ヨブ記12章

12:1 ヨブは答えた。

12:2 まさに、あなたがたは地の民。あなたがたとともに知恵も死ぬ。

 ツォアルの答えについて、彼を地の民と言いました。彼の考えは、この地に属することに終始していたからです。ヨプに対する判断は、彼が悪を行っているということです。それを捨てるならば、祝福されるということです。その祝福は、労苦を忘れ、安らぐことです。多くの者が彼の好意を求めるようになるというものです。それは、肉体に関することであり、この世の誉です。

 ヨブが罪を実際に行ったのに隠しているという主張です。しかし、ヨブには、そのような実際的な罪は一切ありませんでした。潔白でした。ヨプの告白によれば、それなのに神はヨプに罪を見出し、彼を責めていたのです。ヨプの論点と、ツォアルの論点は、全くかけ離れていることが分かります。この地で、実際に罪を犯しながら歩んでいる友たちにとって、ヨプの清さは理解できませんでした。問題としているレベルが低いのです。

 彼の知恵は、実際に罪を犯すかどうかということに関する知恵です。それは、肉体に関するものです。ですから、彼の肉体が死ぬとき、肉体に関する知恵は、死ぬのです。

 私たちは、神の祝福として何を求めているでしょうか。罪を犯しても神から捨てられないこと。あるいは、慰めや平安が与えられることなどでしょうか。また、この社会で様々な問題の解決をいただけることでしょうか。また、そのような問題から守られることでしょうか。それは、この地のものではないでしょうか。それらを求めることだけに終始していないでしょうか。

12:3 私にも、同じように良識がある。私はあなたがたに劣っていない。これくらいのことを知らない者がいるだろうか。

 ツォアルが語り聞かせた事柄ついては、「良識」があるといいました。それくらいのことは知っているとも。ツォアルの言葉は、間違ったものではありませんでした。しかし、ヨブに関しては当てはまらなかったのです。

12:4 私は、自分の友の笑いものとなっている。神を呼び求め、神が答えてくださった者なのに。正しく誠実な者が笑いものだ。

 ヨブは、友の物笑いとなっていると言いました。友の動機は、ヨブを正しい道に導いて、回復させたいという思いからでしょうが、しかし、彼らのしていることが、ヨブを物笑いにしているかのようでした。ありもしない罪を数え上げ、彼の身に起こったことがその罪によるものだと断じているのです。その罪を捨てるならば、回復でき、幸いを得られるのに、それをしなことの愚かさを取り上げているのです。物笑いにしているかのようです。

 しかし、ヨブは、彼らの言うようなことは、よく知っていました。それなのにそれを知らないかのように語るのです。彼の霊的経験は、もっと高度なものでした。神に呼び求めるならば、答えてくださったのです。正しく、敬虔な者として神が認めてくださったのです。そして、その敬虔のゆえに答えてくださったのです。

 友たちは、自分の経験していないような高度な歩みをしてる者、また、より高度な知識を持っている者に対して、自分の知識と判断基準からの教えを説こうとしていたのです。

12:5 安らかだと思っている者はわざわいを侮る。わざわいは、足がよろめく者に用意されている。

 安らかだと思っている者は、たいまつを侮ります。たいまつは、神の評価を表します。神にどのように評価されるかを侮るのです。ですから、好き勝手な生き方をするのです。

 たいまつは、足のよろめく者のための備えです。足のよろめく者は、神がその歩みをどのように評価するかを考えて歩もうとします。神の評価に適う歩みを求めるのです。安らかな者ではなく、むしろつまずきそうな者こそ、神の前に正しく生きようとするのです。

 安らかであるという結果だけを見て判断するのであれば、正しくないのです。そのような人は、かえって神に背くことを求めるのです。その歩みが滑る者は、むしろ神を求めている者であることがあるのです。その人の今の状態だけから判断することはできないのです。

・「わざわい」→たいまつ。

・「たいまつ」→神の評価の比喩。

ダニエル書

10:6 そのからだは緑柱石のようで、顔は稲妻のよう、目は燃えるたいまつのようであった。また、腕と足は磨き上げた青銅のようで、彼の語る声は群衆の声のようであった。

 主イエス様の幻。目は、たいまつに例えられ、物事を見抜いて評価することを表しています。

創世記

15:17 日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

 かまどは、裁きを表し、たいまつは、評価を表します。切り裂いた物は、主イエス様の比喩です。神は、その方に裁きを下しました。それとともに、死にまでも従われたことを高く評価されました。

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12:6 荒らす者の天幕には安らぎがあり、神を怒らせる者は安らかだ。神がご自分の手でそうさせる者は。

 荒らす者の天幕には、安らぎがあります。神を怒らせる者でも安らかです。神がそうされるならば、そのようになるのです。その人の置かれている状況だけから、その人の霊的状態を判断することはできないのです。

12:7 しかし(、今、)獣に尋ねてみよ。あなたに教えてくれるだろう。空の鳥にも。あなたに告げてくれるだろう。

12:8 あるいは地に話しかけよ。教えてくれるだろう。海の魚も語るだろう。

12:9 これらすべてのうちで、主の御手がこれをなしたことを知らない者があるだろうか。

 友たちにとっては、意外な言葉です。「しかし、今」獣に尋ねてみよと言いました。このようなことは、獣も鳥も地も海の魚も知っていることです。知らないものはないのです。

12:10 すべての生き物のいのちと、すべての肉なる人の息は、その御手のうちにある。

 このように、すべての生き物の命は、その御手のうちにあり、人の命もその御手のうちにあります。

 神の主権によって事はなるのです。ですから、外に見える事柄だけから神が主権をもってなさることを判断する事はできないのです。ヨブの友たちは、ヨブの身に起こったことを見て、ヨブが罪を犯したからだと断じましたが、事は、神の主権によることを全く無視していました。

