マルコ10章
10:1 イエスは立ち上がり、そこからユダヤ地方とヨルダンの川向こうに行かれた。群衆がまたイエスのもとに集まって来たので、再びいつものように彼らを教え始められた。
群衆が集まると、イエス様は、いつものように教えを始められました。
10:2 すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうかと質問した。
パリサイ人たちがイエス様を試みるために質問しました。夫が妻を離縁することは律法に適っているかどうかということです。
10:3 イエスは答えられた。「モーセはあなたがたに何と命じていますか。」
10:4 彼らは言った。「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」
イエス様は、モーセがあなた方になんと命じたかを問われました。彼らは、モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました、と答えました。その根拠は、以下の聖句によると考えられます。
申命記
24:1 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、
「もし、妻に何か『恥ずべきこと→原語の意味は裸。肉の現れの比喩。』を見つけ、彼の目に適うことを彼女が何も現すことが出来なくなり、離縁状を書いて。。。」
24:2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、
24:3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、
24:4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。
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最初の夫にとっては、彼の目からは我慢の限度を超えたことであり、その場合に離縁状を書いて去らせたときと記し、それを許しています。しかし、別れた妻を再び自分の妻とすることが想定されています。ですから、彼が限界と考えていることも、忍耐できるはずのことであるのです。そして、この戒めの中心になる教えは、妻が離縁された後に他の男の妻となった場合、彼女は、汚れるということです。再婚によって、彼女は汚れるということが明確に示されているのです。ですから、後の夫が死んでも、元の夫は、彼女を妻とすることはできないのです。一旦、男と関係を結んで後、その男が生きている間に、他の男と関係を持つならば、女は汚れるのです。妻を離縁することが許されていても、再婚は、妻も夫も汚れるのです。その汚れを許可すことはないのです。
10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。
モーセがこの戒めを書いた背景には、あなた方の心が頑なだからです。一度娶った妻に忍耐できないのは、人の心が頑なであるからです。神の言葉を受け入れるべき心が頑なで、神の言葉を受け入れることが出来ないので、そのように記したのです。神の言葉とは、次節以降にイエス様が語られることです。
・「心が頑な」→潤い(潤滑油)の欠如による心の硬さ。聖霊の油を欠いた頑固で硬い心、すなわち神の信仰の働きかけを受け入れる(従順である)ことを拒む反逆を意味する。
10:6 しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。
10:7 『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、
10:8 ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。
10:9 こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」
人々は、創造のはじめから定められた言葉の通りに行動することが出来ませんでした。人が妻と結ばれた時、二人は一体となるのです。それは、神の結び合わせによります。人が引き離してはならないのです。人々が神を信じ、神の言葉を信じて従うというのであれば、離婚することはありえないことであるのです。
10:10 家に入ると、弟子たちは再びこの問題についてイエスに尋ねた。
10:11 イエスは彼らに言われた。「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです。
10:12 妻も、夫を離縁して別の男に嫁ぐなら、姦淫を犯すのです。」
弟子たちは、家に入った時、イエス様に尋ねました。イエス様は、離縁について、問題の本質は、モーセが記したように、離縁した後に他の者と婚姻関係を結ぶことが姦淫の罪に当たることなのです。
10:13 さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。
10:14 イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
イエス様に触っていただこうと、人々が子供たちを連れて来ました。十六節の言葉から、祝福していただくためです。弟子たちは、叱りました。弟子たちには、子供たちの価値が分かりませんでした。
イエス様は、それを見て憤られました。弟子たちがしてはならないことをしたので、憤りを露わにされたのです。それは、叱られた子供たちにとっても必要なことでした。このことでイエス様を嫌いになるようなことがあってはならないのです。イエス様は、子供たちをイエス様のところに連れてくるように言われました。彼らを大事な者と考えておられたのです。子供たちを連れてきた人々のしていることは、悪いことではありませんでした。ですから、邪魔をしてはいけないのです。そして、子供について、神の国は、このような人たちのものですと、言われました。彼らこそ、神の国で報いを受ける者たちであることを示しました。弟子たちは、彼らが子供であるという理由で軽く見ていたのです。邪魔な存在と思っていました。しかし、子供たちが尊いのは、神の国で大きな報いを受ける存在であるからです。すなわち、神様に喜ばれていて、神様が高く評価しておられるからです。それに比べて、弟子たちへの評価は、低いのです。イエス様の憤りを引き起こすようなことをしていたのです。
