ヨハネ10章
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。
羊は、主のものである人々のことです。三節には、「自分の羊たち」と記されています。
囲いは、羊を守り、外の世界とは区別しています。
その羊を自分のものとして連れ出そうとする盗人や強盗は、門から入らず、他のところを乗り越えてきます。
囲いは、教えです。神の言葉です。乗り越えて来ることは、その教えを超えた教えによって来ることを表しています。人から出た教えを唱え、人々を惑わし、自分に従わせようとする働きをする人のことです。これは、ユダヤの指導者たちの姿です。
囲いの中にいる羊は、古い契約による人々のことです。神を信じ、契約の証しとして律法を守ることが求められています。また、彼らは、キリストが来られることを待ち望み、多くの比喩の中にキリストを示されてきました。この羊たちは、ユダヤ人のことです。
10:2 しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。
門は、神の支配を表しています。かつて裁き司は、門のところに座りました。イエス様は、神のご支配のもとに行動し、神の御心の実現のためにこの世においでになられました。神様はご自分の羊を、牧者の羊として牧者に委ねました。イエス様は、神様の預言どおりにおいでになられたのです。
10:3 門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。
門番は、その牧者が正当な牧者であることを判断することができる人です。それは、ヨハネの役割です。彼は、牧者のために門を開きました。この方が神から遣わされた方であると証言したのです。
羊たちは、牧者の声を聞き分けます。その語ることを判断し、聞き分けることができ、受け入れたのです。
牧者は、自分の羊たちを連れ出します。新しい契約に与らせるためです。
また、ご自分の後に従わせて、導いて行かれるのです。その時、羊たちを一まとめには取り扱うことはしません。一人一人その名を呼んで連れ出すのです。主の導きの働きは、一人一人、個別なのです。
10:4 羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
羊飼いは、羊たちを皆外に連れ出されます。今までは、囲いの中に置かれました。これは、古い契約のことを指しています。契約の証しとして律法を与えたのです。その律法を守ることが契約です。
しかし、今度は、新しい契約を結ばれます。主に従って行くのです。彼らがついて行くのは、その声を知っているからです、声とは、言葉のことです。その語られることを理解し、信じて従うのです。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」
他の人たちには、ついて行きません。なぜならば、その人たちの声を知らないからです。すなわち、その教えを受け入れることができないからです。却って逃げて行きます。自ら拒否するのです。
10:6 イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、イエスが話されたことが何のことなのか、分からなかった。
彼らは、イエス様の例えが分かりませんでした。
10:7 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
イエス様は、別の例えを話されました。イエス様が、羊たちの門であるという例えです。先の話は、門は、イエス様とは別に示されていました。
門は、支配を表します。イエス様が羊たちの門であることは、羊たちは、イエス様の服従して従うことを表しています。イエス様を主と言い表すことは、そういうことです。
10:8 わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
門としてのイエス様と対比されているのは、イエス様の前に来た者たちです。彼らは、羊を支配しようとしましたが、盗人や強盗として働く者たちです。それは、イスラエルの指導者たちのことです。彼らの目的は、自分の欲を満たすことです。羊を食い物にすることです。
羊たちは、彼らの言うことを聞きませんでした。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
門であるイエス様を通って入ることは、イエス様に聞き従うことです。そうすることで救われます。これは、単に救いの立場を得、地獄の滅びから救われることだけを指していません。なぜならば、その救いは、牧草を見つけることを含んでいるからです。牧草は、真の食物であるイエス様のことです。彼らは、それを食べることができます。すなわち、イエス様を知り、イエス様と同じ者に変えられるのです。
出たり入ったりは、彼らの活動を表しています。羊の生活は、牧草を探して食べることです。牧草を見つける条件は、イエス様を通して出入りすることです。イエス様に聞き従うことが条件です。これは、日々の生活のことです。イエス様に従って歩むことで、イエス様を知り、イエス様と同じ者に変えられるのです。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
牧草を見つけることは、いのちを得、豊かに得ることです。イエス様の言葉に従って生きることがいのちを得ることです。イエス様は、そのために来られました。彼らは、イエス様と一つになって御心を行いいのちを経験します。また、そのような歩みに対して御国で報いを受ける者とされます。それがいのちです。
