ヨブ記22章

22:1 テマン人エリファズが答えた。

22:2 人は神の役に立てるだろうか。賢い人でさえ、ただ自分自身の役に立つだけだ。

 エリファズは、ヨブの語ることを少し聞いて受け止めています。それは、ヨブが正しいと主張したことです。しかし、それが神にとって何か役に立つだろうかと言い、ヨブの主張を深く顧みることはありませんでした。

 賢い人でも、自分自身の役に立つだけであり、神の役に立たないと言いました。しかし、これは、正しくありません。ヨブの正しさの故に神は栄光を受けたのです。

22:3 あなたが正しいからといって、それが全能者の喜びとなるだろうか。あなたの行いが全きものであるからといって、それが神にとって益になるだろうか。

 彼はさらに、ヨブが正しいからといって全能者の喜びとなるだろうかと言いました。ヨブが彼の言う通りに全き者であったとして、それが神の益になるかと言いました。この主張は、正しくないのです。神がサタンにヨブを自慢したのは、主がヨブを喜んでいたからです。彼が神を恐れ敬うならば、神の栄光となるのです。

 エリファズがこのことを言うのは、前章で、ヨブが悪者のことを次のように語ったからです。

ヨブ記

21:7 なぜ悪しき者が生きながらえて年をとっても、なお力を増し加えるのか。

21:8 その子孫は彼らとともにあって、彼らの前に堅く立ち、その末裔は彼らの目の前に堅く立つ。

21:9 彼らの家は平和で恐れもなく、神のむちが彼らの上に下されることもない。

21:10 その雄牛は、はらませて失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで仕損じることがない。

21:11 彼らは幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちは飛び跳ねる。

21:12 彼らはタンバリンや竪琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。

21:13 幸せのうちに寿命を全うし、安らかによみに下る。

21:14 彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。

21:15 全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と。

21:16 見よ、彼らの繁栄はその手の中にはない。悪者のはかりごとは、私とは何の関係もない。

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 悪者は、神に仕えても益がないと言います。それでも、すぐに災いに遭うことがないのです。これを言うのは、悪者が必ずしも、苦しみに遭うということではないし、正しい者が必ずしも、苦しみに遭わないということはないということを言うためです。ヨブ自身に関しては、そのような悪者の謀とは関係ないと言いました。しかし、エリファズは、ヨブが自分を正しい者として主張していることに対して、そのようなことは、神には、益にならないと言ったのです。彼は、明らかに神の前に正しくないことを言っています。これは、エリファズの霊的水準からの判断です。人は、神に喜ばれるほどに清くあり得ないと言う考えに基づいています。彼自身が神に益になっている、あるいは、喜ばれているという経験がないのです。それで、人も同じだと論じているのです。

 同じようなことは、今日でも語られることがあるのです。人には肉があり、清い歩みはできないというものです。罪深い者であって、神に喜ばれる歩みはできず、神の憐れみをいただくしかないというような主張です。御霊によって、律法の要求を満たした歩みができると信じないのです。これは、残念なことです。

22:4 あなたが神を恐れているためか。神があなたを責められるのは。神があなたとともにさばきの座に入って行かれるのは。

 そして、神がヨブを責めるのは、ヨブが神を恐れているためかと言い、神を恐れている者を神が責めるはずがないと暗に言っています。

 神が裁きの座に入っていくという表現は、神が裁きの座でヨブを評価することを言っています。

22:5 いや、それはあなたの悪が大きく、あなたの不義に際限がないからではないか。

 神が責めるのは、ヨブの悪が大きく、不義が極めて大きいからであると結論づけました。

22:6 あなたは理由もなく兄弟から質物を取り、着ている物をはぎ取って裸にし、

22:7 疲れている人に水を飲ませず、飢えている人に食物を拒んだからだ。

 そして、その悪の具体例を挙げています。

まず、質物を取ったことです。これは、それを取ったならば、その人は、着る物もない状態の人です。律法の規定にも記されているように、そのような人には質物を返さなければなりません。しかし、ヨブは、そのような人から質物として着物を取り上げ、裸にしたと。

 また、疲れている人に水を飲ませませなかったと。飢えている人に食物を拒み、与えなかったと。彼は、それができたのにしなかったというのです。

22:8 土地を所有している有力者のように、そこに住む、名のある者のように、

22:9 あなたはやもめを手ぶらで去らせ、みなしごたちの腕を折った。

 そして、多くの有力者がしているように、やもめを手ぶらで去らせたと。みなしごのように力のない者にとって、自らの腕は、自活する上で極めて大事です。それが効かなかったら、生きていけません。しかし、そのみなしごの大事な腕を折ったというのです。

22:10 そのため罠があなたを取り巻き、恐れが突然あなたを脅かすのだ。

 そのような罪のために、神からの罠がヨブを取り巻き、恐れが突然襲い、脅かすのだと。

22:11 あるいは、闇のために見ることもできなくなり、みなぎる水があなたをおおうのだ。

 あるいは、闇のために見ることができなくなると。その闇は、みなぎる水が覆うためです。本来は、水は、人を導く光となるのですが、それは、御言葉を受け入れる人にとってはそうです。しかし、それを拒む者にとって、御言葉は、彼の悪を責めるものとなり、彼にとっては光とはなりません。

