ルカ11章
11:1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
弟子の一人は、イエス様に祈りを教えてくださるように願いました。イエス様ご自身は、よく祈っておられました。神の御子ですが、その語ることもなす業も父がしておられます。祈りによってそれを求めていたのです。
11:2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。
神の御名は、聖なるものです。人は、それを聖なるものとしないのです。御名を蔑み、御名を汚すのです。そのような世にあって、神の御名が聖なるものとして崇められることを願うのです。当然のこととして、祈る本人が神様の御名を聖なるものとし、崇めるのです。まず第一に祈ることがこれなのです。世界を造られたのは、神様なのですから、当然その方を聖なる方とし、御名が崇められることを求めるべきなのです。
御国が来ることは、神様の御支配される御国が来ることです。私たちは、その御国に入ることをめざして歩む者であるのです。その到来を祈ることは、御国における報いを望んでいるからです。それが豊かに実現することを願っているのです。これは、信者が報いを受けるような歩みをすることを含んでいます。
・「聖なるものとされる」→「聖なるものとする、聖別する」
11:3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。
そして、私たちの生活のために祈ります。
11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します(から)。私たちを試みにあわせないでください。』」
そして、罪を赦してくださるように祈ります。私たちは、信仰によって義とされます。すでに信じている者は、義とされています。しかし、犯した罪は、神の前に告白する必要があります。罪が赦されて清くなるためです。神との交わりの回復のためです。
自分の負い目のある人を皆赦すのは、そうしないと父から罪を赦されないからです。ここでは、この文は、前の文と理由を示す接続詞で繋がれていて、自分に負い目のある者を皆赦すので、赦してくださいと求める文になっています。
ヨハネ第一
1:9 もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
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また、試みに入れないでくださいと祈るのです。試みは、人を試したり、誘惑したりするものです。
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうちのだれかに友だちがいて、その人のところに真夜中に行き、次のように言ったとします。『友よ、パンを三つ貸してくれないか。
11:6 友人が旅の途中、私のところに来たのだが、出してやるものがないのだ。』
11:7 すると、その友だちは家の中からこう答えるでしょう。『面倒をかけないでほしい。もう戸を閉めてしまったし、子どもたちも私と一緒に床に入っている。起きて、何かをあげることはできない。』
11:8 あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。
神様が祈りを聞かれる方法について示されました。それは、しつこさです。
11:9 ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
そのように、父の前に、求めるのです。そうすれば与えられます。探すならば、見い出すのです。叩くならば開かれます。父が、聞かないことはないのです。それが面倒な願いでも、しつこく求めるならば聞かれます。
11:10 だれでも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。
誰でもと言われ、誰でも求める者は手に入れます。探す者は見出し、叩くものには開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を求めているのに、魚の代わりに蛇を与えるような父親がいるでしょうか。
11:12 卵を求めているのに、サソリを与えるような父親がいるでしょうか。
11:13 ですから、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っています。それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。」
父は、求める者を子として扱っておられます。それで、子が魚を求めたならば、蛇を与えるようなことはしないのです。卵を求める子にさそりを与えないのです。子に対しては、良いものを与えるのです。神様にとって求める者たちは、子なのです。それで、良いものを与えるのです。その良いものとして、具体的に聖霊が与えられることを示されました。これは、神様が与える最も良いものです。なぜならば、聖霊によって歩むならば、神の御心に適い、神と共に歩む者となり、命を経験しますし、御霊の実を結ぶことで、その報いを永遠の資産として受け継ぐからです。これは、最も価値あることです。
11:14 さて、イエスは悪霊を追い出しておられた。それは口をきけなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。
口の聞けない人が悪霊を追い出されて、口が聞けるようになりました。人々は驚いたのです。
11:15 しかし、彼らのうちのある者たちは、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。
