ヤコブ2章
2:1 私の兄弟たち。あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません。
えこひいきしてはならないことを勧めました。そのことを勧めるにあたって、イエス・キリストの栄光を覚えさせました。「栄光のイエス・キリスト」と表現し、際立った栄光を持たれることを示しました。その栄光とは、罪人を尊いたましいとして扱い、そのためにご自分を捨てた栄光です。ほかにも、栄光はありますが、特にここでは、貧しい人を尊ぶ文脈で語られていますので、覚えるべき点は、主が人を尊いものと考え、そのために命さえ捨てられたことが最もふさわしいことです。主は、分け隔てしませんでした。
2:2 あなたがたの集会に、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来て、また、みすぼらしい身なりの貧しい人も入って来たとします。
2:3 あなたがたは、立派な身なりをした人に目を留めて、「あなたはこちらの良い席にお座りください」と言い、貧しい人には、「あなたは立っていなさい。でなければ、そこに、私の足もとに座りなさい」と言うなら、
2:4 自分たちの間で差別をし、悪い考えでさばく者となったのではありませんか。
金持ちと貧しい人の間に差別を設けることは、悪い考えで裁くことです。してはならないのです。人は、見た目で判断し、社会的立場や、学歴、能力などで人を判断し、人に対する態度を変えるのです。それは、教会の集りでは、してはならないことです。
ヤコブは、彼らのしているえこひいきについて、具体的な事例を示しました。具体的事例に沿った勧めは、非常に強烈な印象を与えます。また、どのように行動したらよいか、具体的で分かり易くなります。
それとともに、このように具体的な勧めは、心当たりのある方にとっては、非常に心刺されるものです。素直にその勧めを受け入れる人は、幸いです。しかし、霊的成長を求めるのではなく、肉的な考えに立つと、そのような勧めの言葉が、自分に対する攻撃のように感じられ、強い反発を覚える人もいるのです。そして、それを信者にふさわしくない攻撃であるかのように非難さえするのです。賢い人は、勧めを受け入れます。
2:5 私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。
貧しい人の尊さを示し、彼らを尊ぶように仕向けました。神は、彼らを選ばれたのです。そして、彼らは、御国を受け継ぐ者とされました。彼らは、神を愛する者たちであり、そのために御国で報いを相続する幸いな人たちであるのです。
ただし、全ての求道者がそうなるとは限りませんが、彼らが見た目で価値がないとしている人たちは、神の前には、非常に価値ある存在となるかもしれないのです。
2:6 それなのに、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。あなたがたを虐げるのは富んでいる人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。
貧しい者たちを差別して扱うことで、彼らは、貧しい人たちを辱めたのです。神の前に価値ある尊ぶべき者を辱めたのです。
一方で、彼らが尊いと考える金持ちがどのような者であるかを示しました。彼らは、信者を虐げるのです。信者を裁判所に引いていくのも金持ちたちです。この世にあって、尊ぶべき価値はないのです。
2:7 あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名を汚すのも、彼らではありませんか。
そして、彼らは、御名を汚すことをするのです。神の前に価値がないのです。
すべての金持ちがそうであるとは限りませんが、金持ちをことさら尊ぶ人たちに対して、金持ちの多くは、害があり、神の前には価値のない者たちであるのです。金持ちを尊んでも自分に価値があるわけではありません。それなのに、ことさらに見た目で金持ちを尊ぶ愚かさを指摘しています。
2:8 もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。
彼らは、律法の戒めを犯しています。彼らはユダヤ人ですから、律法から教えました。罪を犯した者に対しては、律法によって裁くことができます。
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という戒めは、最高の律法です。それを守るならば、神の前に良いことなのです。
2:9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
人をえこひいきすることは、隣人を自分自身のように愛しなさいという命令に背いています。貧しい人を蔑んだのです。これは、律法に反していますので、違反者として責めを負うことになります。
2:10 律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、その人はすべてについて責任を問われるからです。
なぜならば、律法は、一つでも過ちを犯すならば、その責任を問われるからです。
2:11 「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われました。ですから、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者になっているのです。
それは、殺人と姦淫の二つのうち、どちらか一つを犯すならば、律法の違反者になることから明らかです。
自分の隣人を自分自身のように愛することに関して、肉が現れることで、簡単に違反してしまうのです。
2:12 自由をもたらす律法によってさばかれることになる者として、ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい。
自由をもたらす原理は律法以上のものです。神とイエス・キリストに対する信仰による義を持ち、信仰により、内住の罪の奴隷から解放されて自由とされ、御霊によって歩むことができる者とされたのです。これが、自由をもたらす原理です。そのような原理によって行動する者としてさばかれるのです。ですから、要求されていることは、非常に高いのです。神の完全さが求められています。それにふさわしく語り、ふさわしく行うのです。
・自由をもたらす「律法」→原理。律法を意味することもあるが、意味としては、律法だけではない。
2:13 あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。
契約に基づいて行動しないならば、その者に対しては、契約に基づく祝福のない裁きが下されます。契約を果たしたことは、裁きに対して全く責められることがない者とされます。勝ち誇るのです。
契約を果たすとは、神の御心を行うことです。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠。
2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
ここで、段落になりますが、内容的には、前段を継承しています。前節で、あわれみがないことが取り上げられています。それは、契約を果たさないことを意味しています。そのような歩みについて、さらに詳しく取り上げています。
自分には信仰があると言い、しかし、行いがない人について、それは、役に立たないことを示しました。救いに関して、何の価値もないということです。この救いは、永遠の滅びからの救いのことでありません。信者が御国で報いを受けることです。その報いは、信じているという言葉ではなく、それを信じて行うことに対して与えられるのです。
