ユダ
1:1 イエス・キリストのしもべ、ヤコブの兄弟ユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストによって守られている、召された方々へ。
宛先の信者については、父に愛され、その愛のゆえにイエス・キリストによって守られていてる方と言い、また、彼らがその召しに与っていることを証ししました。ユダは、彼らを父に愛される、また、キリストによって守られている尊い一人ひとりとしてこの手紙を書いています。
1:2 あわれみと平安と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
その彼らに求めたことは、神が契約を徹底的に果たされることです。信仰によって求めることに対して応えてくださることです。私たちが信仰によって求めることは、主イエス様が私たちを通して御心を行うことです。その信仰に応えて、私たちが御心を行う者になりイエス・キリストの身丈に達することです。
「平安→完全さ」を求めたのは、「あわれみ」の完全な実現を願ったからです。「あわれみ」は、契約に対する忠誠のことで、神が契約を徹底的に果たし、完全なものにすることです。なお、この訳のように、心の「平安」があっても、キリストと同じ者に変えられるのでなければ、何の意味もありません。
愛は、私たちが神の愛を実践することです。それは、神の戒めの全てを含みます。御心の実践なのです。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠。
・「平安」→御心を行うことによってもたらされる完全さ。
1:3 愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
彼は、手紙を受ける人たちを愛する者たちと言い、愛していることを言い表しています。その愛する一人ひとりのために、救いについて手紙を書こうと願っていました。その救いとは、彼らが神の御心を行って御国において報いを受けることです。そのことについては、二節までで祈りの中に既に記しました。そのことについては、切り上げて、そのような救いの祝福を妨げる者との戦いについて記す必要が生じたので、それを記す必要が生じたのです。
1:4 それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主であるイエス・キリストを否定しているので、以下のようなさばきにあうと昔から記されています。
その理由は、不敬虔な者たちが密かに入って来たからです。これらの者たちは、昔から以下のような裁きに会うと記されて来ていて、不敬虔な者で、私たちの神の恵みを放縦に変え、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定しています。
彼らは、信者のように振る舞っていました。しかし、不敬虔な者たちであるのです。
・「支配者」→完全な管轄権を行使する(無制限の権力を振るう)「支配者」としての権威者。
・「主」→絶対的所有権を行使する者。
1:5 あなたがたはすべてのことをよく知っていますが、思い起こしてほしいのです。イエスは民をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じなかった者たちを滅ぼされました。
あなた方は、一度すべてのことを知って今に至っていますが、思い起こして欲しいのです。イエス様は、人々をエジプトの地から救い出しましたが、その後、信じない者たちを滅ぼされました。滅ぼすとは、肉体の死を与えたことです。
1:6 またイエスは、自分の領分を守らずに自分のいるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の鎖につないで暗闇の下に閉じ込められました。
御使いは、自分の領域を守らず、自分のいるべきところを捨てたので、永遠の鎖に繋いで、暗闇の下に閉じ込められました。これは、黙示録の下記の記述に符合します。それまでは、御使いたちは自由に行動できます。「閉じ込め」は、完了形です。将来の出来事をこのように記述することで、必ず実現することを表しています。
黙示録
20:1 また私は、御使いが底知れぬ所の鍵と大きな鎖を手にして、天から下って来るのを見た。
20:2 彼は、竜、すなわち、悪魔でありサタンである古い蛇を捕らえて、これを千年の間縛り、
20:3 千年が終わるまで、これ以上諸国の民を惑わすことのないように、底知れぬ所に投げ込んで鍵をかけ、その上に封印をした。その後、竜はしばらくの間、解き放たれることになる。
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1:7 その御使いたちと同じように、ソドムやゴモラ、および周辺の町々も、淫行にふけって不自然な肉欲を追い求めたため、永遠の火の刑罰を受けて見せしめにされています。