しかし、群衆のうちのある者は、イエス様の業について悪霊のかしらベルゼベルによるものだと言いました。悪霊のかしらであるならば手下どもに言うことを聞かせることができるという論法です。
11:16 また、ほかの者たちはイエスを試みようとして、天からのしるしを要求した。
また、他の人たちは、イエス様を試しつつ、天からのしるしを求めました。彼らが納得する結論を得るためにしるしを求めました。本物かどうかを試すためです。しかし、すでに目の前で驚くべき奇跡を見たのです。彼らは、それによって判断しませんでした。
人の求めるもの、考えることは、否定的なことばかりです。否定する考えで見るならば、正しいことが何一つ分からないのです。
・「要求した」→尋ねて求めること、最終的な解決に達するために調査すること、「問題の真相を探る」こと。
11:17 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも内輪もめしたら荒れすたれ、家も内輪で争えば倒れます。
11:18 あなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言いますが、サタンが仲間割れしたのなら、どうしてサタンの国は立ち行くことができるでしょう。
悪霊のかしらが、手下と争えば、成り立たないのです。倒れてしまいます。
11:19 もし、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが悪霊どもを追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らがあなたがたをさばく者となります。
また、あなた方の子らと言われている人たちは、ユダヤ人の仲間のことですが、彼らは、悪霊を追い出すということをしていました。その人たちにしてみれば、その働きがベルゼベルによるものだというのであれば、彼らは、そのことを言う人たちを裁くことになります。そのようなことはないと当然言うでしょう。
イエス様は、悪霊のかしらによって追い出しているという人の矛盾を指摘なさいました。そのような論法は、決して成り立たないのです。しかし、彼らは、安易な考えからそうだと決めつけています。それは、イエス様を受け入れる心がないからです。自分たちの作り出した論理で、イエス様を否定しようとしました。しかし、その論法には、よく考えたらわかる誤りがあるのです。
今日、聖書の言葉に対しても同じような態度を取ることで、聖書を何一つ信じることができない人もいるのです。また、信者であっても、肉が働く時、自分に不都合な言葉は受け入れようとしないのです。
11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。
イエス様が神の権威によって悪霊どもを追い出しているのなら、この方こそ来るべき方であり、キリストなのです。その方を信じることで、救われるのです。罪の赦しを受け、信仰のゆえに義とされ、この方を信じ、従って歩むことで、御国において大いなる報いを受け、永遠の資産として受け継ぐのです。
神の国の祝福は、今、この地上で生きている人の信仰に依存しているのです。将来神の国が現れることを望むのであれば、今、信仰によって生きることが必要です。彼らが、この時信じれは、将来現れる神の国において、大いなる祝福を受けるのです。ですから、神の国が来ていると言われたのです。報いを大いに受けることを望むのであれば、今をどのように生きるかにかかっています。信仰によって生きることでその祝福を獲得できるのです。信仰により、御心を行い、キリストと同じ者に変えられ、キリストの栄光を現すことで、報いを受けるのです。
11:21 強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。
11:22 しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。
11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
強い者は、悪霊の支配、あるいは、悪魔の支配を受けている人のことで、彼の守りは、その武具ですが、悪魔の支配下にあるという守りなのです。その人の持ち物は安全です。彼は、欲望に従って生きています。それは、彼の財産であり、彼の命です。自分を満たし、満足しているのです。
しかし、もっと強い人が襲って、彼に打ち勝つと、その強い者が頼りにしていた武具を奪い、無力にします。また、彼が財産として持っていたものを奪い取られてしまいます。
このように、イエス様と共にあるのでない者は、敵対者なのです。しるしを見ても受け入れない人たちは、敵対者です。イエス様と共に集めるとは、イエス様に従って、神の前に価値あるものを集めることを言っていて、神から評価を受け報いをいただけるような実を結ぶことです。それをしないで、イエス様と共に歩まないならば、散らしているのです。何一つ報いとして受けることはありません。
・「私に味方しない者」→イエス様と共にあるのでない人。
11:24 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。
11:25 帰って見ると、家は掃除されてきちんと片付いています。
11:26 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は、初めよりも悪くなるのです。」
これは、悪霊の働きを受けていた人が、悪霊が去って、家が掃除された状態のようにきれいになっている人のことです。彼は、自分の肉に従って生きるようなことは求めないかもしれません。しかし、そこに住むべき住人がいないのです。いくら悪霊の働きを受けないとしても、そこにイエス様を受け入れていない人のことです。そのような状態で、その人がいつまでも清い歩みをできるかというとそういうことはないのです。再び悪霊の影響を受けるようになります。しかも、前よりも悪い悪霊の影響を受けることになるのです。その人の最後の状態は、初めよりも悪くなります。イエス様を受け入れることなくして、清くなることはできないのです。
