ヨブ記34章
34:1 エリフはさらに言った。
34:2 知恵のある人々よ、私のことばを聞け。知識のある人々よ、私に耳を傾けよ。
エリフは、自分の言葉を聞くように言いました。その対象は、知恵のある人々であり、知識のある人々です。彼の言葉を知恵や知識がある者として聞き分け、受け入れるように求めているのです。
34:3 耳はことばを聞き分け、口は食物を味わうからだ。
エリフは、その理由を示し、耳は、言葉を聞き分けるからです。エリフが語ることは、理解できることであるから、聞き分けるように求めています。それを聞き分けることができないとすれば、知恵がないし知識がないということになります。
なお、この言葉は、かつてヨブが語ったもので、でそれを引き合いに出しました。そうすることで、今度は、ヨブが聞き分けるように求めているのです。
ヨブ記
12:11 口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。
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34:4 さあ、私たちのために正しいことを選び、私たちの間で、何が良いことかをよく知ろう。
彼は、正しいことを選ぼうと言い、何が良いことかをよく知ろうと言いました。これから語ることは、正しいこと、また、良いことを見極めるためであることを語り、彼が正しい良いことを求めていることを示しました。正しい動機でこのことを言うことを言っています。
エリフは、正しさを求める人です。三人の友は、ヨブに対する深い愛からヨブが神の前に立ち返るための言葉を語りました。エリフは、その点では、正しさを求めました。
34:5 ヨブはこう言っているからだ。「私は正しい。神が私の正義を取り去ったのだ。
34:6 私の正義に反して、私は偽りを言えるだろうか。背きがないのに、私の矢傷は治らない。」
エリフが取り上げたヨブの主張は、次の聖句と考えられます。
ヨブ記
27:1 ヨブはさらに言い分を続けた。
27:2 私は、私の権利を取り去った神にかけて誓う。私のたましいを苦しめた全能者にかけて。
27:3 私の息が私のうちにあり、神の霊が私の鼻にあるかぎり、
27:4 私の唇は決して不正を言わず、私の舌は決して欺くことを語らない。
27:5 あなたがたを正しいとすることなど、私には絶対にできない。私は息絶えるまで、自分の誠実さをこの身から離さない。
27:6 私は自分の義を堅く保って手放さない。私の良心は生涯私を責めはしない。
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ヨブは、自分は、潔白だと言いました。しかし、彼は、神の前に罪が全くないと言う意味で言ったのではありません。神には、彼の罪を責めることができ、その権威があることを認めています。不正があるならば知らせて欲しいと言いましたが、それは、彼が苦しみを受ける理由を知りたいと願うくだりで語られています。彼は、自分は、裁きとしてこのような苦難をうけなればならない悪を行ってはいないという意味で言っています。
「神が私の正義を取り去ったのだ。」と言いましたが、ヨブは、直接的にそのようなことは言いませんでした。自分には、このような苦難を受けるような罪を犯してはいないが、神が苦しみを与えることについて、理由を知りたいと言ったのです。
エリフは、「背きがないのに、私の矢傷は治らない。」とヨブの言葉として取り上げましたが、ヨブは、その苦しみが不当であるかのように言ったと考えたのです。
エリフは、ヨブが自分は正しいと考え、正しいのに苦しみが去ることがないと言っていると捉えたのです。
34:7 ヨブのような人がほかにいるだろうか。彼は嘲りを水のように飲み、
34:8 不法を行う者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩む。
その反証として、ヨブのような悪者はいないと主張したのです。彼にとって、嘲りは何ものでもないです。さらに、不法な者ともよく交わり、彼ら共に歩む者であると言いました。
しかし、この主張は、三人の友にも見られたものですが、全く当たりません。
エリフは、ヨブがひどい罪人であると指摘しました。ただ、彼は、三人の友と異なり、そのために神が彼を苦しめたとは言いませんでした。
34:9 彼は言っている。「神に喜ばれようとしても、それは人の役に立たない。」
このヨブの言葉とする引用は、下記の言葉と考えられます。
ヨブ記
21:7 なぜ悪しき者が生きながらえて年をとっても、なお力を増し加えるのか。
21:8 その子孫は彼らとともにあって、彼らの前に堅く立ち、その末裔は彼らの目の前に堅く立つ。
21:9 彼らの家は平和で恐れもなく、神のむちが彼らの上に下されることもない。
21:10 その雄牛は、はらませて失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで仕損じることがない。
21:11 彼らは幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちは飛び跳ねる。
21:12 彼らはタンバリンや竪琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。
21:13 幸せのうちに寿命を全うし、安らかによみに下る。
