ヨブ記13章

13:1 見よ。私の目はこれらすべてのことを見た。私の耳も聞いて、それを理解している。

 これらとは、十二章六節以降に語られていることです。ヨブは、それらのことを目で見、耳で聞いていたことであり、理解していました。それは、友たちが語ったこととは、反対のことでした。悪者でも安らかであることなども、神がそうされるならば、そうなるのです。ですから、友たちの主張の根拠になっていること、すなわち、ヨブが受けた苦難は、ヨブが犯した罪のためであるという論理は、成り立たないのです。人の現状が必ずしもその人の霊的状態にはよらないからです。

13:2 あなたがたが知っていることは私もよく知っている。私はあなたがたより劣ってはいない。

 そして、友たちの主張は、物事の全体を把握してのものではありませんでした。災いとその原因について、物事の一面しか見ていないのです。友たちの主張は、間違ったものではありませんでした。それで、ヨブは、そのようなことは知っていると言ったたのです。友たちにそのような知識に関して劣ってはいませんでした。しかし、災いの原因が、犯した罪にあることは、ヨブには当てはまりませんでした。

13:3 けれども、この私は全能なる方に語りかけ、神と論じ合うことを願う。

 彼は、神が全能者として、ご自分の主権のままに事をなさることを知っていました。単純な悪と災い、善と祝福というような構図ではないのです。主が事をなさるのであれば、ヨブに災いがもたらされるのです。けれども、彼は、その全能者に語りかけ、主権者である神と論じ合うことを願いました。

13:4 しかし、あなたがたは偽りを塗る者、みな無用の医者だ。

 友たちは、ヨブに関して罪を犯したと決めつけています。彼らの知識に基づく判断なのです。ひどい災いの原因は、その罪にあるというのが彼らの判断です。確信をもって語っています。ヨブが否定してもなおも語り続けます。それ以外の判断ができなかったのです。彼らの知識が浅かったのです。

 彼らは、無用の医者でした。正しく診断できない医者は、無用の医者です。病人を直しようがないのです。正しい正確な知識に基づかない限り、他の人の益になる言葉を語ることできません。

 それは、先人から教えられた知識であり、彼らの経験を通して知りえたことです。それがすべてだと思っていました。また、完全な知識だと思っていたのです。彼らは、全く譲ることがありません。このように、不十分な知識であっても、人は、それが自分の知識となった時、それが正しいと確信するのです。しかし、一度固まった知識は、より高度な知識や概念を受け入れることをしなくなることがあるのです。むしろ否定しようとします。

13:5 ああ、あなたがたが沈黙を守っていたら、それがあなたがたの知恵となっていただろうに。

 彼らは、黙っていたならば、知恵者とみられたのです。浅い知識で、間違った判断基準に基づいて語るより、語らない方がよいのです。間違ったことを語れば、害をもたらします。黙っていれば、害をもたらすことはありません。その方が知恵があるのです。

13:6 さあ、私の論じるところを聞き、私の唇の訴えに耳を傾けよ。

 友たちは、今までヨブの語ることを無視してきました。ヨブが語ったことを理解していたならば、彼らは、語る内容について変更したはずです。しかし、全く変えていません。少しも理解しないし、心に留めることもありませんでした。

13:7 あなたがたは、神のためにと言って不正を語り、神のためにと言って欺くことを語るのか。

 彼らは、神の立場をとっていました。神の前に罪を犯したならば、それを捨てなければならないと熱心に勧めたのです。彼らは、ヨブが罪を犯したと決めつけました。それは、不正を塗る行為です。それは、欺きを語ることです。

13:8 あなたがたは、神の顔を立てるつもりか。神のためにと、言い争うつもりか。

 彼らは、ヨブを責めることで、神の顔を立てようとしているかのようです。罪を犯して、それを改めないことが神に対して自分を高くすることであると責めるのです。

13:9 神があなたがたを調べても、かまわないのか。人を欺くように神を欺こうとするのか。

 彼らは、神の前に自分が調べられて、堅く立つことができるでしょうか。確かな根拠もなく、ヨブの罪を責めたのです。事実無根の罪をヨブが置かれた状況だけから判断して、ヨブに押し付けたのです。

