マタイ26章

26:1 イエスはこれらのことばをすべて語り終えると、弟子たちに言われた。

26:2 「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」

 イエス様は、御自分が王として支配される時が来ることを話されてから、二日後のことについて話され、十字架につけるために引き渡されることを示しました。

26:3 そのころ、祭司長たちや民の長老たちはカヤパという大祭司の邸宅に集まり、

26:4 イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。

26:5 彼らは、「祭りの間はやめておこう。民の間に騒ぎが起こるといけない」と話していた。

 祭司長たちや民の長老たちは、殺人の計画を立てていました。しかも、イエス様を騙して捕らえるのです。彼らの計画したことは、犯罪です。イエス様が正しくないならば、その不正について裁きをするならば正当です。しかし、イエス様に不正はありませんでした。自分たちにとって不都合であったので、取り除きたかったのです。

 民衆は、イエス様について正しく信じたのではないかもしれませんが、認めていました。それで、騒ぎが起こることを心配したのです。祭りの間には、多くの人が集まります。その人たちがイエス様を殺すことに賛同しなかったら、騒ぎが起こります。

26:6 さて、イエスがベタニアで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、

26:7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやって来た。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

 一人の女の人は、イエス様の頭に香油を注ぐために来ました。ベタニアでマリアが香油を注いだのは、ヨハネの福音書の記事から過ぎ越しの六日前にベタニアにおいでになられた時と考えられます。イエス様をもてなすのであれば、おいでになった当日と考えるのが順当です。そうすると、この女の人は、その数日後に同じベタニアで香油を注ぎました。

 マリアは、イエス様の栄光と十字架の御業の偉大さのために香油を注ぎました。ラザロのよみがえりを見て、御子の栄光を見たのです。それまで、彼女は、ラザロの死に関して不信仰でした。しかし、高価な香油を注いで栄光を帰すべき方であることを知ったのです。そして、十字架を知っていたことは、イエス様の「葬りの日のため」という言葉から分かります。彼女が足元で話をよく聞いていたことは、この信仰につながったと言われますが、ラザロの死に対して示した彼女の態度は、不信仰です。自分自身にとっての重要な問題に関しては、信仰を持ち続けることができなかったのです。しかし、ラザロのよみがえりを見て、彼女は、信仰に歩むことを学んだのです。今まで彼女が御言葉によって養われていたことは、無駄ではありせんでした。彼女は、より高度な信仰に導かれたのです。

 シモンの家に来た女の人は、イエス様に栄光を帰すために来たのです。

26:8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。

26:9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」

 弟子たちは、その行為について評価し、無駄なことと言いました。イエス様に香油を注ぐことと、それを貧しい人たちへの施しとすることを比べて、無駄であり、全く価値がないとしたのです。怒りを持ち、憤慨してそのことを言ったのです。ですから、イエス様に香油を注ぐことについて、価値があるとは考えられませんでした。もし、価値を見出していたならば、女の行為を理解できたはずです。

26:10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。

 女の人がイエス様のために良いことをしたことに対して、弟子たちは非難しました。イエス様は、まずその点を指摘されました。この女の人をかばったのではありません。弟子たちのしていることが誤っていたのです。

 まず第一に、彼女のしていたことは、イエス様に良いことをすることであり、誰もこれを否定することはできません。仮定の話として、もし、それが正しい知識に基づくものでないとしても、彼女の動機は正しく、何人も裁くことはできません。彼女こそ、イエス様の尊さを知り、その価値にふさわしいものを捧げることができたのです。香油は、非常に高価でした。

 弟子の見立てでは、三百デナリ以上で三百万円ぐらいです。。

ローマ

14:6 特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。

14:7 私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

14:8 私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。

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 第二に、彼女の捧げた物は、彼女自身のものであり、どのように使おうとも他の人が口を挟むことはできません。

マタイ

20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。

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 直訳では、「法がありますか。」→「合法ではありませんか。あるいは、許されていることではありませんか。」

