ヤコブ3章

3:1 私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。

 教師として働くことを安易に考えてはならないのです。明確に、多くの人が教師になってはならないと命じられています。教師として働くにふさわしい人がいるのです。言葉で過ちを犯さない人が求められているのです。

 教師は、格別厳しい裁きを受けます。それは、語る言葉の誤りが非常に大きな影響をもたらすからです。教師が誤ったことを語れば、間違ったことを信じてしまうのです。正しく御言葉を理解し、正しい教えを信じるのでなければ、たとい信じたとしても何の価値もありません。あるいは、神の示していないことを信じるのですから、偶像礼拝と同じです。そのような信仰が祝福されるはずがありません。

 聖書の言葉を取り扱う人、特に、それを公に示そうとする人は、非常に慎重であるべきです。良く調べ、研究し、正しい意味を伝えなければならないのです。間違ったことを伝えた責任は大きいのです。格別厳しい裁きを受けることになります。

3:2 私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。

 舌を制御することと、体を制御することがとり上げられています。舌を制御することの方が難しく、舌を制御できる人は、体全体を制御できる完全な人です。体を制御するとは、神の御心に完全に服従することです。神の御心を完全に行うことができることです。そのような人が完全な人です。

3:3 馬を御するためには、その口にくつわをはめれば、馬のからだ全体を思いどおりに動かすことができます。

3:4 また船を見なさい。あのように大きくて、強風を受けていても、ごく小さい舵によって、舵を取る人の思いどおりのところへ導かれます。

3:5 同じように、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って自慢します。見なさい。あのように小さな火が、あのように大きな森を燃やします。

 舌は、小さな器官ですが大きな影響力を持つことがいくつかの比喩で示されています。馬を御するためのくつわ、船の舵、森を燃やす小さな火です。

 まず、舌の影響力として、大きなことを言って自慢することです。実質がなくても、言葉だけで大きく見せることができるのです。

3:6 舌は火です。不義の世界です。舌は私たちの諸器官の中にあってからだ全体を汚し、人生の車輪を燃やして、ゲヘナの火によって焼かれます。

 舌は、森を燃やす火のようです。それは、人生の車輪を燃やします。体全体を汚します。体全体は、その人の全てを比喩として示しています。口から発した言葉によって、その人は汚れた者となるのです。人をばか者と言うだけでゲヘナに値するのです。その言葉を言うことで、その人は、人をどのように見ているかが明らかになり、罪に定められます。

 そして、ゲヘナの火によってその人自身が焼かれることになります。舌は、その人の人生を汚して台無しにし、車輪を燃やすように、もはや進めないようにします。最後には、その人を永遠の滅びへと至らせるものとなるのです。

3:7 どのような種類の獣も鳥も、這うものも海の生き物も、人類によって制することができ、すでに制せられています。

3:8 しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。

 舌を制することはだれにもできないのです。どのような生き物も人に制せられていますが、舌を制することはできないのです。

 舌は、休みません。いつでも悪に満ちています。それは、死の毒で満ちていて、人を殺すのです。また、自分自身を殺します。

3:9 私たちは、舌で、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌で、神の似姿に造られた人間を呪います。

3:10 同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。私の兄弟たち、そのようなことが、あってはなりません。

 また、舌の悪の具体例として、人を呪うことをすることを挙げています。神を賛美する口で、人を呪うのです。そのようなことがあってはならないのです。人は、神の似姿に造られたのです。

3:11 泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。

 泉から甘い水と苦い水は出てきません。

 泉は、聖霊の比喩です。「甘い」は、ヨハネが巻物を食べた時味わった蜜のような甘さです。苦さは、胆汁が内住の罪の比喩となっているように、うちから出てくる悪いものの味を表しています。私たちは、悪いものを口から出してはならないのです。

3:12 私の兄弟たち。いちじくの木がオリーブの実をならせたり、ぶどうの木がいちじくの実をならせたりすることができるでしょうか。塩水も甘い水を出すことはできません。

