ヤコブ1章
1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。
ヤコブは、十二部族へ挨拶を送っています。彼は、離散しているユダヤ人を宛先としてこの手紙を書いたのです。今日の異邦人に適用するときには、注意が必要です。
彼は、神とキリストの奴隷であると記しました。これは、完全な服従者であることを言っています。自分自身の所有権を持たない奴隷であると。主イエス様も、父に対しては、奴隷の姿を取りました。
ピリピ
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
−−
・「しもべ」→奴隷。
1:2 私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。
彼は、試練を受けることを全ての神の恵みによる喜びの中で、最も大きな恵みと認識して、何よりも尊いこととするように勧めたのです。
・「喜び」→神の恵み、好意の認識。認識された恵み。恵みのゆえの喜び。
・「思いなさい」→優先順位で最初に来ることを指します。心の中の「主要な考え」、つまり、尊重する (高く評価する)。
1:3 あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。
1:4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者となります。
その理由を示し、試練は、人を何一つ欠けることのない完成された、完全な者にするからです。ただし、前段階として、忍耐を完全にすなわち最大限に働かせることが必要です。試練の時、すなわち信仰が試されるとき、忍耐が生じます。その忍耐を最大限に働かせるのです。
・「完全に」→次の「成熟した」と同じ。
・「成熟した」→最終目標に到達するために必要な段階を経て完成されたこと。つまり、必要なプロセス を遂行することによって完全な完成へと発展すること。「目的(目標)に到達する」という意味です。それは、最大強度で機能するために一度に 1 段ずつ展開する古い海賊の望遠鏡でよく示されています。
・「完全な」→神によって割り当てられた完全さ。
1:5 あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます。
1:6 ただし、少しも疑わずに、信じて求めなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
次に、知恵に欠けている人について、神に求めるならば与えられることを示しました。神は、咎めることなく、惜しむこともありません。ただし、少しも疑わずに信じて求めなければなりません。
・「知恵」→知恵 (正しくは「明晰さ」)。
1:7 その人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
なぜならば、そう言う人は、主から何かをいだだけだろうとは思ってはならないからです。
1:8 そういう人は二心を抱く者で、歩む道すべてにおいて心が定まっていないからです。
疑うことは、風に揺れ動く海の大波のようです。風は、霊の働きであり、この場合には、惑わす霊の働きです。海は、神に逆らう勢力を表しています彼らは、悪霊の教えに惑わされているのです。それと同じように、心から信じないことは、様々な教えによって惑わされるのです。彼の心が定まっていないからです。二心であり、どちらの考えに従って生きるかということを明確に定めないのです。肉の思いによるのか、神の言葉によるのか定めていないのです。
・「思って」→〜するだろうと思う。
1:9 身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。
身分の低い兄弟は、神様によって高く評価され、永遠の栄誉が与えられます。そのことを誇るのです。これは、全ての身分の低い人が必ずそうなるということではなく、信仰によって御心を行う者がそのような栄誉を受けるのです。身分が低いということに目を留めるのではなく、神によって高められることに目を留めるように促しているのです。
1:10 富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい。富んでいる人は草の花のように過ぎ去って行くのです。
1:11 太陽が昇って炎熱をもたらすと、草を枯らします。すると花は落ち、美しい姿は失われます。そのように、富んでいる人も旅路の途中で消えて行くのです。
富んでいる人は、草の花のように過ぎ去ります。それで、この地のものを誇ることがむなしいことを知るのです。この地のものを誇る誇りを除かれて、低くされます。それこそ神の前に価値あるものです。そのような価値あるものを獲得できるのですから、それを誇りとすることができます。そのようなことにこそ、目を留めるように促しています。
太陽の炎熱は、神様の評価と取り扱いです。花のように誇っていた栄華は、価値ないものとされ、地に落ちます。信仰の旅路の途中でその栄は、消えるのです。もし、彼がその栄を誇っているならば、そのようなものに価値がないことを知らせるために、その栄が取り除かれるのです。
1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。
試練を耐えることの幸いは、いのちの冠を受けるからです。その人は、神を愛して忍耐するのです。神の愛を知り、キリストの愛を知ります。それで、その愛に応えて、信仰によって歩むのです。御霊により御心を行います。そのような人は、この地においていのちを経験できますし、御国において報いを受け、資産として受け継ぐのです。これが永遠のいのちです。それをいのちの冠と表現しています。
1:13 だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれかを誘惑することもありません。
この「誘惑」は、試験あるいは試練という意味の語です。内容的には、欲に引かれて、肉の満足のために生きるような誘惑です。そのような誘惑は、決して神からは来ません。それは、神は、悪に誘惑されない方であり、どのように悪魔が働いたとしても、それに従うようなことはありません。また、ご自分から人を誘惑することは、ありません。
私たちが誘惑を受けた言い訳として、神からのものだと決して言うことはできません。
1:14 人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。
誘惑は、肉の欲に引かれることによります。それで、誘われるのです。欲がなければ、誘惑されることはありません。
1:15 そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。
欲自体は、神が人の機能として備えたもので、それ自体が罪ではありません。しかし、欲がはらむと罪を生みます。欲が限度を超えて強くなるとき、罪を犯すのです。
内住の罪が熟すとは、結果を生む状態のことで、内住の罪が働き、具体的な罪を犯させることです。罪を犯すことで、死を生みます。信者が罪を犯し、神の前に死を経験するのです。肉体の死ではありません。永遠の滅びでもありません。神の前に実を結ばない状態を死と言っていて、神とともに歩む命もないし、永遠の報いもありません。
