ヨブ記21章

21:1 ヨブは答えた。

21:2 私の言い分をよく聞いてくれ。それを、あなたがたから私への慰めにしてくれ。

 ヨブの友たちは、ヨブの言うことに耳を傾けませんでした。ヨブの語ることを理解できないのです。彼らは、ヨブの苦難は彼が罪を犯した結果であるという考えから離れることができませんでした。

 それで、ヨブは、自分の言い分をよく聞いてくれるように願いました。それを聞いてくれることでヨブには慰めになるのだと。彼らが理解しないで同じことを繰り返すことは、ヨブを苦しめることでした。きちんと話を聞いてくれるだけで慰めになります。

21:3 まず、この私が話すのを許してくれ。私が話し終わってから、あなたは嘲るがよい。

 それで、自分が話すのを許してくれと願いました。まず、語らせて欲しいと申し出たのです。ヨブがぶちまけた(話すの強意語幹)後で、ぶちまけてくれ(話すの強意語幹)と。

21:4 この私の不平は人に向かってであろうか。なぜ、私が苛立ってはならないのか。

 彼は、人に向かって不平を言っているわけではありませんでした。彼は、友たちがいうような罪を犯してはいませんでしたが、苦しみを与えられました。彼は、自分の罪が責められていると考えました。神は、どのような罪も責めることができるし、それをする主権があるからです。それで、神と共に歩む命を苦しみの中で経験できないのです。彼は、責められるような罪を犯していませんでしたが、なぜ神がそのようにされるか理由を知りたかったのです。それで、苛立っていました。

21:5 私の方を向いてくれ。驚き恐れよ。そして手を口に当てよ。

 彼は、自分の方を向いてくれと言いましたが、彼らがヨブの話に耳を傾けるように促しました。そして、これから語ることは、驚き恐るべ事柄です。そして、彼らにも予想しなかったことです。手を口に当てるのは、驚いて何も言えない状態です。

21:6 私はそのことを思い出すとおびえ、戦慄でからだが震える。

 ヨブにとってもそれは、怯えるようなことであり、戦慄で体が震えます。

21:7 なぜ悪しき者が生きながらえて年をとっても、なお力を増し加えるのか。

 それは、悪き者が生きながえて歳を取っても力を増し加えていることです。悪しき者が神の裁きをすぐに受けるとは限らないのです。それは、恐るべきことです。

 これを言うのは、ヨブの友たちが悪しき者は、必ず裁かれると主張したからです。そして、苦難を受けているのは神の裁きによるのであり、裁かれるべき罪があると結論づけているからです。

21:8 その子孫は彼らとともにあって、彼らの前に堅く立ち、その末裔は彼らの目の前に堅く立つ。

 そして、彼らが取り上げた罪を犯した人の子も、裁かれるということに対して、その子孫は、悪しき者の前に堅く立つことを示しているのです。

21:9 彼らの家は平和で恐れもなく、神のむちが彼らの上に下されることもない。

 彼らの家は、繁栄し、神の裁きとしての鞭が下されることもありません。

・「平和」→繁栄。以下の節は、その説明ですが、平和について記されてはいません。

21:10 その雄牛は、はらませて失敗することがなく、その雌牛は、子を産んで仕損じることがない。

 雄牛は、孕ませて失敗しません。雌牛は、子を産んでし損じることがありません。これは、繁栄の説明です。平和の説明ではありません。

21:11 彼らは幼子たちを羊の群れのように自由にさせ、彼らの子どもたちは飛び跳ねる。

21:12 彼らはタンバリンや竪琴に合わせて歌い、笛の音で楽しむ。

 その幼子たちは、何にも束縛されません。子供たちは、飛び跳ね、歌を歌い、笛の音を楽しみます。豊かさの中にそのようなことができるのです。

21:13 幸せのうちに寿命を全うし、安らかによみに下る。

 良いことのうちに日を過ごし、一瞬でよみに下ります。すなわち、苦しむような日がないということです。

・「安らか」→瞬間。

21:14 彼らは神に向かって言う。「私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない。

21:15 全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。どんな益があるのか。私たちが彼に祈り願ったところで」と。

