ヨブ記19章

19:1 ヨブは答えた。

19:2 いつまで、あなたがたは私のたましいを悩ませ、ことばで私を砕くのか。

19:3 もう十度もあなたがたは私を辱め、私をいじめて恥じることもない。

 友たちのしていたことは、ヨブを悩ませ、彼を砕くものでした。ヨブを罪人とすることは、彼を辱めることです。まるでいじめです。彼らは、そのようなことをしていて恥じることもないのです。真剣に言葉を語っているのです。

19:4 私が本当に過ちに陥っていたとしても、私の過ちは私のうちにとどまるだけだ。

 彼が迷い出たとすれば、その誤りは、自分と共に留まるだろう。故意に犯した罪でない場合、それが明確に罪であるとされなければ、罪を犯したとされません。彼が気付かずにそのような状態になっていても、その罪は、彼のうちに留まるだけです。裁きの対象とはなりません。

 このように言うのは、彼は、そのような可能性が全くないとは言わないが、迷い出たとして、神がこのような災いをもたらす裁きに、その責任を負う覚悟はできていることを表明しているのです。彼は、言い逃れをしようとしているのではないことを明確にしているのです。それは、彼の語ることは、真剣であり、本当のことであることを強調しているのです。それは、友たちが彼の言葉を全く信用していないからです。彼らは、ヨブが罪を犯したのでこのようなことになったと言っています。しかし、そのような裁かれるべき罪はないことを証ししているのです。

 彼らの言葉は、彼らの霊的水準の低さから来る判断がそうさせているのです。ヨブのような経験も、知識もないのです。それなのに、ヨブの言葉を信用せず、自分たちの水準の低い判断でヨブを責めているからです。また、ヨブの言葉を聞く耳を持たないのです。少しでも、彼らの主張に誤りがあるのではないかと省みることもないのです。

・「過ちに陥って」→迷い出る。

・「過ち」→間違い。

19:5 もし、本当にあなたがたが私に向かって高ぶり、私が受けた恥辱のことで、私を責めるつもりなら、

19:6 今知れ。神が私を不当に扱い、ご自分の網で私を取り囲まれたことを。

 友たちの態度は、ヨブに対して高ぶっていました。それは、ヨブの言葉を信用せず、自分たちの主張こそ正しいとしていたからです。そして、正しい者の立場に立ってヨブを責めていました。しかし、ヨブは、それをここで正しています。

 今知れと。彼らは、何も分かっていないのだと。このような苦しみを受けているのは、神がヨブを不当に扱ったからだと言いました。彼が、神のなしていることが不当な扱いだ言ったのは、自分が罪を犯していないのに、大きな苦しみを与え続けていることを言っています。もちろん、ヨブは、神には、どのような小さな罪をも責める権利があり、そのために彼を苦しめたとしても、それは、神の主権によることで、ヨブが何かを申し上げる権利はないのです。そのことは承知していましたが、ヨブ自身が知り得ない小さな罪や、内面の罪を神は責めておられるのであり、そのためにこのような大きな苦しみを与えるのは、神にふさわしくないとも言いました。

 友たちの基準にそってヨブに対する神の取り扱いを語るならば、神が不当に扱っているのです。

19:7 見よ。私が「暴虐だ」と叫んでも、答えはなく、叫び求めても、さばきは行われない。

 ヨブは、暴虐だと叫んだとしても、答えはありません。神様の取り扱いが不当なので、暴虐と叫んだとしても、答えがないのです。神様の裁きは行われず、苦しみが続いています。

19:8 神は私の道をふさいで通らせず、私の通り道に闇を置かれた。

 「私の道」は、神と共に歩む道です。彼は、それを命としていました。しかし、神が罪を責め続けているならば、その道を歩むことができません。通り道は、闇です。光がないのです。神の御心に適って歩むならば、真理としての光があります。その御心を行なって生きることができます。しかし、それができないのです。彼が、神にとって、どのような状態にあるのかが分からないからです。ただ、罪を責めていると考えるしかありません。理由が示されないのですから。そこには、光はありません。御心が分からないのです。

19:9 神は私から栄光をはぎ取り、頭から冠を取り去られた。

 神は、ヨブから栄光を剥ぎ取りました。神の御心のうちを歩むことで、彼は、栄光を受けます。しかし、その御心をが示されず、罪を責め続けられているならば、栄光はありません。

19:10 神は四方から私を打ち倒し、私は消え去る。神は私の望みを木のように根こそぎにされる。

 神は、あらゆる方面から彼を打ち倒しています。神が罪を責め続けられているならば、彼には命はないのです。消え去るのです。彼の望みは、根こそぎにされました。彼の望みは、神の御心のうちを神と共に歩むことです。命を経験することです。しかし、今それは断たれています。

19:11 神は私に向かって怒りを燃やし、私をご自分の敵のように見なされる。

 彼は、神が怒りをもって彼に向かっていると考えています。彼の罪を責めるために、怒りを燃やしているのだと。敵と見做しているのだと。

19:12 その軍勢は一つとなって進んで来て、私に向かって傾斜路を築き上げ、私の天幕の周りに陣を敷く。

 神の軍勢は、城を囲む軍隊のようです。彼の天幕の周りに、陣を敷いています。傾斜路は、城壁を乗り越えるための道です。そして、彼に攻めかかっているのです。彼の防備は、破られました。

