ヨブ記20章

20:1 ナアマ人ツォファルは答えた。

20:2 こうだから、苛立つ思いが私に応答させるのだ。私の心の焦りのゆえに。

20:3 私は自分への侮辱となる訓戒を聞く。だから、悟りを与える霊が私に答えを促すのだ。

 ヨブは、前章で以下の引用のように語りました。友たちがそのように言っているということを語ったのではなく、彼らのしていることは、動機はヨブのことを考えて、彼の回復を願って語ったのかもしれませんが、その内容は、ヨブを追い詰めることを目的としたような言葉であったのです。それは、ヨブが被った災いの原因をヨブの罪のためであると判断したからです。ツォファルの語る内容は、正しいものであり、高度な内容、また比喩で構成されていますが、災いの原因の認識に誤りがあるため、役に立たない勧めの言葉となっています。

ヨブ記

19:28 あなたがたが、「彼をどのように追いつめようか。事の原因は彼にあるのだから」と言うなら、

19:29 あなたがたは剣を恐れよ。憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。こうして、あなたがたはさばきがあることを知るようになる。

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20:4 あなたは確かに知っているはずだ。昔から、人が地の上に置かれてから、

20:5 悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間だ。

 彼は、これから語ることをヨブが知っているはずだと言い、自分の語ることを受け入れるように促しました。

 人類の初めから、悪き者の喜びが短いこと、神を敬わない者の楽しみが短いことです。

20:6 たとえ、その者の高ぶりが天にまで上り、その頭が濃い雲にまで達しても、

20:7 彼は自分の糞のようにすっかり滅び去る。かつて彼を見た者は「彼はどこにいるか」と言う。

 高ぶりは、神の言葉に対する高ぶりであり、自分の考えを神の言葉に優先させることです。それで、その高ぶりについて、天に上り、雲に達すると表現されています。神の前に自分を高くすることです。しかし、結果は、糞のように価値なく、滅びるのです。彼の存在は、全く消されます。

20:8 彼は夢のように飛び去り、だれにも見つからない。彼は夜の幻のように追い払われる。

20:9 彼を見慣れていた目は、再び彼を見ることがなく、彼の家も、もはや彼を見ない。

 彼の存在は、全くなくなるのです。その行いも功績も、覚えられることはありません。夢のように飛び去り、幻のように追い払われます。誰も見つけることができないのです。

 身近に彼を見ていた人たちも、彼を見ることはありません。

20:10 彼の子らは貧しい人たちにあわれみを乞い、彼は自分の手で、自分の富を元に戻す。

  彼の子たちは、主にのみ頼る人たちにあわれみを乞います。この貧しいと訳されている語は、彼の高ぶりと対比されています。

 彼は、他者から得た富を自分の手でまた元に戻します。

・「貧しい」→ぶら下がる者。主にのみ頼る者。

20:11 彼の骨は若さに満ちていても、彼とともに土のちりの上に横たわることになる。

 彼の骨は、彼の持つ教えすなわち彼の行動を決定する判断基準としての良心のことです。彼は、その彼の持つ教えに従って行動してきました。それは、若さに満ち、力強かったのです。しかし、それは、彼とともに全く価値のないものとなりました。ちりは、価値のないことを表しています。その上に横たわることは、彼自身と彼の教えが価値のないものとなったことを表しています。

20:12 たとえ悪が口に甘く、彼がそれを舌の裏に隠していても、

 その悪は、彼の口に甘いのです。彼は、それを表立って語ることをしませんが、彼は、それを喜びとしています。舌は、語ることの比喩です。舌の裏に隠していたことは、それを語ることはしなかったことを表しています。

20:13 あるいはそれを惜しんで捨てようとせず、口の奥にとどめていても、

 彼は、それを惜しんで捨てようとはしません。口の奥に留めています。

20:14 彼が食べた物は腹の中で変わり、彼の内側でコブラの毒となる。

 彼は、その悪を食べ物とし食べます。しかし、それは彼の内で内住の罪として働くのです。それは、蛇の毒に例えられていますが、蛇は、悪魔の比喩です。彼が、悪を喜んでいるので、そこに悪魔は働き、神の言葉に逆らい、あるいは背き、肉を満足させるように働くのです。内住の罪は、強く働き、彼に罪を犯させるのです。

・「毒」→胆。苦味。内住の罪の比喩。

20:15 富を呑み込んでも、彼はまたそれを吐き出す。神がそれを彼の腹から出される。

 富を飲み込んだとしても、それは、彼の命にはなりません。神が彼の腹から吐き出させます。これは、神の裁き、あるいは懲らしめです。

20:16 彼はコブラの毒を吸い、まむしの舌が彼を殺す。

 ここの「毒」は、単に毒です。十四節のコブラの毒とは、異なる原語です。これは、悪魔からもたらされる彼を害する毒のことで、節の後半に記されている「舌」すなわち言葉のことです。彼は、肉の欲を喜びとしていますが、それは悪魔の格好の餌食です。コブラの毒は、悪魔からの攻撃です。彼を神から離し、命を奪うのです。神の前に生きた歩みをすることから離れさせるのです。それは、人を殺す毒です。

 そして、まむしの舌は、悪魔の言葉のことです。悪を喜びとすることをよしとする悪魔の囁きです。それを受け入れることで彼は死ぬのです。

・「毒」→毒。

20:17 彼は豊かな水の流れを見ることがない。蜜と凝乳の流れる川を。

 彼に命がないことをここで表現しています。それは、豊かな水の流れと表現されています。水は、御言葉の比喩、流れは、聖霊の比喩です。聖霊が御言葉によって豊かに働かれるところに永遠の命があるのです。聖霊よって御心を行うことで、その歩みにおいて命を経験できるし、永遠の報いとしての命を獲得するのです。