10:15 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
「子どもたちのように」とは、どのような意味でしょうか。子供の特性からその意味を探ることは、危険です。子供は、素直だという一般的な考えから、これは、子供のように素直に神の言葉を受け入れることだとする解釈があります。しかし、子供でも、必ずしも素直ではありません。この記事は、離婚の問題と、金持ちの役人が神の国で宝を受けられないことの記事の間に挟まれています。人が頑ななのでモーセは、離婚を許しました。それは、神が結び合わせたことを受け入れないからです。そのように、神を恐れることがないので、姦淫を犯す可能性がある道を選ぶのです。金持ちの役人も、持ち物を捨てることができない欲望が働くので、神の国に宝を積むことができないのです。いずれも、御国における報いの話です。神を知らない人が福音を信じて、永遠の滅びから救われるという話ではありません。
神の国に入るとは、神の国で報いとしての宝を受け、栄光を受けることです。それを資産として受け継ぐことです。子供は、性欲や金銭欲のために、神の御心を拒むようなことはないのです。それが、子供のように神の国を受け入れることです。神の国で報いを受けるためには、神の御心を行うことです。欲望がそれを塞ぐことがないことは幸いです。
10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
そして、イエス様は、子供たちを抱かれました。彼らを愛しており、大切な者とし迎え入れたのです。そして、彼らの上に手を置いて祝福されました。今後、彼らが神の御心のうちを歩み、神の国で大いなる報いを受けるように祝福されました。
10:17 イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」
一人の人がイエス様に、永遠の命を受け継ぐためには何をしたら良いかを尋ねました。
この人が言っている永遠の命は、御国で報いを相続することを指しています。未信者がイエス様を信じて永遠の滅びから救い出されることを指しているわけではありません。この人は、イスラエル人であり、神を信じる信仰によって歩んでいる人です。その人が受け継ぐ永遠の命すなわち永遠の報いを受け継ぐことについて尋ねたのです。彼は、永遠の命を受け継ぐために何をしたら良いかを問いました。信仰者は、為した行いに応じて評価されます。
なお、永遠の命を永遠の滅びから救い出されることのみに限定することで多くの誤解が生まれています。
コリント第二
5:10 私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。
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・「受け継ぐ」→ 動詞。アオリスト接続法。別の述べられた動作の結果として起こる明確な結果を表す。良い行いをしたことに対して、その結果として報いを受け継ぐという文の構成です。
エペソ
1:11 またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。
1:12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。
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御国を受け継ぐことは、永遠の滅びから救い出されることではなく、御国において永遠の資産としての報いを相続することです。御霊が与えられていることにより、神の御心に適う歩みができることを保証されているのです。私たちは、罪の支配のもとに生きるのではなく、御霊によって肉に対して死に、罪の束縛から解放されて贖われ、神に聖別されて神のものとされるのです。
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
イエス様は、良いと言ったその言葉をご自分のものとして受けることはありませんでした。その栄光は、父に帰せられるべきものであるのです。人として歩まれているイエス様によってなされている全ての業は、父の業です。
10:19 戒めはあなたも知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。』」
イエス様は、戒めすなわち律法を知っているはずだと言われました。それを行うことで、報いがいただけることを示されました。それは、契約であり、契約を守ることに対して、永遠の報いを与えられるのです。
出エジプト
19:5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」
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10:20 その人はイエスに言った。「先生。私は少年のころから、それらすべてを守ってきました。」
10:21 イエスは彼を見つめ、いつくしんで言われた。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
イエス様は、彼を見つめられました。彼を愛したのです。好きになったのです。アガパオの愛で愛したのです。神の戒めを子供の時から全て守ってきたのです。このような人は、まるでヨブのようで、稀に見る優れた人です。イエス様は、そのような人が大好きです。
