マタイ22章

22:1 イエスは彼らに対し、再びたとえをもって話された。

22:2 「天の御国は、自分の息子のために、結婚の披露宴を催した王にたとえることができます。

 王は、息子のために披露宴を催しました。それは、王にとって大切なものであり、息子の喜びを共に祝う場でした。

 これは、神様の招待です。神様とイエス様の喜びのために、この催しは開催されました。 その招待に与ることは、大きな栄誉を受けることです。王とその子とともに、喜びを味わうのですから。

22:3 王は披露宴に招待した客を呼びにしもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。

 王は、予め披露宴への招待をしておきました。それは、共に喜ぶことを心から望んだからです。しかし、彼らは来ようとしませんでした。

 この招待は、神様の救いへの招待です。その救いは、永遠のものであり、祝福に満ちたものです。永遠の神の喜びの中に入ることができます。しかし、その幸いに心を留めない彼らは、見向きもしませんでした。招待を受けていて、その上、しもべか遣わされて促されたのに応じなかったのです。

22:4 それで再び、次のように言って別のしもべたちを遣わした。『招待した客にこう言いなさい。「私は食事を用意しました。私の雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。どうぞ披露宴においでください」と。』

 それで、再びしもべを遣わました。しもべは、彼らが受ける幸いについてより詳しく説明しました。王が彼らを満たす食事の用意をしたことです。これは、招待された者たちが受けるものは、全て神様が用意したことを表してます。

 また、王の雄牛や肥えた家畜を屠りました。それは、神様の備えたものが上等なものであること、また、払った犠牲の価値を表しています。

 この動物を屠って、食物としたことは、比喩になっています。動物は、イエス様を表しています。それを屠ったことは、十字架の御業を表しています。そのように、尊い犠牲を払って、私たちが満たされるようにされたのです。すなわち、罪とその裁きから救われ、神に受け入れられ、神との愛の交わりに入れられたのです。永遠に満たされるのです。

 何もかも整えたのです。彼らは、招待に応じるだけで良かったのです。そして、丁寧に招待しました。神様は、この上ない配慮をされたのです。この招待に関して不満を抱く要素はありませんでした。招待した王には、何の落ち度もなかったのです。

22:5 ところが彼らは気にもかけず、ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き、

22:6 残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。

 招待を受けた者たちは、気にもかけませんでした。全く関心を示さなかったのです。

 畑と商売は、この世の営みです。その営みは、彼らの生活を支え命を支えます。また、彼らを富ませるのです。彼らの関心は、自分のことです。「自分の畑」であり、「自分の商売」なのです。

 残りの者たちは、自分のことにのみ関心をいだいて、気にも留めない人たちとは異なり、王の招待を蔑み、しもべを侮辱し、しかも、殺してしまいました。彼らの心は、王と敵対していたのです。しもべを殺すことは、もはや王を敵とみなすことです。良いものを与えようとしていた王に対して敵対したのです。王が与えようとしているものの価値を考えず、自分の思いのままにすることを願ったのです。

22:7 王は怒って軍隊を送り、その人殺しどもを滅ぼして、彼らの町を焼き払った。

 王は怒って、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払いました。王には、それをする権威がありました。その国は、自分の国であり、その国を治める王であるからです。

 これは、神様の招待を拒んだことに対する裁きを表しています。神様の招待を受けるならば、永遠の祝福に与りますが、拒むならば、永遠の裁きです。

22:8 それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。

22:9 だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』

22:10 しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。

 王は、別の招待客を求めました。披露宴の用意はできていました。それで、予め招待していない人々を招いたのです。予め招待しておいたことは、比喩で、イスラエル人々を招待しておいたことを表しています。しかし、彼らは、招待に応じませんでした。

 それで、通りに出ていって誰でも招くように命じ、宴会場は一杯になったのです。神様は、その準備を無駄にはしませんでした。招待にふさわしくない人々は、祝福に与ることができませんが、それでも、祝福に与る人を招かれる方です。

22:11 王が客たちを見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない人が一人いた。

 「婚礼の服」と言われる服を着ていない人がいました。他の服装とは区別される服であることは、言葉から明らかです。招待された人は、皆そのような服を着ていたのです。一人を除いて。

 この服を着ることは、一つのどうしても避けられない決め事でした。招待に応じる人は、この服を必ず着なければならなかったのです。これは、比喩になっていて、この服を着ることは、イエス・キリストを信じてその言葉に従うことを表しています。キリストを着るのです。

・「礼服」→「服」

22:12 王はその人に言った。『友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。』しかし、彼は黙っていた。

 王は、彼になぜ婚礼の服を着ないのかと問いただしました。しかし、彼は、黙っていました。彼は、王が定めたその決まり事に従わない理由を言うことはできませんでした。それは、少なくとも、その王の宴会では、そうしなければならなかったのです。招待者である王が定めたのであり、人が勝手にその決まり事を破ることはできないのです。

