ルカ10章
10:1 その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。
以前、十二弟子に力と権威を与えて遣わされたのとは別に七十二人を遣わされました。そこは、ご自分が行くつもりのすべての町や場所です。
ルカ
9:1 イエスは十二人を呼び集めて、すべての悪霊を制して病気を癒やす力と権威を、彼らにお授けになった。
9:2 そして、神の国を宣べ伝え、病人を治すために、こう言って彼らを遣わされた。
9:3 「旅には何も持って行かないようにしなさい。杖も袋もパンも金もです。また下着も、それぞれ二枚持ってはいけません。
9:4 どの家に入っても、そこにとどまり、そこから出かけなさい。
9:5 人々があなたがたを受け入れないなら、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」
9:6 十二人は出て行って、村から村へと巡りながら、いたるところで福音を宣べ伝え、癒やしを行った。
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10:2 そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。
七十二人でも少ないと言われました。収穫が多かったのです。それで、収穫の主である神に働き手を送ってくださるように祈りなさいと言われました。
10:3 さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に子羊を送り出すようなものです。
遣わされた者たちは、狼の中の羊です。悪魔が働いています。もはや自分の力を頼とすることはできないのです。神様に委ねる以外にないのです。
10:4 財布も袋も持たず、履き物もはかずに行きなさい。道でだれにもあいさつしてはいけません。
財布も袋も持ちません。履き物も履かずに行きます。すべて神様に委ねるのです。道で誰にも挨拶しません。人に取り入ることをしないのです。人に頼りません。神様に頼るのです。
なお、イエス様が教えられたように、どのような人に対しても挨拶することは神の子としてふさわしいことです。
10:5 どの家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。
どの家に入っても、まず言うことは、この家に完全さがあるようにということです。福音を伝える目的は、そこにあります。神の御心を行うことによってもたらされる完全さです。
・「平安」→神の賜物としての完全さ。平安は心の状態であり、それが得られてもほとんど価値がない。
10:6 そこに平安の子がいたら、あなたがたの平安は、その人の上にとどまります。いなければ、その平安はあなたがたに返って来ます。
そこに、神の御心を行う人となる完全さの子がいたならば、彼の持っている完全さは、その人の上にとどまります。その人は、伝える人の教えを受け入れるからです。彼は、すでに神の御心を行う者として歩んでいます。もし、いなければ、その完全さは、彼のところに返ってきます。彼は、神の御心を行う人が起こされることを求めて、神の業を行うのです。そのような中で、拒まれる経験をするのです。神の御心を行う上で拒まれるという経験を通して、彼は神の御心を行うことを実体験として学ぶのです。彼は、いよいよ全き者に変えられます。
なお、神の言葉を伝える人は、神の御心を行い、全き者として歩んでいる必要があります。
10:7 その家にとどまり、出される物を食べたり飲んだりしなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからです。家から家へと渡り歩いてはいけません。
そして、彼を受け入れたその家にとどまり、出されるものを食べたり飲んだりするのです。それは、働く者への報酬でもあります。しかし、渡り歩いてはいけません。何を食べるか、何を飲むかも神様が備えたものとして受けるのです。自分の好みを探して渡り歩くようなことをしていけないのです。
10:8 どの町に入っても、人々があなたがたを受け入れてくれたら、出された物を食べなさい。
出された物を食べるのです。それが、神が備えた物であるからです。
10:9 そして、その町の病人を癒やし、彼らに『神の国があなたがたの近くに来ている』と言いなさい。
その町の病人を癒します。そして、福音として、神の国があなたがの近くに来ていると言うのです。神の国は、彼らが神の御心を行い、御国で資産としての報いを受けることを表しています。それは、イエス様を通して与えられます。その方は、まもなく、その町に来ます。そのために、先に二人ずつを遣わしたからです。神の国が近くに来ているとは、イエス様が来ていることを指しています。
10:10 しかし、どの町であれ、人々があなたがたを受け入れないなら、大通りに出て言いなさい。
10:11 『私たちは、足に付いたこの町のちりさえ、おまえたちに払い落として行く。しかし、神の国が近づいたことは知っておきなさい。』
しかし、どの町でも、人々が受け入れない場合、大通りに出て宣言します。足のちりさえ払い落として行くと。彼らは、受け入れられないので、何も食べることもできませんでした。それで、彼らから何も受けていないことを表すために、足のちりを払い落とすのです。それは、町が彼らを受け入れなかったことの印です。彼らは、神の国で報いを受けることはありません。キリストを拒むのですから、永遠の滅びに至ります。
彼らに対しては、神の国が近づいたことは知っておきなさいと警告します。