26:11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。

 第三に、主に香油を注ぐ機会は、限られているということです。葬りは、間近に迫っていました。主の言葉をそのまま信じることができた人だけが行動することができました。彼女の行動は、主の言葉を信じた信仰の現れなのです。

 これが信仰です。信じたので、誰も信じないときにも、他の人とは異なる行動を取ることができたのです。

 他の女たちは、イエス様の死後、香油を注ごうとしましたが、そのときには既に遅く、イエス様はよみがえられて、かなわぬことでした。

 津波からの避難も、言い伝えを信じていた人たちは、すぐに山に逃げる行動を取り、いのちを救いました。しかし、普段からその心構えのできていない人は不幸です。津波が来てから行動しようと思っても、もう遅いのです。

26:12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。

 第四に、彼女の信仰の秀逸さです。イエス様の御言葉から、イエス様の死を知ることができた者は、わずかでした。彼女の行動の目的をイエス様が証ししてくださいました。

26:13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」

 そして、その信仰がいかに秀逸なものであるかが、世界中に宣べ伝えられるのです。主を知りその尊さを自ら犠牲を払う尊い捧げ物によって表したこと、そして、捧げるべき機会を逃さなかったこと、主の言葉をそのまま信じて行動したことなどです。

 彼女のしたことは、マリアに次いで二人目の行動です。しかし、彼女の信仰の尊さに対する主の評価は、変わりませんでした。それがどのような機会に、どのように現されようとも、主は、その信仰を高く評価されます。御言葉を信じて行動することは、非常に貴重な尊いことであるのです。皆さんにも、その信仰を表す機会が与えられています。神様の言葉が伝えられているからです。神の言葉をそのまま信じて従うことが信仰であるからです。神様の存在、罪と裁き、十字架と復活、罪の赦しと永遠の命、主をよみがえらせた神の力、備えられた御国とそこで受け継ぐ栄光。それらは、信仰によって受け取ることができます。

26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行って、

26:15 こう言った。「私に何をくれますか。この私が、彼をあなたがたに引き渡しましょう。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。

26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡す機会を狙っていた。

 この女の方がイエス様の価値をこの上なく尊いものと理解したのと対比して、ユダは、イエス様を売って何かを得ようとしました。ユダは、いつでも金入れに入っていたものを盗んでいました。彼は、お金に価値を見出し、お金がほしいという欲望にいつでも囚われていました。

 彼については、十二人の一人と記されています。十二人は、特別に選ばれた人です。他の信者とは、受ける役割が明らかに異なっています。イエス様が栄光の座に着くとき、イスラエルの十二の部族を裁くのは彼らです。しかし、彼には、この世のことにしか関心がありませんでした。後の世でどのような栄光を受けるかということについて考えていなかったのです。

 また、彼は、イエス様の力や権威を身近に見ていて、イエス様を知ることがありませんでした。弟子たち全員に言えることですが、イエス様がどのような方かを知ることは少なかったのです。その中でも、ユダは、イエス様の目をごまかして盗みをしても、全く咎めを感じることはなかったのです。イエス様がそのことをご存知てあるとは考えていませんでした。彼には、この世のことしか彼を満たすものはなかったのです。

 彼に与えるものを決めたのは、祭司長たちです。銀貨三十枚です。これは、奴隷一人の値段に相当します。祭司長たちにとっては、その程度の価値しか見いださなかったのです。

26:17 さて、種なしパンの祭りの最初の日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、どこに用意をしましょうか。」

26:18 イエスは言われた。「都に入り、これこれの人のところに行って言いなさい。『わたしの時が近づいた。あなたのところで弟子たちと一緒に過越を祝いたい、と先生が言っております。』」

26:19 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。

 弟子たちは、過ぎ越しの食事をどこで取るかをイエス様に尋ねました。イエス様は、弟子たちを定めた人のところへ遣わされました。「祝いたい」と訳されていますが、原語に即して訳すならば「守ります」です。その人の意向を尋ねるためではなく、イエス様がどうされるかを伝えたのです。その人がイエス様のために用意している方であることをご存知であったのです。