永遠の日の刑罰と記されています。この出来事は、歴史上地上において起きたことです。しかし、これは見せしめのためであり、永遠の刑罰があることの見せしめなのです。永遠の日の刑罰があることを示す裁きになっています。
「同じようにと記されていますが、御使いは、居るべ領分を守らなかったことと、不自然な肉欲を追い求めたことが、置かれた領域を守らないことで同じなのです。
1:8 それにもかかわらず、この人たちは同じように夢想にふけって、肉体を汚し、権威を認めず、栄光ある者たちをののしっています。
忍び込んで来た人たちは、同じように、置かれた領域を守らない人たちなのです。それで、夢を見ます。これは、神の国とその義とを第一に求めることとは反対のことです。神がその人を置かれた領域から外れて、それ以外の道が価値あるかのように夢見て、領域から外れるのです。肉を汚します。肉自体は、汚れていませんが、肉の欲望を追求することで道を外して汚すのです。
権威を認めません。権威の元は、神であり、それは、イエス様に与えられ、また、弟子たちに与えられました。例えば、教会には、監督者として長老が立てられていますが、これは、聖霊が立てたのであり、神の権威によります。彼らは、そのような権威を認めないのです。
栄光ある者たちを冒涜しています。
おるべき領域を外れた者たちは、このようなことをします。
・「栄光」→栄光。
・「ののしっています」→冒涜する。善を認めないこと。
1:9 御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて悪魔と論じて言い争ったとき、ののしってさばきを宣言することはあえてせず、むしろ「主がおまえをとがめてくださるように」と言いました。
御使いのかしらミカエルは、悪魔と論じて言い争った時、ののしって裁きを宣言することは、ありませんでした。彼を裁くのは、主であることをわきまえていました。
1:10 しかし、この人たちは自分が知りもしないことを悪く言い、わきまえのない動物のように、本能で知るような事柄によって滅びるのです。
しかし、この人たちは、自分たちが知りもしないことを悪く言います。ミカエルは、悪魔のしようとしていることが悪であることを知っていました。それでも、ののしるようなことはありませんでした。しかし、この人たちは、自分の言っていることがどういう意味を持っているのかを知らないで悪く言っています。彼らの知ることは、動物が本能で知るような事柄です。知性による理論的な判断ができないのです。欲望を満たすことだけのために行動しているのです。
1:11 わざわいだ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びます。
カインは、信仰にはよらず肉によって行動した人で、その結果、弟を殺しました。彼の判断基準は、肉です。神に指摘されたにも関わらずそこから離れることができませんでした。
教会において、神の前における信仰の尊さを認めず、肉の誇りのために兄弟を認めず、あるいは、兄弟を受け入れない者となってはならないのです。
創世記
4:5 しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それでカインは激しく怒り、顔を伏せた。
しかし、カインとその捧げ物には、目を留められませんでした。その捧げ物よってカインが受け入れられることはなかったのです。それは、人の努力によるものでした。捧げ物は、結ぶ実を表していますが、人の努力による実は、それが正しい行いであったとしても受け入れられません。彼自身が目を留められ、受け入れられるためには、キリストにある者としての評価が必要なのです。それもありませんでした。彼には、信仰が働いていなかったのです。
彼は、自分が目を留められないことに対して、激しく怒りました。自尊心が傷付けられたからです。彼には、肉を誇る強い思いがありました。彼は、顔を伏せて、主を見ませんでした。主がされることをそのまま受け入れることができなかったのです。彼は、捧げ物の問題点について考えることがなく、その誤りを素直に認め改めることを考えなかったのです。
4:6 主はカインに言われた。「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。
主が「なぜ」と言われるときには、私たちは、自分を顧みなければなりません。それをする理由について考えなければならないのです。
4:7 もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」
カインがしていたことは、良いこととして評価されることではなかったのです。良いことをしていれば、受け入れられます。しかし、彼は、信仰によらず、肉によって行動していました。そして、その怒りは、肉の強い現れです。彼は、罪を犯す可能性が大きい状態にありました。