10:12 あなたがたに言います。その日には、ソドムのほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。
その日には、彼らは、ソドムよりも重い裁きを受けることになります。
10:13 ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって座り、悔い改めていたことだろう。
コラジンやベツサイダは、イエス様を受け入れませんでした。イエス様が力ある業をされましたが、拒んだのです。もし、ツロとシドンでそのような業が行われたならば、異邦人の町であるにもかかわらず、とうの昔に、灰を被って座り、悔い改めたのです。
かつて、ニネベの人々は、ヨナの言葉を聞いて王から下々まで、悔い改めました。
10:14 しかし、さばきのときには、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
ツロと、シドンへの裁きの方が軽いのです。
10:15 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。
カペナウムについては、天に上げられることがあるだろうかと言われました。よみに落とされるのです。
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのです。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのです。」
彼らが弟子たちの言葉に耳を傾けるならば、それは、イエス様に耳を傾けることであるのです。
しかし、御言葉を宣べ伝える者を拒む者は、イエス様を拒むのです。そして、それは、父を拒むことであるのです。
10:17 さて、七十二人が喜んで帰って来て言った。「主よ。あなたの御名を用いると、悪霊どもでさえ私たちに服従します。」
七十二人が帰って来て主に報告したことは、主の御名の偉大さです。悪霊どもさえ人である弟子たちに従いました。
10:18 イエスは彼らに言われた。「サタンが稲妻のように天から落ちるのを、わたしは見ました。
10:19 確かにわたしはあなたがたに、蛇やサソリを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けました。ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
イエス様は、彼らがしたことは、サタンを天から稲妻のように落とすことであると例えて言われました。これは、サタンの権威の失墜を表しています。彼は、強い力を持つ者です。しかし、弟子たちに手出しできませんでした。それは、イエス様が敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を与えたからです。弟子たちに害を加える者は何一つないのです。蛇やさそりも踏みつけることができます。
10:20 しかし、霊どもがあなたがたに服従することを喜ぶのではなく、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
弟子たちは、その権威が与えられていることを喜びとしました。しかし、イエス様は、彼らの名が天に書き記されていることを喜ぶように言われました。名は、単に名前が記されていることだけではありせん。その人の行いが覚えられていることです。自分を誇ることによっては天に何も記されません。主によってなしたことが覚えられます。
10:21 ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
主は、喜びに溢れました。それは、父が、真に価値あることを幼子に表したからです。知恵ある者や、賢い者たちは、それを知ることができません。自分の知恵や賢さを誇るからです。そのような者たちに、神の前に価値あることが何であるかは示されません。幼子たちには、そのような思いはありません。それは、父の御心なのです。
10:22 すべてのことが、わたしの父からわたしに渡されています。子がだれであるかは、父のほかはだれも知りません。また父がだれであるかは、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかは、だれも知りません。」
全てのことは、父がイエス様を通してなそうとしている全てのことです。それは、イエス様に渡されています。
このことは、マタイの福音書でも語られている内容です。
この時、父の他には子を知っている者はいませんでした。弟子たちもこの時点では、主を知ってはいなかったのです。
また、イエス様と、イエス様が父を現そうと心に定めた者のほかには、父を知る者がいないです。
ヨハネ第一
2:12 子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
2:13 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
2:14 幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。
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御父を知ることは、幼子にもできることです。しかし、主イエス様を知ることは、父にできることです。