ですから、続くイエス様の言葉は、彼に対して良い助言をしているのです。彼に欠けていることを指摘したのは、彼は、もっと大きな報いを受けることができるからです。「天に宝を持つことになります。」と言われた通りです。その上で、自分自身のためのものを何も持たず、イエス様に従っていくことが必要です。今後、自分のことを求めず、イエス様の弟子として従って歩むことで、さらなる報いを受けることになります。それは、今日の私たちと同じです。肉によって求めず、イエス様に従って生きることで、大きな報いを受けます。
・「いつくしんで」→好む。愛する。 アガパオ は、通常、神の愛(=神が好むもの)を指す。
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。
彼は、悲しみながら去って行きました。多くの財産を持っていましたが、それを捨てることが出来ませんでした。自分のものとしてとっておき、その財産のもたらすものによって満たされたいと考えていたからです。多くの財産があれば、自分を満たすものをいくらでも求めることが出来ます。もし、彼がもはやこの世のものを求めず、神の御心を行うことを追求したいのであれば、財産によって得られるもので満たされたいとは思わないのです。天の宝を求めるのであれば、この地上のものを求めようとはしないのです。いくら財産によって得られるものによって満たされたとしても、そこに何の価値もないからです。しかし、この人は、それを捨てることが出来なかったのです。彼には、肉の欲望が強く働いていて、その満たしを求めていたからです。
10:23 イエスは、周囲を見回して、弟子たちに言われた。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」
金持ちには、このようにこの世のものを求める欲望が強く働くので、それを捨てて神の御心だけのために生きるということが出来ないので、御国で報いを受けることが難しいのです。
10:24 弟子たちはイエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて彼らに言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。
10:25 金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
弟子たちは、イエス様の言葉に驚きました。この金持ちのように、少年の時から正しい行いをして来た人でも、金持ちであるということで、天の国で報いを受けることが難しいことに驚いたのです。天の国で報いを受ける基準の高さに驚いたのです。
しかし、イエス様は、重ねて彼らに言われました。弟子たちが驚いたということは、彼らの予想を遥かに超えていたからです。彼らが納得するまで、語る必要があるので重ねて話されたのです。
そして、さらに例えで話されました。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいと言われました。それは、二十七節の言葉から、不可能なこととして語られたのです。人には出来ないのです。「針の穴」は、針でついた穴という意味です。らくだがそのようなところを通ることは不可能です。
なお、全ての人が神の国に入るのが難しいと言っているのではありません。「金持ちが」神の国に入るのが難しいと言っているのです。多くの財産を持っていて、それを捨てることができないからです。少しのものしか持っていない人は、捨てるのは簡単です。そして、神の国に入ることは、御国で報いを受けることを言っています。もし、これが、行いによっては救われないことに適用するならば、救われないのは金持ちだけではないのですから、矛盾しています。これは、肉の行いによる義と信仰による義が対比されているわけではありません。
・「針の穴」→「穴」は、傷に由来します。針でついた穴のこと。
10:26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
弟子たちの驚きは、その言葉から分かるように、金持ちは、誰も神の国で報いを相続することが出来ないということです。
なお、この「救われる」という言葉は、永遠の滅びから救われることを指していなことは、明らかです。これは、報いの話です。また、これを永遠の滅びからの救いと勘違いしていると、財産を捨てないでは、永遠の滅びから救われないということになります。それはまちがった考えです。信仰によって救われるのです。ただし、信者となった者が、御国で報いを相続することに関しては、財産を捨てるならば、大きな報いを受けることは確かなことです。信者は、そうすべきです。そのことは、二十九節の話から明らかです。
10:27 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」
イエス様は、じっと見て言われました。大事なことを真剣に受け取るように語られる時、じっと見つめられます。
それは、人には出来ないことを明らかにされました。らくだの例えは、人には不可能であることを示すためです。しかし、神はできるのです。金持ちが自分の財産を捨て、報いを受けることは不可能です。それを可能にするのは、神の力によります。信仰により、御霊によって、肉を殺し、御心を行うことで可能なのです。また、全能の神が人の思いを超えてそれを実現してくださいます。その方は、イエス様を死者の中からよみがえらせた力があります。また、イエス様は、愛に応えて働く信仰により、心のうちに住まわれて、その御業を為してくださいます。もはや、人の肉による行いではなく、神の業として肉を捨て、御心を行うことができるのです。
10:28 ペテロがイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」
