ヨハネ16章

16:1 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。

 イエス様は、弟子たちが迫害されることを話されましたが、あらかじめ話しておくことで、彼らが躓かないためです。

16:2 人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。実際、あなたがたを殺す者がみな、自分は神に奉仕していると思う時が来ます。

 弟子たちは、会堂から追放されます。会堂は、神の民の日常の霊的活動の中心です。安息日ごとに集まります。しかし、そこから追放されることで、神の民とは見做されない時が来るのです。また、殺される者もあります。しかも、そのように迫害する者は、自分が神に奉仕していると思うのです。

 神に対する奉仕として迫害するのですから、それは、徹底したものになります。

16:3 彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。

 彼らは、神に奉仕していると思いながら、神とイエス様を知らないのです。

16:4 これらのことをあなたがたに話したのは、その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしは初めからこれらのことを話すことはしませんでした。それはあなたがたとともにいたからです。

 これらについて話されたのは、後に弟子たちが迫害された時、思い出すためです。迫害する者は、神の側に立っている立場をとります。しかし、その彼らは、神を知らず、主イエス・キリストを知りません。そのような彼らを恐れる必要はないのです。

 イエス様は、初めからそれを話されませんでした。ともにいたからです。その迫害は、イエス様が一身に負われました。イエス様がいなくなった時、その迫害は、弟子たちに向けられます。弟子たちが堅く立つためです。

16:5 しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、『どこに行くのですか』と尋ねません。

16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。

 弟子たちは、イエス様が「どこに行くのですか。」と尋ねないと言われました。彼らの心は、イエス様がどこへ行かれるかを考えるよりも、イエス様がいないことで、自分たちが受ける苦しみを思い、心が悲しみで満たされていたからです。

16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。(なぜならば、)去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。

 その時には、イエス様は、いなくなりますが、イエス様が去って行くことで、代わりに助け主が遣わされます。イエス様が去って行かないと遣わされないのです。それで、イエス様が去って行くことは、弟子たちにとっては益であることを示されました。

 助け主の意味するところは、弟子たちが神の御心を行い、神の良い評価を受けるために働かれるからです。彼らが報いを受けるられるように、完全な者に変えます。

・「助け主」→法廷で立証する証拠を与える人。正しい判定を引き出す弁護士。

16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 聖霊の働きが列挙されています。その方は、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかにされます。これが、助け主すなわち弁護士としての働きです。神の法廷における評価を基準として、物事を明らかにされます。

16:9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。

 神の評価に対して義とされることは、イエス様を信じることによります。少なくとも、イエス様を信じる時、罪赦され、義とされ、永遠の滅びから救い出されます。

 そして、信者が罪を犯さないことも、イエス様を信じることによります。私たちが内住の罪に支配されず、神の御心を行い、完全な者とされ、神のさまに至ることができるのは、イエス様に対する信仰によります。

16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。

 神の前に義とされる評価を受けることについて、「あなた方が」イエス様をもはや見なくなることを理由に挙げられました。義は、イエス様の働きとして現されます。その人のうちに住まわれて働かれることで、その人は、義なる歩みができるのです。それは、イエス様の御在生当時のことではありません。天にお帰りになられてからのことです。具体的には、御霊が下ってからのことです。完全な義は、御霊によります。信仰により、内にお住みになられる主イエス様によるのです。

 それ以外の方法ありません。肉の行いではないのです。律法を守ることでもありません。イエス様を信じることにより、御霊の働きによることで、内に住まわれるイエス様によります。

16:11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。

 裁きを受け、評価される時、悪魔がすでに裁かれていたことが評価の基準となります。悪魔が存在し、働いていたことは、考慮されないのです。この世を支配する者がいたことを、義の行いができなかったことの言い訳とすることはできないのです。悪魔は、肉に働きかけます。そして、欲望のままに生きるように働き、あるときは罪を犯させるのです。しかし、その悪魔は、すでに裁かれたのです。悪魔は、今も働いていますが、無力です。十字架の御業により、罪は、処罰されたのです。信じる者は、義とされます。さらに、悪魔よりも強い方が、内に住まわれ、肉にはよらず、律法の要求を満たすことができるのです。その評価は、肉にはよらず、御霊によって神の御心を行い、義の実を結んだことに対するものです。どれだけイエス様を現したかが評価されます。なぜならば、その御霊の働きは、御子と同じ姿に変えることであるからです。イエス様は、人として、御霊により、完全に神の御心だけを行い、義とされたのです。

 御霊に満たされることは不可能だと信じている方がいます。肉がある限り、罪を犯して、義の歩みができないと言う方もいます。しかし、私を愛し、私のために命を捨てた神の御子を信じる信仰がそれを可能にします。その信仰が要求されているのに、信じないのです。

 自分には、肉があるので、義の行いをすることはできないと言われるとき、肉の背後に働いている悪魔の働きによってできないのだと言うことと同じです。しかし、もう悪魔は、裁かれたのです。無力なのです。

16:12 あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。

 聖霊の働きは、すべての真理に導くことです。真理は、神の御心です。それを行うために全てを教えます。それで、真理の御霊と言われました。それは、啓示という方法を取られます。私たちが知るべき全てを知らされるのです。その言葉は、新約聖書として完成しました。

