マタイ20章

20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。

 このたとえ話は、十九章でのペテロの質問に端を発しています。イエス様に従う者にどのような報いが与えられるかという質問に対する答えであるのです。そして、それは、イエス様が語られたように、先の者が後になり、後の者が先になることが多いという神様のお取り扱いに沿った内容になっています。これは、時間的な順序のことです。たとえ話では、1日の中での時刻として示されていますが、天の御国に入る人全てに関わることとして、世の始まりから世の終わりまでの期間のことです。

20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。

 初めの労務者たちは、「一日一デナリの約束をする」あるように、契約に基づいて報いを受ける人たちのことです。最初の契約は、アブラハムとの契約です。

創世記

17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

17:7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。

17:8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。」

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。

17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。

17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。

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 契約の条件は、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」ということです。割礼が契約の条件として示されていますが、割礼は、契約のしるしであると示されています。契約の本条件は、全き者として歩むことで、割礼は、そのしるしです。

 その条件に適った者に与えられる報いは、カナンの全土を所有地として与えるということです。このことは、いわゆる千年王国で実現します。ただし、千年王国は、ゴグとマゴグの反逆の時に、多くの者が背くことによって、終わり、新しい天と地において、エゼキエル書に預言されている相続地の配分が行われ、その報いが実現することになります。

 アブラハムに関しては、契約の結果与えられるものは、多くの子孫とカナンの地の所有です。しかし、アブラハム自身は、別のものを望んでいました。

ヘブル

11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。

11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。

11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

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 アブラハムは、「約束のものを手にいれることはありませんでした。」彼は、天の都を待ち望んでいたのです。それは、新しいエルサレムとして用意されていました。それは、新天新地において、天から下って来ます。彼は、新天新地において、信仰によるアブラハムの子孫を見、新しい地において、揺るぐことのない都に住み、イスラエルの完全な相続地を見るのです。その相続地については、エゼキエル書に示されています。ゴグとマゴクの反逆の後、示されている神殿や相続地は、黙示録に示されている時間的な順に従えば、新天新地における様子です。ですから、アブラハムは、新天新地において、完全な契約の履行を見るのです。

20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。

20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』

 九時ごろの人たちは、律法による契約を結んだ人たちのことで、「相当の賃金を払う」という契約が結ばれています。彼らは、何しないでいました。それは、彼らが律法を与えられる以前の状態について示しています。彼らは、エジプトで奴隷でした。神に従った歩みというものは、具体的になかったのです。

 彼らについては、相当のものとして労賃が示されています。彼らには、相場のものが与えられるということです。彼らの契約は、アブラハムへの契約を継承したものです。ですから、彼らは、律法を守るならば、宝の民とされることが示されていますが、相続の具体的な内容は、すでにアブラハムと結ばれた契約の内容であるのです。「相当のもの」は、1日一デナリに相当するものという意味です。

出エジプト

19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。

19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

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 ですから、律法を守ることは、報いと祝福に関わることであるのです。彼らが救われるのは、アブラハムと同じ信仰によるのです。信仰者として律法を守り、報いをいただくのです。彼らが受ける報いは、アブラハムへの契約によることですから、同じものになります。

 ただし、アブラハムにしろ、律法を受けたイスラエルにしろ、彼らがいわゆる千年王国において報いを受けることはありません。彼らがよみがえるのは、艱難時代の直後ではないからです。

黙示録

20:4 また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。

20:5 そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

20:6 この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

20:11 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

20:12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。

20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。

20:14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

20:15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

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 まず、第一の復活に与る人たちは、四節に示されている人たちで、彼らは、艱難時代に命を落とした人たちであることがわかります。そして、「その他の死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。」とあります。なお、この時、旧約の聖徒がよみがえったとする解釈は、この言葉を無視しています。さらに言うならば、クリスチャンのよみがえりは、艱難時代の後であるとする解釈も誤りであることがわかります。キリストの地上再臨の時に、クリスチャンがよみがえるのであれば、時期を同じくするもう一つのよみがえりに関して、他の者がよみがえらないという記述は、矛盾しているからです。そして、十二使徒がいわゆる千年王国で、イスラエルの十二の部族を裁くときには、肉体を持った彼らを治める者として、よみがえりの体を持っていないと不都合であると考えられます。霊では、通常人に見えません。特別に見えたとしても、霊は触ることができません。それは、イエス様がよみがえられてから語られたことによって分かります。

ルカ

24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真中に立たれた。

24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。

24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

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 十二節によみがえった人たちは、十三節の死者とは区別されています。十二節で裁きを受ける人たちは、数々の書物が開かれ、その一つが命の書です。彼らは、「これらの書物に書き記されているところに従って」裁かれたとありますので、彼らのことは、命の書に名が書き記されていたということです。その人の行いは、誰の行いかは、名が記されていなければわかりません。ですから、彼らは、永遠の滅びから救われている人たちで、その行いに応じて裁かれたのです。それは、報いのためです。

