ヨハネ14章

14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

 イエス様が弟子たちと離れられることについて、心を騒がせてはならないことを教えました。心を騒がせないために必要なことは、信仰です。神を信じ、イエス様を信じることでそれが可能です。私たちの恐れは、信じていないところから来ます。

14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。

 父の家には、住む所がたくさんあります。「家」は、ともに住む所で、交わりの場所です。多くの場所があることは、多くの者がその交わりに与ることできることを表しています。これは、すでにあるのです。

 「そうでなかったら」と言われたのは、仮定の話です。実際には、備えられています。それは、父の計画なのです。必ず実現します。但し、イエス様がこのように言われたのは、イエス様の備えが必要であることも明らかにしています。場所は、物理的な場所ではありません。それは、永久に住むことができる備えのことです。それは、主が四節でその道を通って行かれることです。それは、神の御心の実現であり、十字架の御業です。

・「住む所」→長く、永久的に住む所。一時的でない。なお、英語訳では、mansionと訳され、大邸宅を意味していますが、整合しません。これは、父の家にある住む場所を指しています。但し、これは、物理的な家ではないことは明らかです。住む所ですが、住むことができるように備えることです。

14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

 「行って場所を備える」ことは、物理的な場所でないことは明らかです。それは、弟子たちが永久に住むことができる備えのことです。その備えは、十字架の御業により備えられます。そして、単に信仰によって、いわゆる救いの立場を持つだけでなく、六節の道、真理、いのちに歩むことで、栄光に与ることも含まれています。

14:4 わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」

 備えに行くと言われたその道について言及しているのは、その道をとおして備えがなされることを表しています。その道について弟子たちは知っていると言われました。それは、すでに話されたことです。十字架の道を通って行かれるのです。

14:5 トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」

 トマスは、その道が分からないと言いました。その道を知りたいと願いました。

14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

 イエス様は、その道について示されました。しかし、それは、直接イエス様の行かれる道について示したのではなく、イエス様を信じる者が父の身許に行く道について示されました。このことを語るのは、その道が弟子たちが通る道ですが、イエス様ご自身がその道を通られたからです。

■「わたしが道であり」

 後半に言われているように、イエス様を通してでなければ、父の身許に至ることはできません。イエス様を信じて、義とされ、愛に応えて歩み、自分の内に住まれるイエス様によって歩むのです。

 それは、イエス様が父の御心のうちを歩まれたことと同じです。父の愛に応え、父の御心を行われたのです。すでにイエス様は、その道を歩まれたのです。そして、十字架にまで従われるのです。

■「真理であり」

 真理とは、神の御心を行うことです。主の道に歩むとは、神の御心を行うことであるのです。

■「いのちなのです」

 いのちは、主とひとつになって歩むことで経験できます。主イエス様が父と一つなって歩まれたのと同じです。主は父におられ、父は、主におられました。

 そして、神の御心を行う歩みは、いのちとしての永遠の報いをもたらします。

14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」

 主を知るとは、主と同じ歩をすることで体験として知ることです。もし、主を知っているならば、父をも知ることになります。それは、主イエス様御自身が父の業を行っておられるからであり、主をとおして父が業をしておられるのです。ですから、父をも知ることになります。

 「すでに父を見た」と言われましたが、それは、父を知ることになると言われた言葉に続いて語られていることで、この見るというのは、「知る」ことを意味しています。これは、霊的な理解を意味する言葉です。ですから、すでに主とともに歩むことで父を霊的に知っているということを言っています。

・「知る」→個人的に、直接的な経験として知ること。

・「見る」→目で見ること。それとともに、霊的な経験(体験)として知ること。

14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 ピリポが求めたことは、肉眼で見ることです。

・「見せ」→目で見ること。

14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た(見る、霊的な経験として知る)人は、父を見た(見る、霊的な経験として知る)のです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せ(目で見ること)てください』と言うのですか。

 ピリポは、長い間イエス様とともにいましたが、イエス様を経験として知ることがありませんでした。ピリポの理解は、非常に低いものでした。イエス様が父と等しい神であることを自分の経験として知ることがなかったのです。

