ヨハネ第一3章
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
→「見よ。私たちが神の子と呼ばれることになるために、御父はどんな愛を私たちに与えたでしょうか。私たちは、神の子供です。このために、世は私たちを知りません。なぜならば、世は、神を知らなかったからです。」
私たちが神の子であることを取り上げました。子であることは、相続人です。そのことは、次節に記されているように、少なくともキリストに似た者になることです。永遠に栄光を受ける者になるのです。
世は、御父を知らなかったので、御父が私たちを神の子としたことを知らないのです。
3:2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
世の人が知らないとしても、私たちが神の子であることを明確にしました。愛する者たちと呼び掛けて、彼らが惑わされることがないようにしました。
私たちがどのようなものになるかは、まだ明らかにされていません。私たちは、キリストが現れた時、彼と似た者になることを知っています。なぜならば、彼のありのままに、彼を見るからです。
コリント第一
15:48 土で造られた者たちはみな、この土で造られた人に似ており、天に属する者たちはみな、この天に属する方に似ています。
15:49 私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになるのです。
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3:3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。
キリストがお受けになっている栄光のように、御心をなしたことに対して栄光を受けるのです。肉にはよらず、御霊による歩みによって実現できます。キリストは、清い方です。その栄光に与ることを求めるならば、キリストのように清い歩みをするのです。それは、子として御国を相続するためです。御国の相続は、宝の相続であり、報いの相続です。
3:4 罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。
内住の罪に従う者は、誰でも、無法状態にあります。内住の罪は、無法です。これは、御霊に従う人が罪を犯さないことと対比して、内住の罪に従うことで罪を犯すことを示しています。内住の罪には、神の言葉に従うことが全くないのです。
・「罪」→単数定冠詞付き。内住の罪。
・「犯す」→内住の罪に従うこと。具体的な罪を犯す意味での表現ではない。
・「律法に違反すること」→名詞。無法。不法。律法を無視すること。(法律に)従わないこと。
3:5 あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
キリストは、罪を取り除くために来られたことをあなた方は知っています。罪は、キリストのうちにありません。
3:6 キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
キリストにとどまる者は誰でも罪を犯しません。そのような人にキリストはとどまられていて、キリストの業がその人を通してなされるからです。
その一方で、罪を犯している人は、キリストを見たこともないし、知ってもいません。この人たちは、キリストにとどまることをしていない人たちです。ですから、キリストにとどまって罪を犯すことがないという経験のない人たちです。この人たちは、八節の、悪魔から出た者です。
なお、キリストにとどまる者とは、肉が働いている状態の信者のことを指してはいません。キリストに留まり、キリストによって歩んでいる状態を指しています。また、肉が働いて罪を犯しても告白する信者のことではありません。彼は、罪を犯しましたが、告白して立ち返るからです。それをしないで、罪を犯している者のことです。
・「罪を犯す者はだれも」→「犯す」は、動詞、現在形、能動態、分詞。名詞・冠詞・分詞の順になっており、「罪を犯している者はだれも」となる。
3:7 幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。
義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しいのです。義を行う人は、キリストがその人のうちで業をなすのですから、キリストと同じ程度に正しいのです。
人には不可能に見えるキリストと同じ程度の義の行いは、義を行う人によって実現します。それは、御霊の内住によります。肉の力では不可能ですが、御霊が内住しておられて、御霊の業として行われるので、神の正しさほどに正しいのです。
幼子たちに、教えました。罪を犯している者たちに惑わさせないように教えました。彼らは、罪を犯している者たちであるのに、神を知っていると言っているのです。
・「ように」→「比例して、その程度に」。ちょうど(正比例して)、完全に(正確に)対応する。
3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。
罪を犯している者は、悪魔からの者です。なぜならば、悪魔は、初めから罪を犯しているからです。このために、神の御子が現れました。それは、その結果、悪魔の業を打ち破るためです。
悪魔の業は、自分が初めから罪を犯しているように、人に罪を犯させることです。神の御子は、それを打ち破るために来られました。人が罪を犯さなくなることが悪魔の業を打ち破ることであるのです。
・「罪を犯している」→動詞、現在形、能動態。現在形は「現在行われている動作や、現在継続中・習慣的な動作」を表す。
3:9 神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。
神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種としての聖霊がその人のうちに留まっているからです。その人は、神から生まれたので、罪を犯すことができません。神から生まれたことは、悪魔から生まれたことと対比されていて、聖霊の支配の下に、生きるものとされていることを表しています。神から生まれた者は、肉に死に、聖霊によって新しく生まれた者として生きているのです。
3:10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。
このことによって、神の子供と悪魔の子供が明らかにされます。義を行わない者は、だれも、神からの者ではありません。また、兄弟を愛していない者もそうです。
3:11 (なぜならば)互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。
3:12 カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。
ここからは、互いに愛し合うことに話が変わります。前節の最後の部分で、兄弟を愛することは、神の子であることの明らかなしるしであることを説きました。それを受けて、兄弟を愛することについて、話を始めています。
なぜならば、自分の兄弟を殺した、悪い者からの者であるカインのようではなく、互いに愛し合うべきであることは、初めから聞いている教えであるからです。
何の理由で、彼を殺したのでしょうか。それは、自分の行いが悪く、自分の兄弟の行いが正しかったからです。
カインは、神の前に喜ばれている人であり、愛すべき自分の兄弟を殺したのです。ただただ彼の行いが悪かったからです。それは、彼が悪から出たからです。悪魔の働きに支配されていたのです。
