ヨブ記33章
33:1 そこでヨブよ、どうか私の言い分を聞いてほしい。私のすべてのことばに耳を傾けてほしい。
そして、ヨブに自分の話を聞いてくれるように言いました。
33:2 さあ、私は口を開き、私の口の中の舌が語る。
見よ。今、私は、口を開く。舌が口の中で語る(強意語幹)と言い、彼が語り始めることを表明しています。彼は、語ることを強く強調しています。
33:3 私の言うことは、直ぐな心から出る。私の唇は、率直に知識を語る。
彼が語ることは、直ぐな心からのものであり、率直な知識を語るといい、見せかけでない、あるいは、偽りでないものであることをはじめに断りました。
33:4 神の霊が私を造り、全能者の息が私にいのちを下さる。
そして、この教えが神からのものであることを示すために、神の霊がエリフを造ったと言いました。エリフ自身について、神のものであることを示すために、神が造ったと言いました。また、これが教えに関わることですから、神の霊が造ったと言いました。彼は、神の教えを受けている神のものであることを言っています。自分の教えは、神からの権威があることを示しているのです。
そして、全能者の「息」が命を下さることは、聖霊によって生きたものとしての歩みをさせることの比喩です。彼の歩みも、神の霊による歩みであることを示し、自分は、それを語るにふさわしい者であることを言っています。
33:5 あなたにできるのであれば、私に返事をし、ことばを並べ立てて、私の前に立ってみよ。
そして、できるのであれば、エリフの言葉に対して答え、言葉を整え、自分を私の前に打ち立てよ。(強意語幹、再帰)
彼は、ヨブが神の前に堅く立つことを願ってこれを語ることを言い表し、ヨブが聞き入れることを期待しました。
33:6 実に、神にとって、私はあなたと同様だ。私もまた粘土で形造られた。
→「実に、私は、あなたの口によって、神に関して、粘土から造られた。私もまた。」
エリフは、自分が三人の友と同様に軽く見られていると考えました。ヨブは、ともたちに関して、友たちの言葉は、地の民としての言葉であり、その知恵は、彼らと共に死ぬといい、彼ら自身から出た考えに過ぎないことを言い表しました。それを受けて、自分もヨブの言葉によれば、粘土から造られた者にすぎないと言い表しました。この言葉は、次の節につながり、ヨブが彼の言葉を受け止めず、脅しにも怯えないと言っています。
ヨブ記
12:2 まさに、あなたがたは地の民。あなたがたとともに知恵も死ぬ。
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33:7 見よ、私の脅しも、あなたをおびえさせない。あなたに私の力がのしかかっても、重くはない。
エリフが語る言葉に対して、ヨブは、動じませんでした。エリフの脅しは、五節の言葉と考えられます。内容的には、おどしの言葉はありませんが、強意語幹が使われてます。えりふの言葉は、重くは受け取られていないことを感じたのです。それで、しきりに自分の言葉を聞いてくれと言っていたのです。彼は、歳が若いことも気にしていました。自分の言葉が聞かれないのではないかと。
33:8 確かにあなたは、この耳に言った。私はあなたの話す声を聞いた。
33:9 「私はきよく、背きがない。私は純潔であり、咎もない。
33:10 それなのに、神は私を攻める口実を見つけ、私を神の敵のように見なされる。
33:11 神は私の足にかせをはめ、私の歩みをことごとく見張られる。」
この内容は、以下の聖句と関連づけて考えることができます。
ヨブ記
13:20 ただ二つのことを、私になさらないでください。そうすれば、私は御顔から身を隠しません。
13:21 あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください。
13:22 呼んでください。私が答えます。あるいは私に語らせ、あなたが返答してください。
13:23 私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください。
13:24 なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか。
13:25 あなたは吹き散らされた木の葉を脅し、乾いた藁を追いかけられるのですか。
13:26 実に、あなたは私に対し厳しい宣告を書きたて、私の若いときの咎を負い続けさせます。
13:27 あなたは私の足にかせをはめ、私が歩む道をことごとく見張り、私の足の裏にしるしを刻まれます。
13:28 そのような者は、腐った物のように朽ちます。シミが食った衣服のように。
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33:12 聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大なのだから。
エリフは、ヨブの言葉を具体的に取り上げ、その誤りを指摘しようとしました。ヨブが、自分がきよく、背きがなく、咎もないと言ったことに対して、それが正しくないと指摘したのです。