 いちじくの木は、オリーブの実をならせません。ぶどうの木は、いちじくの実をならせません。これらの実自体は、良いものですが、品種が違うのです。同じように、塩水も甘い水を出すことはできません。元が悪ければ、良いものを出すことは決してできないのです。

 その人のうちに悪いものがあるので、悪いものが出てくるのです。

3:13 あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

 神の言葉に従う分別があると言う者は、その分別に相応しい行いを示すべきです。それは、柔和な行いです。柔和な行いは、人の本来の性質として持つものではなく、聖霊の働きによって実現することです。神の御心を行う力を秘めていますが、優しさがあります。そして、良い行いです。神の目に適った良い行いです。

・「柔和」→力を秘めた優しさ。信仰により、神の霊感と方向付けと力付けによって表される。

・「知恵」→神の御言葉に従う分別。

・「立派」→良い。

3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。

 心の中に苦々しい妬みや利己的な思いがあるとすれば、それは、肉によるのです。決して立派な行いとはいえません。それは、自慢できるようなものではありません。また、それは、真理に逆らって偽っています。

 「苦々しい」と表現されていて、この苦味は、ヤコブ書だけの表現です。苦味は、他では、胆汁を指していて、内住の罪の比喩です。しかし、ヤコブは、内住の罪そのものを指して表現することをせず、そこから出てくる悪いものが「苦い」と表現しています。ですから、直接胆汁を意味する語は使っていません。これは、いわば比喩解釈の応用編です。

 真理は、肉による行いではありません。真理は、イエス様がそうされたように、御霊によって神の御心だけを行うことです。さらに、それは、知恵によるものではありません。知恵は、神の御心に従う分別です。しかし、肉によることは、上からのものではなく、地からのものです。

3:15 そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。

 妬みや利己的な思いがあるならば、それは、上からの来たものではありません。すなわち、神から与えられたものではないのです。聖霊の働きによるものではありません。この地に属し、肉に属するものです。それは、悪魔に似ています。悪魔の誘惑によって、抱く思いだからです。

・「悪魔的」→悪魔に似ている。

3:16 ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

 妬みや利己的な思いがあるところでは、悪魔に似ています。それは、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

3:17 しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。

 上からの知恵は、まず第一に、混じり気がありません。神の御心に適っているのであり、教えにおいて混じり気がなく、肉的なものが一切入りません。純粋なのです。

 そして、完全さなのです。神の御心を行うことでもたらされます。あらゆる部分が成長することで、もたらされる完全さです。

 そして、公平な正しさがあることです。

 また、神の御心を簡単に行おうとする態度です。

 「あわれみ」は、契約に対する忠誠です。それは、契約を果たす者に対して祝福があるからです。信仰により、御霊によって歩むならば、命を経験し、実を結び、永遠の資産としての報いを受け継ぐことが契約です。

 神が結ばせてくださる良い実に満ちていることです。

 そして、利己的な動機がないことです。

 偽善もないのです。

・「清い」→純粋。混じりけがない。

・「平和」→完全さ。主の御心を知り、従うことでもたらされる完全さという神の賜物。

・「優しく」→律法の精神を保つために、厳しすぎる基準に走らないことで真に公平でバランスが取れていること。公平な正しさ。

・「協調性があり」→簡単に服従する態度。(やろうとする意志があるから)

・「あわれみ」→神の言葉に対する誠実。

・「良い」→この良いは、神から生まれるもので、信仰によって、その人の人生において、神によって力づけられて生まれます。

・「偏見がない」→隠れたことすなわち利己的な動機がない、偽りがない振る舞い。

3:18 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。

 義の実は、完全さをつくる人によって、完全さのうちに種が蒔かれます。

 なお、義の実を結ぶことに関して、平和は直接関係しません。

・「平和」→完全さ。主の御心を知り、従うことでもたらされる完全さという神の賜物。

・「蒔かれる」→蒔かれる。