 過ぎ越しの祭は、祝うという性格のものではなく、守るべきことであるのです。

 イエス様は、その人に「わたしの時が近づいた。」と語られました。その人は、それに関心を持っている人であり、理解することができる人です。意味ないことをイエス様は語られません。その人は、喜んで備えたはずです。いつ、主が利用しても良いように備えていたのです。主のお言葉は、その人の信仰に応えるものです。主にとって大切な時のためにその人の備えたものを用いようとされたのです。

 彼らは、イエス様の言われたとおりに用意しました。

26:20 夕方になって、イエスは十二人と一緒に食卓に着かれた。

26:21 皆が食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ります。」

 イエス様は、食事中に弟子の一人が裏切ることを話されました。家庭におけるしつけでこのようなことはしないことです。食事中に注意するようなことをしてはいけません。しかし、これは、預言の成就として起こることで、ともに食卓についている者 が裏切るのです。そのことが預言のとおりであり、また、イエス様は、それをご存知であることを明らかにしておられます。その上で、裏切ることを語られたのは、ユダに悔い改めの機会を与えるためです。

26:22 弟子たちはたいへん悲しんで、一人ひとりイエスに「主よ、まさか私ではないでしょう」と言い始めた。

26:23 イエスは答えられた。「わたしと一緒に手を鉢に浸した者がわたしを裏切ります。

26:24 人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」

 イエス様と一緒に鉢に手を浸すことは、食事の器を共有することであって、親しい交わりの関係を表しています。それなのに裏切るのです。

 そのような人は、「生まれてこなければよかったのです。」と言われました。それは、その人が滅びるからです。何一つ幸いを得ることはできません。この世に存在した意味がないのです。永遠の苦しみが待っているからです。このように強く言うことで、ユダに悔い改めを促しているのです。御自分のことを考えていたのではなく、ユダのことを案じていたのです。

26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが「先生、まさか私ではないでしょう」と言った。イエスは彼に「いや、そうだ」と言われた。

 ユダには、イエス様の心が伝わりませんでした。イエス様が全てをご存知であるにも関わらず、彼はしらを切りました。しかし、イエス様は、明確に伝えました。それは、ユダのためです。

26:26 また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」

 イエス様は、ご自分の体を表すパンを取り、神を褒め称えました。イエス様は、それによって神の栄光が現されることを覚えて神を褒め称えたのです。

 「わたしの体です。」と言われました。そのパンを食べなさいと言われた時、そのパンを食べることの意味を示されました。イエス様の体を表すものとして覚えて食べるのです。

コリント第一

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、

11:24 感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

11:25 食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

11:27 したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。

11:28 だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。

11:29 みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

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 主イエス様を覚えるためにパンを食べ、杯に与るのです。主が御体を裂かれたこと、また、血を流されたことです。

コリント第一

10:16 私たちが神をほめたたえる賛美の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。

10:17 パンは一つですから、私たちは大勢いても、一つのからだです。皆がともに一つのパンを食べるのですから。

10:18 肉によるイスラエルのことを考えてみなさい。ささげ物を食する者は、祭壇の交わりにあずかることになるのではありませんか。

10:19 私は何を言おうとしているのでしょうか。偶像に献げた肉に何か意味があるとか、偶像に何か意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。

10:20 むしろ、彼らが献げる物は、神にではなくて悪霊に献げられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。

10:21 あなたがたは、主の杯を飲みながら、悪霊の杯を飲むことはできません。主の食卓にあずかりながら、悪霊の食卓にあずかることはできません。

10:22 それとも、私たちは主のねたみを引き起こすつもりなのですか。私たちは主よりも強い者なのですか。

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 パンに与ることは、主の体に与ることで、交わりを一つにすることを表しています。血に与ることも、交わりに与ることとして示されています。ただし、説明としては、パンと体の関係として示されています。

26:27 また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。

26:28 これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。

 次に杯から飲むように言われました。その杯は、イエス様の契約の血を表していました。罪の赦しという契約のためです。罪の赦しのためには、代価が必要です。血は、いのちを表します。私たちが罪赦され、いのちを得るためには、イエス様の命という代価が必要なのです。私たちが赦されるためには、イエス様が代わりに裁きを受けなければならないのです。代価もなく罪を赦すことはできないのです。それは、罪を曖昧にするだけで、神様の正しさが損なわれることになります。