彼の内にある罪は、彼の肉を満たすために働きます。それが、「罪が恋い慕う」のであり、「戸口で待ち伏せしている」のです。アダムの子孫に内住の罪が入っていることの証拠です。この罪は、彼がまだ具体的な犯罪行為を犯していないのですから、犯された罪のことではないことは明らかです。
彼は、肉を殺し、その内住の罪を治めなければならないのです。その罪は、なくなりませんが、肉を殺すことで、罪は働かなくなります。
4:8 カインは弟アベルを誘い出した。二人が野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかって殺した。
カインは、殺意を実行に移しました。神に指摘されたにも関わらず、肉を殺すことをしませんでした。弟を殺すまで気が済まなかったのです。人は、怒りに支配されると、理屈によって行動できなくなります。
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バラムの道を行きました。利益のためです。主は、最初、迎えの者たちと共に行くことを禁じられましたが、彼の心のうちにあった利益を求める心は行くことを願っていたのです。主は、許可されましたが、殺そうともされました。彼が、利益のために主に背いた行動に出ないように警告されたのです。
今日でも利益のために主の働きを用いて、主に背くことをしようとする者はいるのです。金銭を求めることが全ての悪の根です。
そして、コラのように、主に仕える働きにおいてさえ、自分の誉を求め祭司の働きを求めました。しかし、それは肉から出たことであり、主に受け入れられるはずもありません。
教会における働きを自分の誉と考える思いは、人に現れやすいのです。熱心な働き人が、その働きを誇りとしているのです。
1:12 この人たちは、あなたがたの愛餐のしみです。恐れる心もなく一緒に食事をしますが、自分を養っているだけです。彼らは、風に吹き流される雨無し雲、枯れに枯れて根こそぎにされた、実りなき秋の木、
1:13 自分の恥を泡立たせる海の荒波、真っ暗な闇が永遠に用意されている、さまよえる星です。
この人たちは、あなた方の神の愛のしみです。あなた方は、神の愛によって互いに愛していました。その中に、忍び込んだ人たちがいました。彼らは、共に食事をし、親しく交わりました。しかし、そのような交わりの中で、自分を養っているだけなのです。
彼らは、風に吹き流される雨なし雲です。風は、霊の比喩で、雨は、御言葉の比喩です。彼らは、兄弟姉妹の益になる神の言葉を伝えることができるような者ではないのです。彼らは、悪魔に操られてその思いのままに悪を行う者たちです。
彼らは、枯れに枯れて根こそぎにされた、実りのない秋の木です。実りがないことが彼らの特徴です。実りがない原因がいくつか示されています。一つは、枯れに枯れていることです。命がないのです。主の御心を行うところに命があります。実を結ぶのは、主がその人のうちで働かれるからです。それが一切ありません。根こそぎにされていて、水を吸うことが出来ないのです。これは、御言葉によって養われることが一切ないことを表しています。秋の木は、季節的にも実を結ぶことがないことを表しています。これから冬に向かい、実を結ばないのです。その機会が失われるのです。
また、海は、神に逆らう勢力の比喩です。彼らは、自らを現すために荒波を立てますが、それは、自分の恥を泡立たせているのです。そこに残るのは、泡であり、全く価値がないことを表しています。
真っ暗な闇が永遠に用意されています。彼らは、神の栄光を永遠に見ないのです。
さまよえる星は、おるべき場所を捨てたことを表しています。彼らは、自由に自分のおるべき場所を求めているのですが、さまよっているに過ぎないのです。正しい道から迷い出て、当てもなく、価値のないことを求めているのです。
・「愛餐」→愛。 ここでは、彼らが愛餐と言われるパン裂きの食事を指しているわけではない。続く「食事」に引きづられてそのように訳している。アガペー – 本来、道徳的選好を中心とする愛を指す。
・「さまよう」→さまよう星(惑星)。(比喩的に)道徳的羅針盤を持たず、目的のない人々を搾取する偽教師―すなわち、彼らをも神の安全圏(健全な教理)から迷い出させる者。
1:14 アダムから七代目のエノクも、彼らについてこう預言しました。「見よ、主は何万もの聖徒を引き連れて来られる。
1:15 すべての者にさばきを行い、不敬虔に生きる者たちのすべての不敬虔な行いと、不敬虔な罪人たちが主に逆らって語ったすべての暴言について、皆を罪に定めるためである。」
このエノクの預言の言葉は、直接の記述として記されていません。しかし、エノクに続く子孫は、ノアの時まで神の御業の行程の預言になっています。その中で、メトシェラとレメクは、キリストの復讐を表す名になっています。
創世記
5:18 ヤレデは百六十二年生きて、エノクを生んだ。
