ヨブ記30章

30:1 しかし今は、私より年下の者たちが私をあざ笑う。あの者たちの父は、かつて私が蔑んで羊の群れの番犬と一緒にいさせた人たちだ。

 前章でヨブがしてきた良いことが語られています。しかし、そのヨブは、今は、年下の者たちから嘲笑われています。彼らの父は、人々から軽く見られ蔑まれるような存在でした。彼らを羊の群れの番犬とともに置こうと人々が言う時、ヨブは、それを拒否しました。そような人でも、ヨブは、軽く扱おうとはしませんでした。彼らの父は、そのように扱われるような人であったのです。

 なお、「あの者たち」と蔑む言い方を原語に見ることは出来ません。彼が人を蔑んでいるとすれば、彼の主張と整合しません。

・→「彼らの父は、かつて羊の群れの番犬と一緒にいさせることを巡って、私が(それを)拒否した人たちだ。」ヨブが彼らを蔑んだのではない。

30:2 あの者たちの手の力も何の役に立つだろうか。彼らの気力は失せている。

 その人たち自身は、手の力のない人たちです。また、気力がないのです。

30:3 彼らは欠乏と飢饉で干上がり、乾いた土にさえかじりつく。荒れ果てた廃墟の暗闇で。

 彼らは、欠乏と飢饉の中にありました。全く食べる価値のない乾いた土にかじりつくのです。彼らは、荒れ果てた廃墟の暗闇にいました。

30:4 彼らは陸ひじきや藪の葉を摘み、えにしだの根を食物とする。

 藪の上の「マロー」を摘み、「レジャミン」の根を食物とします。食べるのに事欠いた人が食べるような物を取り上げていますが、どのような植物であるかは定かではありません。

・→「彼らは、藪の「上の」「おかひじき」を摘み。前置詞は、「上」を意味します。

・「エニシダの根」→毒性があり、食用にはならない。

 

30:5 世間からは追い出され、人々は盗人に叫ぶように、彼らに大声で叫ぶ。

 世間からは追い出されるような人たちです。盗人に叫ぶように、大声で叫ばれるのです。

30:6 谷の斜面や、土の穴、岩の穴に住み、

 彼らは、谷の斜面や、土の穴、岩の穴にすみます。

30:7 藪の中でいななき、いらくさの下に群がる。

 藪の中で、叫び声を上げ、いらくさの下に群がります。普通は、人が立ち入らないような所で活動しているのです。

30:8 彼らは愚か者の子たち、名もない者の子たち、国からむちでたたき出された者たちだ。

 彼らは、その親と同じように、愚かな者たちであるのです。名も無いのです。覚えられる価値の全く無い者たちです。国から、鞭で叩き出されるような存在です。

30:9 それなのに、今や私は彼らの嘲りの的となり、その笑いぐさとなっている。

 ヨブは、そのような人たちを決して軽く扱わなかったにも関わらず、その彼らから嘲の的となっています。笑い種となっていたのです。

30:10 彼らは私を忌み嫌って遠く離れ、私の顔に向かって情け容赦なく唾を吐きかける。

 彼らは、ヨブを忌み嫌いました。そして、遠く離れました。唾を吐きかけることができるので、距離的には、近いのですが、もはや、ヨブに聞くことはありません。ヨブを蔑み、唾を吐きかけたのです。今までは、誰もがヨブを敬い、その言うことを聞いたのです。

30:11 (なぜならば)神が私の弓弦を解いて私を苦しめ、彼らが自分の綱を私の前で投げ捨てたのだ。

 弓弦は、彼が語る言葉のことです。神の御心に適った言葉です。神が、その弓弦を解かれたからです。言葉を放つことができないので、彼らは、そのような態度を取るのです。たとい語ったとしても、誰も聞かないのです。彼らが、自分の端綱を投げ捨て、自分の思いのままに振る舞うよになったからです。

30:12 この生意気な者たちは私の右手に立ち、私の足をもつれさせ、私に対して滅びの道を築いた。

 この者たちは、ヨブの右手に立ちました。彼の力を表す右側です。彼の力を優って事をなすことを表しています。彼らのしたことは、足をもつれさせることです。彼がつまずいて歩けないようしたのです。ヨブの苦難の道を築いたのです。

 なお、「生意気」と訳されていますが、呼ぶの言葉に感情を込めた訳にしていますが、そのような思いがあるというのは推測に過ぎません。

・「生意気な者たち」→動物の子たち。同じ流れを汲む仲間。

・「滅びの」道→苦難の道。

30:13 彼らは私の通り道を打ち壊し、私の滅びを進めている。彼らに助ける者はいらない。

 彼らは、ヨブが歩けないようにしました。彼が受けた災難をさらに増し加えようとしいるのです。彼らに、苦しんでいる者への助けは何もありません。

・「滅び」→災難。

・「助け」→苦しんでいるものへの助け。

30:14 彼らは、広い破れ口から入るように、瓦礫となったところになだれ込む。

 彼らは、広い破れのように来る。嵐の下ですなわち、嵐を伴って転がっていく。

・「瓦礫となったところになだれ込む」→嵐の下ですなわち、嵐を伴って転がっていく。

30:15 突然の恐怖が私に降りかかり、私の威厳を、あの風のように吹き払う。私の平穏は、雨雲のように過ぎ去った。

 恐怖がヨブに降りかかりました。これは、嵐の雨のように恐怖が彼の上でひっくり返させられたことを表しています。(使役語幹、受動態)

 「あの風」は、冠詞のついた風で、嵐と関連づれられています。「その風」です。嵐の風によって、ヨブの威厳は、吹き払われたのです。彼の平穏は、風により早く流れていく雨雲のように過ぎ去りました。