 このように、旧約の聖徒のよみがえりは、白い御座を待つことになります。ですから、彼らが報いを受ける時期は、その後の新天新地です。そこで彼らは、所有地を得るのです。

20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。

 十二時と三時頃に雇われた人たちは、新約時代に救われた人たちです。彼らは、「同じように」雇われたのです。ですから、「相当の賃金をあげる」という契約があったのです。新約の信者の契約は、イスラエルに対する契約を継承したものですが、おいでになられたキリストを信じるという契約に変わっています。その歩みは、信仰により御霊による歩みであり、人の行いではないのです。もちろん、文字通りの律法の行いではありません。

 さて、その中身が区別されています。十二時に雇われた者たちは、十二使徒を表しています。彼らの報いについては、十九章に示されていますが、十二使徒たち独自のものです。そして、それは他の信者には適用できませんから、他の信者に対する報いとして三時に雇われた人たちについて別に示されています。

マタイ

19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

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 ここでは、十二の部族を裁く十二の座に着く十二人についてのみ語られています。他の信者については、たとえ話の中で次のように語られています。

ルカ

19:12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。

19:13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』

19:14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。

19:15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。

19:16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』

19:17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

19:27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」

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 ここに示されている人たちは、イエス様を信じて救われた人たちです。ミナを隠しておいた者は、滅ぼされる人たちとは区別されています。その人たちの受ける報いは、町を支配する者になるという報いです。与えられたミナを活用しなかった人は、報いを失います。

 また、黙示録には、次のように示されています。

黙示録

2:26 勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。

2:27 彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。

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 信者には、諸国の民を支配する権威が与えられることが示されています。イエス様と同じほどの権威を持って治めることがわかります。そのことが実現するのは、いわゆる千年王国時代以降です。

20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』

20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』

 五時ごろ雇われた人は、艱難時代に救われた人たちです。彼らは、世の終わりが迫った時に救われたのです。彼らは、イスラエルですが、その時代には、信仰はありませんでした。その彼らが信仰によって救われるのです。彼らが何もしないでいたのは、「誰も雇ってくれないからです。」それは、救いは神様の主権による選びにかかっていることを表しています。雇う側に権利があります。

 彼らは、既に示したように、艱難時代の終わりによみがえって、王としてキリストともに支配することになります。また、艱難時代に印を受けた十四万四千人については、キリストに付き従って行く人達として示されています。

黙示録

14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。

14:2 私は天からの声を聞いた。大水の音のようで、また、激しい雷鳴のようであった。また、私の聞いたその声は、立琴をひく人々が立琴をかき鳴らしている音のようでもあった。

14:3 彼らは、御座の前と、四つの生き物および長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし地上から贖われた十四万四千人のほかには、だれもこの歌を学ぶことができなかった。

14:4 彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らは、小羊が行く所には、どこにでもついて行く。彼らは、神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われたのである。

14:5 彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。

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 子羊がシオンの山に立つときは、地上再臨した時です。その時、付き従う者として十四万四千人が示されていますので、彼らは、肉体を持った人たちと考えられます。彼らも、キリストとともに行動する人たちであって、キリストの統治に関わると考えられます。彼らについては、「贖われた」とあります。彼らは、人々の中からキリストのために買い取られてキリストのものとされたということです。これは、よみがえりの体を持つような贖いとは異なります。その彼らは、十二使徒の支配を受けることになります。

20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』

 労賃が払われるのは、最後にきた者たちから順にでした。あと先の話は、時間的な順であることがわかります。そして、その賃金は、最初にきた者たちにもきちんと払われました。その報酬を受けない者はないのです。

20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。

20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。

 そして、受け取った額は、同じでした。これは、ペテロの質問から始まって、報いの話をされたのですから、額が同じであることは、報いが同じであることを表しています。これは、クリスチャンの行いに対する報いのことではありません。それは、人によって報いは異なるからです。これは、どの時代の人であっても、救いに与った人たちが受ける報いが同じであることを表しています。それは、十二使徒に対する報いが十二の座についてイスラエルを裁くように、キリストともに裁きを行う者になることで、統治の権威が与えられることです。

 艱難時代に救われた人たちは、キリストともに王となって治めます。十二使徒も、王として治めます。その他のクリスチャンも、鉄の杖をもって治めます。イスラエルは、王なる祭司として、よみがえってから新天新地でその立場に与かります。都の外の諸国の民を治める者となると考えられます。いずれの時代に救い与った人も、王として治める者となります。そのことは、新天新地においては、王として皆同じ立場に与かります

20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。

20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』

20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。

 この取り扱いに対して、最後に来た者から文句が出ました。実際には、神の前にこのように不平を言う者は、ないと考えられますが、初めから神の民として選ばれた者にとって、それは、納得のいかないことと考えられます。

ローマ

10:19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」

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 しかし、イスラエルが受け継ぐ祝福に変わりはないのです。初めから約束されたことが実現するのです。一日一デナリがその額です。

20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。

20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』

 最後の人たちの不満は、当たりませんでした。一つは、彼らへの報酬は、契約通りのものであること。最後の人たちに同じにしたことは、主人の心次第で、何人もそれを咎めることはできないことです。