 彼らは、神に逆らいます。彼らは、主の道を知りたくないと言います。主が彼らに道を示そうとする働きを拒むのです。

 さらに、全能者の権威を否定します。その方に仕えることをしたくないのです。それをして、何の益があるかと言います。与えられる祝福に目を留めることはありません。その方に祈り願ったとしても、益はないと。

21:16 見よ、彼らの繁栄はその手の中にはない。悪者のはかりごとは、私とは何の関係もない。

 彼らは、自分の繁栄を手にすることはありません。悪者の謀は、ヨブ自身とは、何の関係もないことを言い表しました。友たちが主張しているように、悪者が祝福を受けないということは、そのとおりであると認めましたが、しかし、その悪者の謀は、自分には一切ないことも示しました。

21:17 幾たび、悪者どものともしびが消え、破局が彼らの上に臨み、神が怒って彼らに滅びを分け与えられることか。

 今まで、神は、悪者どもへの裁きを控えはおられませんでした。彼らの灯火は消え、破局が彼らの上に望み、彼らは、滅びたのです。

21:18 彼らは風の前の藁のようではないか。つむじ風が吹き散らす籾殻のようではないか。

 彼らは、風の前の藁のように、また、籾殻のように吹き散らされます。彼は、神の前に実のない者であり、風は神の霊の比喩です。

21:19 神がそのような者の子らのために、わざわいを秘めておられるというのか。その人自身が報いを受けて、思い知らなければならないのだ。

 その悪者の子について、神が災いを下そうとしているというのかと問うています。これは、友たちが、悪者の罪のために、その子や子孫が災いを被ると指摘したことに対する反論です。

 悪者自身が報いを受けるのであり、子に裁きが下されることはありません。

21:20 その人自身の目が自分の滅びを見、自分が全能者の憤りを呑まなければならない。

21:21 自分の日数が限られているのに、なぜ自分の後の家のことを気にかけるのか。

 悪者自身が全能者である神の憤りを受け、滅びるのです。そのような者の日数が限られています。自分の子の一生さえ見ることはできないかもれないのに、なぜそれを気にかけるのかと。

21:22 人が神に知識を教えようとするのか。神は、高ぶる者たちにさばきを下されるのだ。

 友たちの主張は、正しいものです。しかし、ヨブに対して当てはまらないものでした。それは、彼らの知識が狭過ぎたからです。それなのに、彼らはヨブを教えようと語りました。そして、ヨブが語ることを理解できませんでした。また、一つでも受け入れることはありませんでした。そのような偏った知識を語ることを指して、人が神に教えようとするのかと問うています。彼らが語ったのは、人に対してですが、その知識は、間違いのないものとして語られたのです。それは、神に教えるに等しいことです。

 高ぶりは、本質的には神の言葉に対する高ぶりです。彼らが不十分な知識にも関わらず、これが全てであるかのように語ることは高ぶりです。そのような高ぶりに対して裁きが下されることを警告しました。

21:23 ある者は元気盛りの時に死ぬ。全く安らかに、平穏のうちに。

 そして、ヨブは、人の生死について語りました。それは、彼らが主張するような単純なものではないということです。善悪によって、人の死に方が決められるわけではないのです。ある者は、元気の盛りに死にます。しかも、安らかであり、平穏のうちに死ぬのです。

ヨブ記

18:12 彼の精力は飢えて衰え、わざわいが彼をつまずかせようとする。

18:13 わざわいは彼の皮膚を食らおうとし、死の初子がからだを食らおうとする。

18:14 彼は、拠り頼んでいる天幕から引き抜かれ、恐怖の王のもとへと引き立てられる。

18:15 彼の天幕には、身内でない者が住み、硫黄がその住まいの上にまき散らされる。

18:16 下では彼の根が枯れ、上では枝がしおれる。

18:17 彼の記憶は地から消え失せ、地の面では無名となる。

18:18 彼は光から闇に追いやられ、世から追い出される。

18:19 彼の民の中には子孫も末裔もいなくなり、その住みかには一人の生存者もいなくなる。

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21:24 そのからだは脂ぎって、骨の髄まで潤っている。