 また、それは、蜜と凝乳の川とも表現されています。蜜は、喜びの比喩、凝乳は、養い育てる乳の比喩です。それは、川が比喩として表す聖霊よってもたらされるのです。

20:18 労苦して得たものも、呑み込まずに返し、商いで得た富も楽しめない。

 労苦して得たものは、彼の結んだ実です。しかし、それは、彼の命にはなりません。

 また、商いで得た富は、イエス様のタラントの例えのように彼の割り当てられた能力によって結んだ実や、ミナの例えのように、いかに御子と同じもの変えられたかという実を表しています。十ミナ稼いだ者だけがすなわち到達点に達した者だけが、「よくやった。良いしもべだ。」と評価されています。それは、御子と同じものに変えられる到達点に達したことを表しています。しかし、彼は、そのように評価されて与えられる報いがないのです。

20:19 彼が弱い者を踏みにじって見捨て、自分で建てたのではない家を奪い取ったからだ。

 ここからは、彼が成した悪が具体的に取り上げられています。彼は、弱い者を踏み躙って見捨てたと。このことは、ヨブには、当たりません。彼はむしろ弱い者を助けたのです。

 また、彼は、自分で建てたのでない家を奪い取ったと。ヨブは、貧しい者を援助しました。

20:20 彼の腹は満足することを知らないので、欲しがっている物を、何一つ逃さない。

 彼は、貪欲で、欲しがっているものを何一つ逃さないと。ヨブは、分け与えました。

20:21 彼が食べるためのものは何も残っていない。それゆえ、彼の繁栄は長くは続かない。

 しかし、彼の食べるものは、尽きてしまいます。彼の繁栄が長く続くことはありせん。

20:22 彼は、豊かさが満ちるときに苦境に立たされ、労苦する者の手がことごとく彼に押し寄せる。

 彼が豊かさに満ちる時、労働者が押し寄せ、彼は、苦境に立ちます。実際的に富が脅かされ、あるいは失うのです。

・「労苦する者」→労働者。

20:23 彼が腹を満たそうとすると、神は燃える怒りを彼に送り、憤りを彼の上に降らせる。

 彼は、悪によって得たもので腹を満たそうとしますが、神が燃える怒りを降らせます。

20:24 彼が鉄の武器を逃れても、青銅の弓が彼を射抜く。

 鉄は、強い力を表しています。彼がその力を逃れたとしても、主は、青銅の矢で射抜きます。青銅は、聖さの比喩です。彼の悪による誤りに対して裁きをするのが矢です。彼が御心を行うことしなかったことに対して、聖さを表す青銅の矢が打ち込まれるのです。ちなみに、教えの誤りに対しては、剣が用いられます。

20:25 矢が貫いて背中から出、きらめく矢じりが貫いて肝から出る。恐怖が彼の上に臨む。

 その矢は、胆を射抜きます。胆は、内住の罪の比喩です。彼をそのような悪に至らしめた元は、内住の罪です。悪魔は、そこに働きかけるのです。

 彼の恐怖は、内住の罪に従い、彼の肉を満たしたことを神が裁かれたことを見て、恐怖を覚えるのです。彼は、それを良いとして高ぶっていました。しかし、それが裁かれた時、恐怖を覚えるのです。

・「肝」→苦いもの。胆汁。内住の罪の比喩。肝は、肝臓のことで該当しない。

20:26 すべての闇が彼の宝として隠され、吹き起こしたのではない火が彼をなめ尽くし、彼の天幕に生き残っている者も痛手を被る。

 彼は、光としての真理すなわち神の御心を行うことから離れたので、彼のためには、闇が宝のように備えられるのです。私たちが、神の御心を喜びとしていないならば、私たちは、その御心を知ることさえできないようになります。

 吹き起こしたのでない火は、神の評価の火です。それが彼を舐め尽くすことは、神が評価して何も残らないことを表しています。

 彼の天幕に生き残っている者は、彼ほどの悪を行わない、いわば神の前に生きている人たちです。しかし、そのような悪の近くにいる者たちも、その悪の影響を受けていて、神に評価されて痛手を受けることになります。そのような悪からは、完全に分離することが必要です。

20:27 天は彼の咎をあらわにし、地は彼に逆らって立つ。

 彼への評価は、天によって、地によって明らかにされます。

20:28 彼の家の作物はさらわれ、御怒りの日に消え失せる。

 彼の作物は、さらわれるのです。これは、天や地、すなわち天候や、災害などで作物が取れないことを表しています。これは、彼がもう実を結ぶことが無いようにされるのです。これは、怖いことです。

 さらに、御怒りの日は、神の前に出て、裁きを受ける時です。最終的には、その時に全てがが評価され、裁かれます。その時、彼は、消え失せます。神を信じていたとしても、評価されるべき実を何も残さないのです。

20:29 これが悪しき人間が神から受ける分、神によって定められた、彼の受け継ぐものである。

 これが悪き人間が受ける分です。神によってそのような者と定められたのです。彼は、それを受け継ぐのです。信仰によって高みを目指して歩むならば幸いです。しかし、このように悪を求める者は、また、神のよってそのようなところにとどまるように定められていたのです。このことは、恐るべきことです。自分がどのような者に定められているかということを考えるときに、現状にとどまるべきでは無いと覚えされせられます。