ヨブ記10章

10:1 私のたましいはいのちを忌み嫌う。私は不平をぶちまけ、たましいの苦しみのうちに私は語ろう。

 ヨブは、今、肉体の苦難の中に生きているのですが、そのような苦しみの中でのたましいを忌み嫌っているのです。それは、どんなに御心に適うことを求めて歩んだとしても神に責められ、その苦しみが去ることがないからです。たましい自体を忌み嫌ったのでなく、そのような状態にあることを忌み嫌ったのです。

 なお、たましいがいのちを忌み嫌うというのであれば、もはや神を信じて歩むことをやめたいということです。そのようなことを願っていないことは明らかです。

・「たましいはいのちを忌み嫌う」→生きる中でのたましいを忌み嫌う。

・「私は不平をぶちまけ」→私の思いに自由を与えよう。不平をぶちまけることではない。実際、語られた言葉は、不平のぶちまけではない。

10:2 私は神にこう言おう。「私を不義に定めないでください。何のために私と争われるのかを教えてください。

 彼が一番言いたいことは、これです。神様が心の内を調べ上げたら、決して義とされないのは分かっています。しかし、不義に定めないでくださいと願いました。不義に定めることは、神の主権によります。ヨブが何かを申し上げることはできないのですが、彼は、それでも心に自由を与えて、言いたいことを申し述べたのです。

 そして、なんのために争われるのかを教えて下さいと。

10:3 あなたが人を虐げ、御手の労苦の実を蔑み、悪しき者たちのはかりごとに光を添えることは、あなたにとって良いことでしょうか。

 人を虐げることは、ヨブに苦しみを与えることです。ヨブに対しては御心を示し、御心に適う者にしようと導いてこられました。それが主の労苦です。そのように、御自分の栄光のために導いている御手の労苦の実を蔑んでいるかのようです。苦しみだけがあり、なんのためにそうされるのかが示されていないからです。彼は、そこに主の栄光を見ることができないからです。

 悪しき者たちの謀に対しては、ある程度許しておられます。それなのに、ヨブを決して義とはせず、罪ある者として打ち続けておられることは、良いことでしょうかと。

10:4 あなたには肉の目があるのですか。あなたは人間が見るように見られるのですか。

 そのような偏ったことをするのは、肉の目があって、人の肉による見方のような見方をしているのですかと問いました。

10:5 あなたの日々は人間の日々のようなのですか。あなたの年は人の年のようなのですか。

10:6 それで、私の咎を探し出し、私の罪を探り出されるのですか。

 主は、人のように生きておられるのかと問いました。それで、ヨブが正しい歩みをしているにもかかわらず、なおも咎、罪を探り出して責められるのですかと。

10:7 私に悪しきことがないこと、あなたの手から救い出せる者がいないことを、あなたはご存じなのに。

 主のお取り扱いについて理解できませんでした。ヨブに悪しきことがないのをご存知でありながら、その罪を探り出されるのですかと。ヨブは、彼の苦しみは、彼の内に主が罪を見出し、そのために打たれるからだと考えています。主は、主権者であり、完全な清さをもって判断される方です。ですから、ヨブの罪を探り出し、それを裁くことができます。その権威があり、力があります。しかし、その罪を探り出す必要性があるのかと問うているのです。彼は、罪があることを否定しません。しかし、その罪は、あったとしても些細なものです。心のうちの小さな罪です。彼にとって耐え難いほどの苦しみをもって打たなければならない罪ではありません。それで、そのような小さな罪を探り出して苦しめているので、主の判断は人のようですと言っています。

10:8 あなたの手が私をかたどり、私を造られました。それなのに、私を滅ぼし尽くそうとされます。

 主は、御自分の手で造ったものを滅ぼし尽くそうとされます。ご自分が造られたのに。

10:9 思い出してください。あなたは私を粘土のようにして造られました。私を土のちりに戻そうとなさるのですか。

10:10 あなたは私を乳のように注ぎ出して、チーズのように固め、

10:11 皮と肉を私に着せて、骨と筋で編まれたではありませんか。

 彼の体を造ったのは、主です。主が一つ一つ手をかけて造られたのです。そのことを思い出してくださいと。そのように、自ら造られたものを土の塵に戻そうとされるのですかと。

 この体を作る過程は、比喩になっています。乳は、御言葉の比喩です。チーズは、それを固めたもの。彼は、御言葉によって造られたことの比喩です。

 皮と肉は、彼の着物です。それは、表面を覆うものであり、外に現れる振る舞いです。核心は、骨であり、肉を骨と結びつける筋です。骨は、その人の持つ教えです。その人の行動を決定する判断基準です。新約聖書では、「良心」と訳されている語が同じことを意味しています。人は、神の言葉によって教えられ、その言葉によって生きるのです。そのようなものとして造られたのです。