12:11 口が食物の味を知るように、耳はことばを聞き分けないだろうか。

 口は、食物の味を知ることができる器官、耳は、言葉を聞き分けることができる器官です。耳は、実際は、音が入る部分ですが、聞き分けるのは、その人の霊でありたましいです。人は、神の言葉を聞き分けることができるのです。それを聞いて、受け入れ、従う分別があるのです。

12:12 年寄りに知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。

 それを聞き分けることができるのは、年寄だけであろうか。年の長けた者に英知があるのかと問いました。ここでは、聞き分けることが、聞き従う分別としての知恵と言い換えられ、言葉を受け入れる分別としての英知と言い換えられています。神の言葉を聞き分けることができるのは、年寄りだけであろうかと問うています。

 友たちは、年長者たちと考えられます。しかし、彼らの言葉は、神の言葉の表面的な理解に基づくものでした。彼らは、深く神の言葉を聞き分けることができていない人たちであったのです。

 知恵は、御言葉に従う分別、英知は、御言葉を受け入れる分別です。

12:13 知恵と力は神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。

 知恵が神と共にあるというのは、人が知恵を持つのも持たないのも神によるという意味です。そして、力は、それを授ける力です。

 思慮とは、神様のこうするという事柄いわば御心です。思慮とは、その御心を知ることです。英知は、神の言葉を受け入れる分別ですが、それを人が持つことは、神によるのです。

 人は、誰でもそれを持つことができると考えたとしても、それを与えるかどうかは、神によります。

12:14 見よ。神が打ち壊すと、二度と建て直せない。人を閉じ込めると、開けられない。

12:15 見よ。神が引き止めると水は涸れ、水を送ると地はくつがえる。

 事は、全て神により、神が御心のままに力をもって事をなさるのです。水を送りまた、引き止めることが記されています。水は、御言葉の比喩です。水を引き止めるのは、御心を知らせないことです。地は、涸れます。また、神が事をなさるのは、御言葉によります。地さえ覆ります。

12:16 力と英知は神とともにあり、迷い出る者も、迷わす者も神のものだ。

 事をなす力すなわち主権は、神にあります。御言葉を受け入れる分別としての英知は、神が与えるのであり、神の主権によります。ですから、御言葉を受け入れることなく迷い出る者も、また、人を御言葉から引き離し迷わせる者すなわち悪魔も神の下にあって働くのです。

12:17 神は助言者たちを裸足にして連れ去り、さばく者たちを愚弄し、

 以下に神が御心のままに事をなさることが列挙されています。特に、知恵、思慮、英知を与えることは、神の主権によることが示されています。それは、世の現象は、単純ではないことを示すためです。必ずしも、罪とそれに対する裁きとして、物事が起こるわけではないことを示すためです。

 助言者は、人々に教えをなす人であり、神の御心を教える人たちです。そのような立派な働きをする人たちを裸足にして連れ出します。裸足にして連れ出すことは、靴のない状態で、靴は、所有権の比喩です。何も持たせないで連れ出すことであり、彼らの尊厳は、失われます。

 裁く者たちを輝かせます。

・「翻弄する」→ほめたたえる。(この意味は、対格が続く場合。ここでは、対格の語句がないので、この意味は該当しない。)自慢する。かがやく。

12:18 王たちのかせを解き放ち、彼らの腰に帯を巻き付け、

 王たちの懲らしめを取り去り、彼らの腰に帯を巻き付けます。腰に帯をまくことは、力強い働きをさせることです。

・「かせ」→懲らしめ。訓練。

12:19 祭司たちを裸足にして連れ去り、勢いある者に道を誤らせる。

 祭司たちは、神に仕える者たちです。しかし、彼らは、裸足で連れ出されます。祭司であるからそのような目には合わないということはないのです。

 勢いある者は、力強く道を進みますが、その道は誤らされるのです。

12:20 神は、信頼されている者の唇を取り去り、長老たちの良識を取り上げ、

 人から信頼されている人の語る言葉を誤らせます。長老たちは、良識ある者たちです。それを取り上げます。

12:21 君主たちを侮り、力ある者たちの腰帯を解き、

 国を支配する権力を持つ者を侮ります。力ある者たちが力を発揮するために巻く腰帯を解かれます。

12:22 闇から深みをあらわにし、暗黒を光に引き出す。

 闇から深みをあらわにします。

 暗闇自体は、光と相容れないものですが、ここでは、暗闇にあるものを光に引き出すことです。

 これらは、隠されているものを明らかにする働きです。

12:23 神は国々を栄えさせ、また滅ぼす。国々を広げ、また取り去る。

 国々を栄えさせ、また滅ぼします。国々を広げ、また取り去ります。

12:24 地の民のかしらたちから良識を取り去り、彼らを道のない荒れ地の中でさまよわせ、

 地の民のかしらたちから良識が取りされます。彼らは、荒れ地にさまよいます。

12:25 彼らは光のない闇の中を、手探りで進む。神は彼らを酔いどれのようによろけさせる。

 かれらは、導く光を失い、手探りで進みます。彼らは、酔いどれのようです。歩みがよろけるのです。