 この時、弟子たちに全てを伝えることはできませんでした。弟子たちは、それに耐えることができませんでした。

16:14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。

16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。

 さらに、御霊は、イエス様の栄光を現します。それは、父が持っておられるものですが、イエス様の栄光として現されます。父がイエス様に全てを与えられたからです。その栄光を弟子たちを通して現されます。言葉については、すでに語られました。ここでは、信者を通してイエス様の栄光が現されることです。その働きは、御霊によります。私たちをイエス様と同じ者に変えて、栄光を現されます。

16:16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」

 イエス様は、しばらくすると見なくなると言われ、十字架に命を捨てることを示されました。そして、見ると言われよみがえらされることを証しされました。

16:17 そこで、弟子たちのうちのある者たちは互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』、また『わたしは父のもとに行くからだ』と言われるのは、どういうことなのだろうか。」

 弟子たちには、イエス様の言葉は理解できませんでした。

16:18 こうして、彼らは「しばらくすると、と言われるのは何のことだろうか。何を話しておられるのか私たちには分からない」と言った。

16:19 イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。

 弟子たちは、そのことを口にしました。イエス様は、弟子たちが尋ねたがっているに気づいてご自分からさらに話をされました。

16:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。

16:21 女は子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。

16:22 あなたがたも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

 イエス様は、ご自分の死とよみがえりについて、直接話はされませんでした。しかし、弟子たちがその時大きな悲しみを経験することを話しておきました。世は、喜ぶのです。しかし、それが喜びに変わることを、子を産む女に例えて、再び会うことで、喜びに変わることを示されました。喜びに満たされ、その喜びは、もはや誰も奪うことができません。

 この喜びは、単にイエス様に会うことだけではありません。お会いしても、四十日後には、天に帰られるからです。イエス様がよみがえらされたことは、この方が公に神の御子であることが明らかにされることです。弟子たちは、イエス様の死を経験します。また、迫害を恐れます。しかし、十字架にかけられた方が神の御子であることが明らかになります。その方が今も生きていることを知るのです。彼らは、大きな喜びを味わうのです。

16:23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。

 その日といわれる、よみがえられて後には、イエス様に何も求めなくなります。それは、その日には、イエス様の名によって父に求めるならば、父がそれを与えてくださるからです。

・「尋ね」る→熱心な求め、要求。聞くことあるいは、質問することではない。

16:24 今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 それは、弟子たちの喜びが満たされるためです。神の恵みを知って喜ぶのです。今まで、父なる神様にイエス様の名によって求めたことはありませんでした。父なる神様に求めるならば、受けるのです。喜びに満たされます。

 私たちの喜びは、私たちが神の御心を行い、完全な者となり、キリストと同じ者に変えられることです。そして、それに対して御国において豊かな報いを相続することです。父は、それを実現させてくださいます。

16:25 わたしはこれらのことを、あなたがたにたとえで話しました。もはやたとえで話すのではなく、はっきりと父について伝える時が来ます。

16:26 その日には、あなたがたはわたしの名によって求めます。あなたがたに代わってわたしが父に願う、と言うのではありません。

16:27 父ご自身があなたがたを愛しておられるのです。あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからです。

 父がその求めを聞いてくださるのは、父ご自身が弟子たちを愛しておられるからです。父が弟子たちを愛する理由は、弟子たちがイエス様を愛したからであり、イエス様が神の元から出てきたことを信じたからです。

 イエス様が代わりに願ってあげるのではなく、父が喜んで聞いてくださるのです。父なる神様と深い交わりに入れられることがわかります。

16:28 わたしは父のもとから出て、世に来ましたが、再び世を去って、父のもとに行きます。」

 そして、父から出て、世に来られ、再び世を去って父の元に行かれることを示しました。

16:29 弟子たちは言った。「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。

 イエス様が語られたことが、例えではなく、はっきりと直接的に語られたことであることが弟子たちにわかりました。

16:30 あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要もないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」

 弟子たちは、イエス様が神の元から来られたこと、そして、父に愛されている方であり、父が遣わされた方であることをはっきりと知り、信じました。それは、イエス様がすべてのことを知っておられることを知ったからです。ですから、イエス様に何か求める必要はないのです。神である証拠や言葉を求める必要はないのです。弟子たちは、イエス様が神から来たことを信じました。

・「尋ね」る。→熱心な求め、要求。聞くことあるいは、質問することではない。

16:31 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは今、信じているのですか。

16:32 見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています。あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、わたしを一人残します。しかし、父がわたしとともにおられるので、わたしは一人ではありません。

 弟子たちは、今信じていました。しかし、彼らは、残念ながら散らされる時が来るのです。自分のところに帰るのです。自分の身の安全を考え、イエス様について行くことができないのです。イエス様を一人残す時が来るのです。

