マルコ14章
14:1 過越の祭り、すなわち種なしパンの祭りが二日後に迫っていた。祭司長たちと律法学者たちは、イエスをだまして捕らえ、殺すための良い方法を探していた。
祭司長と律法学者たちは、イエス様を殺すための良い方法を探していました。彼らにとって都合が良く、表面的には合法的に殺す良い方法です。しかし、それは、彼らの欲望を実現させるための方法であり、大きな罪を犯すことであったのです。イエス様を騙して捉えることが許されるはずもありません。まして、死に値する罪のない者を殺すことは、重大犯罪です。
14:2 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけない」と話していた。
祭りの間は、やめることにしました。民が騒ぎを起こすといけないからです。彼らのしていることが正しいことなら、恐れる必要がないのですが、民がイエス様を少なくとも預言者と認めていたので、騒ぎが起こることを恐れていました。彼ら自身、自分たちの不正をわかっているのです。神の前には、重大な犯罪です。
14:3 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
イエス様が、シモンの家におられたとき、ある女が来ました。この女のしたことは、ベタニアのマリアのしたことと似ていますが、違いがあります。別の機会と考えられます。彼女は、純粋で非常に高価なナルドの油をイエス様の頭に注ぎました。小さな壺で、三百デナリ以上に見積もられるものです。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そして、彼女を厳しく責めた。
何人かのものが彼女を責めました。香油の使い道が間違っていると考えたのです。売れば、その代金で貧しい人に施しができます。彼らにとっては無駄にしたという思いがあったのです。
14:6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
14:8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
イエス様は、彼女のしたことは、イエス様のためにした良いことであると証しされました。ですから、彼女のするままにさせるように言いました。彼女は、自分にできることをしたのです。イエス様の埋葬があることを知って、前もって香油を塗ってくれたのです。それは、この機会しかありませんでした。貧しい人には、いつでも良いことをしてあげられます。彼女は、イエス様の葬りを知り得た数少ない人の一人です。
しかし、彼女を裁いた人がいたように、人は、全てを知るわけではないのに、人を裁くことがあるのです。
14:9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
この人のなしたことは、良いこととして覚えられ語られます。福音と共に世界中で語られます。それは、彼女の信仰の秀逸さによります。ほとんどの人がイエス様の葬りについて信じていなかった時に、彼女は、イエス様の言葉からそれを知り、信じたところに従って、行動したのです。三百デナリ以上の香油が無駄になるかどうかの決断を迫られるのです。彼女は、主の言葉を信じました。そして、注いだのです。
・「記念」→積極的に記憶し続ける行為。その霊的な影響をその瞬間を超えて持続させる。記念は単に出来事を想起させるだけではない。
14:10 さて、十二人の一人であるイスカリオテのユダは、祭司長たちのところへ行った。イエスを引き渡すためであった。
この時、ユダは、イエス様を見かぎり、祭司長たちにイエス様を引き渡すために彼らのところへ行きました。イエス様の言葉から、イエス様が葬られることが明らかにされました。この世で、今の時に王となることを期待していました。しかし、死ぬことが明らかになった時、イエス様を引き渡そうと考えたのです。彼は、イエス様を神の子と信じてはいませんでした。死んでよみがえることも信じていません。キリストが必ずそのような苦しみを受けることも信じていません。ですから、イエス様の価値がわかりません。
14:11 彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすればイエスをうまく引き渡せるかと、その機をうかがっていた。
祭司長たちは、それを聞いて喜びました。彼らの目的が達成できると考え喜んだのです。しかし、それは犯罪を犯すことであるにもかかわらず、喜んだのです。ユダに金を与える約束をしました。ユダは、金で売ったのです。この世のものを求める心に支配されていたのです。彼は、イエス様をうまく引き渡す機会を狙っていました。
14:12 種なしパンの祭りの最初の日、すなわち、過越の子羊を屠る日、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事ができるように、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」
弟子たちは、過越の当日に、過越の食事の用意について、どこへ行って用意すべきかをイエス様に尋ねました。
14:13 イエスは、こう言って弟子のうち二人を遣わされた。「都に入りなさい。すると、水がめを運んでいる人に出会います。その人について行きなさい。
都に入りなさいと命じられました。エルサレムの街中で、水の瓶を運んでいる人に必ず会います、と。その人に直ちについていくように命じられました。
14:14 そして、彼が入って行く家の主人に、『弟子たちと一緒に過越の食事をする、わたしの客間はどこかと先生が言っております』と言いなさい。
もし、彼がどこかに入ったならば、その家の主人に直ちに言うように命じられました。弟子たちと一緒に過越の食事をする「わたしの」客間はどこかと先生が言っておられます、と。
イエス様の言葉は、確信に満ちた言葉です。弟子たちには、迷わずその言葉に従う必要がありました。その人を見逃したら、たどり着けません。
イエス様は、「わたしの客間」と言っておられます。その家の主人は、イエス様の客間として用意していたのです。