 イエス様は、ピリポとは違う意味の「見る」という語を使いました。それは、霊的な経験として知ることを意味する言葉です。イエス様を知っていたならば、父をも知っているのです。目で直接父を見なくても、父がどのような方か知ることできるのです。

14:10 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。

 彼らが父を知るためには、信仰によって、父がイエス様のうちにおられることを認めなければなりません。信じていないのですかと問われました。

 その証拠として、イエス様が語られる言葉は、父がイエス様のうちにおられ、御自分の業として行われているのです。

 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」と語られましたが、そこには、信者の歩の完全な模範があるのです。主イエス様が父によって歩んでおられたことなのです。

14:11 わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。

 イエス様は、父がイエス様のうちにおられることを信じなさいと言われました。信じられないのであれば、業のゆえに信じなさいと言われ、その証拠を示されました。

14:12 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。

 イエス様を信じる者は、イエス様が行っている(現在形)業を行います。これは、将来のことは含められていません。さらに大きな業を行うでしょうと言われましたが、この時点でイエス様は、十字架にお掛かりになっていません。ですから、弟子たちが命を捨てて御心を全うすることは、さらに偉大な業であるのです。それができるのは、イエス様が父のもとに行かれて栄光を受けられたように、信じる者もその栄光を受けることを知るからです。

 イエス様を信じる者の内にイエス様はおられ、イエス様の業をなすのです。

14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは、何でもそれをしてあげます。父が子によって栄光をお受けになるためです。

 弟子たちがイエス様の名によって求めることは、イエス様の名すなわちその特質あるいは御本質に相応しい求めをすることです。イエス様が弟子たちのうち実現しようとすることを求めることです。イエス様が弟子たちのうちで事を行われてイエス様の栄光が現されることを求めるのです。そうすれば、イエス様は何でもそれを行われるのです。それによって、弟子たちを通してイエス様の業がなされ、父が栄光を受けられるからです。

 具体的な例として、兄弟姉妹を愛して良いことができますようにと祈るならば、それは、イエス様がしようとしている業です。その人をとおして、兄弟姉妹に対する愛が現されます。それは、イエス様の業であり、父の御心として行われる業ですから、イエス様によって父に栄光が帰せられます。

14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。

 「わたしの名によって」求めるとすれば、イエス様の名に恥じない、イエス様の名にふさわしいものを求めます。さらに言うならば、イエス様の栄光となることを求めるのです。そうするならば、イエス様がそれをしてくださいます。

14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

 弟子たちがなんの目的で祈るかをはっきりさせました。イエス様の戒めを守るためです。その中で、求めるのです。それは、主を愛してのことです。主が十字架の業によって大きな愛を現してくださいました。その愛に応えて、戒めを守るのです。

14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

 イエス様が弟子たちのうちにあって業をなして栄光を現されるのですが、それとともに、助け主を与えてくださることも示され、その助け主は、いつまでもともにいることを語られました。

・「助け主」→弁護士。法廷の判決で、納得のいく立証をするための証拠を提出する人。信者にとって、その方は、神から良い判決すなわち良い評価を受けるための証拠作りをする人。その人のうちにあって証拠となる良い行いをする人。神の裁きに備えて、働く方として、このような表現が使われている。

14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。

 この方が助け主として働くのは、真理のためです。真理の御霊と紹介されています。真理とは、神の御心を行うことです。御霊は、神の御心を行うために働くのです。それが、神の法廷における良い評価の証拠となります。

 世は、この方がどのような方であるかを考えようとしません。見るとありますが、霊は、見ることはできません。知ろうとしないことです。

・「見る」→分析するためにじっくり見る。

・「知る」→直接的な経験として知ること。

14:18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。

 主は、戻って来ることを告げられました。

14:19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。

 「見る」は、じっくり見ることを表しています。世が見なくなるのは、視覚的に見なくなるのです。しかし、弟子たちは見ます。その理由が示されていて、イエス様が生きるからです。この生きるは、よみがえることです。そして、弟子たちも生きることになるからです。すると、これは、視覚的に見ることではないのですから、弟子たちが生きるとは、肉にはよらず御霊によって歩むことを言っています。その中で主を知ることを言っています。 

