ヨブ記28章
28:1 まことに、銀には鉱山があり、金には精錬する場所がある。
友たちがヨブを不当に罪人と見做したことは悪です。前章の後半では、その悪に対しては裁きがあることを示しましたが、この章では、そのような悪から離れ、神から知恵を得るように勧めているのです。友たちは、神に関して、偏った一辺倒の知識しか持ち合わせていませんでした。ヨブに関して総合的に判断することができないのです。また、ヨブの語ることを理解できないし、聞き入れようとしないのです。そして、根拠のないヨブの罪を責めました。彼らには、知恵がありませんでした。悟りがなかったのです。
ヨブは、知恵を得ることの尊さについてはじめに示します。そのことは、十五節から記されています。それは、純金や銀、その他の宝石に比べられない価値があることを示しています。ここでは、そのことを語る前に、それらの宝は、人が追求しているものであることを示します。知恵は、それに勝ることを示して、知恵の尊さを説くためです。
それで、はじめに金や銀には、鉱山があり、精錬する場所があると語り出しました。
28:2 鉄は土から取られ、銅は鉱石を溶かして取る。
鉄は、土から取られます。これは、砂鉄のことです。銅は、鉱石を溶かして取ります。
28:3 人は闇の果てに、その極みにまで行って、暗闇と暗黒にある鉱石を探し出す。
28:4 彼は、人里離れたところで縦坑を掘り進み、行き交う人に忘れられ、人々から離れたところで、ぶら下がって揺れる。
しかし、その鉱山は、人里離れたところにあり、簡単には見つけられないものであることを語ります。人は、それを探して、闇の果てにある鉱石を探し出します。彼は、縦坑を掘り進み、地に潜ります。行き交う人に忘れられます。
28:5 地はそこから食物を産み出すが、その下は火のように沸き返っている。
地は、表面は、食物を生み出すことができます。しかし、その下は、火のように湧きかえっています。様々な鉱物が溶けた状態で存在します。
28:6 その鉱石からサファイアが出る。その場所には金のちりがある。
そして、固まった鉱石からは、サファイアが出ます。また、金のちりと言われる砂金があります。
28:7 その通り道は猛禽も知らず、隼の目もこれを狙ったことがない。
地を掘る者の通り道は、猛禽も知りません。猛禽は、悪魔の比喩です。この鉱石を掘る者は、知恵を見出す者の比喩です。知恵は、彼らの見つけ出す宝石に勝ることが後に語られますが、鉱石を探すことは、知恵を探り求めることの比喩になっていて、宝石でさえ大きな努力を払って得ようとするのであれば、知恵は、もっと優れたものなので、これを獲得することを願うように求めています。
隼も悪魔の比喩です。彼らは、知恵を求めないのです。「目」は信仰の比喩です。彼らが信仰を働かせて知恵を得ようとすることはないのです。
28:8 誇り高き獣たちもこれを踏まず、たける獅子も通ったことがない。
誇り高き獣の子たちは、悪魔の支配にある人の比喩で、自らを高くする者たちのことで、彼らは、知恵を求めようとはしません。
たける獅子は、自らを誇る悪魔の比喩ですが、彼らは、全く求めません。
・「獣たち」→獣の子。
28:9 彼は硬い岩にまで手を加え、山々をその根底からくつがえす。
彼の努力は、すざましいものです。硬い岩にまで手を加えます。山々をその根底から覆すほどです。
28:10 彼は岩に坑道を切り開き、あらゆる宝石を目にする。
岩に坑道を切り開きます。そうして、あらゆる宝石を見つけ出すのです。
これは、御言葉を解き明かし、知恵を見出すことの比喩です。
28:11 彼は水が滴ることもないように川をせき止め、隠されていた物を明るみに出す。
また、水の底にある宝、川の流れの下にある宝を見つけるために、川を堰き止めます。これは、砂金のような宝のことです。その時、水か滴ることがないようにします。水は、御言葉の比喩です。宝を見出すためには、御言葉をもれることなく、受け止めなければなりません。価値のないように見える箇所も、全て受け止めるのです。意外とそのようなところに貴重な宝が隠されています。
川は、聖霊の比喩です。知恵を見出すためには、聖霊に完全に服従する必要があります。流れを堰き止めるように、完全に受け止め、従うのです。御言葉を知識として研究しても、その人自身が御言葉に従うことがなければ、理解できません。宝を見出すことはないのです。
御言葉は、隠れた宝なのです。それを探り求めて知恵を得るのです。
28:12 しかし知恵はどこで見つかるのか。悟りがある場所はどこか。
宝と対比して、今度は、知恵はどこで見つかるのかと問うています。また、「悟り」がある場所を問うています。
・「知恵」→神の計画に対する信仰的洞察。神の御心や計画を信仰によって受け入れ、またそれを用いる分別。その受け入れた知識を語ることも知恵による。
・「悟り」→御心を行うこと。
28:13 人にはその価値が分からない。それは生ける者の地では見つからない。
人には、その価値が分かりません。生ける者の地で、見つけられません。すなわち、人からのものとしてそれは見つけることはできないてのです。
28:14 深淵は言う。「私の中にはそれはない。」海は言う。「私のところにはない。」
深淵にも、海にもありません。深淵は、水の深みです。しかし、光が届かないところであり、御言葉は存在していますが、それを受け入れることがない人たちのことを表しています。海は、神に敵対する勢力を表しています。