金持ちの人に対して「全てを売って、貧しい人たちに分けてやる」ように言われたことに対して、べテロは、自分たちが御国での報いを受けることができるかどうかを尋ねたのです。彼らは、全てを捨ててイエス様に従って来ました。二十六節の「誰が」と問うていますが、それは、神持ちのうち誰がという意味です。そうでなく、全ての人という意味であるとすれば、弟子たちがこのようなことを言うはずがありません。自分たちは、全てを捨てることができたと言っているからです。
10:29 イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は、
10:30 今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来たるべき世で永遠のいのちを受けます。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」
イエス様は、彼らは、報いを受けることができることを話されました。彼らは、来るべき世で「永遠のいのち」を受けます。これは、金持ちの人が最初に質問した「永遠の命を受けるためには」といった言葉と同じで、御国で報いを受けることを意味しています。地上で報いを受けるだけでなく、来るべき世で報いを受けることを話されたのです。その報いを受けることが永遠の命として語られているのです。
イエス様のために、また、福音のために自分の属する全てを捨てたならば、地上で百倍の報いを受けるし、来るべき世で報いを受けるのです。それが永遠の命です。
なお、「福音のため」と言われましたが、この福音は、神の言葉全体を指します。未信者のための救いの言葉だけを指しているわけではありません。あるいは、未信者に対する福音伝道のためということだけではありません。神の御心としての神の言葉全体です。言い換えるならば、肉にはよらず、神の言葉のために全てを捨てることです。
10:32 さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二人をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。そして、人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。
10:34 異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」
イエス様は、エルサレムへ向かう途中、先頭に立って行かれました。弟子たちは、驚きました。そこに行けば迫害を受けることがわかっていたからです。ついていく人たちも恐れを覚えました。弟子たちも、人々も苦難が予想されるところへ行こうとしているイエス様の行動が理解できなかったのです。
しかし、イエス様は、これからご自分の起こることを話されました。ご自分は、全部ことをご存知であって、エルサレムへ向かっていたのです。それは、それらが神様の計画として実現することであることを示すためでもありました。その預言の内容は、正確でした。祭司長、律法学者に引き渡されることは、可能性としてあることです。しかし、彼らが、イエス様を死刑に定め、異邦人に引き渡し、異邦人から蔑みを受け、殺されることは、簡単には予測できないことです。そして、三日目よみがえることは、誰も知り得ないことです。
10:35 ゼベダイの息子たち、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちが願うことをかなえていただきたいのです。」
ゼベダイの息子たちのヤコブとヨハネは、イエス様のところへ来て、願いを聞いていただきたいと申し出ました。
10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」
イエス様は、はなから断ることはありませんでした。耳を傾けられます。
10:37 彼らは言った。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください。」
彼らの願いは、イエス様が栄光をお受けになるとき、それぞれがイエス様の右と左の位に座ることです。これは、着座することを表し、いつまでもその位に留まると言う表現です。彼らは、イエス様が預言通りに来られたキリストであることを信じていました。それとともに、彼らの望んでいたことは、イエス様の弟子としてより高い位に着くことです。後に、すぐれた弟子として用いられる彼らですが、そのための訓練として、彼らは、べテロとともに特別な訓練を受けてきました。彼らは、それをこの時に至るまで勘違いしていました。自分たちは、特別な存在だと思っていたのです。
・「座る」→着座する、すなわち(比喩的に)置く(任命する)。自動詞として、座る(着座する)。比喩的に、定住する(留まる、住む)――継続する、置く、着座する、留まる。
10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることができますか。」
彼らは、イエス様の指摘の通り、何を求めているかわかっていませんでした。彼らは、他の人よりも高い位に着きたいという願いからそれを言っています。肉の欲の実現を求めているのです。神様がそれを喜んで受け入れることはないのです。神の御心の実現こそ価値あることであり、それ以外のことが受け入れられることはありません。彼らの肉の思いから出たことを喜んで受け入れることはないのです。
彼らの願いが肉から出たものですから、それでは、イエス様の栄光に与ることができないことを指摘されたのです。それで、肉を捨てることができますかと問われるのです。
それは、イエス様が飲む杯を飲み、イエス様が受けるバプテスマを受けることです。イエス様が飲む杯は、十字架の死を遂げることです。イエス様ご自身、祈りの中で、これを「この杯」と表現しています。杯は、自分を捨てることを表しています。バプテスマは、死ぬことを表しています。肉に死に、内住の罪に対して死ぬことです。イエス様とともに栄光に与るためには、自分を捨て、命を捨てることが必要であることを示されました。