 パンを食べ、杯から飲むことで、イエス様を覚えるのです。罪の赦しに関してだけでなく、イエス様のすべてを覚えます。

26:29 わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

 イエス様は、二つのことを語られました。一つは、もはやぶどうの実からできたものを飲むことはないということで、この世から去ることを示されました。

 もう一つは、父の御国で新しくともに飲む時が来るということです。そのときには、朽ちない体に変えられているので、ぶどう酒を飲むという行為自体に意味はありません。これは、比喩になっています。それは、ここで示されている杯から飲むことと同じことを表していて、イエス様を覚えることです。特に、ぶどう酒にだけ触れられたのは、ぶどう酒によって表される自分を捨てることこそ、最も偉大な中心的なことであるからです。

ピリピ

2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、

2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。

2:10 それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

2:11 すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

2:15 それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、

2:16 いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。

2:17 たとえ私が、あなたがたの信仰の礼拝といういけにえに添えられる、注ぎのささげ物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。

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 父の右の座に挙げられた理由が、十字架の死にまでも従われたことであることがわかります。そして、そのことは、注ぎの捧げ物であるぶどう酒と関連付けられています。注ぎの捧げ物としてイエス様がご自分を捧げたことは、神の前に最も偉大なことであり、全ての名に勝る名という最高の評価を与えるにふさわしいものなのです。

26:30 そして、彼らは賛美の歌を歌ってからオリーブ山へ出かけた。

26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからです。

26:32 しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます。」

 イエス様は、弟子たちの身に起こることについて、その時をはっきりと示されました。時は、今夜です。そして、それは預言にも示されていたことです。

 よみがえられてからのことを話されて、死ぬことも示されました。

26:33 すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」

 ペテロは、事の重大さについては、深く考えない人です。自分の身に問題が起こるまで、分からない人です。湖の上を歩くときにも、歩き始めて波を見るまで、信じ続けることが簡単でないことを知ることがないのです。

 また、彼がそのことを言った理由として、自分を誇る思いがありました。皆と比較して、自分にはそのようなことはないと言っています。自分は、他に勝った者であるということを示したくて、そのことを言ったのです。自分が人の前にどう評価されるかを考えているので、口先だけのことも言うのです。

26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」

 イエス様は、ペテロが躓くことを明確に示されました。鶏が何回泣くのかまで告げられたのです。

26:35 ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。

 しかし、ペテロは、イエス様の言葉をそのまま受け取りませんでした。ペテロは、どんなときにもイエス様についていくという決意を語り、イエス様に対する愛を表したつもりでいましたが、イエス様の言われた言葉を否定しているのです。そのまま受け取ってはいないのです。ペテロは、イエス様の言われることをそのまま信じて、どう行動したらよいかについて考えるべきでした。しかし、ペテロにとっては、躓くようなぶざまなことにはならないと思いたかったのです。自分の弱さを認めることができませんでした。

 イエス様がこのことを予め語られたのは、ペテロのためです。自分が偉い者のように考えていたのでは、この後、信者を導くことはできないのです。神様は、牧者として用いることができません。彼が、そのようなことを捨てるためです。また、ペテロがその役割にふさわしい者に変えるためです。

 他の弟子たちも、ペテロと同じような考えでした。人は、自分のありのままの姿を認めることができないのです。肉的な思いにとらわれているのに、それに気付かないのです。

26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという場所に来て、彼らに「わたしがあそこに行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。

26:37 そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

「悲しみ」→悲しむ、心痛める。

「もだえ」→苦しむ。深く苦しむ。もだえには身をよじる意味もあるが、ここでは、そのようなことはありません。

 マルコの福音書では、驚いたとあります。

26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」→「私のたましいは、非常に悲しく、死ぬほどです。」これは、たましいのことです。もちろん肉から出たものではありません。つまり、自分の苦しみを思って悲しんでいるのではないのです。神の御心を行う上で、悲しみを覚えているのです。

