ヨブ記42章
42:1 ヨブは主に答えた。
42:2 あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。
ヨブは、主にはすべてができること、その計画を(できないとして)切り離すことはないことを知ったと言いました。
・「不可能ではない」→切り取る。ブドウを集める。孤立する。切り離す。差し控える。
42:3 あなたは言われます。「知識もなしに摂理をおおい隠す者はだれか」と。確かに私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを。
そして、主が言われた言葉を取り上げ、知識もなしに摂理を覆い隠す者は誰かとの問いに、自分が理解できないことを告げましたと言い表しました。それは、霊の領域での駆け引きによるものです。ヨブ記に記されることで、私たちはその顛末を知ることができますが、ヨブには、隠されていたことです。今でも、霊の領域の出来事について知ることはできません。彼は、自分の知識の範囲で論じたのですが、主がサタンにこの苦難を許されたことについては何も知りませんでした。それなのに、自分の罪をなぜ責めるのかを知りたいと言い、その苦しみの理由を尋ねようとしたのです。それは、自分とはかけ離れたことでした。また、自分の知らないことでした。
・「不思議なこと」→分離する、すなわち(文字どおりまたは比喩的に)区別する。含意して、(因果的に、)偉大である、困難である、すばらしくする。(あまりにも)難しい、隠された、高すぎるもの。受動態。自分とはかけ離されていること。
42:4 あなたは言われます。「さあ、聞け。わたしが語る。わたしがあなたに尋ねる。わたしに示せ」と。
42:5 私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。
42:6 それで、私は自分を蔑み、悔いています。ちりと灰の中で。
また、もう一つの主の言葉を取り上げ、私があなたに尋ねる、私に示せと言われたことについて、答えました。彼はかつて主のことを耳で聞いていましたが、今は目で見たと。直接主の言葉を聞いたからです。彼は、主の前で論じたいと言いましたが、ただ口を閉ざすばかりです。何も答えられないのです。主の御業について、語られることを知らないのです。それで、自分が浅はかであったことを蔑んだのです。また、悔いていました。彼は、ちりと灰の中で自分を低くしました。ちりや灰に過ぎない価値のない者であることを表明したのです。
42:7 主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。
42:8 今、あなたがたは雄牛七頭と雄羊七匹を取って、わたしのしもべヨブのところに行き、自分たちのために全焼のささげ物を献げよ。わたしのしもべヨブがあなたがたのために祈る。わたしは彼の願いを受け入れるので、あなたがたの愚行に報いるようなことはしない。あなたがたは、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったが。」
三人の友について、問題点は、主について確かなことを語らなかったことです。彼らは、ヨブの苦難を見て、その原因がヨブの罪にあり、主がヨブの罪を責めておられると結論付けています。しかし、これには、論法の誤りがあるのです。
主が苦難を与える人々の範囲と、罪人であることの範囲は、重なり合う部分がありますが、完全に一致するわけではありません。主が苦難を与えたという結論から、その人が罪を犯したからだということは導き出せないのです。
そして、主が罪を裁いていてないのに、主がそうされたと言うことは、主について確かなことを語るのではないので、主の怒りを招くものです。
主は、「ヨブのように」と言われますので、ヨブは、主について確かなことを語ったのです。ですから、主に関してヨブの発言は、正しかったのです。ヨブが、自分を高くして、神の言葉を超えて語ったことはなかったのです。
ヨブ記は、長い文脈と複雑な比喩から構成されています。文脈を把握しつつ、言葉の詳細な部分を理解するということを同時に進めなければならない書です。部分的な解釈は、危険を伴います。ヨブが問答の中で、神について正しく語っていないとすること、あるいは、その言葉において神に罪を犯したとすることは正しくありません。
なお、エリフは、ヨブが罪を犯したと言いました。その指摘は、正しくありません。
ヨブ記
34:7 ヨブのような人がほかにいるだろうか。彼は嘲りを水のように飲み、
34:8 不法を行う者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩む。
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ヨブのような悪者はいないと主張したのです。彼にとって、嘲りは何ものでもないです。さらに、不法な者ともよく交わり、彼ら共に歩む者であると言いました。
しかし、この主張は、三人の友にも見られたものですが、全く当たりません。
エリフは、ヨブがひどい罪人であると指摘しました。ただ、彼は、三人の友と異なり、そのために神が彼を苦しめたとは言いませんでした。
しかし、ヨブは、そのような指摘を受けても、おびえないし、力がのしかかっても重くはないのです。その指摘を認めようとはしないので、主に委ねたのです。主は、人よりも偉大だからです。
主は、苦難を通して教える方であることを説くのです。その業は多く、人が知りえないのです。神は、人間がその悪の業を取り除くために、高ぶりを離れさせるために働くのだと。再び神に喜ばれる者にされるためです。
神は、御心のままに事をなさる方です。人が主の業に対して口を差し挟むことはできないと諭します。
エリフは、ヨブが犯していない罪を数えたことは誤りです。しかし、ヨブの苦難は、神がヨブの罪を責めているとは言いませんでした。その点が三人の友と異なる点で、三人の友のように神について正しいことを語らなかったということにはなりません。