 彼らは、自分たちの論法により人を責めました。知識のない人であるならば、その言葉に聞き従ったかもしれません。彼らは、知恵ある者として敬われ、人は、その言葉を聞いたでしょう。しかし、彼らの言葉はヨブに対しての判断が間違っていました。それで、不確かな言葉を語って、人を欺くように、神さえ欺こうとするのかと問いました。

13:10 神は必ずあなたがたを責める。ひそかに自分の顔を立てようとするなら。

 ヨブは、神が彼らを責めるとはっきりと言いました。彼らが、ひそかに自分の顔を立てようとするならば、そうなると。

 彼らがヨブの語ることを受け入れないもう一つ理由は、自分の顔を立てようとしたことです。「ひそかに」とあるように、自分の語ったことを否定されたことに対して、面子を保とうとしたからです。彼らのしたことは、ありもしないヨブの罪を責めたことです。災いの中にある友に対してあまりにもひどいことをしたことになります。それを自分のこととして認めることできませんでした。

 特に御言葉を公に語る人は、今まで自分が正しいとして語っていたことを正すには、勇気がいります。

13:11 神の威厳があなたがたをおびえさせ、神の恐れがあなたがたに下るのではないか。

 彼らは、軽率に言葉を語っていました。神の前に正しいことが保証された言葉ではなかったことが明らかです。ヨブの罪について、根拠がないことを語ったのですから。そのために、神は、御自分の威厳のために偽りを語る者を怯えさせないでしょうか。その神の恐れが彼らに下るのではないとと警告しました。

 神の威厳の前にその正しさのゆえに恐れなければなりません。根拠のない軽い言葉を容認されることはありません。私たちは、根拠もなく言葉を公に語ることをしてしまうものです。あやふやなこと、確信のないことを語るのです。しかし、神がそれを容認してくださると考えてはなりません。神が見て聞いておられることを考えて、恐れなければなりません。

13:12 あなたがたの申し立ては灰のことば。あなたがたの弁明は粘土の盾だ。

 友たちがヨブに申し立てていることは、灰の言葉すなわち、全く価値のない言葉です。彼らが自分を守るために弁面したとしても、それは、粘土の盾あり、役に立たないのです。

13:13 黙れ。私に関わるな。この私が話す。私に何が降りかかってもかまわない。

 友は、ここで口を挟もうとしたのです。しかし、彼は、強い言葉で止め、言葉を続けました。

 友は、ヨブが罪を犯したという態度を変えていませんから、ヨブは、彼らの言うように、災いが降りかかってもいいとまで言いました。

13:14 何のために私は、自分の肉を歯にのせ、自分のたましいを手のひらに置くのか。

 彼は、友にとっては、受け入れられないような主張をする理由を説明しました。それは、自分が語ることが自分に神の裁きをもたらすかもしれない事柄です。自分が語ることが自分のたましいに裁きをもたらすかもしれないことです。それを承知で語るのです。

13:15 見よ。神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも私の道を神の御前に主張しよう。

 それは、彼が自分の道を神の前に主張するためです。神が彼を殺しても、神を待ち望み、自分の道を主張することを願いました。神を待ち望んでいることは、神が彼の主張に答えてくださることを期待しているです。