イエス様のご在世当時、バプテスマのヨハネの出現によって、多くの人々が悔い改めました。パリサイ人やサドカイ人も大勢バプテスマを受けに来たのです。人々は、悔い改めによって、清くなり家を掃除した状態になりました。しかし、イエス様が来られた時、この記事のように、イエス様を受け入れることができなかったのです。この後、指導者たちは、イエス様に強く反発し、イエス様を殺そうとするようになります。非常に悪くなるのです。
11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、群衆の中から、ある女が声をあげてイエスに言った。「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです。」
この女の方は、イエス様の尊さを見ました。語られていることを聞いて、イエス様の偉大さを知り、この言葉を発したのです。彼女は、イエス様を産んだ胎と乳房が幸いだと言い、生み出した母の幸を語りました。このような立派な子を産むことができた母親の幸いを考えたのです。女として神の前に価値ある子を生み出すことは、幸いなことと考えたのです。
11:28 しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
イエス様は、彼女の見方が正しくないことを指摘しました。彼女は、女たちの中で、主の母が幸いだと考えたのですが、それは、人の間の比較であり、人の価値観なのです。彼女は、本当の意味で、神の前における幸いについて知りませんでした。
イエス様は、神の言葉を聞いてそれを守る人たちが幸いであることを示しました。それこそ、神の前に価値あるものです。神が、それを高く評価されるからです。
11:29 さて、群衆の数が増えてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし、ヨナのしるしは別です。
11:30 ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。
群衆がたくさん集まりました。イエス様は、その人々に対して話しかけられ、今の時代が悪い時代であると指摘されました。それは、人々が、しるしを求めていたからです。多くの奇跡の業を見ていながら、しるしを求めたのです。自分が納得するだけのしるしがなければ信じないのです。もはや信仰にはよらないのです。
電線を電流が流れていて、エネルギーを伝えることを信じているでしょうか。スイッチを入れると照明が付き、洗濯機が動きます。しかし、電流が目に見えませんから、それでも首を傾げる人はいるのです。もっと目に見える形で示してくれたら分かると言うかもしれません。しるしを求める人は、そのようなことをしている人と同じです。そのような人は、電線の露出したところを触らせれば分かるかもしれません。
イエス様は、一つだけしるしが与えられることも話されました。それは、ヨナのしるしです。ヨナは、大魚の腹から出てくることで、ニネベの人たちのしるしとなりました。王から身分の低い者まで、立ち返ったのです。
ヨナ書
3:4 ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」
3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。
3:6 このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立ち上がって、王服を脱ぎ捨てて粗布をまとい、灰の上に座った。
3:7 そして、王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も家畜も、牛も羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。
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ヨナのしるしは、イエス様がよみがえることの比喩です。それが決定的なしるしとなるのです。
ローマ
1:1 キリスト・イエスのしもべ、神の福音のために選び出され、使徒として召されたパウロから。
1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、
1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
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神は、イエス様をよみがえらせることで、公に、力ある神の子として示されたのです。これが、神様が与えたしるしです。それは、神の存在と、神の力を示すものであり、神がよみがえらせたと信じる時、その人は、義とされます。すなわち、罪の完全な赦しが与えられるのです。
11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。
南の女王は、シェバの国の女王です。その女王は、この時代の人々を罪に定めます。彼女は、アラビア半島の南端から、エルサレムまで、直線で、2,100kmの旅をしました。新潟県から、九州の南の屋久島くらいの距離です。東京から、北海道の北の端の稚内が1.100kmです。彼女は、ソロモンの知恵を聞くためにラクダに乗り、旅してきたのです。彼女がソロモンを訪ねた理由は、主の名を知りたいと思ったからです。ソロモンが主から知恵を与えられたことを知りました。主が与える知恵がどれほどのものかを知ることで、主の御名の偉大さを知るためです。そのために地の果てから来たのです。