その理由を示し、神は人よりも(御業が)多いからだと。「偉大」の具体的な事柄は、エリフや神様御自身によって示されるように、神の業なのです。その多くの業を知っているか問われます。
・「偉大」→増やす。増える。
33:13 (なぜならば)なぜ、あなたは神と言い争うのか。自分のことばに、神がいちいち答えてくださらないからといって。
その理由を示し、エリフは、引用しませんでしたが、ヨブは、神が答えてくださらないことも語っていたことを捉え、自分の言葉に神が答えないからといって神と言い争っていたと考えたからです。
神の業は、神が主権をもって定め、人が思い計るよりもはるかに多くの業としてこれを行っておられます。人は、目にする現象しか見ることができませんが、背後に働く神は、多くの業をしておられます。
この点に関しては、エリフの主張は、的を得たものです。ヨブがその理由を知らされなくても、神は、ご自分の業をしておられるのです。それなのに、神が自分に答えてくださらないことで、神にしきりに求めることが正しくないと指摘しているのです。ヨブは、神と争うつもりではありませんが、エリフには、ヨブが自分にぜひ答えるべきであると主張し、争っているように見えたのです。
33:14 (なぜならば)神はある方法で語り、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。
そのことについて説明し、その例として、神は、人にさまざまな方法で語りかけていることです。しかし、人は、それに気づきません。
33:15 夢の中で、夜の幻の中で、深い眠りが人々を襲うとき、また寝床の上でまどろむとき、
33:16 そのとき、神はその人たちの耳を開き、彼らを懲らしめて、それを封印される。
夢の中で、あるいは夜の幻の中で、耳を開き教えます。彼らを懲らしめて、その悪事をやめさせるのです。
エリフは、ヨブの困難は、神の業の一つであり、ヨブを苦しめているのは、神が彼に語りかけているのであり、悪事をやめさせるためであると言っているのです。この点に関して、エリフは、他の三人の友と同じ主張であり、正しくないのです。
・「封印する」→導きのうちに終止符を打つ。
33:17 神は、人間がその悪いわざを取り除くようにし、人から高ぶりを離れさせ、
33:18 人のたましいが滅びの穴に入らず、そのいのちが投げ槍で滅びないようにされる。
それは、人の悪い業を取り除き、人から高ぶりを離れさせ、人が神に背いて、たましいが滅びないためです。このたましいの滅びは、信仰のつまずきのことを言っていて、永遠の滅びに入ることではありません。
神から離れることで命を経験できなくなることから守られます。投げ槍は、剣と共に相手を打つ物としてありますが、命の滅びをもたらす神様の裁きを表しています。
33:19 神は、床の上で痛みをもって人を責め、いつまでも続く骨の病によってお叱りになる。
神は、懲らしめのために、床の上で痛みで人を責めます。また、骨の病が続きます。主は、叱られるのです。
骨は。その人の持つ教えや考えです。彼は、その教えに従って行動します。それが彼の判断基準であるからです。しかし、その判断基準に従って行動した結果、彼は良いものを得ることはありません。自分の考えが間違っていたことを思い知るのです。そのようにされることで、彼は、自分の誤りを指摘され、叱られるのです。
33:20 彼のいのちは食物を嫌い、そのたましいはうまい物を嫌う。
彼の命は、食物を嫌います。この食物は、たましいの食物であることが節の後半でわかります。
今日、たましいにとって真の食物は、イエス・キリストです。その方によって満たされるることが命です。しかし、神によって懲らしめらたとき、考えを変えることは大切です。しかし、時としてその命の食物を嫌います。求めようとはしなくなります。これは、危険な状態です。
・「うまい」→願う。待ち望む。欲する。
33:21 その肉は衰え果てて見えなくなり、見えなかった骨があらわになる。
彼を覆う肉は、衰え果てます。そして、骨が露わになります。直接的には、彼の肉体が痩せていくことを表現していますが、比喩になっています。次節は、たましいのこととして取り扱っているからです。霊的なことを比喩として示しています。
肉は、次の聖句に見るように、彼が御霊によって歩んでいたことを表していて、それが衰え果てていくことを例えています。
創世記
2:22 神である主は、人から取ったあばら骨を一人の女に造り上げ、人のところに連れて来られた。
2:23 人は言った。「これこそ、ついに私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。男から取られたのだから。」
「ついに」と表現され、待ち望んだものであることが表されています。
「骨からの骨」は、キリストの教えを信じた者であることを表してます。
「肉からの肉」は、キリストの肉と同じ肉を持っていることすなわち、よみがえりの体と同じものを持ち、肉にはよらず御霊によって生きるものとされていることを表しています。