14:15 すると、その主人自ら、席が整えられて用意のできた二階の大広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」
そこの主人は、用意のできた二階の大広間を必ず見せてくれます。用意ができていることは、主人は、イエス様と弟子たちのために、過越の食事ができるように用意し、それは整っていたのです。それは準備、歓迎、敬意、そして秩序ある配慮があります。大広間であり、十二人の弟子たちもともに横になって食事ができる広さです。
そして、そこで「わたしのために」直ちに用意しなさいと命じました。この食事は、主のためでした。そこでは、新しい契約が宣言されます。
・「用意のできた」→動詞、完了形、分詞。中態あるいは受動態。衣服、枝、寝具、あるいは調度品といった物質的な物体を意図的に広げたり整えたりして、空間が使用可能な状態になることを表す。
14:16 弟子たちが出かけて行って都に入ると、イエスが彼らに言われたとおりであった。それで、彼らは過越の用意をした。
二人の弟子たちが出かけて行った。そして、都に入った。主が言われたとうりでした。彼らは、過越の用意をしました。
14:17 夕方になって、イエスは十二人と一緒にそこに来られた。
14:18 そして、彼らが席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ります。」
イエス様は、彼らが横になり、食事をしている時、イエス様は、ご自分と一緒に食事をしている者が必ず裏切りますと言われました。
14:19 弟子たちは悲しくなり、次々にイエスに言い始めた。「まさか私ではないでしょう。」
14:20 イエスは言われた。「十二人の一人で、わたしと一緒に手を鉢に浸している者です。
14:21 (なぜならば)人の子は、自分について書かれているとおり、去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」
弟子たちは悲しくなりました。一人ひとり、「私」ではないでしょうと尋ねました。
イエス様は、十二人の一人で、イエス様と一緒に鉢に手を浸している者です、とはっきりと言われました。その理由を示し、人の子について書かれているように人の子は、去っていきますと説明されました。これが預言の成就であることをはっきりと示されたのです。
その上で、しかし、災なるかな、人の子を裏切る人は、と言われ、そのような人は、生まれなかった方が良かったのですと言われました。裏切ることは、イエス様の教えを聞き、その業を見て、そのうえで背くことです。そのような道を選ぶならば、その人の存在の意味はないのです。自分で滅びを選び取ったからです。知らないのであれば、まだ、教えを信じる可能性はあります。
14:22 さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
そして、彼らが食事をしている時、イエス様は、パンを取り、これを裂き、「取りなさい。これは、わたしの体です。」と言われました。これは、単なる過越の食事ではなく、過越の子羊によって表されているイエス様を表していました。イエス様が体を裂いて、死なれることで、罪のための身代わりの死が実現し、弟子たちがそれに与るものとなるからです。それを覚えるためのものです。イエス様は、神を褒め称えました。それは、神の栄光の御業です。神が独り子を十字架に掛け、打たれることで、御業が完成し、神の栄光が現されるからです。
14:23 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。
14:24 イエスは彼らに言われた。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です。
杯も彼らに与えられました。イエス様は、感謝されました。それは、多くの人のために流される契約の血を表していたからです。過越が表しているように、神の裁きから逃れるためには、身代わりの死が必要なのです。その血は、イエス様が命を捨てたことを表すものです。イエス様の身代わりの死により、信じる者の罪が赦されるのです。イエス様の死が、自分の罪のためであると信じない者は、罪が赦されることはありません。神様は、その信仰をご覧になっておられるからです。過越の初めも、柱と鴨居に、子羊の血を塗った家への裁きが過ぎ越されました。彼らは、神様の言葉を信じてそれを行ったので、裁きを免れたのです。その家にいた者がどのような者かに関わらず、信じて血を塗った者だけが裁きを免れたのです。
出エジプト
2:6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、
12:7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは主である。
12:13 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。
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14:25 まことに、あなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません。」
葡萄酒は、自分を捨てることを表しています。注ぎの捧げ物も、主がご自分を捨てたことを表しています。自分を捨てたがゆえに、それは、その人の栄光となります。神様が高く評価されるのです。神の国で新しく飲むことは、イエス様は、すでに神の右に挙げられて、ご自分を捨てたことに対して全ての名にまさる栄光を受けておられます。ここでは、神の国でと言われ、信者の行いが評価されて、報いとしての栄光を受ける時のことを言われ、その時に、全ての信者の前にご自分を捨てた栄光が覚えられ、主は、誉を受けられるのです。その血は、全ての人のために流されたからです。今、主は、全ての信者が自分を捨てて歩むように聖霊によって働いておられます。そのことが終わり、全ての信者が報いを受けるときまで、主は、ご自分の誉を受けられることをしません。主は、忍耐を持ってご自分を低くし、いわばご自分を捨てて、働いておられるのです。