盗人は、盗んだり、殺したり、滅ぼするためです。決して羊の幸いを考えないのです。いのちを与えることはありません。
10:11 わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
イエス様は、牧者として優れた点についても話をされました。良い牧者なのです。良い牧者は、羊のためにいのちを捨てるからです。
10:12 牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
10:13 彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
良い牧者が羊のためにいのちを捨てることに関して、良い牧者でない例として、雇われ人である牧者について示し、良い牧者がいかに尊いことであるかを示しました。雇い人は、羊のためにいのちを捨てることはしません。狼が来ると逃げます。その羊が彼のものではないからです。羊のことに心をかけていないからです。自分の命の方が大事だからです。
しかし、良い牧者は、羊のことを心にかけています。その羊が自分のものであり、大切だからです。
もし、牧者が守らなかったら、狼が羊を奪ったり散らしたりします。狼は、イエス様を信じる者を襲う悪魔のことです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
良い牧者としてさらに示したことは、ご自分のものを知っていることです。そして、イエス様のものは、イエス様を知っています。
10:15 ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
その知る程度については、父とイエス様の関係と同じであることを示されました。完全に知っているということです。
私たちは、主を完全に知る者であるのです。私たちが主と同じ者になることが主の働きです。それはまた、父なる神様と同じ者になることでもあります。その私たちが主を知らないことはあり得ないのです。主を完全に知ることになります。そうでなければ、主と同じ者になることはありません。
主は、ご自分のものを完全にご存じであり、ご自分のもののためにいのちを捨てられるのです。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
この囲いに属さない別の羊は、古い契約を持っていない羊のことです。ほとんどが異邦人です。それらもどうしても導かなければならないのです。「導かなければなりません」と訳されている語は、導くことが「絶対必要である」という意味です。
その羊は、イエス様の声すなわちその言葉に聞き従います。彼らは、異邦人ですが、すでに群れをなしているユダヤ人と一つの群れとなります。一人の牧者であるイエス様が牧されます。
10:17 わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
→「このために父はわたしを愛してくださいます。なぜならば、自分の命を捨てるからです。いのちを捨てるのは、そのいのちを再び得るためです。」
このためとは、イエス様が一人の牧者となることです。羊のことをご存知であり、羊のために喜んで犠牲を払われる方です。羊をご自分のものとして導くことを父は喜んでくださり、愛してくださいます。
その理由が示されています。自分の命を捨てるからです。イエス様の牧者としての偉大さは、命を捨てることです。それは、羊のために捨てるのです。父は、イエス様がそのような愛を持っていて牧者となるのでを愛してくださるのです。
後半の、目的について語られた部分は、接続詞で繋がれていて、文の流れとしては一旦切れます。「再びいのちを得るために自分いのちを捨てる」というつながり方ではないのです。この訳ですと、父が愛する理由が「再び自分のいのちを捨てる」ことに重点が置かれた表現となります。文の構成からすれば、いのちを捨てるので愛されるのです。いのちを捨てる目的は、再び得るためです。
ここで、イエス様のよみがえりは、新しい契約と関係しています。羊が牧草を見つけいのちを得ることは、イエス様の声に聞き従い、肉に死に、新しくよみがえった者として生きることです。その模範者としてのイエス様は、よみがえる必要があったのです。
10:18 だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」
そして、いのちを捨てることに関して、そのことは自分から進んでなすことであることを示されました。誰もイエス様からいのちを取るのではないのです。また、嫌々ながらでもありません。進んですることです。
ただし、その業は、父の命令として行います。父が命じられたことをご自分の心として行うのです。父の命令がありますから、その行為には権威があります。父の業としてそれを行うのです。権威とはそういうことです。上から与えられるものです。主は、その権威を父からいただき、ご自分が進んで実行されたのです。
命を得ることも、父の命令として行われます。父の権威によりよみがえるのです。
10:19 これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。
10:20 彼らのうちの多くの人が言った。「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」