30:16 今、私のたましいは自分に注がれている。苦しみの日々が私をとらえたからだ。

 たましいは、自らを自分の上にひどく注ぎ出した。(強意語幹、再帰)それは、苦しみの日々が続いているからです。

30:17 夜は私から骨をえぐり取り、私をむしばむものは休まない。

 夜は、光のない状態の比喩です。神の御心が分からないことを指しています。彼の苦しみの理由を知ることはできません。そのような中で、彼は、自分が神の御心に適っていると確信していましたが、その彼が従ってきた彼のうちにある教えが抉り取られるように揺らいでいるのです。なお、夜が骨を抉り出すことはありません。また、ヨブの体から骨が抉り出されることはなかったのです。

 苦しみは、休まないのです。

・「骨」→彼の持つ教え。

・「蝕む」→かじる。分詞は、苦しみ。

30:18 神は大きな力で私の衣服に姿を変え、まるで長服の襟のように私に巻き付かれる。

 神は、大きな力で彼にまといつきました。

30:19 神は泥の中に私を投げ込まれ、私はちりや灰のようになった。

 そして、泥の中に投げ込まれました。ヨブは、塵や灰のように価値のないものとされました。

30:20 私があなたに向かって叫んでも、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。

 神様は、ヨブが叫んでも答えられません。また、ヨブに目を留められることはないのです。彼は、神に心を向けて立ったのです。

30:21 あなたは、私にとって残酷な方に変わり、御手の力で、私を攻めたてられます。

 神は、ヨブにとっては、残酷な方なりました。神の力で彼を攻め立てられるからです。

30:22 あなたは私を吹き上げて風に乗せ、すぐれた知性で、私を翻弄されます。

 神は、ヨブを吹き上げて風に乗せます。風は、霊の比喩です。実際に風に乗せたのではなく、神の使いとしての霊的存在により、彼を損なったのです。彼を思いのままに損なったのです。実際は、サタンの働きでした。しかし、ヨブには実体は分かりません。

・「知性」→原文にはない。

30:23 私は知っています。あなたが私を死に帰らせることを。すべての生き物が集まる家に。

 彼は、神が彼を死に帰らせることを知っていると言いました。それは、確かなことではありませんが、彼の状態から推測されることです。

30:24 それでも、瓦礫の中で人は手を伸ばさないだろうか。災難にあって助けを求めて叫ぶときに。

 人がそのようなところに置かれたならば、瓦礫の中でも手を伸ばさないだろうかと言い、ヨブが助けを求めていることを表しています。

30:25 私は不運な人のために、泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい人のために、心を痛めなかっただろうか。

 深刻な状態にある人のために彼は泣いたのです。彼のたましいは、貧しいあるいは、主を求める人のために泣いたのです。

・「不運」→深刻な。厳しい。形容詞。なお、神を信じている者が不運という語を使うことはない。全ては神の手の内にあることであるからです。

30:26 私は善を望んだのに、悪が来た。光を待ったのに、暗闇が来た。

 神の目に適ったことを望んだのに悪いことが来、光を待ったのに神の御心が示されない暗闇が来ました。

・「善」→神の目に適っていること。良いこと。

30:27 私のはらわたは、休みなくかき回され、苦しみの日が私に立ち向かっている。

 彼は、はらわたがかき回される苦しみを味わっていました。はらわたは、内面の全てを表します。それは、霊、たましいなどで、神から御心が示されないので、霊的な部分は、苦しみました。

30:28 私は日にも当たらず、泣き悲しんで歩き回り、集いの中に立って助けを叫び求める。

 日に当たらないことは、神の教えが示されないことを表しています。彼は、泣き悲しみました。神と共に歩む喜びを経験できないのです。集いの中に立って、人々を教えるのでなく、助けを叫び求めました。

30:29 私はジャッカルの兄弟となり、だちょうの仲間となった。

 彼は、ジャッカルやだちょうの仲間となりました。ジャッカルは、巨獣とされています。神の敵対勢力を表します。だちょうは、後に神によって、空を飛べず、知恵のないものとして語られます。ヨブは、そのようなものたちを引き合いに出すことで、自分も神の前には価値のないものとみなされていることを言い表しています。

イザヤ書

34:13 その宮殿には茨が生え、要塞には、いらくさやあざみが生え、ジャッカルの住みか、だちょうの住む所となる。

43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水を、荒れ地に川を流れさせ、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

哀歌

4:3 ジャッカルさえも乳房をふくませて、その子に乳を飲ませる。しかし、娘である私の民は、荒野のだちょうのように無慈悲となった。

ミカ書

1:8 このゆえに、私は嘆き、泣き叫び、裸足で、裸で歩く。私はジャッカルのように嘆き、だちょうのように悲しみ泣く。

→ジャッカルやだちょうは、神に背くものとして喩えられていて、その背きを打たれた者の悲しみで悲しむことを表現しています。ジャッカルやだちょうが嘆き悲しむことはないのです。

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・「ジャッカル」→巨獣。

30:30 私の皮膚は黒ずんで剥げ落ち、骨は熱で焼けている。

 彼の皮膚は、黒ずんで剥げ落ちました。輝きをなくしたのです。神の前に御心に適った者として生きることに対する栄光は与えられませんでした。

 骨は、彼の持つ教えの比喩ですが、その教えは、熱で焼け、骨として機能していませんでした。神の前に正しい教えを持っていたのに、その教えに従って生きていて神からの苦しみを受け続けているからです。それは、あたかも神の火である裁きを受けて、焼けているかのようです。

30:31 私の竪琴は喪のためとなり、私の笛は泣き悲しむ者の声となった。

 竪琴は、讃美のためのものです。しかし、死者のための歌となりました。彼は、神の前に死んだもののようです。彼の笛は、讃美のためではなく、悲しみの声となりました。