14:26 そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた。
賛美の歌を歌いました。
14:27 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです。
14:28 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」
14:29 すると、ペテロがイエスに言った。「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません。」
ペテロは、あなた方はみな躓きます、と言われた言葉に反応しました。たとい皆が躓いても、「私」は、躓きません、と。ペテロは、もっと大事な言葉に反応していません。
14:30 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。まさに今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
14:31 ペテロは力を込めて言い張った。「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」皆も同じように言った。
イエス様は、もっとはっきりと告げました。しかし、ペテロは、力を込めて否定しました。皆も同じように言いました。自分のことは、自分で制御できると考えていました。しかし、彼が主を否むことは、神の予知により定められたことです。
14:32 さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。」
14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、
イエス様は、祈る時に、三人の弟子だけを近くにおきました。イエス様は、非常に驚かれ、内面の葛藤を覚えられました。驚かれたのは、この時、父の御心が示されたからです。驚きは、予想外のことが起こった時に引き起こされます。そして、それは激しい内面の葛藤を経験する内容です。弟子たちにご自分の悲しみを明らかにすることに葛藤を覚えられたのです。そのことは、エパフロデトも経験したことです。
ピリピ
2:25 私は、私の兄弟、同労者、戦友であり、あなたがたの使者で、私の必要に仕えてくれたエパフロディトを、あなたがたのところに送り返す必要があると考えました。
2:26 彼はあなたがたみなを慕っており、自分が病気になったことがあなたがたに伝わったことを、気にしているからです。
・「気にしている」→激しい内面の葛藤を経験する。
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自分のことで、ピリピの信者に心配をかけたことに激しい葛藤を覚えたのです。しかし、彼の経験したことは、キリストの模範と同じ自分を捨てることの模範となりました。
・「深く悩み」→感覚を失うほど驚き、驚嘆の域に達する状態。マルコだけが記した語。
・「悶え」→激しい内面の葛藤を経験する。
14:34 彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい。」
それは、父の御心として明らかにしなければならないことです。そして、言われました。「わたしのたましいは、非常に悲しく、死ぬほどです。」と。たましいは、御心に従う座です。父の御心に従う上で、大きな悲しみを覚えられたのです。このような言葉がイエス様の口から出てくることが私たちにとっては驚きです。イエス様は、父の御心を喜んで進んで行われる方です。そのためには、悲しみを覚えることはありません。しかし、父の心を慮られるイエス様にとって、父の悲しみを覚えることは、大きな悲しみです。その内面を弟子たちに明かにすることは、驚きになられることです。また、弟子たちが、そのような言葉を聞いたならば、イエス様も弱いと誤解する可能性もあります。さらに続く祈りも、父の御思いを慮られての祈りですが、イエス様が弱いので、十字架を避けようとしていると誤解されるような言葉です。父は、あえてそれを弟子たちに示すようにさせるのです。それは、イエス様がご自分のことを考えず、父のことに心を向けていた偉大さを現させるものです。
それで、ここにいて、目を覚ましていなさいと言われました。目を覚ますことは、警戒するという意味です。悪魔が、誤解を抱くように働きかけるからです。
14:35 それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈られた。
14:36 そしてこう言われた。「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」
イエス様がこのように祈られたことで、父がどれほど大きな悲しみを経験されて十字架の御業を成し遂げられたかを知ることができます。父の御心のためであるならば、命を捨て、裁きを受けることを厭いません。辱めを物ともせずに十字架を忍ばれる方です。しかし、父の悲しみは如何ともし難いことです。父が、そのような悲しみを経験せずに他の方法を取ることができるならば、そうすることを願ったのです。それは、御子を十字架にかけることを避けることです。父は、なんでもおできになられるからです。しかし、イエス様は、父が望まれる通りに行われることを願いました。
なお、イエス様の十字架の苦しみを強調するあまり、イエス様が自分のために十字架の苦しみを避けようとしていたという考えはイエス様が三十八節で語られた言葉と矛盾します。イエス様が自分の苦しみを避けようとしいたとすれば、弟子たちにこのように言う資格はありません。弟子たちに警戒するように言われたのは、そのような誤解に陥らないためです。
14:37 イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。「シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。
