ヨハネ15章

15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。

 この例えは、信者が実を結ぶことに関するものです。

 まことのぶどうの木と言われたのは、真に価値ある実を結ばせる元になるものであるからです。枝だけでは実を結びません。主にとどまっていて初めて実を結ぶことができるのです。その実は、ぶどうの木に依存しているのです。主が実を実らせます。

 父は、農夫として働かれます。実を結ぶための管理をされます。

15:2 わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多く実を結ぶように、刈り込みをなさいます。

 父は、農夫として実を結ばない枝を取り除きます。役に立たない無用なものとして取り除かれます。実を結ばせることが目的ですから、実を結ばないものは、取り除かれます。

 取り除かれた枝は、投げ捨てられ枯れます。

 実を結ばない枝は、ミナの例えやタラントの例えに記されているように、預かったものを全く用いない人のことです。彼は、預けられたものを取り上げられます。もはや商売の機会を失うのです。彼は、実を結ぶことに関して信仰を持たない者です。

 実を結ぶものは、全て刈り込みをされます。その目的は、もっと実を結ぶためです。

なお、この枝を信者の立場とし、「父がそれを取り除き」の部分に関して、信者は救いの立場を失うことがないのだから、「取り除く」と訳すのでなく、枝を「持ち上げる」と訳す解釈があります。しかし、これは、信者が実を結ぶかどうかということを問題にしていて、救いの立場を失うかどうかということを論じていません。そのことは、次の節に話を聞いている弟子たちが「すでにきよい」と言われているからです。

15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。

 弟子たちは、イエス様の言葉を信じた者としてすでに清いのです。彼らは、罪から清められているのです。

・「きよい」→混じりけがない。神によって清められている。罪の汚れた影響を受けないこと。

15:4 わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 実を結ぶ条件が示されています。それは、イエス様にとどまることです。そうするならば、イエス様がその人にとどまられます。そうしないと実を結ばないのです。その人は自分だけでは実を結ぶことはできないのです。すなわち、肉によって実を結ぶことはありません。イエス様がその人の内におられて実を結ぶのです。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。

 もう一度繰り返されました。人がイエス様にとどまり、イエス様がその人にとどまっているならば、その人は多くの実を結びます。一方で、イエス様を離れたら実を結ばないのです。何もすることができません。良い行いをしているつもりでも、イエス様にとどまっているのでなければ、全く実を結ぶことにはならないのです。

 全ての信者がこのようにイエス様にとどまっている状態にあるかといえば、必ずしもそうではありません。

15:6 わたしにとどまっていなければ、その人は枝のように投げ捨てられて枯れます。人々がそれを集めて火に投げ込むので、燃えてしまいます。

 そして、イエス様にとどまっていなければ、その人は、枝のように投げ捨てられ、枯れます。すでにイエス様を離れて実を結ばない状態にあるので、投げ捨てられるのですが、枯れることで、もはや決して実を結ばない者とされます。

 枝は、集められて火に投げ込まれ、燃えてしまいます。

 投げ捨て、枯らすのは、三人称単数で、父のことです。集めて燃やすのは、三人称複数です。このような裁きを受けるのは、キリストの裁きの座でのことです。人の行いが評価されます。その時、実を結ばない人々も火による評価を受けますが、実を結ばない形だけの歩みは、燃えてしまいます。本人は、火の中をくぐるようにして助かりますが。

 なお、「人々」には、裁きの座で人を裁くような権限も力もありません。「人々」と訳されている語を捉えて、これは、人々から信者らしくないことを批判されて恥を受けることとする解釈があります。動詞が三人称複数になってはいますが、主語が人々であるとする根拠にはなりません。

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。

 イエス様は、何でも欲しい物を求めるならば、それは叶えられると示されました。求める人がイエス様にとどまり、イエス様の言葉がその人にとどまるならば、求めるものは何でも叶えられるのです。当然求める事柄は、主の御心に適ったものであることは明らかです。求めることは、主と一つのことです。主は、喜んでその願いを聞かれます。

15:8 (この中で:前節のことによって)あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。

 このように、主が願いを聞かれることで、彼らが多くの実を結び、また、イエス様の弟子となることで、父は栄光をお受けになります。

 弟子としての条件は、自分を捨て、十字架を負って、イエス様についていくことです。そして、主によって歩むことで実を結びます。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。

15:10 わたしがわたしの父の戒めを守って、父の愛にとどまっているのと同じように、あなたがたもわたしの戒めを守るなら、わたしの愛にとどまっているのです。

 イエス様が彼らを愛された程度は、父がイエス様を愛されたように愛されたのです。父にとっては、御子は、最愛の方です。イエス様にとって弟子たちは、最愛のものとして愛したのです。弟子たちに関しては忍耐しなければならないことがたくさんありました。しかし、イエス様は、父が御子を愛するほどに最愛のものとして愛されたのです。それで、その愛にとどまるように命じられました。弟子たちが主にとどまることができる動機づけがここにはあります。主によってかけがえのない者として愛されているのです。その愛に応えて、主に留まるのです。