しかし、イエス様は、神の元から来た神の御子です。そして、ソロモンは、奇跡を何も行いませんでしたが、イエス様は、力ある業を行い、神の言葉を語りました。その方を見ても何も信じない当時の人々は、南の女王からすれば、なんと鈍い人たちであろうかと嘆くに違いないのです。
11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。
ニネベの人々は、ヨナが大魚の口から出てきたのを見て、ヨナの言葉を聞き入れ、悔い改めました。ヨナ自身は、立派な人物とは言えない人です。しかし、ニネベの人々は、彼の説教で悔い改めました。それなのに、この時代の人々、神の御子を目の前にしていながら、信じないのです。
11:33 だれも、明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。入って来た人たちに、その光が見えるようにするためです。
明かりは、照らすためで、その光が人に見えるようにするためです。神様の言葉は光であり、人を照らすためにあります。それは、外側から照らすだけでなく、その人のうちに入り、その人の体全身を明るく輝かすためです。その人を通して、神の教えが現されます。その人は、御言葉の中に生き、その行いが外に現れるのです。
11:34 からだの明かりは目です。あなたの目が健やかなら全身も明るくなりますが、目が悪いと、からだも暗くなります。
その人の体を明るくするものは、目です。目から光を受け入れるのです。その目が健全であるならば、光を受け入れることができるので、その人の体全体が明るくなります。これは、体の内側の光のことです。目は、信仰の比喩です。その信仰が健全で、神様が示されたその通りを受け入れるならば、その人の全身が明るくなります。彼は、信仰によって義とされ、信じた言葉の中に御霊によって歩むようになります。それが全身が輝いている状態です。そのような歩みは、神に喜ばれ、永遠の報いとしての資産を受け継ぐことになります。
しかし、目が悪いように、信仰がなく、御言葉を受け入れることがなければ、その人の体のうちも暗くなります。神の御心を何一つ悟ることがありません。当然、その中に生きることもないのです。そのような歩みが評価されることもありません。
11:35 ですから、自分のうちの光が闇にならないように気をつけなさい。
11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、明かりがその輝きであなたを照らすときのように、全身が光に満ちたものとなります。」
御言葉を信仰によって受け入れないならば、自分のうちの光が闇になります。何一つ真理を知ることができません。そうならないように気をつけるように言われました。人々は、しるしを求めるだけで、信仰によって受け入れることをしませんでした。彼らは、何一つ光を受け入れることができないので、彼らの内側は、暗闇なのです。
しかし、信仰によって御言葉を受け入れ、全身が何の暗い部分も無いならば、その人は、信じた御言葉によってよく教えられていて、その中に生きている人です。あらゆる点においてそのようにしている人は、その人の内側が光に満ちたものとなります。それは、輝くあかりがその人を照らすときのように、その人のうちから輝き出るのです。その人自身が輝くのです。
11:37 イエスが話し終えられると、一人のパリサイ人が、自分の家で食事をしていただきたい、とお願いした。そこでイエスは家に入って、食卓に着かれた。
一人のパリサイ人は、イエス様を食事に招きました。
11:38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て驚いた。
イエス様は、食事の前に清めの洗いをされませんでした。イエス様は、パリサイ人が手を洗うのをご存知でしたが洗いませんでした。
11:39 すると、主は彼に言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています。
11:40 愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。
そして、パリサイ人たちの偽善について厳しく指摘されました。彼らは、器の外を聖めるが、中が汚れているようなもので、手を洗うように、外に見える行いは清いもののように振る舞います。しかし、彼らの内側は、強欲と邪悪で満ちています。どちらも清くなければならないのです。それは、神様が、外側である肉体を造られたし、内側である人の内面も造られたからです。神の前に清くあるために、外から見える振る舞いを清くするとともに、その内面も、神に相応しく清くなければならないのです。
11:41 とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。
内にあるものを自分の強欲や邪悪のために用いるのではなく、神の契約を守る者としての愛を示すのです。そうすれば、なんと、「全ての清いものがあなたのものになります。」心の底から清くなるし、その振る舞いも清くなるのです。見せかけや偽善でない行いになるのです。
なお、内にあるものを施しに用いることはできません。
・「施し」→神の契約の愛と憐れみ。
・「用いなさい」→与える。
11:42 だが、わざわいだ、パリサイ人。おまえたちはミント、うん香、あらゆる野菜の十分の一を納めているが、正義と神への愛をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ。
パリサイ人は、あらゆる野菜などの十分の一を捧げていましたが、神の正義と神の愛を疎かにしていました。
・「正義」→神の正義。
・「神への愛」→神の愛。「神」は、属格。
