ヨハネ13章

13:1 さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。

 イエス様は、この世を去る時が来たことを知られました。それで、今まで弟子たちを愛して来られましたが、この時、弟子たちに現すべき愛を完結させるために、愛されたのです。彼らに教えるべきことがあり、そして、最後には、父に祈り、父に委ねています。

 「最後まで愛された」とは、今まで弟子たちを愛してこられましたが、最後の晩に、その愛の目的を果たしたことを表しています。弟子たちに現すべき愛は、ここに完結するのです。

 なお、「最後まで」は、時間的に最後までということではありません。また、愛の程度を示す極みまでということでもありません。

・「最後まで」→終わりに到達する。その全ての結果を伴う終わりのように、到達点。完成。頂点。

13:2 夕食の間のこと、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうという思いを入れていた。

 悪魔は、ユダに働きかけてきたのです。しかし、ユダ自身が金を愛してそれを求めていたのです。悪魔は、そこに付け込みました。ユダは、金のためにイエス様を裏切ることを決心していたのです。

13:3 イエスは、父が万物をご自分の手に委ねてくださったこと、またご自分が神から出て、神に帰ろうとしていることを知っておられた。

 父が与えてくださった万物は、信じた者たちのことです。父が、イエス様に委ねられたのです。そして、神から出て、神に帰ることを知っておられました。それで、弟子たちに対する愛を現されます。

・「万物」→全て。適用されるそれぞれの部分という意味での全てを意味する。ここでは、委ねられたものは、信者のこと。

ヨハネ

17:6 あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。

17:7 あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。

17:8 あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

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 父が御子に与えたものは、イエス様の言葉を信じた人たちです。

13:4 イエスは夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。

13:5 それから、たらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い、腰にまとっていた手ぬぐいでふき始められた。

 イエス様がはじめにしたことは、互いに仕え合うことを教えることです。そのために、まず、模範を示しました。

 弟子たちの足を自ら洗われました。

13:6 こうして、イエスがシモン・ペテロのところに来られると、ペテロはイエスに言った。「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」

13:7 イエスは彼に答えられた。「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」

 ペテロは、イエス様のしていることの意味が分かりませんでした。彼が主と仰ぐ方がそうしたのですから、ペテロは理解に苦しみました。

 イエス様は、後で分かるようになると言いました。

13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足を洗わないでください。」イエスは答えられた。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります。」

 ペテロは、イエス様がしていることの意味を理解していないのに、イエス様がすることを止めようとしました。彼は、主に対して遠慮したのです。

 彼は、人間的な判断でイエス様のなさることを見ていたのです。イエス様が教えようとする深い御心について理解しないまま、彼は、自分の考えを言い表したのです。

13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も洗ってください。」

 さらに、「洗わなければ関係ないことになる」と言われて、彼は、イエス様がされていることを理解していないにもかかわらず、手も頭も洗ってくださるように言いました。

 もし、私たちが聖書の言葉を正しく理解しないまま、人間的な判断や表面的な理解に基づいて行動するならば、ペテロと同じように、見当はずれのことをすることになります。まして、聖書の言葉の正しい理解がないまま、その聖書の言葉を宣べ伝えるならば、未信者に対しても、信者に対しても、非常に悪いものをもたらすことになります。

13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身がきよいのです。あなたがたはきよいのですが、皆がきよいわけではありません。」

 足以外を洗う必要ながないことを示されました。それは、「清さ」の問題です。すなわち、罪の影響がないことです。

 水浴したことは、全身が清いことを表していて、信仰によって罪が清められていることを表しています。しかし、足はさらに清める必要があります。足は、歩みを表していて、信仰によって義とされた人でも、肉が現れることで罪を犯すのです。それは、私たちのうちに住み着いている罪が働くからです。足を洗い合うというのは、その内住の罪が働かないように、責め、戒め、教え合うことです。

 犯した罪について、他の兄弟が何かをすることはできません。その人自身が神の前に言い表すことでその罪は赦されます。また、内住の罪をなくすことはできません。他の兄弟が内住の罪を消すことはなおさらできないことです。他の兄弟ができることは、教えと指導によって導くことです。