 留まることは、主の戒めを守ることです。それが愛に対する応答です。主は、父に愛され、父の戒めを守っておられました。それが父の愛に留まることです。

 留まることは、主の戒めを守ることであり、主の愛に応えることであるのです。

15:11 わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。

 彼らが主に留まり、主の戒めを守ることで、主は、彼らを喜ばれます。主の喜びは、そこにあるのです。そして、そのことは、彼ら自身の喜びとなって満ち溢れます。父と主の、愛と喜びを経験できるのです。主と一つになって歩むことができるのです。これは、彼らにとって大きな喜びとなります。さらに、彼らは、御国で報いを相続するのです。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 主イエス様の戒めは、互いに愛し合うことです。その愛の程度について示されて、イエス様が彼らを愛したように愛するのです。

15:13 人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 その愛の程度についてさらに示されました。それは、人が友のために命を捨てる愛であり、これよりも大きな愛は誰ももっていないことを示されました。そして、イエス様の愛は、その友として命を捨てる愛であることを示されました。

15:14 わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 主は、彼らと友の関係であることを示されました。その友のために命を捨て、これ以上ない愛を示されたのです。それは、十字架によって現される愛です。

 友としての条件は、イエス様が命じられることを行うことです。イエス様が命じられたことを行わないならば、友ではありません。そのような人は、イエス様の愛を深くは知っていないのです。その愛を知って応える人こそ、友なのです。

15:15 わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

 イエス様は、彼らとの関係について、もうしもべとは呼ばないと言われました。その理由は、彼らに父から聞いたことを知らせたからです。それは、もはやしもべではなく、友の関係です。

 しもべは、自分が主人から命じられたことをなす時、その目的を知らないでなすことがあります。しかし、友は、その目的を知り、自ら愛によってなすのです。主人にとっては、しもべに目的を知らせなくてもいいのです。命じた通りに行えば良いのです。しかし、友に対しては、その目的を話します。友は、それを知った上で、友として行動するからです。

15:16 あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。

 彼らは、主が選んだのです。彼らは、主を見て信じましたが、彼らが選んだのではなく、主が選ばれたのです。また、任命されたのです。その目的は、彼らが行って実を結ぶためです。そして、実が残るようになるためです。実が残ることは、その実に対して御国で報いを受けることです。結んだ実は、永遠の評価を受けて残ります。

 さらに、主の名によって求めるものを全て父が与えてくださるようになるためです。それによって、主の御名が崇められ、父が栄光を受けるためです。信者をとおして、主の名によって父の御心に適う願いがなされ、それを実現した父に栄光が帰せられるためです。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。

 実を結ぶことは、互いに愛し合うことを実践することです。これは、主の命令です。

15:18 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。

 次に、世が彼らを憎むことについて話されました。彼ら自身が悪いのではなく、イエス様を憎むがゆえに憎むことを知っておくように言われました。

15:19 もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。

 彼らがこの世のものであったならば、世は彼らを愛したのです。これによって、彼ら自身を初めから憎んでいるのではないことを示しました。

 彼らが憎まれるのは、この世のものでないからです。イエス様がこの世から選び出したのです。それで、世は憎むのです。

15:20 しもべは主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたも迫害します。彼らがわたしのことばを守ったのであれば、あなたがたのことばも守ります。

 主である方は、すでに迫害を受けました。それで、彼らも迫害を受けるのです。人々がイエス様の言葉を守るのであれば、弟子たちの言葉も守ります。弟子たちには、主であるイエス様にまさる者ではないことを覚えておくように言われました。イエス様が迫害を受けるのだから、当然弟子たちも迫害を受けるのです。

15:21 しかし彼らは、これらのことをすべて、わたしの名のゆえにあなたがたに対して行います。わたしを遣わされた方を知らないからです。

 彼らがそのように主の名のゆえに迫害するのは、イエス様を遣わされた方すなわち父について知らないからです。

15:22 もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今では、彼らの罪について弁解の余地はありません。

 彼らは、イエス様が父から遣わされたことを聞いていながらイエス様を迫害したのです。彼らの罪は明白です。

15:23 わたしを憎んでいる者は、わたしの父をも憎んでいます。

 イエス様を憎んでいることは、父を憎むことです。遣わされた者を憎むことは、遣わした方を憎むことであるのです。

15:24 もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。

 イエス様は、奇跡の業を行いご自分が神から遣わされた者であることを証しされました。それを見ていながらイエス様を憎んだのですから、彼らの罪は明らかです。

15:25 これは、『彼らはゆえもなくわたしを憎んだ』と、彼らの律法に書かれていることばが成就するためです。

 そのことはすでに預言されていて、「彼らはゆえもなくわたしを憎んだ」と記されています。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。

15:27 あなたがたも証しします。初めからわたしと一緒にいたからです。

 世はイエス様を憎むのです。しかし、イエス様について御霊が証しされます。父から出る真理の御霊です。その方は、父の御心を示し、また、その御心の内を歩ましめてくださいます。人を変えてイエス様を現し、愛のうちを歩ましめ、イエス様が神から遣わされた方であることわ証しされるのです。

 弟子たちも証しします。初めからイエス様とともにいて、イエス様の言葉を聞き、また、イエス様がどのように歩まれたかを見てきたのです。それに倣って歩み、イエス様を身をもって証しすることになります。