イエス様が羊のためにいのちを捨てる話を聞いて、ユダヤ人の間に分裂が起こりました。そのうちの多くの者は、否定的でした。イエス様が悪霊につかれ、気が狂っていると言いました。聞くに値しない言葉であることを最大限に侮辱してその言葉を否定したのです。
・「おかしくなっている」→気が狂っている。
10:21 ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」
他の少数の人たちは、イエス様の言葉を聞いて、他の人たちの言葉を否定しました。悪霊につかれた者の言葉ではないと。その根拠としてイエス様が目の見えない人の目を開けたことを取り上げました。悪霊にはできないことであると。
彼らは、囲いに属する羊のたとえについて分からなかったと記されています。良く理解したわけではありませんが、その後に語られた言葉を理解したと考えられます。全く分からない言葉を良し悪し言うことはできません。
10:22 そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。
10:23 イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。
10:24 ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」
ユダヤ人たちは、イエス様を取り囲み質問しました。イエス様がキリストであるならはっきりと言ってくださいと。彼らは、明快に語られるのを期待して気を揉んでいることも告げました。これは、意外な言葉です。これを言った人たちは、イエス様が話した言葉を信じていない人たちです。彼らは、イエス様を信じたくてそのことを言ったのではないことがわかります。むしろ、イエス様の口に自分がキリストである明確に言わせて、犯罪者として処罰しようと言う魂胆によるものです。
10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、
10:26 あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。
イエス様は、彼らについて、イエス様が既に話したのに信じなかったこと、また、父の名によって行う業がイエス様が誰であるかを明かししているのに、信じない点を指摘されました。彼らは、イエス様から明確に語られたとしても、信じる心はないのです。
その理由は、彼らがイエス様の羊の群れに属していないからです。
10:27 わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。
イエス様の羊であるならば、イエス様の声すなわち語る言葉を聞き分けるのです。それが神の御子の言葉であると分かって受け入れたのです。イエス様を取り除こうとする人たちの惑わしの言葉に迷うこともありませんでした。
ユダヤ人たちは、その言葉を理解しませんでした。彼らは、初めから否定して考えていましたので、何一つ自分のものにはならなかったのです。
イエス様もご自分の羊を知っておられます。イエス様の羊は、イエス様についていきます。その教えを受け入れ、従うことで、イエス様に従って行くのです。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
イエス様は、彼らに永遠の命を与えます。彼らは永遠に、決して、全く滅ぼされることはありません。全く滅ぼされることを否定していますので、ある程度の滅びがあることが含意されています。その永遠の命は、地獄の滅びから救い出され、さらに、イエス様の言葉に従って歩むことで与えられる命であり、それに対して与えられる御国での報いです。イエス様に従って生きていない状態は、滅びです。肉に従うならば、滅びるのです。しかし、全く滅ぼされると言う状態にはならないのです。
誰も、彼らをイエス様の手から奪い去ることはできません。
・「滅びること」がなく→「全く滅ぼされること」はない。
10:29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。
→「わたしに(彼らを)与えてくださった私の父は、全てにまさって偉大です。」
羊が大事だという話をしているのではなく、父が偉大なのです。その全てにまさって偉大な父の手から誰も奪い去ることができないのです。
父の手から奪い去ることができない理由として、父が全てにまさって偉大であることが示されているのです。羊が大切だと訳すのには無理があります。
10:30 わたしと父とは一つです。」
さらに、イエス様と父とは一つであることを示されました。それは、全てにまさって偉大な父と一つであるイエス様も偉大な者であることを語っています。このことを示すのは、だれもイエス様の手から羊を奪い去ることはできないと語られたことの根拠として示しているのです。羊を守る手は、二重で、全てに勝る父と父と一つである御子の手によるのです。
10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。
ユダヤ人たちは、イエス様に「あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」と言いましたが、イエス様が御自分が父と呼ぶ神と一つであり、その御子であることを証ししました。イエス様は、これ以上ないくらい明確に御自分のことを証しされたのです。
ユダヤ人たちは、イエス様が語っておられることを明確に理解したのです。イエス様が御自分を神であると言われたことも理解しました。その時、彼らは、イエス様を石打ちにしようとしたのです。彼らは、本当にイエス様がどのような方かを知ろうとしてイエス様に聞いたのではなかったのです。