28:15 それは純金をもってしても得られない。銀を量ってその代価とすることもできない。
それは、純金を代価としても得ることはできません。銀もそうです。
ここでは、比較の対象が、知恵によってもたらされる価値の比喩になっています。聖書では、このような比喩がしばしば記されています。純金は、神聖です。知恵によって人が神の聖さを身につけることを表してます。銀は、贖われた者としての歩みです。肉にはよらず、聖霊による歩みです。それが、知恵のもたらすものであるのです。
28:16 オフィルの金によっても値踏みできない。高価な縞めのうや、サファイアによっても。
オフィルの金は、最高級の金です。高価な縞めのうと表現されていて、高価であることが表されています。サファイアも比較されています。
オフィルの金は、混じり気がない純金です。完全に神のようになることを表しています。人は、それを不可能と考えますが、内住の聖霊によって実現することです。
縞めのうは、大祭司の肩に担がれました。そこに、十二部族の名が六名ずつ刻まれました。主が支えることを表しています。そのような祝福を受け継ぐのです。
サファイアは、天の青さを表してます。天に属するものとしての栄光を現すようになるのです。
28:17 金も玻璃もこれと並ぶことができず、純金の器とも取り替えられない。
金も玻璃も並ぶことができません。金は、義を表し、玻璃すなわち水晶は、混じり気のない純粋さを表します。天の御座の前の光景について、水晶に似た、ガラスの海と記されています。
また、純金の器と取り替えられません。純金は、神聖さを表してます。
・「玻璃」→水晶のこと。英訳では、「ガラス」とも。
28:18 珊瑚や水晶は言うに及ばず、知恵の価値は真珠にもまさる。
珊瑚は、海で取れる宝石。
水晶は、山で取れる宝石。
真珠は、最も価値ある宝石です。それらに勝ります。主イエス様は、例え話ので、高価な真珠を買うために持ち物の全てを売り払いました。信じる者を価値あるものとされたことを表しています。
マタイ
13:45 天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。
13:46 高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
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28:19 クシュのトパーズもこれと並ぶことができず、純金でもその値踏みをすることはできない。
トパーズは、シメオンの名に関連して、神がその願いを聞かれることを表しています。再び純金が取り上げられていて、主は、その願いを聞き、人を神のようにされるのです。
・「トパーズ」→黄玉。シメオン(聞く)の名が刻まれる。
28:20 では、知恵はどこから来るのか。悟りがある場所はどこか。
もう一度、知恵と悟りの場所を問うています。
28:21 それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にも隠れている。
それは、すべての生き物の目に隠されていて、空の鳥にも隠されています。
28:22 滅びの淵も、死も言う。「そのうわさは、この耳で聞いたことがある。」
滅びの淵は、人の滅びに関して知っています。死もそうです。人がなぜ自分のところに来るのかを知っています。それは、知恵がないからです。ですから、彼らは、知恵が滅びをもたらすという程度のことは知っているのです。しかし、知恵が何であるかについては、明確に知りません。
28:23 神は知恵の道をご存じであり、神こそ、それがある場所を知っておられる。
28:24 それは、神が地の隅々までを見渡し、天の下をことごとく見ておられるからだ。
神は、知恵の道をご存じです。神は、地の隅々まで、天の下のことごとくを見ておられるからです。
28:25 神は風に重さを与え、水を秤で量られた。
28:26 神は雨のために法則を、稲光のために道を決められた。
風は、重さを持ちます。風がない時は感じなくても、風が吹くと力を受けるのです。風は、霊の比喩です。神は、霊で事をなさいます。
水は量られました。雨のための法則があり、降る量も決められます。水や雨は、御言葉の比喩です。神が御言葉を与え、実を実らせるのです。
稲妻は、神の光の比喩です。それは、エジプトに裁きを下す時、火と表現されています。神の評価の火であり、裁きをされる火です。
28:27 そのとき、神は知恵を見て、これを見積もり、これを確かめ、調べ上げられた。
そのように、神が事をなす時、定められたことの一つとして、知恵について見積もり、確かめ、調べ上げました。
28:28 こうして、神は人間に仰せられた。「見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである」と。
そして、知恵を人に教えられました。主を恐れることが知恵です。神の御心を信仰によって受け入れ、それを用いることが知恵ですが、単に知識として知っていることだけでなく、御心を受け入れた結果は、主への恐れとなって現れるのです。
主への恐れは、具体的には、悪から遠ざかることを伴います。実践があるのです。それが悟りです。