 同じように、王の用意した祝福に与るには、王が決めたことを守る必要があります。私たちがどのような考えを持っていようとも、定められたことを変えることはできません。婚礼の服を着ることは、キリストを着ることであり、神からは、キリストにある者とみなされる必要があるのです。イエス・キリストを主と信じ従う者であることです。

22:13 そこで、王は召使いたちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ。この男はそこで泣いて歯ぎしりすることになる。』

 この男は、手足を縛られて、外の暗闇に放り出されました。手足を縛られたことは、もはや彼の思いどおりに行動することができないことを表してます。また、それを思い知らせるためにそうされたのです。彼は、自分の考えで、王の定めたことに従わなかったのです。神様が備えた救いの方法をそのまま信じるのではないのです。たしかに救いに与りたいと招待に応じたつもりです。しかし、方法が違いました。例えば、聖書にはこのように記されているが、ある方は、その点に関してこのように考えている。自分は、どれを信じたら良いのだろうかと。そのもっともらしい解釈を信じるのです。聖書の示していることをそのまま信じることができないのです。人間的な解釈、この世での常識による解釈などもありますが、神の存在を信じない限り、聖書の言葉の権威がわからないし、神の言葉として信頼することはできません。

 また、ある方は、神の前に信じるだけで救われるということをそのまま受け取ることができません。自分がきよい歩みができるようになったら、救われるのではないかと。聖書に示していることに、自分の考えを追加するのです。これでは、神を信頼していないことになります。

22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」

 招かれる人は多いのです。しかし、選ばれる人は少ないのです。宴会場で放り出された人のように、その方法を間違える残念な人もいるのです。宴会場で婚礼の服を着ていた人が選ばれた人です。

 ただし、まだ信仰を持っていない人が、自分が選ばれていないと主張することも選ばれていると主張することもできません。人は、それについて絶対に知ることはできないからです。

 しかし、信仰を持った人には確信があります。イエス・キリストを信じたからです。神の前に立った時、悪魔がこの人は選ばれていないと主張するかもしれません。なぜならば、彼のひどい歩みは、目を覆うばかりだと。しかし、それでも、誰がなんと言おうとも、私には信仰があります。聖書は、信仰を持つ者が救われることを記しています。私は、選ばれていますと。

22:15 そのころ、パリサイ人たちは出て来て、どのようにしてイエスをことばの罠にかけようかと相談した。

22:16 彼らは自分の弟子たちを、ヘロデ党の者たちと一緒にイエスのもとに遣わして、こう言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにも遠慮しない方だと知っております。あなたは人の顔色を見ないからです。

22:17 ですから、どう思われるか、お聞かせください。カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。」

22:18 イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。「なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。

 パリサイ人たちは、イエス様を罠にかけようと謀りました。税金を納めることについて尋ね、イエス様を試したのです。

 彼らは、イエス様のことを尊敬をもって言い表し、教えを乞うことをしました。「先生」と言い、教えをなさる方であることを言い表しています。ただし、彼らは、「主」と言い表すことはできませんでした。

 そして、真実な方であり、真理に基づいて神の道を教え、誰にも遠慮しない方であって、真理をはっきりと示してくださる方であることを言い表してます。この言い表しは、正しいのですが、彼らは悪意をもってしていました。イエス様から正しく教えてもらうことが目的ではなく、イエス様の答えによってイエス様を陥れようとしていました。

 税金を納めなさいと答えるならば、ローマ帝国の支配に不満を持つヘロデ党の者たちが許しません。彼らは、猛烈にイエス様に異を唱えるでしょう。彼らの主張を斥けることはできるでしょうが、話が長くなりそうです。ヘロデ党の者を共に遣わしたのは、圧力をかけるためです。

 一方で税金を納めなくてもいいと言えば、ローマ帝国に反逆することになります。

 ですから、彼らは、イエス様が真理を明らかにされる方だと言い表していますが、全くそのようには考えていません。最初から教えを乞うことなど考えていないのです。自分の思いを遂げることしか考えていません。

 聖書を読み、福音を聞く目的は、明らかです。真理を知り、命を得るためです。それ以外の目的で聖書を求めたとしても、なんの役にも立たないのです。たとい教会に通い詰めたとしても、意味はありません。

 イエス様は、彼らが偽善であることを指摘なさいました。真理を求めるふりをして、真理からかけ離れた悪を謀っているのです。真理が示している天の祝福を求めないで、この地上のものに固執しているのです。これは、偽善です。

22:19 税として納めるお金を見せなさい。」そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。

 イエス様は、デナリ銀貨を見せるように求めました。

22:20 イエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像と銘ですか。」

22:21 彼らは「カエサルのです」と言った。そのときイエスは言われた。「それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」