11:43 わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ。
彼らは、会堂の上席が好きです。そのような席に座れば、誰の目にも偉い者として見られるからです。また、広場で挨拶されることが好きです。多くの人がいる前で、敬意を払われ、挨拶されることで、自分を偉い者として見せることができます。自分を高くすることに喜びを感じているのです。
11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかない墓のようで、人々は、その上を歩いても気がつかない。」
しかし、災いだ。彼らは、墓のように汚れているのに、人々は、それに気が付かないのです。彼らは、人々から誉を受けることを常に考えていて、それを喜びとしているのです。そのために敬虔そうに振る舞います。人々は、その振る舞いに騙されているのです。見た目は敬虔ですが、彼らは、墓のように汚れています。自分のことしか考えていないからです。自分の誉を求め、契約に基づく愛を現そうとはしません。
11:45 すると、律法の専門家の一人がイエスに言った。「先生。そのようなことを言われるなら、私たちまで侮辱することになります。」
律法の専門家が一人イエス様に抗議しました。彼らは、パリサイ人と同じように、十分の一を納めていましたし、敬虔な振る舞いをしていました。パリサイ人はともかく、自分たちは偽善でしているのではないから、自分たちも侮辱することになるというものです。
11:46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない。
イエス様は、律法の専門家についても、彼らの誤りを指摘しました。彼らは、律法を人々に教えました。しかし、律法を規則として教え、規則を守るようにさせたのです。人々には負いきれない荷物でした。しかし、彼らが神の言葉の中に生きるための助けを何一つしませんでした。
11:47 わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てているが、彼らを殺したのは、おまえたちの先祖だ。
→「わざわいだ。なぜならば、あなた方は、預言者の墓を立てています。しかし、あなた方の先祖が彼らを殺したからです。」
11:48 こうして、おまえたちは先祖がしたことの証人となり、同意しているのだ。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。
さらに詳しく説明しました。預言者たちの墓を立てる行為は、先祖たちが預言者を殺したことを認めていることです。しかし、見た目には、墓を立てることで預言者を敬っているように見せていますが、彼らは、先祖の行為に同意しているのです。今でも、預言者を否定するのです。ヨハネを受け入れないことがそれを証明しています。彼らには、自分たちを否定することを言う者を受け入れる心はありません。彼らが求めていることは、自分の誉だけだからです。神の御心に適うことを求める心はありません。
11:49 だから、神の知恵もこう言ったのだ。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者たちを殺し、ある者たちを迫害する。
11:50 それは、世界の基が据えられたときから流されてきた、すべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。
11:51 アベルの血から、祭壇と神の家の間で殺されたザカリヤの血に至るまで。』そうだ。わたしはおまえたちに言う。この時代はその責任を問われる。
これは、イエス様が例え話で語られたことでもあります。今まで、預言者が遣わされて来ましたが、預言者たちは、迫害され殺されたのです。神様は、最後に愛する御子を遣わされました。その方を拒もうとしているのです。最後には、殺します。イスラエルは、今まで預言者を迫害し殺した責任を問われるのです。イスラエルは散らされ、国を追われるのです。
11:52 わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」
律法の専門家は、聖書の知識の鍵を一手に握っています。他の人が律法を研究し、神の御心を解き明かすことをさせません。そして、人々には、規則を守ることを教えますが、神様が聖書を通して教えようとしておられる愛を現すことはありません。自分は、その鍵を開けて、入ろうとはしません。神の御心が何かを極めることはなく、それを行う心がないのです。表面的な解釈と、自分を誇る想いでいるからです。まして、他の人々が神の御心に適う歩みをすることを求めようとはしません。聖書の知識を持っているならば、自分がその中に歩む責任があるし、人々を正しく導く責任があるのです。彼らは、形式的な歩みに終始していたのです。
11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者たち、パリサイ人たちはイエスに対して激しい敵意を抱き、多くのことについてしつこく質問攻めを始めた。
11:54 彼らは、イエスの口から出ることに、言いがかりをつけようと狙っていたのである。
彼らは、イエス様の指摘に対してひどく反発しました。激しい敵意を抱きました。図星であったからです。指摘が当たらなければ、戯言として受け止めるでしょう。彼らは、自分の誤りを認め、神に向きを変えることをしませんでした。
そして、イエス様の言葉に言いがかりをつけるために、しつこい質問責めをしました。その答えに誤りを指摘し、イエス様の語ることが正しくないことを明らかにしようとする試みです。そうして、自分たちに対する言葉が、誤っているということを言うためです。自分の面子しか考えていませんでした。自分を誇っていたからです。自分を高めることを考えている人は、このような行動をとります。決して自分の誤りを認めないのです。