御父は、御子を知っていました。それは、御父と御子は、一つであられたからです。それは、イエス様が信者との関係について、主と信者が一つになって歩むことで、主を知ることができる関係です。主イエス様は、父と一つになって生きられたので、父を知っておられました。それとともに、逆の関係として、御父は、一つになって歩まれ、御心を行われる主イエス様をご覧になられて、満たされたのです。父は、その意味で主を知られたのです。
また、この時点では、まだ御霊は信者に内住しておらず、主がその人のうちに住まわれて業をなすという経験をした者は、誰もいません。すなわち、そのような経験を通して主を知ることができた者は、誰もいないということです。
・「知る」→経験として知ること。直接的な関係で知ること。
・「すべてのこと」→全体の中の一部。それぞれの「全体の一部」。"当てはまるそれぞれの(すべての)部分 "という意味で "すべて "を意味する。
10:23 それからイエスは、弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたが見ているものを見る目は幸いです。
10:24 あなたがたに言います。多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たいと願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと願ったのに、聞けませんでした。」
そして、やがて主を知るようになる弟子たちについて、今でも幸いであることを示しました。彼らは、イエス様を目の当たりにしているからです。その方の栄光を見ていたのです。主イエス様は、父によって生きておられました。そして、父の栄光を現されたのです。預言者たちも王たちも、その主イエス様の栄光を見たいと願っていたのです。聞いていることを聞きたいと願ったのに聞けませんでした。神の御子の栄子を目の当たりにしたい、その言葉を聞きたいと願っていたのです。
10:25 さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
律法の専門家は、イエス様を試みようとして言いました。何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるかと。相続は、御国において、永遠の命としての報いを相続することを指しています。永遠の命は、漠然としたものではなく、御国における報いの相続なのです。そのために何をしなければならないかを尋ねたのです。イエス様が正しく答えることができるかどうかを試したのです。
なお、これは、信仰によって永遠の滅びから救われることを指して、永遠の命を持つことを言っているのではありません。信仰によらなければ義とされないのですが、そのことを論じているのではないのです。
・「受け継ぐ」→くじ引きによって相続(継承)を割り当てること。信者に関しては、御国の相続で、報いを永遠の資産として受け継ぐこと。
10:26 イエスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
イエス様は、彼が答えを持っていて聞いているのをご存じて、彼に聞き返しました。律法に何と書いてありますかと。どうしたら永遠の命を受け継ぐことができるかは、律法に記されていることです。
そして、あなたはどう読んでいますかと問われました。聖書に書いてある記事を知っていることと、彼がその教えをどのように自分のものにしているかは、別のことです。誰もが聖書に記されていることを正しく理解し、信じているわけではありません。また、聖書の教えを自分の持つ教えとしているわけではありません。
10:27 すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
・「心」→心。この場合、たましいが別に記されていますので、御言葉を受け入れる霊の働きを指しています。
・「いのち」→たましい。
・「力」→当面の抵抗に打ち勝つ力。肉との戦いに勝つ力。
・「知性」→文字通り(ある問題の)「向こう側へ」到達する弁証法的思考。主の御心を行うためには、よく考えなければならないのです。この律法学者は、隣人についての考えが浅かったのです。
10:28 イエスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
律法学者の答えは、正しいものです。イエス様は、正しいと言われました。その上で、それを実行しなさいと言われました。そうすれば命を得るのです。
イエス様は、律法の規定を実行するならば命を得ると言われました。神の言葉に従って生きることで、永遠の命をいただくことができるのです。これは、イスラエルに与えられた契約です。
なお、イスラエルは神を信じた民です。その民に対する契約として律法が与えられていて、それを実行するときに、祝福を受けるのです。罪が赦されて義とされることは、信仰によります。そして、その歩みが義とされることも、信仰によるのです。ダビデは、詩篇に見るように、主に祈って歩んでいます。彼は、たましいが主の前につまずくことなく歩むことを強く願っています。主は、求めるものに喜んで答える方として、栄光を現されました。彼の歩みは、信仰によったのです。イエス様は、それを実行するように言われたのです。信仰によって実行するのです。
アブラハムは、信仰によって義とされました。そして、その後で割礼を受け、全き者として歩む契約を結びました。彼は、カナンの地を約束されました。彼は、信仰によって生涯歩み続けたのです。彼が望んでいたのは、天の都です。それを相続するために、地上でそれを遥かに望み、信仰によってあゆんだのです。