 イエス様は、一言で、彼らに答えを示されました。彼らは、反論できなかったのです。デナリ銀貨には、カイサルの肖像が刻まれていました。皇帝がどのような顔か知らしめる目的もあったと言われてます。カエサルのものは、カエサルに返しないという意味は、カエサルが銀貨を発行していたことは、カエサルが経済を回し、イスラエル経済は、カエサルの恩恵を受けていたのです。また、その支配によって自由よ商取引ができる環境を整えているのです。ですから、その支配者に税を払うのは当然であるということです。

 そして、神のものは神に返しなさいと言われました。神に対する責任を果たすように言われたのです。イスラエルは、カイザルの支配を受け、カイザルによって恩恵を受けていました。同じように、全世界は、神の支配の元にあり、神によって生かされています。それならば、神を認め、神の求めるところを神に返さないでしょうか。神の存在を認め、罪の赦しをいただいて、神との交わりに回復することです。それは、真の命をもたらします。永遠の命です。それなのに、神がいないかのように振る舞い、この地のものにのみ目を留めて生き、神の忌み嫌われる罪を行うとしたら、神に責任を果たしているでしょうか。まして、神が遣わした独り子の御子を信じない彼らは、神に責任を果たしているとは決して言えません。

22:22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。

 彼らは、驚嘆したのです。彼らの考えを遥かに凌ぐ答えであったからです。全く反論できませんでした。

22:23 その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。

 その日、続けてサドカイ人が来てイエス様に質問しました。

22:24 「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。

22:25 ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。

22:26 次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。

22:27 そして最後に、その妻も死にました。

22:28 では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」

 彼らの質問は、律法の規定に従い、なくなった兄の妻を弟が妻とし、子を残さずに死に、その弟たち六人も同じようになくなったとして、復活の際にその一人の女の人は、誰の妻となるのかを問いました。

 この質問は、律法の規定に基づく行為なのに、復活の際には、一人の女の人が誰の妻となるのか定まらないという不都合が生じることを問題とし、復活はないと決めつけるものです。すなわち、復活があるという前提が間違っているとするものです。

22:29 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。

 彼らの論理は、理路整然としたものです。しかし、彼らは聖書も神の力も知らないと指摘されました。それらを知らないので、思い違いをしているのです。

 聖書は、人の知識で解くことができるものではないのです。神の力は、人の知識を超えたものです。人にとって不可能なことを可能とする力を神は持っておられます。その力を前提として聖書は記されています。それを人間の知識で解こうと試みても、理解できないのです。

 例えば、天と地はどのようにしてできたかを今の天文学者は、色々と推察します。現在の星の動きから、宇宙の始まりはこうだったのではないだろうかと。しかし、神は、それを造られた方であり、造ることができるのです。

22:30 復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。

 まず、彼らは、復活の時の状態について理解していませんでした。そのときには、娶ることも嫁ぐこともありません。天の御使いたちのようです。御使いは、霊です。肉体を持ちません。幻として姿を現しますが、霊です。御使いは、娶ることも嫁ぐこともありません。その必要がないのです。

 ちなみに、創世記六章の記事で、「神の子」は、御使いではありません。

創世記

6:4 神の子らが人の娘たちのところに入り、彼らに子ができたそのころ、またその後も、ネフィリムが地にいた。彼らは昔からの勇士であり、名のある者たちであった。

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 御使いが人の娘と交わることは不可能です。また、肉体がないのですから子ができることはありません。「神の子」とは、聖なる者たちすなわち、神に属する者という意味で使われています。彼らは、神を信じている者たちです。それなのに、神を信じていない「人の娘」と言われる者たちを娶ったのです。

 復活のときには、もはや肉は存在しないのです。

22:31 死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。

22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

 この「死んだ者」と「生きている者」は、どのような人について言っているでしょうか。これは、肉体の死でないことは明らかです。アブラハムたちの肉体は、すでに死んでいます。しかし、彼らについては、この説明から、生きているとされています。彼らは、神の前に生きているとされている者たちで、死後も神の裁きのハデスに服していない人たちです。死んだ者は、神の前に死んだ者であり、死後、神の裁きであるハデスに入っている者たちのことです。

 ここでは、イエス様は、聖書も神の力も信じないサドカイ人に対して、彼らが神の前に生きている者なのか問いただしているのです。彼らは、優れた理論で自分たちの考えを正当化しています。しかし、しかし、彼らは、自分たちの考えに頼り、神の言葉をそのまま受け入れるということをしていませんでした。彼らは、神の前に死んでいるのです。聖書を信じ、神を信じることがなければ死んでいるのです。