・「骨」→その人の持つ教え。神の教えである御言葉と整合していることが最良の状態。

・「筋」→その人の持つ教えを外に現す機能。

10:12 恵みをもって私にいのちを与え、あなたの顧みが私の霊を守りました。

 ヨブの今までの歩みにおいて、主は、契約を忠誠をもって果たされたのです。彼の信仰に応えて祝福を与え、その栄光を現されたのです。それがいのちでした。主と一つになって歩み、いのちを経験し、永遠のいのちとしての報いをいただくことができるのです。

 また、主の見守りが彼の霊を守りました。霊は、御言葉を受け入れる部分です。教えにおいて誤ることがないように見守ったのです。

・「恵み」→契約に対する忠誠。

10:13 しかし、あなたはこれらのことを心に秘めておられました。このことがあなたのうちにあるのを私は知っています。

 そのような主のお取り扱いは、信仰によって知ることです。主の心に秘めておられることです。彼は、それが主のうちにあることを知っていました。

 ヨブは、自分が主の目に適った者であり、主が応えてくださる経験をしてきたのです。その時と何も変わらないのです。

10:14 もし、私が罪ある者となるなら、あなたは私を見張られます。こうして、私の咎を免じてはくださいません。

 もし、ヨブが罪を犯すならば、主は見張られます。そして、私の不正を無罪とすることはしないでしょう。

・「罪ある者となる」→罪を犯す。

・「咎を免じてはくださいません」→無罪とすることはしない。

10:15 もし、私が悪しき者とされるのなら、ああ、なんと悲しいことでしょう。私は正しい者とされても、頭を上げることはできません。自分の恥に飽き飽きし、自分の苦しみを見ていますから。

 彼は、主が彼を悪しき者とされたならば、それは自分にとって悲しいことと言い。もし、正しい者とされても、頭を上げることができません。現状は、恥に覆われており、苦しみを見ているからです。

10:16 (そして、もし)頭を上げると、あなたは獅子のように私を狙い、再び私に驚くべき力をふるわれるでしょう。

 頭を上げると、主は、獅子が狙うようにヨブを狙い、驚くべき力を振るわれるでしょうと。

10:17 あなたは私に対して証人たちを新たに立てて、私に向かって苛立ちを増し加え、いよいよ私を苦しめられるでしょう。

 新たに証人たちを立てて、苛立ち、苦しみを加えるでしょうと。正しいとしても、証人を立てて悪い者と定め、苦しみを与えるでしょうと。

 なお、ヨブは、心の内も全て「自分は正しい」と言っているわけではありません。しかし、このような苦しみを受け続けなければならない罪はないのです。しかし、主が調べられるならば、無罪とはされず、それを責められるならば、それは、主の主権によることであり、いかんともし難いのです。

 ビルタテは、ヨブの罪を責めました。しかし、そのような罪はなかったのです。人が、善悪について論じるとき、その人の水準に応じて判断基準とするのです。ヨブは、心の内まで正しい者であったのです。しかし、それでも、主が彼を調べるならば無罪とされないことをわきまえていました。しかし、その罪は、彼をこのような苦しみに会わせ続けるべき罪であるかが問題です。

10:18 なぜ、あなたは私を母の胎から出されたのですか。私が息絶えていたなら、だれの目にも留まらなかったでしょう。

10:19 私は、存在しなかったかのように、母の胎から墓に運ばれていたらよかったのに。

 彼は、母の胎から出ることなく死んだならば、良かったのにと言いました。そうすれば、主の目に適った歩みをしていながら、激しい苦しみを受け続けることはなかったからです。

10:20 私の生きる日はわずかなのですか。それならやめてください。私にかまわないでください。私はわずかでも明るくふるまいたいのです。

 彼の生きる日はわずかです。それで、そのようにただ苦しみを与えることを止めてほしいと。構わないでくださいと。そうすれば、わずかでも明るく振る舞うことができます。それを願いました。

10:21 私が闇と死の陰の地に行って、再び帰って来なくなる前に。

10:22 そこは、暗闇のように真っ暗な地。死の陰があり、秩序がなく、光も暗闇のようです。」

 彼は、墓に入ったとき、闇と死の陰の地に行くとは言っていません。彼は、墓に行くことがむしろ良かったと言っています。

 彼は、苦しめることを止めてくださいと願っています。それは、その結果として闇の世界に行くことになってしまうかもしれないからです。彼は、今持ちこたえていますが、いつ不信仰になるかわからない限界の状態なのです。そのようなことになる前に、止めていただきたいと願ったのです。