・「罪」を生む→単数、冠詞なし。罪というもの。内住の罪と具体的な罪を指している。
・「罪」が→単数、冠詞付き。内住の罪。
1:16 私の愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません。
1:17 すべての良い贈り物、またすべての完全な賜物は、上からのものであり、光を造られた父から下って来るのです。父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません。
良い贈り物は、神が祝福として備えたものです。それは、永遠の栄光として与えられる報いです。この地においては、それを最大限に獲得できるように、御心を教え、機会を与え、良い行いを備え、信仰によって歩ましめ、聖霊によって歩むようにしてくださっています。それを与える目的がこの贈り物という言葉には意図されていて、その良いものを与えるので、それに応えて熱心になって御心を行うことが期待されています。私たちには、報いが用意されているので、御心を行うのです。
すべての完全な賜物すなわち、上記の贈り物は、父から来ます。この場合、良い贈り物は、信者を変え、完全なものとすることです。そして、永遠の報いとしての資産を受け継がせることです。父は、光を造られました。光は、真理の教えの比喩です。そして、その光に満ち欠けのようなものはありません。月のように、明るくなったり、暗くなったりしないのです。
・「贈り物」→与えることと応答することの連鎖反応を動機付ける意図 (目的) を強調します。
・「完全な」→最終目標に到達するために必要な段階を経て完成されたこと。再掲。
・「賜物」→贈り物。
1:18 この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。
父が被造物の初穂として生んだのは、「私たち」と言われている信者のことです。父にとって初穂であり、父にとって真に意味のある存在なのです。父にとって、ご自分の栄光を現す被造物は、信者なのです。
信者は、真理の言葉によって生んでくださいました。神の御心のままに産んだのです。そして、私たちを完全な者にしようと働き続けておられます。私たちが、肉にはよらず、御心を行うことで、完全な者とされ、神の栄光が現されるためです。
1:19 私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。
聞くとは、御言葉を聞き入れることです。聞くのに早いことは、神の言葉をそのまま受け入れることを表しています。
語るのに遅くとは、すぐに自分の意見を主張して、神の言葉をすぐに受け入れないことです。
怒るの遅くとは、怒りは、自己主張の極みです。これは、神の言葉を受け入れることを大いに妨げます。神に委ねることをしないので、怒るのです。感情を抑えられないので怒るのです。そうしないと気が収まらないのです。あるときは、正義だと言って怒ります。
1:20 人の怒りは神の義を実現しないのです。
しかし、人の怒りは、神の義を実現しません。人が事を判断し、裁くからです。人の怒りをもって事をなしたとしても、神の栄光は現れません。神は、人にそのようなことを委ねてはいません。
1:21 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
御言葉は、まず心に植え付けられます。それは、御言葉を聞くことに該当します。そのうえで、これを素直に受け入れることが必要です。それは、たましいの救いをもたらします。たましいは、御言葉に従う座です。その救いとは、御言葉に従って歩むことで、永遠の資産としての報いを受けることです。ですから、御言葉を受け入れることは非常に価値があります。
しかし、それを妨げるものがあるのです。すべての汚れです。これを行っていては、報いは、受けられません。あふれる悪もそうです。それを捨て去らないと、報いを受けることはできません。
1:22 みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。
1:23 みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。
1:24 眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。
1:25 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。
御言葉は、行うことで価値があります。御言葉を行うことによって祝福されるのです。聞くだけの人であってはならないのです。聞くだけの人は、自分を欺いています。なぜならば、聞き入れて従い、行うならば、祝福されることを知っていながら、そのようなことがないかのようにふるまうからです。自分を欺いているのです。行うことでよい結果をもたらすと知っていながら行わないのは、自分を欺いているのです。
御言葉を聞いて行わない人は、すぐにその言葉を忘れてしまいます。行うつもりがないので、関心も薄いし、心に留めようとしないからです。それが本当に自分にとって必要だと考える人は、強い関心を示すし、忘れないようにします。
自由をもたらす完全な原理は、新しい契約によるもので、愛によって働く信仰によって、御霊によって御心を行い、神のさまに変えられるという原理です。自由とは、内住の罪の支配を受けない、すなわち、罪の奴隷とならないことで自由なのです。
そして、その原理は、完全です。罪人であった者が、一切内住の罪の支配を受けることなく、肉に対して死に、神の御心を完全に行うことができるのです。イエス様が肉を持たれて、人として完全な歩みをされたのと同じです。
・「律法」→原理。特に特定の定冠詞がついていない場合には、原理の意味です。
1:26 自分は宗教心にあついと思っても、自分の舌を制御せず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
誰でも、神を恐れているように見えても、自分の舌を制御しないことで自分を欺いているならば、その人の神への恐れは、価値がないのです。舌を制御しないことで、語ってはならないことを語るのです。それは、してはいけないことです。しかし、それをしてもいいと自分の心を欺いているので、そのようなことをするのです。抑えられないのです。決してそのようなことはしてはいけないという強い制御が働かないのです。自分言いたいことを言うという欲望を優先させてもいいように、心を欺いているのです。
・「宗教心に熱い」→神を恐れたり崇めること。形容詞。
・「宗教」→神を恐れ、崇めること。名詞。
1:27 父である神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をし、この世の汚れに染まらないよう自分を守ることです。
父である神の御前での純粋で、汚れていない(無垢な)神への恐れとは、孤児ややもめが困っているときに世話をすることであり、愛の実践があることです。愛は、戒めの全てを包含します。そして、この世の汚点や汚れがないように、自分を保つことです。
・「きよく」→混じりけがない。
・「汚れない」→着色されていない。比喩的に、汚れていない。
・「汚れに染まらない」→汚れがない。汚点がない。形容詞、一語。