10:39 彼らは「できます」と言った。そこで、イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。
ヤコブは、迫害の中で死ぬことになります。彼は、文字通り肉体の死を経験します。それとともに、彼も、ヨハネも、主の御心のために生きるようになり、肉にはよらず、御霊によって歩むことになるのです。それで、彼らは、主が栄光を受けた時、ともに栄光に与る人々となるのです。
10:40 しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。それは備えられた人たちに与えられるのです。」
しかし、イエス様の右と左に座ることは、イエス様が与えることではないのです。その点でも、彼らが求めていることについて、彼らは分かっていなかったのです。
結論としては、弟子たちの申し出は、受け入れられないのです。
・「許す」→与える。提供する。
10:41 ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立て始めた。
他の十人は、それを聞いて腹を立てました。肉から出た申し出を肉的なものとして気に留めることがないというようなことはなかったのです。腹を立てたことは、彼らにも同じ肉の思いが働いていたからです。自分こそ偉いものになりたいと思っていたのに、先を越されたので腹を立てたのです。自分が食べるはずの美味しいものを人に取られると腹を立てるのです。
10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。
異邦人の支配者と認められている人たちの態度は、人々の上に立つことに優越感と喜びを感じている人たちなのです。そのように肉から出る思いは、自分を喜ばすことしか考えません。人々に対しても横柄に振る舞い、人々の上に権力振るいます。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
弟子たちの間ではそうであってはならないことを示されました。弟子たちの間で偉くなりたいと思う者は、皆に使える者になるのです。先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになるのです。偉くなることは、神の評価として偉くなることを表しています。神が尊いと評価されるような者になりたいのであれば、仕える者になることです。異邦人の支配者のように自分を高くすることは、人々を価値の劣るものとみなしていることであるのです。兄弟の間にあっては、一人ひとりは、神に愛されている価値ある存在です。ですから、尊び仕えるのです。
先頭に立ちたいと考えることは、神から最も高い評価を受けることです。それは、皆のしもべになり、皆の益のために仕えるしもべとなることこそ価値があることであり、最も高い評価を受ける道です。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
それは、イエス様が模範として示していることです。イエス様は、王キリストとして来られましたのに、仕えられることは求めませんでした。仕えるために来られたのです。人のしもべとなることはありませんが、神のしもべとして、人を愛して、人が永遠の命としての報いを獲得するために、働かれたのです。その意味で人に仕えられたのです。また、多くの人の贖いの代価として、ご自分の命を与えられるのです。このようなことこそ神の前に価値あることであり、イエス様は、すべての名に勝る名を受けられたのです。
10:46 さて、一行はエリコに着いた。そしてイエスが、弟子たちや多くの群衆と一緒にエリコを出て行かれると、ティマイの子のバルティマイという目の見えない物乞いが、道端に座っていた。
イエス様がエリコを出られる時、バルテマイが目が見えず物乞いをしていました。
10:47 彼は、ナザレのイエスがおられると聞いて、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めた。
彼が聞いたことは、「ナザレのイエスがおられる」という言葉です。人々がイエス様がどなたであるから理解していたわけではないのです。彼らは、主キリストがおられるとは証ししませんでした。それが彼らの思いの現れです。しかし、この人は、自分の目を癒していただきたいという強い思いがありました。健康な人たちにとっては、特にイエス様の力を必要としていませんでした。その分だけ関心が薄かったのです。罪の赦しと、永遠の報いに目を留める人は、少ないのです。むしろ、この世で今のままで健康に過ごし、自分を満たすものを求めて生きようとするのです。彼らは、傍観者です。自分の必要性を感じないのです。しかし、この盲人にとっては、切実なことです。生きていくためには、物乞いをしていくしかありません。それで十分に食べられるわけでもありません。生活するためには、不自由この上ないのです。それで叫びました。その時、目を癒すことができる方について、人となられて来られたキリスト以外にないことを彼自身は信じていたのです。それで、「ダビデの子イエス様」と叫びました。「ダビデの子」という言葉が、神の子キリストであることを表しています。神の子キリストであるイエス様と叫んだのです。「あわれんでくだとい」という言葉は、契約を忠誠をもって果たしてください」という意味です。預言には、キリストが来られたとき、盲人の目は開かれることが約束されているのです。
イザヤ書
35:1 荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。