「男から取られ」たのであり、男の一部なのです。すなわち、教会は、キリストの一部なのです。
・「骨」→その人の持つ教えの比喩。
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骨が露わになることは、彼の歩みが御霊によるのではなく、自分自身の考えに基づいて行動していることが露わになることの比喩です。
33:22 そのたましいは滅びの穴に、そのいのちは殺す者たちに近づく。
たましいが滅びの穴に近づきます。たましいの滅びは、神の御心を行うことをがなく、実を結ばない状態のことです。
そして、神の御心を行って生きることが命です。主と一つになって生きることが命です。しかし、その命を失わせようとする者は、サタンです。背後で働くサタンによって、神と共に歩む命が失われるのです。
33:23 もし彼のそばに、一人の御使いが、千人に一人の仲介者がいて、その方が彼に代わって彼が誠実であることを告げてくれるなら、
33:24 神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、滅びの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を見出した」と。
彼の上に、(たとい)千人の中に一人の御使いが仲裁者としていて、彼の内の誠実さを示しているならば、神は、その願いに喜んで応え、言われます。彼を救い出し、滅びの穴に下っていかないようにせよと。身代金を見出したと。身代金とは、その一人の御使いです。
・「そばに」→上に。
・「あわれんで」→(主を求める者に)喜んで応えること。懇願。
33:25 その肉は幼子のように新しくされて、彼は青年のころに戻る。
彼の肉は、幼子のように新しくされます。彼は青年の頃のように戻り、力強く歩むことができます。
肉は、再び御霊によって歩み、新しく生まれたものとしての新しい歩みをすることができるようになります。しかも、御霊が豊かに働き、力強い歩みをすることができるようになるのです。
33:26 彼は、神に祈ると受け入れられる。彼は歓喜の声をもって御顔を仰ぎ、神はその人の義に報いてくださる。
彼の祈りは、神に受け入れられるものになります。彼は、大いに喜んで神の顔を見ることができます。そして、神は、その人の義に報いてくださいます。その人の義の実を結んだことに対して、報いてくださるのです。
33:27 彼は人々を見つめて言う。「私は罪ある者で、真っ直ぐなことを曲げてきた。しかし私は、当然の報いを受けなかった。
33:28 神は、私が滅びの穴に下らないように、私のたましいを贖い出してくださった。私のいのちは光を見ることができる」と。
彼は、回復してから人々に証言します。自分は、罪を犯し、真っ直ぐななことを曲げて来たが、それに対する当然の報いを受けることはなかったと、神は、自分のたましいが滅びに下らないように贖い出してくださったこと。また命の光を見させてくださったことを語るのです。
たましいが滅びの穴に下ることは、神の前に死んだ歩みをすることです。しかし、回復されせられた時、神の御心を行う者となり、神と共に歩む命を経験するようになったのです。
33:29 見よ、このすべてのことを神は行われる。二度も三度も、人に対して。
神は、このすべてのことを人に対して繰り返し行われます。
33:30 人のたましいを滅びの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。
たましいが神から離れ、実を結ぶことのない状態から引き上げ、命の光で照らされて、命のうちを歩むことができるようにされます。
33:31 ヨブよ、耳を傾けて私に聞け。黙れ。この私が語る。
→「ヨブよ。耳を貸し、(自分を)黙らせたままで、私に聞け。そして、私が語る。」
エリフは、ヨブに黙ったまま聞くように言いました。
・「黙れ」→ひっかく、すなわち(含意して)彫る、耕す。それゆえ(道具の使用から)(どんな材料でも)製作する。比喩的に(悪い意味で)工夫する。それゆえ(秘密の観念から)沈黙する、放っておく。それゆえ(含意して)(間抜けさの付随として)耳が聞こえない。
33:32 もし、ことばがあるなら、私に返事をせよ。言え。あなたが正しければ、それを私は喜ぶから。
→「もし、言葉があるなら、私に返事をせよ。言え。なぜならば、正しくあれば、喜ぶから。」
彼は、言葉があるなら、返事をせよと言いました。それは、自分の言うことをそのまま受け入れて、返事をせよと言う意味です。それがエリフにとって正しい言葉なのです。そうすれば、エリフは、喜ぶのです。
33:33 もし、ことばがないなら、私に聞け。黙れ。私はあなたに知恵を教えよう。
→「もし、そうでなく(言葉がないなら)、あなたが(自分を)黙らせたままで、私に聞くならば、私は、あなたに知恵を教えよう。」
エリフは、自分の言うことを受け入れるように勧めているのです。
このように、人は、自分の考えは間違いないものと考えますので、それと異なることを聞き入れることがありません。むしろ、相手が黙って自分の言葉を受け入れることを求めるのです。