 なお、清くない者がいました。

・「清い」→混じり気がない。汚染されていない。比喩的に、霊的に清い。罪影響を受けていないこと。

13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「皆がきよいわけではない」と言われたのである。

 清くないと言われのその人は、裏切る者であり、ユダのことです。彼は、イエス様を信じていなかったのです。

13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。

13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。

13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

 イエス様は、弟子たちに、いましたことの意味を考えさせました。彼らにとっては、先生であり主である方が彼らの足を洗ったのです。彼らも同様にしなければならないと言われました。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

 それは、模範でした。

13:16 まことに、まことに、あなたがたに言います。しもべは主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりません。

 また、足を洗うという行為すなわち教えをすることは、しもべとしてするのであり、主人から遣わされて為すことです。ですから、その働きは、主人に優っていないし、主人よりも自分を高くすべきでないのです。

 人は、他の人を教える働きをなすときに、主イエス様のしもべとしてそれをなすことをわきまえておく必要があるのです。時として、その働きのために自分を偉い者のように考え、自分を高くすることがあるのです。それは、分を超えたことです。すべての栄光は、主人が受けるべきです。

13:17 これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。

 弟子たちがしなければならないことは、互いに教え合い、罪が清められる働きをするのです。すなわち、罪を犯さないように教えるのです。そのとき、主の模範のように、自分を低くして、仕えるのです。主のしもべとしてその働きをするのであり、肉を表し、自分を高くしてはならないのです。それらのことをわきまえて、その働きをするならば、幸いなのです。

13:18 わたしは、あなたがたすべてについて言っているのではありません。わたしは、自分が選んだ者たちを知っています。けれども、聖書に『わたしのパンを食べている者が、わたしに向かって、かかとを上げます』と書いてあることは成就するのです。

 イエス様は、ご自分が選んだ者を知っておられます。分かっているのです。その一方で、その中に、その行いによって幸いな者とはされない人がいることを示されました。イエス様とともに食卓につく親しい交わりを持つ人です。そのような人が、背を向けて去っていくのです。

 彼は、イエス様を信じていないのです。そのような人がいくら他の信者に対する奉仕をしたとしても、何も評価されません。

・「知っています。」→「見る」「分かっている」

13:19 事が起こる前に、今からあなたがたに言っておきます。起こったときに、わたしが『わたしはある』であることを、あなたがたが信じるためです。

 イエス様がこのことを予め告げられたのは、イエス様が「わたしはある」であることを弟子たちが信じるためです。「わたしはある」とは、イエス様が永遠の存在者であるということであり、神であることです。

13:20 まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしが遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。そして、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」

 ここで、互いに足を洗い合うことについて、教える流れでこのことを語られました。十七節に続く言葉です。一人がイエス様を離れることを語られたことは挿入です。十七節では、互いに教え導くことについて教えましたが、ここでは、教えを受ける側について話されました。その働きは、イエス様に遣わされてなす働きです。ですから、その教えを受け入れることが幸いです。それは、イエス様を受け入れることになります。それはまた、父なる神様を受け入れることになるのです。

13:21 イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」

 イエス様が霊を騒がされたのは、ユダがイエス様の間近にいて、全てを見ていながら信じないからです。

 かつて、「霊に憤りを覚えられた」時は、マリヤとユダヤ人の不信仰をご覧になられたからです。彼らは、イエス様を否定していませんでした。いわば信仰を持っていたのです。しかし、そのときには、不信仰になりました。それで、憤られたのです。彼らは、ラザロのよみがえりを見て信じました。しかし、ユダに関しては、全く信じないのです。ラザロのよみがえりを見ても信じませんでした。