この信仰は、イエス・キリストが救い主であると信じる信仰から始まり、新しく生まれた者として御霊によって歩むとされることに対する信仰であり、またその歩みに対して報いを備えてくださることを信じる信仰です。ここで、信じると言っていながら、行いのない人は、御霊が働かないのです。信じていないのです。その行いは、御霊によるからです。
ですから、ここで「信仰があると言っている」ことは、信じて従うのでなく、単に知識を持っているだけで、示されたことを受け入れて従うということがない状態です。
2:15 兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
具体例を示しました。着る者がなく、食べる物に事欠いている兄弟姉妹がいて、声はかけるけれども必要な者を何も与えないならば、役に立たないのです。
2:17 同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
信仰も同様です。ここで、信仰と表現している内容は、兄弟姉妹の必要を認識していて、どうなればよいかをが分かっているいることです。しかし、そのために必要な行動をとらないことは、いくら認識していも何の役にも立たないのです。
2:18 しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。
信仰があるという人と、行いがあるという人がいます。そのような人にとっては、行いがないけれども信仰があるという考え方があるのです。ここでは、そのような信仰を実証することはできないことをいっています。それは、行いがあって初めて実証されるのです。
ここで言っている行いのない信仰は、単に認識しているという状態のことを言っています。そうであると認めるが、その中に生きていないのです。
2:19 あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
神が唯一であるということについて、信者は、そのことを認めています。しかし、単に認めているだけでは、悪霊と同じです。神が唯一であると認めるならば、それを認めた行動が現れて初めて、信じていると言えるのです。悪霊は、神を認めていますが、従うことがありません。
2:20 ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。
ここからは、行いのない信仰について、それが無益であることを示しています。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
イサクを捧げた時、アブラハムが義と認められたという直接的な表現はありません。しかし、その出来事の後で、独り子を惜しまずに捧げたゆえに、大いに祝福されました。神が祝福の理由を述べています。かれは、「これを行い」と言われ、行いによって義とされたのです。
創世記
22:15 主の使いは再び天からアブラハムを呼んで、
22:16 こう言われた。「わたしは自分にかけて誓う──主のことば──。あなたがこれを行い、自分の子、自分のひとり子を惜しまなかったので、
22:17 確かにわたしは、あなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように大いに増やす。あなたの子孫は敵の門を勝ち取る。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたが、わたしの声に聞き従ったからである。」
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2:22 あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。
彼は、神の言葉を信じたので、行動したのです。神の言葉の内容は分かったが行動しないのでは、信じて受け入れたことにはなりません。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
彼が義と認められたことは、彼が神を信じた時です。その時は、まだ何も行動していません。ただ、神には、予知がありますから、アブラハムが信じたことが本物であることをご存じであったので、聖書には、「それが彼の義と認められた」と記されています。
後にイサクを捧げた時、彼が神を信じていることが証明されたのです。それで、かつて語られた祝福がもう一度語られたのです。
2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
人が義と認められるのは、行いによることが結論として示されています。これは、端的な言い方で、その行いは、信仰の証明としての行いです。
それは、信仰によって義とされることを示しているローマ人への手紙四章の内容と矛盾しません。行いだけでは義とされないのです。信じたら義とされるのです。
ヤコブ書では、その信じたことは、行いによって証明されることを言っています。単に認識しているだけで、何も行いが伴わないならば、信じていないのです。
ちなみに、ローマ人への手紙では、心で信じて義と認められ。主と告白して、主に信頼して歩むことで救われることも示されています。
ローマ
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
心で信じることで義とされます。その上で、口で告白することは、イエス様を主として従い、信頼して歩むことです。そのような信仰の歩みのゆえに相続者とされるのです。
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2:25 同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。
遊女ラハブについても、その信仰は、行いと共に働いたことが証しされています。彼女は、イスラエルが葦の海を渡り、ヨルダン川の東側の二人の王を打ったことは、主の働きであると信じたのです。そして、斥候に誓わせるならば、それは、必ず実現すると信じたのです。生ける神でなければ、誓いのとおりに、それを果たすことは不可能です。彼女は、信じたので、斥候をかくまい、誓わせ、ひそかに送り出したのです。それによって彼女は、自分の信仰を証明したのです。彼女が義と認められたので、主は、彼女を祝福し、彼女の子孫から王の家系を起こし、キリストを生み出す者となったのです。彼女は、カナンの地で相続地を得、祝福を受け継いだのです。
2:26 からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。
霊のない体が死んでいるように、行いのない信仰も死んでいます。信仰は、示されたことをその通りと認めることと、それを認めたことに伴う行いから構成されています。どちらを欠いても、価値はありません。
イスラエル人の信者が「信じている」と言いながら、行いの伴わない生活をしていたことが伺えます。イエス様のご在世当時、ユダヤ人の信仰は、形だけのものになっていました。信者になってからのユダヤ人もまた、そのような形だけの信仰に陥っていたのです。それは、今日でも言えることで、イエス・キリストを信じていると言いながら、形式的な信仰に歩み、御言葉に従うことがない歩みに見ることができます。特に、いわゆるクリスチャンホームで育った信者には、そのような傾向が見られます。幼い時から聖書に親しんだテモテのような忠実な祝福された歩みができることは幸いです。