21:14 彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。
21:15 全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と。
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しかし、これは、悪者でも祝福を受けることを示し、正しい者が災いを受けることもあることを示すためです。エリフは、その言葉を正しく理解してはいませんでした。
エリフは、ヨブが神の前に喜ばれようとする思いもないことを言っています。それで、彼は、悪を行うのだと。
34:10 だから、あなたがた良識のある人々よ、私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない。
神が悪を行い、不正を行うことは絶対ないと言いました。
34:11 神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる。
神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれの道に従って取り扱われます。
エリフは、直接的には、ヨブが正しくないので苦難を与えたとは言いませんでした。エリフ自身は、神様の業の全てを知っている者ではないとする立場をとっています。これが、三人の友との違いです。三人の友は、ヨブの苦難は、彼が罪を犯したから神から受けたものであるとしました。エリフは、神は正しいことを行うのだから、ヨブが主張する言葉として正しいのに裁かれているというようなことはしないと言っていますが、神がヨブを裁いていると断言することはありません。
34:12 神は決して悪を行わない。全能者はさばきを曲げない。
神は、悪を行わないし、裁きを曲げることはないのです。
34:13 だれが、この地を神にゆだねたのか。だれが、全世界を神に任せたのか。
誰がこの地の上に彼を任命したのか。全世界の上に置いたのか。それは、人にはよらず、神ご自身がそれを治めておられます。
34:14 もし、神がご自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたら、
34:15 すべての肉なるものはともに息絶え、人は土のちりに帰る。
もし、神がご自分に心を留め、その神の霊と神の息をご自分に集められたならば、すべての肉なるものは、共に息絶えます。死ぬのです。人はちりに帰ります。
ご自分だけに心を留めることは、ご自分の聖さだけをご覧になられることです。そして、人を神の目に適わない者として、神が人に与えられた霊と、命の息を集められたならば、人は死ななければなりません。
このように、神は、全世界の上に権威をお持ちであり、聖い方であることを示しました。
34:16 悟ることができるなら、これを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。
彼は、自分が語ることを聞けと言いました。悟ることができるなら聞けと。彼は、自分が語ることを理解するように求めました。
34:17 いったい、公正を憎む者が、治めることができるだろうか。正しく力ある方を不義に定めることができるだろうか。
公正すなわち規定を憎む者は、治めることはできません。規定があって、規定に基づいて事が行われるのでなければ、治めることはできません。神は、正しく力ある方なので、治めることができるのです。
神について、まず神が正しい、悪を行わない方であることを示しました。次に、神は、世界を治める方であること示し、また、ご自分だけが聖なる方であることを示しました。そのような方であるからこそ、世界を治めることができるのです。
・「公正」→規定。神の定め。掟、御心など。
34:18 人が王に向かって「よこしまな者」と言い、高貴な人に向かって「悪者」と言えるだろうか。
人の世界で考えても、王に向かって邪な者とはいうことはできないし、高貴な人に向かって悪者ということはできません。高貴な人とは、身分の高い人というだけでなく、正しい神の御心に適う歩みをしている人のことです。
まして、神に対しては、不正な方ということはできないということです。これは、ヨブが自分を正しいとして、神が正義を取り去ったと主張したとすることを踏まえてのことです。
34:19 この方は、首長たちをえこひいきせず、上流の人を貧しい民より重んじることはない。彼らはみな、神の御手のわざだからだ。
この方は、首長たちをえこひいきしません。高貴な人を貧しい者より重んじることはありません。主にとって、全ては、御手の業であるからです。このように、主は、正しく治められる方です。
34:20 彼らは瞬く間に、それも真夜中に死に、民は動揺のうちにいなくなる。強い者たちも人の手によらずに取り去られる。
34:21 神の御目が人の道の上にあり、その歩みのすべてを神が見ておられるからだ。
彼らが、瞬く間に死ぬのは、神がその道をご覧になっておられるからです。それがどのような人であれ取り去られます。
34:22 不法を行う者どもが身を隠せる闇はなく、暗黒もない。
不法を行う者がそれを隠すことできません。
34:23 神は人について、それ以上調べる必要はない。さばきのときに、神の前に出させてまでして。
神は、ご自分の前に人を呼び出して、調べる必要はないのです。すでにご存知だあるからです。
34:24 神は力ある者を、取り調べなしに打ち滅ぼし、彼らに代えてほかの者たちを立てられる。