 霊が揺さぶられたのは、信仰を持たないことの不幸を深く覚えられたからです。それで、このことを言うのも、ユダに信じる機会を与えるためです。

・「心が騒いだ」→「霊が揺さぶられた」

13:22 弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。

 弟子たちには、分かりませでした。裏切る者がいるなどと考えられないことでした。

13:23 弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。

13:24 そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。

13:25 その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」

 一人のイエス様に愛された弟子がそれが誰であるかを聞きました。この愛された弟子は、自分に対する愛をよく覚えた著者であるヨハネと考えられます。

13:26 イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。

13:27 ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」

 イエス様は、それがユダであることをはっきりと示されました。ユダに決断を迫ったのです。イエス様は、ユダの心をご存じであり、それを示すことができるのです。

 ユダは、そこまでされても、心を変えることがありませんでした。ナタナエルやサマリヤのスカルの女のような心はありませんでした。知り得ないことを知っているのを見たのです。それでも。イエス様を信じる心を閉ざしたので、サタンは、そこに付け込んだのです。信じようとしないならば、悪魔は、その心に働きかけ、そこから引き離すように働くのです。

 イエス様は、ユダが心を変えることなく、却ってイエス様を裏切る思いを強くしたのを見ました。サタンが働いたからです。裏切ることがイエス様に知られたのです。彼は、悔い改めるか、金のために事を実行するかのどちらかしかありませんでした。彼の欲望に、サタンは、強く働きかけたのです。彼は、金を選びました。

 その思いの通りにするように言われました。

13:28 席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。

13:29 ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。

13:30 ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。

 ユダは、すぐに行動しました。彼の心は決まっていたのです。

13:31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。

 人の子の栄光とは、イエス様が十字架にかかることがユダの裏切りで決定的なものになったからです。十字架にかかることがイエス様の栄光です。それは、イエス様が父なる神様の計画の実現のために、命さえ捨てられて、御心を行なわれるからです。

 そして、父なる神様も。イエス様を通して栄光をお受けになられます。独り子の御子を与えることで、神の恵みの栄光が現されるのです。

13:32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。

 父なる神様は、御子に栄光を与えられます。それは、父なる神が御子によって栄光を受けたからです。その栄光は、すぐに与えられます。三日目によみがえらせ、ご自分の右の座に挙げられるのです。

13:33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

 イエス様は、弟子たちから離れて、行く所があることを示されました。弟子たちは、ついていくことができない所です。それは、十字架の御業です。そして、よみがえられた後には、天に帰られます。

13:34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 その弟子たちに求めたことは、互いに愛し合うことです。それも、イエス様が愛されたように愛するのです。

 イエス様が弟子たちと離れられることを話されてから、このことを語られるのは、弟子たちが師と同じように神の御心を行うことは、互いに愛し合うことで実現されるのです。師が不在になるとき、その師から教えを受けた弟子たちが師の教えを守り、師の弟子として証しを立てるのは、彼らが愛し合うことによってです。

 弟子は、互いに愛し合う者であるのです。それが最も大切な振る舞いです。すべての戒めは、ここに集約されます。

13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 互いに愛し合うことで、イエス様の弟子であることが証しされ、すべての人が認めるようになります。それが、弟子に求められていることです。

 イエス様の弟子であることの証明は、互いに愛し合うことです。そのことは、十五章でぶどうの木の例えに続く話の中で示されています。実を結ぶことで弟子として証明されます。イエス様に留まって、実を結ぶことは、イエス様の愛に留まり、互いに愛し合うことです。

13:36 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこにおいでになるのですか。」イ

エスは答えられた。「わたしが行くところに、あなたは今ついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」

 ペテロは、自分たちがついていけない所があるだろうかと思いました。その行き先を尋ねましたが、イエス様は、ペテロは、ついて来ることができないことを示されました。

13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら、いのちも捨てます。」

 ペテロは、イエス様についていくことは、命の危険を犯すことであることを予想していました。

13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにいのちも捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 ペテロが「あなたのために命を捨てる」と言いましたので、イエス様は、「わたしのために命を捨てるのですか」と言われました。それは、非常に価値ある行為です。ペテロは、後には、イエス様のために命を捨てます。この時は、彼が心に思ったことは、主にために大きな犠牲を払う覚悟です。しかし、彼は、三度もイエス様を知らないと言うことを告げられました。