22:33 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。

 群衆は、イエス様のお答えに驚嘆しました。それは、今まで誰もサドカイ人の非を責めることはできなかったのです。敵対関係にあるパリサイ人さえできませんでした。それどころか議会では、サドカイ人の勢力のほうが大きかったのです。神の民を導く指導者が、神の言葉と神の力を信じていなかったのです。人の知識で物事を考えて、聖書を解く彼らが勢力を増していたのです。そのような教えのほうが人々に受け入れられやすいのです。それは、今日でも同じです。多くの人が神御自身を認め、信じることができないのです。

22:34 パリサイ人たちはイエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、一緒に集まった。

 パリサイ人は、イエス様がサドカイ人を黙らせたと聞いて、意を強くしたはずです。彼らは、サドカイ人の教えが誤りであるとわかっていましたが、彼らを排除することはできませんでした。そのサドカイ人が誤りを指摘されて、それに対して反論できなかったのです。パリサイ人は、自分たちこそ正しいと意を強くしたでしょう。

22:35 そして彼らのうちの一人、律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねた。

 その上で一人の律法の専門ががイエス様を試すという目的を持って尋ねたのです。

22:36 「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」

 その質問は、律法学者らしく、聖書の学問的な質問でした。律法の戒めは、どれも大切なものです。しかし、彼は、どれが最も重要かと問いました。それは、聖書全体について深く、正しく知っていなければ答えられない質問です。それは、戒め相互の関係がわかり、重要度の程度について比較できるほどに知っていなければなりません。ですから、この質問の裏には、イエス様がどれだけ聖書を知っているかということについての試みがあったのです。

22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』

 人の霊的活動のすべてを尽くして、考えのすべてを尽くしてあなたの神を愛するのです。

・「心」神の御心を受け入れる部分。あなたの心。

・「いのち」→たましい。神の言葉に従う部分。あなたのたましい。

・「知性」→弁証論的思考で結論に至ること。神の御心を熟考し、判断する器官。あなたの知性。

22:38 これが、重要な第一の戒めです。

 重要な戒めのうち、更に重要な第一の戒めを取り上げました。

22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。

 あなたの隣人を自分自身のように愛することが第二の戒めです。

22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

 律法と預言者によって語られたことは、この二つに要約でき、その内容は、この二つの戒めにかかっているのです。

 これは、ある特定の戒めを重要とし、他の戒めを軽く見るという観点には立っていません。これは、戒めの一つとして記されていますが、全ての戒めの根幹をなす戒めです。ですからこの戒めの及ぶ範囲の広さに於いて、また、その深さに於いて、最も重要な戒めなのです。

22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった。

 イエス様は、パリサイ人が集まっている時に、彼らに質問されました。彼らは、イエス様の正当性や教えについて疑いを抱いていたのです。この方が神の子であることをそのまま信じることができないでいました。イエス様は、彼らの認識の誤りをご自分から質問をすることで明らかにされました。

22:42 「あなたがたはキリストについてどう思いますか。彼はだれの子ですか。」彼らはイエスに言った。「ダビデの子です。」

 まず、簡単な質問からです。キリストは誰の子であるかということです。彼らは、すぐ答えることができました。ダビデの子であると。

22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは御霊によってキリストを主と呼び、

22:44 『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで」』と言っているのですか。

22:45 ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」

 その上で、別の聖句を引用されて、ダビデが御霊によって預言したことを取り上げました。そこでは、ダビデは、キリストを主と呼んでいます。主と呼ぶことは、この方が神であるということを言い表しています。キリストは、神であり、ダビデにとって、生きている時代に彼の主であるのです。それなのにどうしてダビデの子孫として生まれるのでしょか。

 得られる結論は、キリストは、神ですが、人となって来られるということです。聖書の記述は、全てが整合しています。矛盾はないのです。聖書の言葉をそのまま受け入れるならば、イエス様がキリストであって、神であられますが人となられたことは、聖書の言葉どおりであると理解されるのです。

22:46 するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。

 しかし、彼らは、一言も答えることができませんでした。彼らは、イエス様が御言葉を引用して示されたことから、神が人となっておいでになられることを受け入れざるを得ないのです。その結論は、彼らがあり得ないとして否定してきたことです。しかし、聖書から導かれる結論は否定できません。彼らが、それを否定できるなら、反論するでしょう。しかし、反論できないのです。その一方で、キリストは、神ですが人の姿を取っておいでになると答えることはできませんでした。それは、イエス様を神の子と認めることです。彼らは、聖書から教えられて否定できないにも関わらず、承服することをしませんでした。これが不信仰です。何一つ良いものを得ることはできないのです。聖書をよく知っていて、さらにキリストを目の前にして、これ以上ない機会を与えられながら、その祝福を獲得できない残念な人たちであるのです。