 弟子たちに対しては、イエス様と一緒に目を覚ましているように求めました。イエス様の全てを見ておくためです。特に十字架に進むにあたっての様子について知るためです。

26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

 イエス様は、父に祈られました。「この杯」とは、十字架の御業のことです。それは、杯が表しているように、自分を捨てることです。

 「できることなら」→「もし可能であるならば」

 その杯を自分から過ぎ去らせてくださいと祈られました。父の御心ならばそうしてくださいと祈られたのです。その理由についてはここに明確には記されていません。ただ、御自分の苦しみを避けるためでないことは明らかです。なぜならば、イエス様に従う者について次のように求めているからです。

マタイ

16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

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 自分を捨てることを弟子たちに求められた方が、自分の苦しみのためにそれを避けることを求められることはありえません。

26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。

26:41 誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

 イエス様がこのように祈られたのは、弟子のためでもありました。弟子たちがイエス様の祈りを見ておくためです。父の御心のためにすべてを捧げられた御姿を覚えさせるためです。

 弟子たちに対して目を覚まして祈っているように求められました。霊は燃えていても肉は弱いのですと言われました。弟子たちは、肉の弱さのために寝ていたのです。肝心な時に大切なものを見逃してしまいました。

 イエス様が杯が過ぎ去るように願われたことは、ご自分の苦しみを避けるためではないことは、この言葉からも明らかです。神様の御心は、明らかなのです。霊が燃えているならば、その御心に従うのです。肉の弱さによってそれを避けることはありません。もし、それができない方であるならば、弟子たちにこのようなことを言う資格はありません。

 この祈りは、むしろ父を慮ってのことです。イエス様は父を深く愛して、その御心の実現だけを求められた方です。父を愛されるが故に、むしろ父の御苦しみを慮られる方です。御自分のことをお考えになっていたのではなく、むしろ御自分のことは何も考えず、父のことを考えていたのです。父を配慮されつつ、父の御心の実現を求められたのです。

 父の御業は、この上ない偉大な御業でなければならないのです。全ての者がその恵みの栄光を褒め称えるためです。その栄光の偉大さは、犠牲の大きさによるのであり、愛する方の血による業は、父にとって最大の犠牲なのです。父が、悲しみを覚えないでしょうか。アブラハムに対する祝福の大きさは、愛する独り子を捧げたことへの評価によります。

26:42 イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。

 そして、イエス様が飲まなければならない杯が過ぎ去らないのであれば、御心がなりますようにと言われ、父に配慮されつつ、御心どおりになさることを願われました。

26:43 イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。

26:44 イエスは、彼らを残して再び離れて行き、もう一度同じことばで三度目の祈りをされた。

26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。

26:46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

 弟子たちは、眠くて起きていることができませんでした。彼らは、イエス様の悲しみ、苦しまれていることを自分のこととして捉えることはできませんでした。彼らは、誘惑に勝てなかったのです。その時、彼らは、イエス様の祈りを見て、聞くことができなかったのです。残念なのです。イエス様は、わざわざそれを弟子たちに見せようとしたのにも関わらず、彼らは、そうしませんでした。

26:47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。

 ユダは、十二人の一人として紹介されています。イエス様に召されて、みそばにあって奇跡を見、言葉を聞き、共に食事をしたのですが、彼にはイエス様がどのような方であるかが全くわかりませんでした。彼は、イエス様を捉え殺そうとする人々から遣わされた大勢の群衆とともにやって来たのです。彼は、それができると踏んで来たのです。彼は、イエス様の奇跡を見ながら、その力について悟っていませんでした。

26:48 イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。

26:49 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。

 ユダは、予め合図を決めておきました。夜のことですから、指を指してもよく分からないかもしれません。口づけすれば、間違えないでしょう。しかし、卑劣な手段でした。

 ユダは、すぐにイエス様に近づきました。目的を遂げるために素早い行動をとったのです。

「こんばんは」→「神の恵みのうちに喜ぶ。」通常は、「喜ぶ」と訳される語です。

 ここでは、挨拶の言葉として用いられていますが、彼の思いとしては、神の恵みのうちに喜びますということで、イエス様に会えて喜びますと言っているのです。それは、神の恵みだと言っているのです。これが、人を裏切り売り渡そうとしている人の言葉です。彼には、神に対する恐れもありませんでした。