13:16 神もまた、私の救いとなってくださる。神を敬わない者は、御前に出ることはできない。

 そして、神もまた、彼の救いとなってくださると言い、それを確信していました。

 神を敬わない者は、神の前に出ることはできません。しかし、ヨブは、神を敬っていました。神が彼に答え、それが彼の救いとなることを信じていました。

13:17 あなたがたは、私のことばをよく聞け。私の述べることを、自分の耳で。

 彼は、友たちにも自分の言葉をよく聞くように求めました。自分の耳で聞くようにと。

 ヨブの語ることを自分で考えて判断すべきなのです。三人の友の主張は、ほぼ同じです。彼らの判断の基準は、お互いに擦り合わされていたかのようです。友として親交があれば、その考え方が同じようになることはありうることです。しかし、神の御心のことは、聞いて、従って歩むことで初めて理解されるものであり、また、そのようにするのでなければ、神から御心を教えられることはありません。教えても無駄だし、知識として教えられたとしても、その人自身が本当に理解したいという願いがないならば、失われるのです。

13:18 今、私は自分の言い分を並べる。自分が義とされることを私は知っている。

 彼は、自分の言い分を語りだしました。彼は、自分が主によって義とされることを知っていると言いました。友たちは、大きな罪を犯していると言いましたが。

13:19 だれか私と論争する者がいるのか。もしいるなら、今にも私は黙って息絶えよう。

 そのことについて誰が論争するのかと言いました。彼は、確信に満ちて言いました。もしいたとしたら、黙って息絶えるとまで言いました。

13:20 ただ二つのことを、私になさらないでください。そうすれば、私は御顔から身を隠しません。

13:21 あなたの手を私の上から遠ざけてください。あなたの恐ろしさで、おびえさせないでください。

 彼は、自分が自らの咎のために打たれていると考えていましたから、御顔から身を隠していました。神の前に出られないと思ったのです。しかし、主が彼を打つ手を遠ざけてくださるならば、その恐ろしさでおびえさせないならば、主の前に出ることができます。

13:22 呼んでください。私が答えます。あるいは私に語らせ、あなたが返答してください。

 そうすれば、恐れなく、神に語ることができます。そして、答えてくださることを願いました。

13:23 私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください。

 ヨブの咎と罪が何であるかを知らせてくださることを願いしました。それがどれほどであるかも。

 自分を打つのであれば、その咎と罪を知らせてくださることを願いました

13:24 なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵と見なされるのですか。

 主のしていることは、ヨブから顔を隠し、ヨブを敵のように見なしているように見えるのです。なぜそうされるのかと。

 彼の咎と罪を知らせることもないのです。

13:25 あなたは吹き散らされた木の葉を脅し、乾いた藁を追いかけられるのですか。

 それは、吹き散らされた木の葉を脅すかのように、意味のないことです。乾いた葉を追いかけているかのようです。大人なら、そんなことはしません。

13:26 実に、あなたは私に対し厳しい宣告を書きたて、私の若いときの咎を負い続けさせます。

 主は、ヨブに対して苦いことすなわち胆を書き立て、裁いているかのようです。肝は、内住の罪の比喩です。神は、それを書きたて裁いているかの様です。内住の罪は、裁きの対象とはなりません。犯された罪に対しては裁きがあります。しかし、ヨブは、罪を犯してはいませんでした。それでも罪を責めるとすれば、内住の罪を責めているかの様です。

 また、若い時の咎を今に至って負わせ続けさせているようです。それは、すでに精算されています。彼は、悔い改め、いけにえを捧げたのです。その罪について、もう一度裁くことはあり得ないことです。しかし、ヨブの罪を裁いているとするならば、そのように精算された罪を責めているかの様です。

・「厳しい」→胆。内住の罪の比喩。その人の内にある罪の原理。

13:27 あなたは私の足にかせをはめ、私が歩む道をことごとく見張り、私の足の裏にしるしを刻まれます。

13:28 そのような者は、腐った物のように朽ちます。シミが食った衣服のように。

 足に枷をはめたことは、彼を囚人として扱うことを表しています。さらに、歩みをじっと見つめています。そして、どのように歩んだかということに対してしるしを刻まれるのです。彼の行いに一つでも罪がないかを見張り続けているのです。

 そのように神が咎と罪を探り出されるのであれば、神の前には、健全な者はいないのです。腐った物とみなされます。しみが食った衣服のように、穴だらけになり、価値のない物とされるのです。