 主人の取り扱いは、気前が良かったのです。破格のものです。与える報いに関しては、違いがないのです。すでに見たように、皆王としての立場に与ります。これは、時代区分による報いの違いがないということであって、個々の信者に関しては、その人の行いに応じて評価され、報いが異なります。

20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

 このたとえ話が、十九章の最後の節からの続きであることが分かります。

20:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。

20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、

20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

イエス様は、十二弟子だけに御自分が十字架に付けられることを話され、また、三日目によみがえられることを話されました。その出来事は、詳細で正確に語られました。

20:20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。

20:21 イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」

 この願いは、ゼベダイの子たちの母から発せられました。息子たちの栄誉を願う母親の思いからですが、他の者たちにまして自分の息子が高い地位につくことを願うのは、肉の思いからです。

20:22 イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。

 彼らは何を求めていたかを理解していないことが指摘されています。彼らは、肉的な誇りのために高い地位を望みました。しかし、二十三節の言葉から、それは、神の評価によるのであり、神が定められます。

 主は、逆に質問して、御自分が飲もうとしている杯を飲むことができるかを問われました。話の流れからすれば、それが主イエス様の右左につく条件と取れます。主イエス様に匹敵する栄光を受けるのであれば、主イエス様とほぼ等しい評価を受け、右左に座ることもできると考えられます。

 主イエス様が父の右の座に上げられたのは、父の御心を行い、十字架の死にまでも従われたからです。それに対して全ての名に優る名が与えられました。イエス様の質問は、イエス様と同じ程度に自分を捨てて神の御心を行うことができるかということです。

 ゼベダイの子らは、「できます」と即答しました。弟子たちは、深く考えてはいなかったようです。主イエス様が御自分を捨てて父の御心を行う程度を軽く考えていました。

20:23 イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」

 イエス様は、その弟子たちの志を否定はしませんでした。そして、たしかに後に彼らは、イエス様のために自分を捨てることになるのです。しかし、今は認識の違いに大きな開きがありました。彼らのその認識を変えることは困難です。そのままにされました。

 その上で、御自分の右左に座ることは、イエス様が許すことではないと言われました。それを決め、与えられるのは、父なる神様です。父がそれにふさわしいとした者がその座に着きます。

20:24 ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。

 他の十人は、二人の弟子に腹を立てたのです。十人は、二人が抜け駆けしたと思ったのです。彼らも同じ思いがあったので、腹を立てたのです。そのようなことを望んでいないならば、腹を立てないのです。これらのことから、十二弟子がイエス様に従っていた動機は、肉的なものであったと知るのです。

20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たち(大いなる者たち)は人々の上に権力をふるっています。

20:26 あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉く(大いなる者に)なりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。

 弟子たちが求めていたことは、この世の権力者のようであることです。彼らは、意識していなかったかもしれませんが、イエス様は、この世の権力者を引き合いに出すことで、実は、弟子たちの姿は、それに似たものであることを示しています。

一、「人々に対して横柄に振る舞い」

 自分を高い者とし、他の人々を見下すからです。他の人の価値や尊さを認めません。

二、「人々の上に権力をふるっています」

 支配権に基づく力を行使しているのです。与えられた権力を思う存分用いているのです。

 弟子たちがその高い地位を与えられたとき、彼らは、自分を高くしたいという思いが実現したのですから、そのような動機で振る舞うのです。そして、力を用いるのです。

 しかし、弟子たちの間ではそうであってはならないのです。弟子たちの間で大いなる者になりたいと思うのであれば、皆に仕えるのです。仕えることは、自分を低くし、相手を尊ぶことです。自分の権利を主張しないで、相手の幸いを図ることです。それこそ、神の前に価値あることです。

 世の人が大いなる者というのは、人々の間の評価です。それに対して、弟子の間で大いなる者とは、神の評価です。

20:27 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

 自分たちの間で先頭に立ちたいと思うことは、自分が最も高く評価されることを願うことです。それは、自分を捨てて、みなを愛し、皆に仕えることで、神から高く評価されることで実現することができます。

20:28 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」

 そして、まさに御自分がそのようにしておられることを証しし、その模範を示されました。イエス様は、神の御子ですが、仕えられるためでなく、仕えるために来られました。それは、滅びる罪人を愛され、尊ばれたからです。そして、その愛の故に、贖いの代価として命を与えることまでしたのです。それほどまでに一人ひとりを尊ばれたのです。

20:29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。

20:30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。

20:31 群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。

 盲人が求めたことは、メシヤについて約束されていることの実現です。イエス様をダビデの子孫と言い表し、その信仰を表明したのです。その信仰に応えることが契約の実現です。群衆は、叫び声が大きいので黙らせようとしたのです。しかし、彼らの求めは非常に強いものでした。

・「あわれむ」→契約を忠誠をもって果たす。

20:32 イエスは立ち止まり、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのですか。」

20:33 彼らは言った。「主よ、目を開けていただきたいのです。」

20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

「深くあわれんで」は、三十一節の「あわれんで」すなわち契約忠誠を果たすこととは、異なる原語です。これは、深く同情するという意味です。内面が動かされたのです。

 癒された人たちは、イエス様について行きました。主に従ったのです。

・「あわれんで」→深く同情する。