10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」
イエス様は、どの良い業のために石打にするのですかと聞かれました。一つは、石打にするような犯罪行為があるのですかと問われたのです。それとともに、その業について「父から出た多くの良い業」と言われ、神の業としての多くの業をしたのであり、その業がイエス様が神であることを証明していると証ししています。彼らが石を取り上げた理由は分かっていて、このことを言われたのです。
10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒涜のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」
ユダヤ人たちは、イエス様が御自分を神としており、冒涜しているという理由で、石打にすると言いました。彼らは、イエス様が父から出た良い業ということを一切気に留めていませんでした。理屈で考えたら、分かることも、初めから受け入れる心がないので、分からないのです。
10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。
10:35 神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、
10:36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。
彼らが、イエス様が自分のことを神としていることに躓いていて、話を聞こうとしないので、その点に関して、彼らの躓きを除き、話を聞くようにされようとしました。彼らは、イエス様を人間としてしか見ることができませんでした。ですから、神であると名乗ることが許せなかったのです。しかし、聖書には、人間を神と呼んだことが記されていることを取り上げ、父が聖なる者とし、遣わされた者が「神の子である」と言ったとしても、冒涜には当たらないことを示しました。
イエス様が引用された聖句に記されている人々は、イスラエル人ですが、聖い正しい人たちではありませんでした。悪い人たちです。まるで、自分が神であるかのように、神様を無視し、その言葉に背いている人たちです。その人たちを「お前たちは神だ」と神様は言われたのです。聖書には、悪人さえ神と呼んでいるのに、罪のない、また、その人をとおして神の業がなされるような人が「神である」と言ったとしても、冒涜には当たらないと示し、彼らが冷静に話を聞くようにされたのです。
10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。
イエス様は、為してる業についてそれが父の御業でないならば、信じてはいけないと言われ、彼らがイエス様のなしている業について深く考えるようにされました。
10:38 しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。」
しかし、それが父の業であるならば、信じなければならないことを強く訴えたのです。たといイエス様を信じられなくても、イエス様がなしている業は、人にはなし得ない驚くべき業なのです。それは、神の業であると信じるに値するのです。
その業は、一つのことを証ししています。父がイエス様におられることです。イエス様をとおして父が業をしていることが明らかなのです。それとともに、その人が父の業をなすにふさわしいと認められた人をとおして父は業を行われます。罪人の言うことは聞かれません。これは、かつて盲人が証ししたことです。イエス様は、父が認証しておられ、父に遣わされて来ていることの証しなのです。
それは、彼らがそれを知ったであろうし、知るであろうためです。
・「知り」→知る。アオリスト、第一反実法(接続法)。話し手は、表現対象を事実だと思っていないあるいは判断を留保している。
・「深く理解し」→知る。現在、第一反実法(接続法)。
10:39 そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。
彼らは、イエス様の業がイエス様を信じるに値する証拠であることを認め、信じることをしようとしませんでした。イエス様の業は、イエス様が神であることの明確な証拠です。それは、業の偉大さが人には不可能なことであるだけでなく、父がその方を認証し、父が遣わしていることの証拠であるからです。
彼らは、石を投げることはしませんでした。神の子であるといっただけでは、冒涜に当たらないという説明を理解したようです。しかし、神と一つの方であということを信じたわけではありません。黙らせるため捕えようとしたのです。イエス様は、彼らの手から逃れられました。その時ではなかったからです。
10:40 そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。
10:41 多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。
10:42 そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。
ヨハネの証しは浸透していました。ヨハネは、しるしを行いませんでした。しかし、彼の語ったことは全て事実でした。それで、多くの人がイエス様を信じたのです。彼は、イエス様の先駆けとして良い働きをしたのです。