イエス様の言葉と祈りは、三人の選ばれた弟子たちに教えるためでした。彼らは、一時間も祈られていたのに、冒頭の部分しか聞かなかったのです。イエス様が父の前に心を注ぎ出して祈られる祈りを聞く貴重な機会を逃してしまったのです。
14:38 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」
彼らは、誘惑に落ちたのです。悪魔は、聞かせないようにしたのです。霊は燃えていても肉は弱いのです。肉は、誘惑を受けて正しいことをしようとしてもできないのです。それで、警戒して、祈るのです。神様の力に委ねるのです。
14:39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
14:40 そして再び戻って来てご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった。
14:41 イエスは三度目に戻って来ると、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。
14:42 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」
弟子たちは、三度もその機会が与えられました。しかし、彼らは、注意されても寝ていて、聞くことができませんでした。でも、もう時間切れでした。もう受け取っていますと言われ、彼らは、聖書に書き記すべき内容は聞き取ったのです。
・「十分です」→あるものから別のものを分離(手放す)することによって得ることを意味する。
14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。
14:44 イエスを裏切ろうとしていた者は、彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえて、しっかりと引いて行くのだ」と言っておいた。
14:45 ユダはやって来るとすぐ、イエスに近づき、「先生」と言って口づけした。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
イエス様を捕える方法は、あらかじめ決められていました。ユダが口付けするのがその人で、その人を捕まえて、しっかり引いて行くのだというものです。そのために、剣や棒を手にした群衆が一緒に祭司長たちから遣わされました。ユダはやって来るとすぐにイエス様に近づき、「偉大なる先生」と言って口付けしました。売り渡そうとしているのですから、尊敬などありません。彼の言葉は口先だけです。
・「先生」→ラビ。ヘブル語「偉大なる」から「わが偉大なる方、尊き師」。
14:47 そのとき、そばに立っていた一人が、剣を抜いて大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
一人は、大祭司のしもべに切り掛かり、その耳を切り落としました。彼は、人を殺してでも、その事態を解決しようとしたのです。
14:48 イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。
14:49 わたしは毎日、宮であなたがたと一緒にいて教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえませんでした。しかし、こうなったのは聖書が成就するためです。」
イエス様は、この事態が神様によることを証しされました。それは、聖書に預言されていたことか成就するためです。この日、この時でなければならなかったのです。今まで、イエス様は、毎日、宮で彼らと一緒にいて教えていたのに、彼らは捕えませんでした。いくらでも機会があったのに、捕えなかったことも神様によるのです。
14:50 皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。
14:51 ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけでイエスについて行ったところ、人々が彼を捕らえようとした。
14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。
弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。一人の青年が後をつけて行きましたが、人々に捕らえられそうになると、纏っていた亜麻布一枚を脱ぎ捨てて、裸で逃げました。必死に逃げたのです。
14:53 人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。
14:54 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中にまで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた。
14:55 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。
14:56 多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。
イエス様は、大祭司の家に連れて行かれました。そこに、祭司長たちと最高法院全体が集まり、裁判を行いました。彼らは、イエス様を死刑にすることが目的でした。それで、イエス様に不利な証言を得ようとしましたが何も見つかりませんでした。彼らは、イエス様に不利な偽証をしたのです。しかし、偽証したにもかかわらず、証言が一致しませんでした。
14:57 すると、何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な偽証をした。
14:58 「『わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる』とこの人が言うのを、私たちは聞きました。」
14:59 しかし、この点でも、証言は一致しなかった。