10:29 しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
彼は、イエス様が言われたことを全て行なっているという思いがありました。それで、自分の正しさを示そうとして、自分の隣人とは、誰でしょうかと問いました。
10:30 イエスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
10:31 たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
10:34 そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
10:35 次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
隣人は、ユダヤ人として共にいる人たちのことを指してはいません。それは、民族の違いに関係ないのです。イエス様は、隣人の関係を愛を表す当人の視点ではなく、愛を受ける人の視点から問うています。強盗に襲われた人にとって、祭司やレビ人は、隣人にはなり得ませんでした。ユダヤ人が忌み嫌っていたサマリヤ人だけが隣人になりました。
愛を現そうとするならば、全ての人が隣人なのです。この律法の専門家は、ユダヤ人に対して愛を示してきたのです。自分の正しさを示そうとしていました。他の律法の専門家のように罪人を避けていたのかもしれません。しかし、ユダヤ人が忌み嫌うサマリヤ人さえ隣人であることを示されたのです。どのような人に対しても何の隔ても設けてはならないのです。全ての人を愛することを教えられました。
10:38 さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
10:39 彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
マルタは、イエス様を進んで家に迎え入れました。マルタには、イエス様をもてなす心がありました。マルタは、「イエス」を家に迎え入れました。このときのマリアは、人としてのイエス様をもてなそうとすると思いでいたのです。
一方、姉妹マリアは、御言葉を聞くことに強い関心があり、主の足元に座って、主の言葉に聞き入っていた。ここでは、イエスとは記されていないで、「主」と記されています。マリアは、この方を主と認識し、その言葉を自分のものとすることに強い関心があったのです。
二人の重いは、異なっていました。
10:40 ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
マルタは、心が落ち着きませんでした。もてなしのために心を用いていたからです。そして、それは、彼女が成し遂げようとしていることのためには、限界に近いものでした。誰かの助けが必要だと考えるほどのものです。
彼女は、計画の縮小を考えませんでした。また、誰かにそっと助けを頼むのでもありませんでした。自分の計画を最優先し、それを成し遂げるためにイエス様に文句を言いました。イエス様をもてなすはずが、イエス様に文句を言ったのです。この点で、もはや彼女の計画は、破綻したのです。これでは台無しです。しかも、彼女は、イエス様を「主」と言い表していながら、自分の姉妹が自分だけにもてなしをさせていることをなんとも思わないのですかと、イエス様の態度を非難したのです。そして、どうしても手伝いをするように言うように、主に命令しているのです。彼女は、自分の計画の遂行のために、「主」を非難し、主に命じたのです。肉の現れなのです。
・「何ともお思いにならない」→気にかける。関心を払う。注意を払う。の否定形。
・「おっしゃってください。」→アオリスト、命令法。相手にある決定的な決断を促す意味を込めた命令。動作の初めと終わりが暗示されている。
10:41 主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
「主」は答えられました。主としてマルタを教えたのです。まず、マルタの状態を指摘されました。彼女は、いろいろなことを心配していました。彼女は、このとき、信仰によって事をなしていたのではないのです。心の中を騒がしていたのです。
・「思い煩って」→心配や不安を表す古い動詞で、文字通り、分裂する、気が散る。肯定的には、全体像との適切な関係において、心配を効果的に分配するために用いられる。
・「心を乱し」→騒然とする、すなわち、騒ぐ、騒ぎ立てる、自分を悩ませる、騒動にする。
10:42 しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」
→「しかし、必要なことは、僅かです。あるいは一つだけです。それで、マリアは、その良いものを選びました。それで、彼女のものが取り上げられることはありません。」
マリアは、必要な一つだけの良いものを選び取りました。主の言葉を聞くことが必要な一つのことなのです。人の全ては、神の御心を行うことです。それ以外のものは価値がありません。それは、イエス様のご生涯が示している模範によっても明らかです。その元になるのは、御言葉を聞いて自分のものとすることです。マリアがしたように、語られる方を主と認め、服従する思いで聞くことです。
マルタは良い事を計画しましたが、信仰によらなかったのです。神の目に適うことが何かを考えずに、自分の計画の遂行だけを考えていましたので、自分の計画を台無しにしてしまいました。