35:2 盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。これに、レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光が授けられるので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
35:3 弱った手を強め、よろめく膝をしっかりさせよ。
35:4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ。恐れるな。見よ。あなたがたの神が、復讐が、神の報いがやって来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
35:5 そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。
35:6 そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水が湧き出し、荒れ地に川が流れるからだ。
35:7 焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは葦やパピルスの茂みとなる。
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・「あわれむ」→契約に対する忠誠を果たす。
10:48 多くの人たちが彼を黙らせようとたしなめたが、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と、ますます叫んだ。
この盲人は、多くの人が黙らせようとしましたが、ますます叫びました。人々は、この人の求めに必死さがわかりませんでした。人の苦しみは理解することが難しいのです。それに、この人の求めに応えるかどうかは、イエス様が決めることなのに、人々がそれをやめさせようとしました。信仰による言葉が発せられたのですが、信仰による求めになんの価値も見出していないのです。彼らには、ダビデの子として来られたキリストに対する信仰がなかったからです。この人のように、信仰によってイエス様に近づこうとする思いがあるなるならば、この人の求めを理解できたのです。私たちが、本当にイエス様を求める人であるならば、いかに信仰によって歩むかを考えたでしょう。御言葉からなすべき御心を知り、それを追求したでしょう。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその目の見えない人を呼んで、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたを呼んでおられる」と言った。
この人は、自分の目の前を通り過ぎてしまうことを恐れていました。人々は、心配しなくても良いことを告げました。イエス様が応えて、呼ばれたからです。イエス様は、信仰によって近づく人を退けることはしません。
10:50 その人は上着を脱ぎ捨て身軽になって、躍り上がってイエスのところに来た。
この人は、自分の求めをイエス様が顧みてくださったことを大いに喜びました。目が見えないのに、上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエス様のもとに来ました。
10:51 イエスは彼に言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」すると、その目の見えない人は言った。「先生、目が見えるようにしてください。」
イエス様は、何をして欲しいかと質問されました。彼が求めているものを問われます。今日も、イエス様を求める人にイエス様は問われます。何を求めているのかと。教会の集まりに来られて、御言葉を聞くことは、非常に良いことです。しかし、それとて、なんのためにそれを求めているのかをイエス様は問われます。教会の椅子を温めるために来ているでしょうか。教会での人との交わりを求めているでしょうか。クリスチャンになりたくて来ているでしょうか。それとも、神と神の子イエス・キリストを信じ、永遠の滅びから救われ、その方に従って生きて、そして、永遠の報いとしての祝福を受けるためにそうしているでしょうか。
この人の求めは、明快です。偉大な私の師である方とその権威を言い表し、目が見えるようになることを願いました。
・「先生」→ラボニ。ラビの強調形。最高位の指導者。ここと、ヨハネニ十章のマリアの言葉の二回だけ使用されている。「私の偉大な師」あるいは「尊い師」を意味する個人的呼びかけ。
10:52 そこでイエスは言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました。」すると、すぐに彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。
イエス様は、行きなさいと言われました。彼の選択に委ねたのです。イエス様に対する信仰があなたを救ったと言われました。そのような言葉を用いたのは、彼が癒やされたことを直接言ったわけではありません。癒やされたことは、事実として明確なことです。わざわざ言う必要のないことです。ですから、彼が霊的にどのような状態にあるかを教えられたのです。キリストに対する信仰は、彼を神に受け入れられる者にしたのです。そして、彼は、キリストに従って生きることで神の御心に適い、永遠の御国での報いを受け、永遠の命を獲得することができるのです。イエス様は、あなたにはその道が開かれたことを告げることで、その人がいかに歩むべきかを教えられたのです。この人は、自分のために生きる道を選びませんでした。イエス様について行きました。今後もイエス様に従って生きる道を選んだのです。ツァラートから癒やされた九人は、戻って来ませんでした。彼らは、イエス様に従って生きることで、神に栄光を帰すことをしなかったのです。この人は、イエス様に従いました。