・「愛し合うべき」→動詞、現在、接続法、能動態。この場合、命令の表現。
・「使信」→知らせ。教え。伝えられた信仰の内容。使信は、主に、いわゆるキリスト教界で用いられる専門用語です。
3:13 (そして)兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。
カインの行いが悪かったように、この世は、悪の中にあるのです。その人たちがあなた方を憎んでも、驚かないでいなさいと命じました。自分たちが神の前に正しく生きていたとしても、世は、自分の行いが悪いので、そのような人たちを憎むからです。
・「驚いて」→動詞。現在、命令形。~し続けなさい。驚かないでいなさい。
3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。
自分たちが死からいのちに移っていること示しました。なぜならば、兄弟を愛しているからです。
ヨハネ第一
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。
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兄弟を愛する愛は、神が私たちのうちに留まっていることで可能なのです。それは、御霊の内住により実現することなのです。ですから、兄弟を愛している者には、御霊が内住しておられるのであり、その人は、命を持っているのです。そのことは、二十四節に記されています。
ここで、ヨハネは、彼らが永遠の命を持っていることをここでわからせています。
ヨハネ第一
5:13 神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。
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3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。
自分の兄弟を憎む者は誰でも人殺しです。誰でも人を殺す者に、永遠の命が留まることはありません。
3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
キリストは、私たちのためにご自分の命を捨ててくださいました。それによって私たちに愛がわかりました。キリストは、愛がどのようなものかを模範によって示されたのです。キリストが、「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」と言われた、愛の程度がわかったのです。
ですから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。それが兄弟を愛する愛であるのです。
3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
この世の財を持っているとし、自分の兄弟が支援を必要としているのを見ているとして、彼から自分の心を閉ざしたならば、どうして、彼のうちには、神の愛があるでしょう。神の愛は、命を捨てる愛です。それと比べて、この世の財を与える行為は、はるかに小さな犠牲を払うことです。そんなわずかなことができなくて、どうして神の愛が留まっていると言えるでしょうか。
3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
子供たちよと呼びかけ、愛するものとして諭しました。私たちは、言葉や口先だけで愛することをしないで、行いと真実で愛しましょう。
・「愛しましょう」→動詞、現在接続法、能動態。この場合、~しましょう。
3:19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
そして、これにより、私たちは、自分が真理からのものであることを必ず知ることになり、必ず信じることができます。すなわち、神の前に、神の説得を受け入れることができるのです。
・「安らかで」→動詞、未来形、直接、能動態。 説得する。(受動的に)信頼できることを説得される。自らの心で確信すること、従順な信頼をもって従うこと。
3:20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。
たとえ自分の心が責めたとしてもです。それは、自分の愛が完全ではないという点で自分の心を責めるのです。それでも、自分に永遠の命がとどまっていることを信じることができるのです。次節では、「確信」と記されています。これは、心の平安を言っているのではなく、信じることを言っているのです。
私たちの心が責めたとしても、神様は、私たちの心よりも大きな方です。自分の心が責めるのは、私たちの心の判断に基づくことです。しかし、その人が永遠のいのちを持っていることは、神様の判断です。兄弟に対する愛が不完全なものであったとしても、それが御霊による愛であることを認めてくださるのは、神様です。神様は、全てをご存知であるからです。
3:21 愛する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。
自分の心が責めないならば、神の前に確信を持っています。永遠の命を持っていることを確信しているのです。
・「確信を持ちます。」→現在、直接、能動態。
3:22 そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。
そして、求めるものを神から受けています。それは、私たちが神の命令を守っていて、神の前に喜ばれることを行なっているからです。その人の求めは、神の命令を守ることを願う願いであり、神に喜ばれることを求める願いであるのです。神様は、そのような願いを喜んで聞かれます。
3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。
これが神の命令です。すなわち、私たちが御子イエス・キリストの名を信じることになり、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合右ことです。信じることは、キリストが私たちを愛して命を捨てたという結果を受けて、イエス・キリストの名を信じるようになることです。名とは、特性のことであり、キリストの特性の全てを信じるのです。キリストが信者を愛していて、今も働いていて信者をご自分と同じものに変えようとしていることを信じるのです。キリストの特性の全てを私たちが持つように働いているのです。そして、キリストの命令は、互いに愛し合うことです。御心の全てが、互いに愛し合う中に含まれていて、愛することは、それを実践することです。
・「信じ」→動詞、アオリスト接続法、能動態。
・「愛し」→動詞、現在接続法、能動態。
3:24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。
神の命令を守る者は、神のうちにとどまります。神もまた、その人のうちにとどまります。キリストの御名を信じ、互いに愛し合う者は、神のうちに留まり、神もその人のうちに留まられます。愛していることは、永遠の命を持っていることの確かな証しなのです。
神がその人のうちに留まっておられることは、御霊によって分かるのです。御霊が内住しておられるので、愛することができるのです。私たち自身が御霊による自分の行いを見ることができるのです。それによって分かります。心の中に示されるということではありません。今日、御霊の示しを直接受けることはできません。御霊は、そのような奇跡を行うことはありません。