 ただ、イエス様に関しては、一人ではなく、父がともにおられるのです。父の御心を全うされます。

16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」

 イエス様がこれらのことを話されたのは、弟子たちがイエス様にあって「完全さ」を得るためです。世にあっては、苦難があります。しかし、そのような中で、神の御心のうちを歩み完全なものとされ、キリストと同じ者に変えられるためです。苦難は、そのような歩みを妨げる力となります。しかし、勇気を出すのです。それは、不可能ではありません。なぜならば、イエス様は、すでに世に勝ったからです。この世において、肉体を取られて歩まれましたが、聖霊によって歩み、一切肉にはよらず完全に神の御心を行ったからです。それと同じ歩みができることを示されたのです。信仰によってイエス様がその人のうちに住まれるからです。そして、イエス様が業をなすからです。

 なお、イエス様と一つになって歩むならば、「平安」があるという話ではありせん。パウロは、「大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。」コリントの状態を知って「平安」ではなかったのです。これは、パウロの霊的状態によらないのです。むしろ、霊的に高いところを歩むほど、兄弟のことで心を痛めるのです。

コリント第二

2:4 私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を、あなたがたに知ってもらうためでした。

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・「平安」→神のみこころを行うことで得られる完全さ。

・「これらのことをあなた方に話したのは」→今まで話をした目的を明らかにし、完全になることであると示されました。今まで話されたことは、以下のとおりです。

13章

・足を洗い合うこと。すなわち、自分を低くし、仕え合い、教えあうこと。

 イエス様に遣わされた者を受け入れる者は、イエス様を受け入れること。

・ユダが裏切ること。

・新しい戒め。私があなた方を愛したように、互いに愛し合うこと。

14章

・父の家には、住まいがたくさんあること。また来て迎えること。

 父のもとで栄光を受ける時が来るので、心騒がせる必要はない。

・わたしが道であり、真理であり、命なのです。

 そこに至る道として、イエス様ご自身を通して行くことを示された。それは、実を結んで報いを受けることで、命を獲得することです。イエス様を信じない者は、父の元に至ることはない。

・わたしを見た者は、父を見たのです。

・わたしを信じる者は、わたしの業を行い、またそれよりも大きな業を行います。

 わたしの名によって何かをわたしに求めるならば、それをしましょう。

 父は、もう一人の助け主をあなた方にお与えになります。その方は、いつまでもともにおられる。その方は、真理の御霊。真理すなわち神の御心を行わせ、神の法廷に立ち良い評価を受けるために証拠作りをされる方が与えられる。

 あなた方を捨てて孤児にはしない。戻ってきます。あなた方はわたしを見ます。わたしが生きるので、あなた方も生きるからです。これは、単によみがえられた姿を見るだけでない。数十日で、また、見なくなるからです。これは、御霊が与えられることと関連して、主が弟子たちとともにおられて、その人を通して主ご自身を現されること。その人をとおして、主が業をなさり、主と同じ者に変えること。

 その説明として、その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。父と主が一つであられて、主が父の業をなしたように、主が、私たちにおられて主の業をされること。

 その前提として、戒めを保ち、それを守る人で、それは、主を愛することです。その人は、父に愛されます。主と父は、その人のところに来てその人とともに住みます。

・御霊は、イエス様が話したすべてのことを思い起こさせます。そして、イエス様は、イエス様が完全であられたように、完全さを与えます。御心を完全に行う者とされます。イエス様と同じ者にされるのです。

15章

・ぶどうの木のたとえ。すなわち、実を結ぶためには、主の言葉を守り、主の愛にとどまることが必要。父は、実を結ばせるために働かれる。

・イエス様にとどまるならば、欲しいものを求めるときにそれが叶えられる。

・その戒めとは、イエス様が弟子たちを愛されたように、互いに愛し合うこと。

 その模範として、イエス様は、友のために命を捨てるというこれ以上ない愛で、弟子たちを愛された。弟子たちが友であることも示された。父から聞いたことを知らせたから。

 弟子たちが選ばれているのは、実を結ぶため。そして、その実が残るため。それは、永遠の報いを受けることで残る。父に求めるものはなんでも与えられて、実を結ぶことができる。

・迫害を受ける。その中で、主を現す者として証しする。

16章

・迫害があることを話したのは、躓かないため。

・イエス様は、去っていくので、あらかじめ迫害があることを話された。今までは、迫害は、イエス様が一身に受けておられたから。

 しかし、イエス様が去っていくことは、益になる。御霊が遣わされるから。御霊は、世に罪、義、裁きについて誤りを認めさせる。すべての真理を教える。イエス様の栄光を現す。

・そのときには、父が直接求めを聞かれる。弟子たちがイエス様を父から出てきたと信じたので、弟子たちを愛しているから。

 13章からの一連の話は、イエス様が私たちのうちにあって業をされること。それは、内住される御霊の働きによります。そして、実を結ぶことです。それができるには条件があり、主の戒めとして互いに愛し合うことを実践することが必要です。それが主を愛することです。その人は、父に愛され、主がご自分を現されるのです。

 主が十六章の締めくくりとして、一連の話をされた理由を示しました。それは、今まで語られた内容の要約であり、目的です。それが、「平安を持つため→完全さを持つため」です。

 なお、「平安を持つ」ことは、すでに見たように、一連の話とは関係ないことです。