26:50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。

「あなたがしようとしていることをしなさい」→「あなたが立っている所にしたがって行いなさい。」動詞は、常に側にいることです。関係代名詞「~こと」には、前置詞「~のうえに」がついています。彼の行動の基になっているものは何かを尋ねたのです。

 ユダは、神を恐れず、救い主を知らず、人を売って金儲けをしようとしているのです。彼は、イエス様に罪がないことを知っていました。彼の求めているものは何なのでしょうか。イエス様が示してこられた永遠の御国の報いについ何も考えていなかったのです。この世が全てなのです。そのようなものになんの価値があるでしょうか。

 なお、ここに示されている訳では、ユダに「しようとしていることをしなさい。」となっていますが、ユダは既に目的を果たしたのです。この訳では、辻褄が合いません。

26:51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。

26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

 イエス様とともにいた一人は、剣を抜き、一人の耳を切り落としました。イエス様は、それを止められました。剣を取る者は、剣で滅びると言われました。弟子たちに求められていることは、そのような戦いではないのです。

26:53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。

26:54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

 イエス様が弟子たちを止めた理由は、神様が予め聖書に預言した計画が実現するためです。この群衆の行いを止めようとするならば、十二軍団よりも多い御使いを配下においていただくことができるのです。

26:55 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。

26:56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。

 さらに、群衆にも、このようになったことについて、それが預言者の書が実現するためであることを話されました。このときに至るまで、彼らにはいくらでも機会があったのに彼らは捕えなかったのです。剣や棒を持たなくても捕えることができたのです。しかし、神様が定めた時が来て初めて、それは、実現するのです。

 弟子たちは、イエス様を見捨てて逃げました。彼らは、弱かったのです。またそれは、預言の実現でした。

26:57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カヤパのところに連れて行った。そこには律法学者たち、長老たちが集まっていた。

26:58 ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の中庭まで行った。そして中に入り、成り行きを見ようと下役たちと一緒に座った。

26:59 さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするためにイエスに不利な偽証を得ようとした。

 大祭司、祭司長、そして最高法院全員は、一つの目的のために行動しました。それは、イエス様を死刑にすることです。彼らは、神の御心を拒んだのです。彼らは、闇の中にありました。イエス様の言葉と奇跡により、真理の光が照らされたのに、それを受け入れない人々は、メシヤを拒み、殺すという役割を担うことになります。

 神の御子であるキリストの到来は、その誕生から明確に示されました。預言通り、処女が身ごもり、そして、ベツレヘムで生まれたのです。御使いが人に現れて証ししました。そして、東方の博士が来たことで、エルサレム中に知れ渡るところとなりました。その言葉と奇跡は、明らかなしるしです。それにも関わらず、彼らは信じなかったのです。

 彼らは、自分たちが正しいとは思っていません。イエス様に不正を見つけることができないのです。イエス様の言われることは、理屈で考えれば正しいのです。しかし、受け入れたくないので、殺すために偽証を求めたのです。卑劣な犯罪を犯しても、排除したかったのです。

26:60 多くの偽証人が出て来たが、証拠は得られなかった。しかし、最後に二人の者が進み出て、

26:61 こう言った。「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」

26:62 そこで大祭司が立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」

 大祭司は、二人の証言について、「お前に不利な証言」と言っています。人の常識では、神殿を壊して三日で建てることはできません。不可能なのです。ですから、そのような言葉は、嘘であるということになります。しかし、犯罪の程度は、軽いものです。誰もが分かる嘘をついたとしても、重大な犯罪にはならないのです。

 祭司長は、イエス様の言葉についてよく考えませんでした。人の常識からかけ離れてた誰にも分かる嘘をわざわざつくでしょうか。この言葉が比喩であること、そして、それが意味している事柄ついて、考えようとしないし、理解もしませんでした。

