ヨハネ第二

1:1 長老から、選ばれた婦人とその子どもたちへ。私はあなたがたを本当に愛しています。私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています。

 この手紙は、長老から、教会に属する信者に宛てられたものです。聖書では、長老は、男性であることを明記しています。教会の中で、熟達した判断力をもつ者として、監督者として聖霊によって立てられた人のことを指します。

 彼は、真理を知る者として、すなわち、真理のうちを歩んでいる者として彼らを愛していることを記しました。彼らも、真理のうちを歩んでいます。真理を知っている人々はみな、彼らを愛しています。

 婦人とその子供たちは、真理のうちを歩んでいる人たちです。このような表現が使われているのは、反キリスト及びそれに惑わされている人たちとを区別するためです。教会と表現しても、信者と表現しても、その中には、反キリストも含まれてしまいます。選ばれた婦人は、彼らが神に選ばれていることを明確にしています。婦人とその子供たちという比喩は、旧約聖書から使われている比喩です。教会と一人ひとりの信者を比喩として表しています。

1:2 (なぜならば、)真理は私たちのうちにとどまり、いつまでも私たちとともにあるからです。

 彼らを愛しているのは、真理が私たちのうちに留まり、いつまでも私たちとともにあるからです。この真理は、聖霊のことを指しています。真理を行う方は、私たちのうちにあって業をなす聖霊だからです。その方が私たちのうちに留まり、いつまでもともにおられるので、真理を行い続けることができるのです。

1:3 父なる神と、その御父の子イエス・キリストから、恵みとあわれみと平安が、真理と愛のうちに、私たちとともにありますように。

 父と、御子イエス・キリストから、もたらされる恵みは、八節に記されているように労して得た報いをいただくことを指しています。それは、御国に宝として、また、永遠の資産として与えられるものです。

 また、あわれみは、契約に対して忠誠をもってこれを果たすことを表しています。父と御子が私たちの信仰に応えて、契約を徹底的に果たすことです。その契約とは、律法を心に書き付け御心を行うものにすることです。私たちの信仰は、キリストの愛に応え、キリストが私たちのうちに住まわれて、御業をなし、御心を行われて、私たちを神の豊かさに達するようにすることを信じるのです。

 平安と訳されている語は、御心を行うことでもたらされる完全さのことで、それは、恵みを最大限に受ける道です。

 それらは、私たちが真理を行い、愛する中に実現することです。愛は、御心を行うことの全てを含みますが、それを行う動機でもあります。

・「あわれみ」→契約に対する忠誠。

・「平安」→御心を行うことでもたらされる完全さ。

1:4 御父から私たちが受けた命令のとおりに、真理のうちを歩んでいる人たちが、あなたの子どもたちの中にいるのを知って、私は大いに喜んでいます。

 真理のうちを歩むことは、御父からの命令です。子供たちは、信者一人ひとりのことですが、その子供たちの中から真理のうちを歩んでいるのを見出して、喜びました。その人が真理のうちを歩んでいることは、一目見て分かるわけではありません。実際に愛を現すのを見て初めて分かります。

1:5 そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。

 婦人よとの呼びかけは、真理のうちにある人全員に対するものです。ヨハネは、長老として切実に要請しました。それは、互いに愛し合うことです。これは、新しい命令のとして記しているのではなく、初めから持っていた命令です。

・「お願いします。」→特別な立場にある者による、切実な要請。

1:6 私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。

 愛し合うことは、御父の命令の従って歩むことです。愛は、命令の全てを含みます。初めから聞いているように、愛のうちを歩むことが命令です。

1:7 (なぜならば)こう命じるのは、人を惑わす者たち、イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない者たちが、大勢世に出て来たからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。

1:8 気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。

 その理由が示されていて、惑わす者たちが大勢世に来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉を持って来られたことを告白しない者たちです。彼らは、惑わす者であり、反キリストです。彼らは、次節に記されているように、神の教えを持っていません。そのような人たちの教えに惑わされるならば、大きな損失を伴いなす。神の御心から逸れて、実を結ばないものになってしまうからです。そして、御国での報いを失うことになります。

 そのようなものに気をつけることで、労苦の実を失うことなく、豊かな報いを受けることができるのです。

1:9 だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。

 誰でも、自分の教えによって先導し、キリストの教えに留まらない者は、神を持っていません。反キリストの教えは、イエス・キリストが肉を持って来られたことを否定します。それは、神の教えではありません。人間が考え出した教えなのです。そのような教えが人を惑わします。

 その教えにとどまる者は、父と御子を持ちます。

・「先を行く」→他者の前を行く。先導する。通常神の導きなどに使われる。ここでは、人が自分の教えによって先導すること。

1:10 あなたがたのところに来る人で、この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。あいさつのことばをかけてもいけません。

 この教えを携えていない者は、家に受け入れてはいけません。挨拶の言葉をかけてもいけません。

・「あなた方」→真理にうちに歩んでいる人たちのこと。婦人とその子供たち。彼らは、真理のうちを歩んでいる信者であり、一人の女の子たちであることは、意味をなさない。みな、一人ひとりがそれぞれが、信仰によって歩む信者であるからです。

1:11 そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。

 挨拶すれば、その悪い行いをともにすることになります。一線を画す必要があります。

1:12 あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います。

 ヨハネは、直接話すことを願いました。手紙で必要なことをたくさん書いても、彼らがそれを受け入れて歩むかどうかを知ることはできません。直接話し、彼らがそれを受け入れるのを見て、愛のうちを歩むのを見るならば、喜びに満ち溢れることができます。

1:13 選ばれたあなたの姉妹の子どもたちが、あなたによろしくと言っています。

 選ばれたあなたの姉妹は、ヨハネとともにいる真理のうちを歩む教会のことで、子供たちは、一人ひとりの信者のことです。