならば永遠の報いを受け継ぎます。肉欲の満たしは一時的なものであり、永遠の観点からは、何の価値もありません。

 体もまた、自分の肉欲のために振る舞うのではなく、神の御心のために生きるならば、豊かな報いを受けるのです。そのために与えられている体です。主と一つになって歩むことは幸いです。

12:24 烏のことをよく考えなさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。それでも、神は養っていてくださいます。あなたがたには、その鳥よりも、どんなに大きな価値があることでしょう。

 鳥のことを考えるように言われました。彼らは、神によって養われています。人のように種蒔き、刈り入れ、そして、納屋に穀物を納めることもしません。しかし、養われています。人は、その鳥よりもはるかに価値があります。神様が養ってくださらないことはないのです。

12:25 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。

 誰も、心配したからといって自分の命を延ばすことはできません。

・「いのち」→年齢。

12:26 こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。

 これは、イエス様にとっては小さなことです。その小さなことさえできないならば、なぜ他のことまで心配するのかと問われました。

12:27 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。

 そして、草花の装いは、極めて見事なものです。非常に美しく造られています。その装いは、栄華を極めたソロモンの装いにはるかに優っています。しかも、花は、働きもせず、紡ぎもしません。自分を着飾るために何もしないのです。

12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。信仰の薄い人たちよ。

 その草花は、今日野にあっても、明日は、炉に投げ込まれるかもしれない儚い存在です。それでも、神は優れた装いを与えたのです。遥かに価値がある人に、どんなに良くして下さるでしょうと。そのように考えないのは、信仰が薄いからです。

12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。

 何を食べたら良いかという問いは、切実なものです。食べるものがないのです。飲むものもありません。イエス様は、それについて心配するのはやめなさいと言われました。

・「心配する」→宙吊り。揺れ動く。

12:30 これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。

 これらのものは、この世の異邦人が切に求めているもであることを示されました。彼らは、この世の人なのです。異邦人と言われていて、神を知らない人々が求めるものなのです。彼らは、生きるためにそれらを切に求めています。

 食べ物や飲み物は、体に必要なものです。そのことを、神はご存じであるのです。「あなた方の父」言われ、子として愛してその必要を満たす方であることを強調しています。

12:31 むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。

 むしろ、あなた方は御国を求めないさいと教えました。体に必要なものは、父が面倒を見てくださいます。むしろ、大事なのは、御国をいただくことです。これは、御国において報いを受けることであり、宝を自分のものとすることです。

12:32 小さな群れよ、恐れることはありません。(なぜならば)あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。

 恐れることはありません。彼らを「小さな群れよ」と言われ、彼らが弱い存在であることをご存知であってそのことを言われます。その理由は、父は、喜んで御国を与えて下さるからです。どうしたら御国において豊かな報いを受け、宝を積むことができるか恐れる必要はないのです。父は、喜んで御国をお与え下さるからです。

 私たちが神の御心を行うことで御国をいただけるのです。私たちは、無力な者でそれは無理だと考えるかもしれません。しかし、そのような考えは、信仰によらない考えです。私たちには、聖霊が内住されて働かれるので、それが可能なのです。それで、信仰による人がそれを受けることができます。

12:33 自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。

 この地上で自分の財産を売って施しに用いるならば、天に擦り切れない財布を作ることができます。尽きることがない宝を積むことができます。神を信じて義とされたものが、隣人を愛して施しをするのです。神様は、それを高く評価されます。

 御国に積まれた宝が失われることはありません。盗人が近づくことも、虫が食い荒らすこともありません。

12:34 (なぜならば)あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。

 父の御心を行い報いを受けることができるのは、喜んでそれを行うからです。その理由が示されていて、宝が御国にあるならば、そこに心があるからです。御国で大いなる報いを受けることを知るならば、熱心に御心を行うようになるからです。父は、そのような人に応え、喜んで宝を与えてくださいます。

12:35 腰に帯を締め、明かりをともしていなさい。

12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸を開けようと、その帰りを待っている人たちのようでありなさい。

 これは、四十節に記されているように、イエス様が思いがけないときに来られることに用意することです。

 その心構えは、主人の帰りを待つ人のようであることです。腰に帯を締め、明かりを灯しているのです。帰りは、夜であることがわかります。それでも、帯を解かないのです。僕としての役割を続ける姿があります。明かりを灯していることは、主人が夜に帰ることを確信して、待っている心を表しています。

 主人は、婚礼から帰ってきます。これは、黙示録十九章に記されている子羊の婚姻とは別のことです。イエス様が信じる者を迎えることを婚礼に例えています。しもべは、この世にあって主人のなすべき働きを行っているのです。主人が花嫁として迎える人々に仕える仕事です。人々を信仰に導き、主の花嫁にふさわしいものに整える働きです。ただし、この譬え話は、主人を待つことに話が限定されています。その働きの詳細は、四十一節以降にもう一つの例えで語られています。