19:13 神は私の兄弟たちを私から遠ざけ、知人たちはすっかり私から離れて行った。

 彼からは、兄弟も、知人も遠ざかり、離れました。

19:14 親族は見放し、親しい友も私を忘れた。

 親族は、彼を見放しました。親しい友も、彼のことを忘れたのです。

19:15 私の家に身を寄せる者や召使いの女たちも、私をよそ者のように見なし、私は彼らの目に他人となった。

 彼の家に身を寄せる者や、召使の女たちは、彼を敬っていたはずなのに、彼をよそ者のように見做しました。彼は、他人のように見られていました。

19:16 私がしもべを呼んでも、彼は返事もしない。私は自分の口で彼に懇願しなければならない。

 しもべさえも、彼を無視しました。呼んでも返事もしないのです。しもべに懇願しなければ、言うことを聞かないのです。

19:17 私の息は妻にいやがられ、身内の者たちに嫌われる。

 彼の息は、妻に嫌がられました。彼のことを気遣うことがないのです。身内の者たちもそうです。

19:18 若輩までが私を蔑み、私が立ち上がると、私に言い逆らう。

 若い者たちが、彼のことを蔑みます。敬意を払うことがないのです。それどころか、ヨブが立ち上がると、言い逆らうのです。

19:19 親しい仲間はみな私を忌み嫌い、私が愛した人たちも私に背を向けた。

 親しい仲間は、ヨブを忌み嫌いました。ヨブが愛した人たちか背を向けたのです。彼の心の苦しみは、非常に大きいものです。

19:20 私は、骨が皮と肉にくっつき、かろうじて生き延びている。

→「私の皮の中で、私の肉の中で、私の骨は、結び付き、私の歯の皮の中で、自らを逃れさせた(脅威語幹、再帰)のだ。」

 骨は。彼の持つ教えの比喩です。旧約聖書では、「思慮」と訳される言葉です。それは、新約聖書に記されている「良心」のことで、彼の行動を最終的に決定する判断基準のことです。彼のうちにある判断基準としての教えは、ぶれていませんでした。結びついていたのです。

 なお、これは、骨が皮と肉にくっついているという物理的状況の説明ではありません。文の構成からも、そのように解することはできません。

 歯は、咀嚼能力の比喩です。御言葉をよく受け入れる能力です。彼は、神の言葉を咀嚼し、受け入れることで、彼の皮や肉がひどい痛みを覚える中で、自らを逃れさせました。神の教えに堅く立ったのです。

 骨も、歯も、皮に覆われています。骨は、さらに肉によって覆われています。歯の皮は、口の周りの皮膚のことです。骨や歯は、外からは見えません。しかし、彼の内では、機能していました。

19:21 あなたがた、私の友よ。あわれんでくれ。私をあわれんでくれ。神の御手が私を打ったからだ。

 ヨブは、自分は神の言葉に立っていることを強調し、友たちが責めているようなことは何もないことを言った上で、自分のことを憐んでくれと願いました。

 このように、彼は、肉体の苦痛だけでなく、親しい者たちが離れ、また、彼のことを気遣い、あるいは敬うはずの人たちから蔑まれるのです。いわば、心の苦痛を味わいました。そのような状況に置かれた者を憐んでくれと友に請いました。神の前には、そのような扱いを受ける理由は何もないのに、神が打たれたからです。そのことを理解して、憐んでくれと願っているのです。

19:22 なぜ、神のように私を追いつめるのか。なぜ、私の肉で満足しないのか。

 友たちのしていることは、神のようにヨブを追い詰めるに等しいことです。もし、彼らがヨブを追い詰めようとしているならば、もう肉体の苦しみで十分ではないかと。その上、心の苦しみを味わせようとしているからです。

19:23 ああ今、できることなら、私のことばが書かれ、書物に記されればよいのに。

19:24 鉄の筆と鉛によって、いつまでも岩に刻みつけられればよいのに。

 彼は、彼の言葉が消されることなく、書き記されることを願いました。それは、自分の主張は、正しいものであり、神の前に覚えられることを願ったのです。空しい戯言ではないことを言っています。

 なお、神様は、彼の言葉を聖書に残しました。

19:25 私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。

19:26 私の皮がこのように剥ぎ取られた後に、私は私の肉から神を見る。

19:27 この方を私は自分自身で見る。私自身の目がこの方を見る。ほかの者ではない。私の思いは胸の内で絶え入るばかりだ。

 ヨブは、体の贖われることを待ち望んでいました。その時、彼を贖う方は、地に立たれます。その時、彼のことは、正しく評価され、全てが明らかになることを願っていたのです。今、誰も理解しないのです。彼は、その時を待ち望んで、思いは、胸の内で絶え入るばかりでした。その時の来るのを強く願ったのです。

19:28 あなたがたが、「彼をどのように追いつめようか。事の原因は彼にあるのだから」と言うなら、

19:29 あなたがたは剣を恐れよ。憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。こうして、あなたがたはさばきがあることを知るようになる。

 彼らは、まるでヨブを追い詰めているかのようです。ヨブに事の原因があるからこのようなことになるのだと決めつけ、追い詰めようとしているかのようです。しかし、そのようにしているならば、神が憤りをもって裁かれることを警告しました。

 剣が取り上げられていますが、剣は、物事を判別する御言葉の鋭さの比喩です。日本語のように、双刃の剣を敵を撃つが、自分も負傷する可能性があることを言っているわけではありません。その判別の鋭さを取り上げたのは、友たちがあまりにも鈍いからです。ヨブの語ることに耳を傾けず、自分の水準の低い判断力で、ヨブを裁いていたからです。しかし、神の言葉は、彼らが誤っていることを明らかにします。

 今日、神の言葉を軽率に扱うならば、同じように、剣の裁きをうけなればなりません。その誤りは、指摘されることになります。御言葉を誤って解くならば、鋭い指摘を受けることになります。その誤りを広めた責任も問われることになります。