 彼の器は、乳に満ちています。乳は、豊かな祝福に満ちていることを表しています。カナンの地は、「乳と蜜の流れる地」と表現されています。

 また、彼の骨の髄まで潤っています。

・「そのからだは脂ぎって」→彼の器は、乳に満ちています。

21:25 しかし、ある者は苦悩のうちに死ぬ。幸せを味わうこともなく。

 しかし、ある者は、苦悩のうちに死にます。幸せを味わうことなく死ぬのです。

21:26 両者はともに土のちりに伏し、うじ虫が彼らをおおう。

 両者は、共にちりに伏します。ちりは、空しいことを表しています。死体は、ウジ虫に覆われます。よみに下ることも意味しています。

 その人の善悪が、その死を決定しないのだということです。

21:27 確かに私は、あなたがたの計画を知っている。私を不当に扱おうとする企みを。

 ヨブは、共たちがしようとしていることは、自分を不当に扱おうとする企であると言いました。

21:28 あなたがたは言う。「高貴な人の家はどこにあるか。悪しき者たちが住んだ天幕はどこにあるか」と。

 彼らは、悪しき者たちの家、また天幕が神によって取り去れられたと言いました。

ヨブ記

8:22 あなたを憎む者は恥を身にまとい、悪しき者の天幕はなくなる。

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21:29 あなたがたは道行く人たちに尋ねなかったのか。彼らの証しをよく調べたことはないのか。

 彼らの主張は、正しいものです。しかし、必ずそうなるとは限らないことであるのです。彼がこのように問うたのは、彼らの主張に当てはまらな出来事もあることを言うためです。同様に、ヨブに関しても、彼らの主張には、当てはまらなことが語られていることを指摘するためです。

21:30 悪人がわざわいの日を免れ、激しい怒りの日から連れ出されるというのか。

 必ずしも、悪者の天幕は、なくならないのです。もし、悪者の天幕が残っているとすれば、神の裁きがもたらされる災いの日を免れることがてきるというのかと。

21:31 だれが面と向かって、彼の行くべき道を告げることができるのか。彼がしたことに対して、だれが報いることができるのか。

 誰が彼に、彼の行くべき道を告げることができるのかと。彼が神の裁きを受け、災いを被るのかどうか告げることができるのかと。人は、彼のしたことを的確に判断し、その報いを与えることができるのかと。

 この世の事象だけを見て、その人が悪人であるかどうかを決めつけることはできないのです。

21:32 彼は墓場に運ばれ、その塚の上には見張りが立てられる。

 悪者の墓場には、見張まで立てられます。葬られても丁重に扱われるのです。

21:33 谷の土くれは彼には快く、すべての人間が彼の後について行き、彼の先には数えきれない人がいる。

 墓の中では、彼には土塊が快いように見えます。ただし、これは死人ですから、そのように感じることはありません。ただ、丁重に葬られていることで、土に入っても、幸せであるかのように感じさせるのです。

 それで、この世のことしか考えない多くの人が、彼のようにしようとすのです。

21:34 それなのに、どうしてあなたがたは空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は、不信実以外の何でもない。

 このように言うことで、友たちの言葉は、ヨブには当てはまらず、偏った見方をしていることを指摘しているのです。悪者が災いを被ることはあるかもしれません。しかし、必ずそうなるとは限らないのです。それなのに、彼らの論法は、災いを被ったのは、ヨブのなした悪のせいだと決めつけています。誤りがあるのです。

 前提から導かれる結論が必然であっても、その逆が真であるとは限りません。まして、その結論が必然でない場合、すなわち、前提から必ずその結論に至ると言うことがないとき、その前提が成り立つとすることは決して言えません。

 それで、彼らの答えは、不誠実以外の何者でもないと言ったのです。