 「来て」、「戸を叩く」は、アオリスト分詞で、来ていて、叩き続けていることを表しています。

12:37 帰って来た主人に、目を覚ましているのを見てもらえるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに言います。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれます。

 そして、しもべは主人に見られます。戸を叩いたらすぐに開けること、明かりを灯していること、腰に帯を締めていることなどです。それは、「目を覚ましている」と表現されています。寝ていないのです。寝ることは、霊的に寝ていることの比喩です。

 そのようにしていることを見られたしもべは、主人の方が帯を締め、そのしもべたちを食卓につかせ、そばに来て給仕してくれます。これは、破格の扱いです。主人にとっては、大いなる喜びであるのです。そして、しもべには、大きな栄誉が与えられるのです。

12:38 主人が真夜中に帰って来ても、夜明けに帰って来ても、そのようにしているのを見てもらえるなら、そのしもべたちは幸いです。

 、幸いなるかな。主人がいつ帰っても、そのようにしているのを見られるしもべは。そのようなしもべに隙はありません。

12:39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、泥棒の来る時間を知っていたら、自分の家に押し入るのを許さないでしょう。

 もし、泥棒の来る時間を知っていたならば、自分の家に押し入るのを許しません。

12:40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのです。」

 主人を待つことについては、いつかは明確ではありませんが、必ず来るのです。同じ緊張感を持って待つことは幸いです。用心しているのです。

12:41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえを話されたのは私たちのためですか、皆のためですか。」

 ペテロは、この話は誰のためかと問いました。彼には、それが自分に当てはまるのかどうかもわからなかったのです。

12:42 主は言われた。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。

 イエス様は、ペテロに直接答えず、もう一つの例え話をして考えさせました。「主は」と記されていて、主としてこれを語られました。例え話の中の「主人」と同じ語です。このように記すことで、この主人がイエス様であることを明確にして記されています。イエス様は、家を管理するものとして管理人を立てました。その役割は、その家の召使たちの上に任命されて、食事時には、彼らに決められた分を与えることです。この役割は、教会の管理人すなわち執事の役割です。食事を与えることは、御言葉によって養うことを表しています。彼には、忠実であることと、賢いことが求められています。

テトス

1:7 監督は神の家を管理する者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、乱暴でなく、不正な利を求めず、

1:8 むしろ、人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、

1:9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを戒めたりすることができるようになるためです。

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12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いです。

 そして、前の例えと同じ言葉がここに語られています。腰に帯をして、明かりを灯して主人の帰りを待つことは、忠実に与えられた役割を果たすことであるのです。

 今日、人のなす業は、全て聖霊の賜物として与えられた能力によって、聖霊によって行われます。肉でなすこともできますが、価値はありません。忠実な働きとは言えないのです。

12:44 まことに、あなたがたに言います。主人はその人に自分の全財産を任せるようになります。

 主人は、そのしもべに自分の全財産を任せるようになります。

 主人の全財産は、主人の持つ支配権のことです。彼は、王として主とともに治める者になります。

12:45 もし、そのしもべが心の中で、『主人の帰りは遅くなる』と思い、男女の召使いたちを打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めるなら、

12:46 そのしもべの主人は、予期していない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ報いを与えます。

 もし、しもべが主人の帰りは遅くなると思うと、彼は、主人が望むような忠実さを示すのでなく、肉の欲のままに行動するようになります。男女の召使たちを打ちたたきます。彼は、しもべたちの上に任免されましたが、彼は支配者のように振る舞ったのです。彼の役割は、食事を与えることですが、彼は、自分を高くして、支配者として振る舞ったのです。そして、しもべたちを虐げたのです。愛することもないし、仕えることもないのです。教会で、一人の力ある監督が暴走すると教会は不幸です。

 食べたり、飲んだり、酒に酔うことは、肉欲の満足なのです。彼自身が御国の宝を望まず、この世の欲を満たすことを求めるのです。教会は、悪い影響を受けます。

 彼は、主人が予期せぬときに帰ってくることを考えていないのです。彼は、厳しく罰せられます。不忠実な者たちと同じ報いを受けます。彼は、しもべの上に任命されましたが、それが彼の評価を決めるわけではありません。彼のしたことに対して報いられます。

12:47 主人の思いを知りながら用意もせず、その思いどおりに働きもしなかったしもべは、むちでひどく打たれます。

 彼は、主人の思いを知っていたのです。知りながら用意をしていませんでした。その思い通りに働きもしませんでした。それで、ひどく鞭打たれるように、彼は、悪い評価を受けます。

12:48 しかし、主人の思いを知らずにいて、むち打たれるに値することをしたしもべは、少ししか打たれません。多く与えられた者はみな、多くを求められ、多く任された者は、さらに多くを要求されます。

 主人の思いを知らずにいて、彼が行うべきことを行わなかったり、してはならないことをした場合、その評価は、悪い評価を受けますが、先の管理者のようではありません。多く任された者は、多く要求されます。