22:12 神は天の高きにおられるではないか。星々の頂を見よ。それらはなんと高いことか。

 神は、高いところにおられます。星々の頂の高さを見ても明らかであると。これは、人の世界の全てを見る方として引き合いに出しています。

22:13 あなたは言う。「神に何が分かるだろうか。黒雲の中からさばくことができるだろうか。

22:14 濃い雲が覆いとなって、神は見ることができない。神は天空を歩き回るだけだ」と。

 しかし、ヨブは、それを否定して言うと。神には何もわからないと。黒雲の上から見ることはできないと。

22:15 あなたは昔からの道を守って行くのか。悪人どもが歩んだあの道を。

 それで、ヨブは、昔から悪人どもが選んだ道を歩むのかと。

22:16 彼らは年若くして取り去られ、彼らの土台は流れに押し流された。

 その悪者どもは、若くして取り去られたではないかと。彼らの土台は、流れに押し流されのではなかったかと。

22:17 彼らは神に向かって、「私たちから離れてくれ」と言った。全能者は彼らに何をなさるだろうか。

 悪者は、神に向かって自分たちから離れてくれと言った。全能者は何をなさるだろうかと言い、全能者が報いることを警告しています。

22:18 しかし神は、彼らの家を良き物で満たされた。だが、悪者のはかりごとは私と何の関係もない。

 意外なことに、エリファズは、今までの悪者が災いを受けるという一辺倒の主張を変え、「神はそのような悪者の家を良いもので満たされた。」と言いました。これは、先ほどのヨブの言葉の逆を言っています。そして、ヨブが付け加えたように、悪者の謀は自分とは何の関係もないと言いました。このように、言うことで、悪者が神を拒んでも繁栄することを示し、ヨブの指摘のようなことは、分かっていると示そうとしています。

ヨブ記

21:14 彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。

21:15 全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と。

21:16 見よ、彼らの繁栄はその手の中にはない。悪者のはかりごとは、私とは何の関係もない。

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22:19 正しい者は見て喜び、潔白な者は彼らを嘲って言う。

22:20 「まことに、私たちに向かい立った者は滅ぼされ、悪人どもが残した物は火が焼き尽くした」と。

 そして、正しい者は、その悪者の結末を見て喜びます。悪者は、滅ぼされたと。彼らが残した物は、火が焼き尽くしたと。」

 エリファズは、悪者も繁栄するがそれは、一時的であると言っています。

22:21 さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ。そうすれば幸いがあなたのところに来るだろう。

 それで、エリファズは、ヨブに勧めました。神に関して自分を知れと。神の前に全くなれと。それによって、神の目に適うのです。

 前半は、神の目に適うにはどうすべきかが語られています。しかし、この訳では、和らぎと平安を得ることが条件となっていて、整合していません。これらは、結果を表しているからです。

・「和らぎ」→自分を知る。

・「平和を得る」→完全になる。

・「幸い」→良いもの。神の目に適っていること。

22:22 神の口からみおしえを受け、そのみことばを心にとどめよ。

 それで、具体的にどのようにすべきかも勧めています。まず、神の教えを受け入れることです。その御言葉を心に留めるのです。

22:23 もし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る。自分の天幕から不正を遠ざけるなら。

 もし、全能者に立ち返るならば、建てられる。自分の天幕から不正を遠ざけさせるなら。彼自身だけでなく、天幕の家族から不正を遠ざけさせるのです。

・「立ち直る」→建てられる。建てるの受動態。

・「遠ざける」→遠ざけさせる。使役語幹。

22:24 あなたは黄金を土のちりの上に置け。オフィルの金を川の小石の間に。

 黄金を土の上に、また、オフィルの金を川の小石の間に置くことは、この世の宝を捨てることを意味します。オフィルの金は、特に高価な金です。

22:25 そうすれば全能者はあなたの黄金となり、あなたにとっての尊い銀となる。

 そうするならば、全能者がその人の宝となります。それと共に、黄金は、義を表しています。神によって義とされることの比喩です。また、捨てるものとして触れられていなかった銀が取り上げられています。尊い銀と表現されていますが、これは、全能者が贖われた者としての歩みを実現してくださることの比喩です。肉にはよらず御霊による歩みです。

22:26 そのとき必ず、あなたは全能者を自分の喜びとし、神に向かって顔を上げることができる。

 そうすることで、必ず、全能者を自分の喜びとすることができます。悪ではなく、また、この世のものでもなく、主御自身を喜びとすることができるのです。

 そして、神の裁きを恐れる者としてではなく、神に向かって顔を上げることができます。

22:27 あなたが神に祈ると、神はあなたに聞き、あなたは自分の誓願を果たすことができる。

 そして、神にその祈りは聞かれ、自分の誓願を果たすことができるようにしてくださいます。それを実現することは、神によることです。

22:28 あなたが事を決めると、それは成り、あなたの道の上には光が輝く。

 事を決めると、それがなることも、神が実現させてくださるからです。その道の上には、神の栄光としての光が輝きます。これは、導く光というよりも、その道が光り輝いていることを表しています。すなわち、彼が歩む道には、神が栄光を現してくださって輝くのです。

22:29 彼らが気落ちすれば、あなたは「勇気を出せ」と言う。こうして、へりくだっている者は救われる。

 彼らが低くされた時、誇れと言われます。人の前に低くされても、神の前に価値あることであるからです。誇ることができるのです。

 このように、謙っている者は、救われます。

・「気落ちする」→低くされる。

・「勇気を出せ」→誇る。

22:30 潔白でない者さえ助け出され、あなたの手のきよさによって逃れる。

 潔白でない者であっても、神は、絶対逃れさせ、あなたの手の清さによって、当然、逃すようにされる。すなわち、逃すことになる。

・「助け出され」→逃れさせ。強意語幹。

・「逃れる」→逃れさせ。受動態。逃れるようにさせられるのは、主。手の清さがあるなら当然逃すことになる。