14:20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。

 続く話でも、そのことが明確に示されています。その日には、主が父の内におられることが分かります。すなわち、主は、父の御心の内を歩むんでおられることがわかるのです。それと同じように、弟子たちも主の内に居るのです。それは、主の御心の内を歩むことです。そして、主は、弟子たちの内におられて御心を行われるのです。信仰により、主はその人の内に住んでくださいます。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」

 主の内にいることは、主の戒めを守ることです。それは、主を愛してなされることです。主の愛に応えて戒めを守ります。

 主を愛している人は、父に愛されます。父にとっては、御子は、最愛の方です。父は、喜んで愛してくださいます。

 そして、主イエス様もその人を愛してくださリ、御自分を現されます。この現すことは、視覚的に現すことではありません。誰も目でイエス様を見ることはないからです。これは、イエス様がその人をとおして働かれることで、その人をとおしてイエス様が現されることです。そのようにして、その人の体験として主を知ることになります。

14:22 イスカリオテでないほうのユダがイエスに言った。「主よ。私たちにはご自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」

 ユダは、世にご自分を現そうとしない理由を尋ねました。

14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 イエス様は、御自分を現すことについては直接説明しないで、先程語った言葉を繰り返されました。御自分を現すのは、イエス様を愛してその戒めを守る人に対してであり、父に愛される人にです。そのうえで、現すことに加え、父と、主イエス様がその人のところに来て、その人とともに住むことを語られました。住むことは、いつまでも共にいる事を表します。

14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。

 イエス様の言葉を守らないのは、イエス様を愛していないからです。イエス様の言葉は、イエス様を遣わされた父の言葉です。ですから、それは、父を愛して父の御言葉を守ることでもあります。

14:25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 父は、イエス様の名によって聖霊を遣わされます。その方は、「助け主」です。これは、法的な代弁者あるいは弁護士を指します。その方は、弟子たちに全てのことを教えます。これは、人が知るべき全てのことです。そして、主が話されたすべてのことを思い起こさせます。その言葉は、聖書として完成します。福音書も手紙も、預言も全て聖霊によって示されたことです。

14:27 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 聖霊は、教えを与え、イエス様の言葉を思い起こさせます。示されることは、端的には、神の御心を行って、御国で報いを受けることができる歩みをすることです。求められていることは、神のさまにまでなることです。イエス様と同じものに変えられることです。

 多くの人は、それが自分にできるかどうかを考えるとき、不可能だと考えます。人には無理であると。罪深い者であり、弱い者であると考えます。それに対して、心を騒がせてはならないこと、ひるんではならないことを示されました。

 イエス様は、それができると言われるのです。それで、「完全さ」を残すとも、また、イエス様の完全さを与えるとも言われるのです。イエス様と同じものになることができるのです。これは、教えを受ける者にとって力強い励ましになります。

 なお、教えに、すなわち神の御心に適う者になるというそのような目的に対して、ここでの訳「平安」はほとんどなんの意味も持ちません。平安であっても神の御心を行うことができなければ、価値はありません。

・「平安」→神の御心を行うことで与えられる完全さ。

14:28 『わたしは去って行くが、あなたがたのところに戻って来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを、あなたがたは喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

 イエス様が父のもとに行くことを弟子たちが喜ぶように求めました。それは、偉大な父のもとに行くことがイエス様の偉大な栄光の現れとなるからです。父から栄光を受けられます。

14:29 今わたしは、それが起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったとき、あなたがたが信じるためです。

 イエス様は、弟子たちが信じるためにこれらのことを予め話されました。

14:30 わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。

14:31 それは、わたしが父を愛していて、父が命じられたとおりに行っていることを、世が知るためです。立ちなさい。さあ、ここから行くのです。

 イエス様には、もう弟子たちに多くを話す時間がありませんでした。この世を支配するサタンが来るからです。しかし、サタンがイエス様を支配することはありせん。何もすることができないのです。それによって、イエス様の行われることは、全て父が命じられたことであり、その通りを行っていることを世が知るためです。サタンの働きで十字架にかかるわけではありません。父の計画通りであり、主イエス様によって完全に成し遂げられることであるのです。

 イエス様は、席から立たれました。