12:49 わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。

 この火は、神からきます。そして、地上で燃えることが期待されていて、神の光輝くさまと同じ者に変える働きを表しています。具体的には、聖霊の働きによって神のさまに信者を変える働きです。

 「すでに燃えていたらと」と言われ、まだ、その時に至っていないことも証しされました。聖霊が降っていないからです。火が燃えるように、人が神のように変えられるためには、肉を殺し、御霊によって歩むことが必要で、そこに実現します。

・「火」→たとえば「神の火」は、触れるものすべてを光に変え、それ自身と似通ったものにする。神の御霊は、聖なる火のように、信者が神の似姿をますます共有できるように、啓蒙し、清める。

12:50 わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまで、わたしはどれほど苦しむことでしょう。

 そのことに関連して、この節は語られています。バプテスマは、死を表しています。それは、信者が肉に死ぬことも表しています。イエス様は、肉を殺すことの模範として、これからご自分が受けられる十字架の死を示されたのです。それが成し遂げられるまで、非常に苦しまれるのです。肉との戦いは、そのようには大きな苦しみを伴うものです。イエス様は、一切肉にはよらず、御霊によって神の御心を行い、十字架の御業を全うされました。

 そのように、人は、自分の肉を捨て、殺し、御霊によって歩むことが必要です。

12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。

 そして、地上における人との関わりについて、そこには、分裂があることを示されました。イエス様は、人々が一つに結びつくために来られたのではありません。むしろ分裂をもたらすために来られました。一人ひとりの肉との戦いは、対人関係においても現れます。世との関係においても、肉を殺し、御霊による歩みが求められます。

・「平和」→一つに結合すること。完全さ。健全さ。ここでは、分裂と対比されて、一つに結びつく意味で使われている。

12:52 今から後、一つの家の中で五人が二つに分かれ、三人が二人に、二人が三人に対立するようになります。

12:53 父は息子に、息子は父に対立し、母は娘に、娘は母に対立し、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになります。」

 家庭の中で、分裂が起こり、対立して分かれるようになるのです。最も愛すべき人間関係であったとしても、神の御心に従って生きる時に、分裂を生じるのです。

12:54 イエスは群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。

 イスラエルから見て、西側は、地中海になります。西に雲が出るのは、地中海東部に低気圧が来るからです。陸上は、乾燥地帯ですので、低気圧は発生しにくいのです。偏西風の影響で、低気圧は、東に移動しやすいのです。ですから、西に雲が出るのを見ると、すぐに、雨が来ると言います。そして、その通りになります。

「にわか雨」→雨。にわか雨。なお、にわか雨は、降水が地域的に散発する一過性の雨のことで、西に雲が出ただけでは、その雨の振り方を予測することは困難です。

12:55 また南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。

 南風は、南方の暖かい空気をもたらしますので、暑くなります。暑くなるぞと言った通りになるのです。

12:56 偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。

 彼らは、地と空の様子を見分けることを知っています。しかし、今の時代を見分けようとしません。それで、偽善者たちと言われています。見分ける能力を持っていながら、見分けようとしないからです。今の時代がどのような時に当たるのかを知ることができるのに、それを見分けて行動しようとしないからです。バプテスマのヨハネが現れ、彼の証言があります。神の子、キリストが来られることを告げたのです。そして、言葉と業において、力ある方が現れました。キリストが来られることは、聖書に預言されていたのです。著しいしるしを見ながら、判断しようとしませんでした。

 西に雲が現れたのを見たならば、皆、雨に対する対策を取るのです。家に入るか、雨具を身に着けるかするのです。それなのに、彼らは無反応でした。

12:57 あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。

 彼らは、何が正しいか、自分で判断しようとしません。事は、一人ひとりの責任です。神の前に裁かれるのは、一人ひとりです。他の人がどのように行動していたかということは、一切関係ないのです。

12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときは、途中でその人と和解するように努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行き、裁判官はあなたを看守に引き渡し、看守はあなたを牢に投げ込みます。

 彼らがキリストを受け入れない結果、彼らは罪ある者として訴えられます。彼が、自分の罪を認め、キリストを信じて、訴えを取り下げられる時間と機会は、少ないのです。裁判官の元に引き渡されるまでにそれをしなければならないのです。裁判官の判決が下れば取り消すことができません。看守に引き渡され牢に投げ込まれます。裁判官にいくら訴えても駄目です。聞き入れてもらえません。もう遅いのです。その時、キリストを信じますと申し出ても遅いのです。まして、看守に訴えたとしても取り消されるはずもありません。その裁判官は、神です。神の前に立つ時には、もう遅いのです。

12:59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまで、そこから出ることは決してできません。」

 一旦牢獄に入ったならば、罪が精算されるまでは、決して出られません。最後の一レプタを支払うまで出られません。それは、わずかな罪があったとしても、そこから出られないということです。心の中に抱いたたった一度の悪い思いがあったとしても、その罪を精算しなければならないのです。それは、キリストを信じる信仰以外にないのです。もはやそこから出ることは、不可能です。