神は、人を取り調べることなく、打ち滅ぼされます。そして、彼らに代えて、他の人を立てます。
34:25 神は彼らのしわざを知っており、夜に彼らを打ち倒される。彼らは砕かれる。
神は、彼らの仕業を知っておられます。それで、夜に、打ち倒されます。彼らは、砕かれるのです。
34:26 神は、人々の見ているところで、彼らをその邪悪さのゆえに打ちたたかれる。
そして、昼、人々が見ている前で、人を打ちたたかれます。彼が邪悪であるからです。
34:27 それは、彼らが神に背いて従わず、神のどの道にも心を留めなかったからだ。
彼らの悪は、神に背いて従わないことです。神のどんな道にも心を留めなかったからです。
34:28 こうして、弱い者の叫びを神に届かせ、神は苦しむ者たちの叫びを聞き入れられる。
叫びは、神に届き、主にのみ頼る人や謙る者の叫びを聞かれます。
・「弱い者」→貧しい。主にのみ頼る人。
・「苦しむ者」→苦しむ者。謙る者。
34:29 神が黙っておられるなら、だれがとがめることができるだろうか。神が御顔を隠しておられるなら、だれが神を認めることができるだろうか。一つの国民においても、一人の人間においても同様だ。
神が黙らせるならば、誰が非難することができるだろうか。皆、口を塞ぐのです。神が御顔を隠すならば、誰が見ることができるでしょうか。そうなったら、神の御顔を見ることはできず、祝福を受け継ぐことはできません。
このことは、一つの国民においても、一人の人においても同じです。
・「黙っておられる」→黙らせる。使役動詞。
34:30 それは、神を敬わない人間が治めたり、民を罠にかけたりしないようにするためだ。
それには目的があり、神を敬わない人間が治めることがないためです。また、民を罠にかけないためです。この地上において、神の御心に適うことを行わせるためです。
34:31 神に向かってだれかが言ったか。「私は懲らしめを受けました。私はもう悪いことはいたしません。
34:32 私が見ていないことを、あなたが私に教えてください。私が不正をしたのでしたら、もういたしません」と。
そして、神に向かって誰が言ったかと問い、ヨブは、このようには言っていないと指摘しています。
それは、自分の不正を認める告白です。自分の苦難から、懲らしめを受けたと。もう悪いことはしませんと。そして、自分が見ていないこと、すなわち知らないことについて教えてくださいと。その不正を知らされたならば、もうしないと。
34:33 あなたが反対するからといって、神はあなたの願うとおりに報復されるだろうか。私ではなく、あなたが選ぶがよい。あなたの知っていることを言うがよい。
そして、ヨブの判断を求めました。ヨブが反対するからと言って、神は、ヨブの願う通りに報復されるだろうかと。
ヨブに判断させました。当然ヨブがそのようにはならないという答えを期待してのことです。
34:34 良識のある人々や、私に聞く、知恵のある人は私に言うだろう。
34:35 「ヨブは知識もなしに語る。彼のことばは聡明さに欠けている」と。
そして、良識のある人々や、エリフに聞く知恵のある人たちは次のように言うだろうと。ヨブは、知識もなしに語ると。ヨブの言葉は、聡明さに欠けると。
彼は、自分の主張の正しさを他の人に求めました。良識のある人であるならば、自分と同じように、ヨブの問題点を指摘するだろうと。エリフに聞く知恵のある人も言うだろうと。これを言うのは、自分だけではないことを主張しています。それによって、自分の意見を補強しているのです。
人は、事の正しさについて自らの責任において判断しなければなりません。エリフは、ヨブの主張が誤っていると言いました。それは、エリフがヨブの言葉を理解できなかったからです。エリフもまた、ヨブほどの霊的に高度な経験をしていないので、理解できないのです。理解が不足しているにもかかわらず、これが正しい主張であることを自分だけではなく、他の人もそう言っていると言うことで、正しさを主張していますが、他の人が皆正しいとは限らないのです。三人の友たちの主張にエリフは、同意していますが、三人は、正しくなかったのです。他人の意見に頼ることは危険です。
34:36 どうか、ヨブが最後まで試されるように。彼は不法者のように、ことばを返すからだ。
ヨブが最後まで試されますようにと言い、彼が自分の罪を認めるまで、苦しみが続くように言いました。それは、ヨブが、言葉を返すからです。友の言うことを聞き入れず、反論していることをそのように言いました。それは、不法者のすることであると。
ヨブが友たちの誤った議論に晒されて、正しいことを伝えたことに対して、彼を不法者であるとまで言いました。
彼は、ヨブが苦しみ続ければ良いとまで言ったのです。彼には、主張を受け入れないことに対する耐え難い思いがありました。友たちとは異なり、ヨブを思う愛による言葉とは、異なります。彼は、正しさを求めて、ヨブに対して無慈悲なことを語りました。
34:37 彼は自分の罪にさらに背きを加え、私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対してことば数を多くする。
ヨブは、そのように言い返すことで、背きを加えていると。彼は、罪を犯しているとまで言いました。その罪に背きを加えていると。
私たちの間で手を打ち鳴らすと言うのは、友たちの言葉を聞き入れず、自分の主張を聞かせる行為です。そして、神に対して言葉数を多くしていると。