 このように、イエス様の言葉だけでなく、聖書の言葉は慎重に扱わなければなりません。特に比喩が正しく解釈されなければ、その意味が伝わらないのです。あるいは、間違った教えが入るのです。

26:63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司はイエスに言った。「私は生ける神によっておまえに命じる。おまえは神の子キリストなのか、答えよ。」

 大祭司の問い掛けから、応えるに値しない愚かな質問であることが明らかです。大祭司も、証人たちの神殿の再建に関しての言葉では、イエス様を死刑にできないことはよくわかりました。

 それで、単刀直入に神の子であるのかどうか聞いたのです。

26:64 イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」

 イエス様は、彼らが口にした「神の子キリスト」という言葉について、そのとおりであると答えただけでなく、御自分が神であることをさらに強く明確に示されました。彼らは、神の子キリストについて軽く考えていたのです。それで、このような愚かな裁判を行うのです。しかし、神であるということは、どういうことかを明確に示したのです。

26:65 すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。「この男は神を冒涜した。なぜこれ以上、証人が必要か。なんと、あなたがたは今、神を冒涜することばを聞いたのだ。

26:66 どう思うか。」すると彼らは「彼は死に値する」と答えた。

 大祭司は、自分の衣を引き裂きました。衣は、自分を覆うものとしてあります。神の前に正しいと認められている立場を表現しています。それを引き裂くことは、自分は罪人であことを表明したのです。大祭司は、民の代表として民の間に深刻な罪が犯されたことを自分の責任として覚え、神の前にイスラエルが恥ずべき状態にあることを表明したのです。ここは、神殿の敷地の中ではないですから、彼が装束をつけていたとは考えられません。私服を引き裂いたのです。

 もし、彼が心からそう考えてそれをしたならば正しいのです。しかし、実際は、彼自ら人を陥れ、死刑にしようと図っていたのです。神の前には重大な罪を犯していたのです。彼のしたことは偽善です。大祭司がここまで堕落していたのです。

 他の人々も、イエス様の証言は、死に値すると同調しました。

26:67 それから彼らはイエスの顔に唾をかけ、拳で殴った。また、ある者たちはイエスを平手で打って、

26:68 「当ててみろ、キリスト。おまえを打ったのはだれだ」と言った。

 彼らは、イエス様を辱めました。しかし、最終的な刑の執行までは、私的にこのような行為は許されないことです。彼らのうちの誰かが被害を受けたわけではないのです。むしろ良いものしか得ていません。

26:69 ペテロは外の中庭に座っていた。すると召使いの女が一人近づいて来て言った。「あなたもガリラヤ人イエスと一緒にいましたね。」

26:70 ペテロは皆の前で否定し、「何を言っているのか、私には分からない」と言った。

 ペテロは、召使いの女の質問を恐れました。そこにいる人々の手前、彼はごまかしました。何を言っているのかわからないと言い、全く無関係であることを装いました。彼は、恐れたので嘘をついたのです。

26:71 そして入り口まで出て行くと、別の召使いの女が彼を見て、そこにいる人たちに言った。「この人はナザレ人イエスと一緒にいました。」

26:72 ペテロは誓って、「そんな人は知らない」と再び否定した。

 入り口まで出ていくと、別の女がもっとはっきりと、ペテロがイエス様と一緒にいたと証言しました。ペテロは、先ほどよりももっと強く、誓いをして否定しました。

26:73 しばらくすると、立っていた人たちがペテロに近寄って来て言った。「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」

26:74 するとペテロは、(嘘なら)のろわれてもよいと誓い(強烈な呪いの誓いを)始め、「そんな人は知らない」と言った。すると、すぐに鶏が鳴いた。

26:75 ペテロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われたイエスのことばを思い出した。そして、外に出て行って激しく泣いた。

 さらに立っていた人たちが近づいてきて、ペテロを問いただした時、彼は、もっと強烈な呪いの誓いを立てて、否定したのです。