5:19 ヤレデはエノクを生んでから八百年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
5:20 ヤレデの全生涯は九百六十二年であった。こうして彼は死んだ。
5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
5:22 エノクはメトシェラを生んでから三百年、神とともに歩み、息子たち、娘たちを生んだ。
エノクの子メトシェラは、「投げ槍の人」という意味です。エノクが表す教会の携挙の後、ノアの時代、新しい世界の相続までの間にメトシェラとその子レメクが生まれます。
5:23 エノクの全生涯は三百六十五年であった。
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
エノクは、神と共に歩み、神が取られていなくなりました。これは、教会がキリストによって携挙されることの比喩です。
5:25 メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。
5:26 メトシェラはレメクを生んでから七百八十二年生き、息子たち、娘たちを生んだ。
メトシェラは、「投げ槍の人」という意味で、キリストによる裁きの比喩です。レメクは、意味不明ですが、カインの系譜のレメクは、「カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」と言いました。系譜は、異なりますが、レメクは、復讐と関連づけられています。
カナンにさえ復讐の権利が与えられたならば、正しい方キリストが復讐することは、行き過ぎではないのです。
5:27 メトシェラの全生涯は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。
5:28 レメクは百八十二年生きて、一人の男の子を生んだ。
5:29 彼はその子をノアと名づけて言った。「この子は、主がのろわれたこの地での、私たちの働きと手の労苦から、私たちを慰めてくれるだろう。」
ノアは、呪われた地から次の世界を相続する者になります。それは、それ以前の働きと手の労苦から解放されることを表していて、御国での報いを受ける相続の比喩になっています。これは、新天新地の比喩です。
5:30 レメクはノアを生んでから五百九十五年生きて、息子たち、娘たちを生んだ。
5:31 レメクの全生涯は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。
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1:16 彼らは、ぶつぶつ不満を並べる者たちで、自らの欲望のままに生きています。その口は大げさなことを語り、利益のために人にへつらいます。
彼らは、ぶつぶつ不満を並べます。自分に与えられたものをそのままに受け入れることが出来ない人たちです。全ては、神の主権によって与えられています。たといそれが自分に苦しみをもたらしたとしても、私たちはそのまま受け入れるべきなのです。彼らがそれを受け入れることが出来ず、不満を並べ立てるのは、彼らが強い欲望に従っている者たちであるからです。自分の欲望が成し遂げられないことに対して不満を並び立てるのです。
その口は、膨らまして語ります。いわゆる盛るのです。大きく言うのです。誇張するのです。
利益のためにへつらいます。心にもないのに笑みを作って、物腰柔らかく近づくのです。あるいは親切に振る舞うのです。心からのものであれば、良いことですが、単なる見せかけです。利益を得るための手段に過ぎないのです。
・「へつらう」→顔立ちを実際よりも良く見せる。
1:17 愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。
1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」
私たちの主は、使徒たちを通して語られました。嘲る者たちとは、敬虔を嘲るのです。後半と対比されていて、彼らは、自分たちの不敬虔な欲望に従って生きているのです。神を恐れ、神の御心のままに生きることが出来ないのです。彼らの欲望のまま生きようとするからです。肉を殺さなければ、御心を行うことはできません。
1:19 この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。
彼らは、生まれつきのままの人間で、新しく生ままれた者としての歩みがないのです。霊的な歩みがありません。彼らは、御霊を持っていないのです。
彼らは、分派を引き起こします。肉に従って生きようとするからです。肉的な者同士の分派が生じるし、霊的な者たちとも相いれません。