14:60 そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。」
大祭司は、イエス様に答えを促しました。イエス様にとって不利な証言をしているが、どういうことかと。まともな証言は、一つもありませんでした。偽証をしたにもかかわらず、証言が一致しませんでした。偽証をするのであれば、口裏合わせをしておくのが当然です。しかし、偽証が一致しないのです。お粗末な、いい加減な証言なのです。これでは、罪に問うことができません。イエス様は、黙っておられました。偽証に対して答えたとしても何の意味もありません。
それでも、大祭司は、イエス様を罪に陥れるためにイエス様に答えさせようとしたのです。
14:61 しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった。大祭司は再びイエスに尋ねた。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」
大祭司は、今度は、イエス様に尋ね、ほむべき神の子キリストなのかと問いました。
大祭司は、神を「ほむべき方」と言い表していますが、人殺しを計画している者に、神への恐れは、全くありません。
14:62 そこでイエスは言われた。「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
イエス様は、その質問に真っ直ぐに答えられました。「わたしはある」と答え、ご自分が永遠の存在者であることを明確に語りました。ユダヤ人にとっては、この言葉が、神がご自分のことを宣言される言葉であることをよく承知していました。さらにイエス様は、力ある方の右に着座されること、そして、天の雲と共に来るのを人々が見ることを語られました。これは、キリストについて預言されていることです。ですから、これ以上ないほどに明確に、ご自分が神であり、キリストであることを語られたのです。
・「わたしが、それです。」→わたしはある。
14:63 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「なぜこれ以上、証人が必要か。
大祭司は、自分の衣を引き裂きました。これは、本来、民の指導者として、民の一人が死に値する罪を犯したことを神の前に自分の責任として覚えて行う行為です。衣で覆うことは、肉を現さないことを表していますが、神の前に肉を表し、重大な罪を犯したことを、衣を裂くその行為によって表明しているのです。その衣で覆っておくことが、罪の状態を反映していないので、衣を裂いて、神の前に罪の告白をしているのです。しかし、これは、彼の望んだことでした。罪を犯し、死刑にできることを喜んだのです。なんという見せかけでしょうか。
大祭司は、この時、大祭司としての装束を着てはいません。それは、神殿で着る物で、神殿の外に着て出ることはできません。それで、この服は、装束でないので、レビ記の規定にかかわらず、裂いても問題ありません。
レビ記
21:10 兄弟たちのうち大祭司で、頭に注ぎの油が注がれ、任職されて装束を着けている者は、その髪の毛を乱したり、その装束を引き裂いたりしてはならない。
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14:64 あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。」すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。
彼らの判断には、欠陥があります。イエス様の言葉が神を冒涜している根拠が示されていません。キリストは、神の子であるが、人となられてダビデの子孫として来られることも預言されていることです。ですから、人が自分が神であると宣言したとしても、正しいのです。彼らが、イエス様が神を冒涜しているというのであれば、イエス様が神の子キリストではない根拠を示す必要があるのです。
単に人の姿をした者が、自分が神の子キリストだと語ったとしても、それだけでは冒涜とは言えないのです。
14:65 そして、ある者たちはイエスに唾をかけ、顔に目隠しをして拳で殴り、「当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。
彼らは、イエス様を罪人として扱いました。
14:66 ペテロが下の中庭にいると、大祭司の召使いの女の一人がやって来た。
14:67 ペテロが火に当たっているのを見かけると、彼をじっと見つめて言った。「あなたも、ナザレ人イエスと一緒にいましたね。」
14:68 ペテロはそれを否定して、「何を言っているのか分からない。理解できない」と言って、前庭の方に出て行った。すると鶏が鳴いた。
大祭司の召使いの女中がペテロを見かけ、イエス様と一緒であったことを問いただしました。ペテロは、分からないと言って否定しました。
14:69 召使いの女はペテロを見て、そばに立っていた人たちに再び言い始めた。「この人はあの人たちの仲間です。」
14:70 すると、ペテロは再び否定した。しばらくすると、そばに立っていた人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの人たちの仲間だ。ガリラヤ人だから。」
14:71 するとペテロは、(嘘なら)のろわれてもよいと誓い(強烈な呪いの誓いを)始め、「私は、あなたがたが話しているその人を知らない」と言った。
14:72 するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。
召使いの女は再びペテロのことを、そばに立っている人たちに言い始めました。ペテロは、嘘ならば呪われてもよいと言い、強烈な呪いの言葉で誓いました。イエス様のことを知らなと言ったのです。彼は、怖かったのです。イエス様のために命を捨てることなどとてもできませんでした。人々の前に嘘をついて必死に否定したのです。彼は、鶏の声を聞いて泣き崩れました。自分の無力さ、惨めさを思い知ったのです。