ヨブの苦難について、ヨブが罪を犯したからであると直接的に言うことはありませんでした。苦難を受けた者が自らを省みるためであると。
なお、エリフの言葉は、後半では、主が語られることと非常に似ています。それで、エリフの言葉はすべて正しいように言われることがありますが、そうではありません。すでに見たように、彼は、ヨブの言葉を正しく理解できていないし、ヨブが悪者の仲間であるかのように言ったのです。エリフの言葉は、正しくない点もあるのです。また、エリフの言葉を正しいとし、ヨブの言葉をエリフの指摘のように正しくないとすることも誤りです。その点をわきまえないと、ヨブ記を正しく理解することはできません。ヨブの忍耐は、賞賛に値するものなのです。
・「愚行」→愚かさ。これは、続く言葉と接続詞で繋がれていて、彼らがヨブのように、主について確かなことを語らなかったことです。
42:9 テマン人エリファズと、シュアハ人ビルダデと、ナアマ人ツォファルは行って、主が彼らに命じられたようにした。すると主はヨブの願いを受け入れられた。
彼らは、雄牛七頭と、雄羊七頭を捧げました。主は、彼らを受け入れられました。これは、全焼の捧げ物で罪ための捧げ物ではありません。ヨブの祈りと共に全焼の捧げ物によって、主は受け入れられたのです。
捧げ物は、主に完全に従われたしもべとしてのイエス様と、人として完全に神に従われた人としてのイエス様を表しています。ヨブは、祭司の役割を果たしています。
42:10 ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブを元どおりにされた。さらに主はヨブの財産をすべて、二倍にされた。
ヨブがその友人たちのために祈った時、主は、ヨブを元通りに戻されました。財産は、二倍にされました。その量は、盗みにタイル賠償と同じです。
42:11 こうして彼のすべての兄弟、すべての姉妹、それに以前のすべての知人は、彼のところに来て、彼の家で一緒に食事をした。そして彼に同情し、主が彼の上にもたらされたすべてのわざわいについて、彼を慰めた。彼らはそれぞれ一ケシタと金の輪一つずつを彼に与えた。
彼のところに、全ての兄弟と姉妹、そして知人が戻ってきて、共に食事をし、彼に同情し、主がもたらした災いについて慰めました。彼らは、それが主から来たことを認識していました。
彼らは、ケシタ一つと金の輪一つを与えました。ケシタは、硬貨です。商売のための貨幣です。一つは、独り子の御子の栄光を表しています。ヨブの忍耐は、それを表しました。彼は、肉を持つ中にそれを現したことで、硬貨が一つ与えられました。
金の輪は、一つで、これも、独り子の御子の栄光を現していて、彼が義であったことを表しています。
42:12 主はヨブの後の半生を前の半生に増して祝福された。それで彼は羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。
主は、ヨブを祝福されました。羊は、一万四千匹で、七が元になっています。七が表す完全さと証しを表す二の組み合わせです。ヨブの忍耐は、完全な証しとなっています。らくだは、六千頭です。六は、人を表しています。ここでは、汚れた動物が取り上げられることで、汚れを現す肉を持つ人としての歩みの中にあって、それを現した秀逸さが表されています。
牛は、一千頭で、しもべとして従う中に、独り子の御子の栄光を表しました。雌ろばも一千で、同じ数です。これも汚れた動物です。汚れを現す肉を持つ中に、御子と同じほどに従ったことを表しています。
ヤコブ
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなたがたはヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。
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ヨブは、その忍耐によって証ししています。
42:13 また、息子七人、娘三人を持った。
息子や娘は、祝福として与えられました。苦難を受ける前と同じ数です。命には命を返されました。詩篇には、次のように記されています。
詩篇
144:12 私たちの息子らが若いうちからよく育てられた植木のようになりますように。私たちの娘らが宮殿にふさわしく刻まれた隅の柱のようになりますように。
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息子は、植木のように、主の手によって植えられ、成長することが期待されています。娘は、宮殿の柱のようです。宮殿は、王の家としての教会の比喩です。柱は、証しを表しています。
七は満たす意味での完全さを表します。成長の完全さを表し、御心を行うことによってもたらされる完全さを身につけたことの比喩です。それは、与えられた子に関して、最も祝福された状態です。
三は、欠けのない完全さを表します。真理の証しを担うものとして、完全であることを表しています。
42:14 彼はその第一の娘をエミマ、第二の娘をケツィア、第三の娘をケレン・ハ・プクと名づけた。
エミマは、日々。ケツィアは、ケシアすなわち桂皮。ケレン・ハ・プクは、アンチモンの角。
42:15 ヨブの娘たちほど美しい女は、この地のどこにも見つからなかった。彼女たちの父は彼女たちに、その兄弟たちの間で相続地を分け与えた。
彼女たちは、他と比べられない美しさを持っていました。その証しにおいて、醜いものをさらすことはありませんでした。それは、美しいと言えるものだったのです。賞賛に値する良いものでした。
彼女たちには、相続地が与えられました。それは、教会における証しに対する報いとして与えられる永遠の資産の比喩です。
42:16 この後ヨブは百四十年生き、自分の子と、その子の子たちを四代目まで見た。
こののち、百四十年生きましたが、満たす意味での完全さを表しています。彼は、信仰によって歩んだのです。
42:17 こうしてヨブは死んだ。年老いて満ち足りた生涯であった。
彼は、主とともに歩み、満ち足りた生涯を終えました。主に従う者を祝福する神の栄光を豊かに経験したのです。