・「生まれつきのままの人間」→人間性の自然(「低次」)な側面、すなわち「天よりも地(肉欲)に近い」行動を指す。(「霊的な」)と対比される。
1:20 しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。
1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
しかし、あなた方は、自分の最も聖なる信仰へ築き上げられ、御霊によっ祈り、永遠の命に至らしめる私たちの主イエス・キリストの契約に対する忠誠を待ち望み、神の愛のうちに自分自身を直ちに保ちなさい。
求められていることは、すでに到達している最も聖なる信仰の上に築き上げ上げられるということではなく、「最も聖な信仰」は、与格であり、最も聖なる信仰が目標になっています。その人が到達し得る最も聖なる信仰です。なお、信仰は、人によってその程度は異なります。他者との比較ではないのです。信仰の程度について人真似をすることはできません。その人の到達し得る最も聖なる信仰を持つことが求められています。
その信仰により、御霊によって祈るのです。神に全てを委ね、神の御心を行おうとしている御霊によって祈り、御心を実行することを求めるのです。そのようにすることができるのは、神の愛のうちに自分を保つからです。神の愛に応えて信仰が働くからです。その信仰による、御霊による御心を行う行いに対して、キリストは、契約を徹底的に果たされて、豊かな報いを御国において備えてくださいます。これが永遠の命です。それを待ち望むのです。報いを待ち望むことはまた、私たちが信仰により御心を行うことを強く動機づけます。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠。
・「保つ」→アオリスト命令形。相手にある決定的な決断を促す意味を込めた命令です。
1:22 ある人々が疑いを抱くなら、その人たちをあわれみなさい。
ある人たちが疑いを抱くならば、その人たちに対しては、契約に基づいて取り扱い続けなさい。すなわち、キリストによって贖われ、永遠の契約与かっている者たちとして接するのです。感情により人間的な取り扱いをしていけません。
この「あわれむ」は、単に同情しなさいという意味ではありません。神様の真理すなわち契約に示されている基準に従って取り扱うことです。その疑いが本質的なものであり、神を信じていないのであれば、不信者として扱います。一時的な迷いであるならば、信者であり、信者として扱います。
今日、未信者との結婚を願い、神を信じていないと言い表して離れる信者がありますが、本当の不信者であるのか、欲望に惑わされてそのように言っているのか、見極めなければなりません。一律に不信者として扱うべきではありません。
・「あわれむ」→現在命令形。~し続けなさい。契約に対する忠誠を現す。
1:23 ほかの人たちは、火の中からつかみ出して救いなさい。また、ほかの人たちは、肉によって汚された下着さえ忌み嫌い、神を恐れつつあわれみなさい。
他の人たちというのは、信者のことです。しかし、肉による信者のことです。彼らは、火の中にいます。その火は、将来のキリストの裁きの座での評価を表します。肉によって歩んでいるならば、無用なものは、焼けてしまいます。まさに、火に焼かられている状態です。そのような中から救い出し続けるのです。
また、他の人たちは、肉によって汚されています。欲望に従って生きているのです。「下着」は、上着の下に着ます。それは、人目に見えない振る舞いを表しています。それは、肉によって汚れています。それを忌み嫌いますが、契約に基づいて扱い続けるのです。
・「救いなさい」、「あわれみなさい」→現在命令形。~し続けなさい。
1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、
1:25 私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。
ユダ自身も、神が信者を躓かないように守ることができ、傷のない者として、御前に立たせることができる方であることを覚えて賛美しました。傷のない者として守られるならば、その栄光の御前に立たせられた時、栄光を受ける者として大きな喜びを経験できるのです。そのような祝福を実現される神を賛美しました。この方は、それを与えることが出来る救い主です。信者を守り、その祝福を与えることが救いなのです。それができる唯一の神なのです。その業は、キリストを通して実現します。それで、キリストを通して栄光が帰せられるように祈りました。その業によって栄光、威厳、支配、権威が現されるのです。それは、永遠のものです。
・「威厳」→神の比類なき偉大さ。
・「支配」→支配、行使された権力。
・「権威」→権利または特権としての存在を強調。権威、授与された権力。委任された権限(「認可」)、指定された管轄区域内で機能する。