マタイ18章
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか。」
「その時」とは、宮の納入金を集める者たちが来て、イエス様が神の御子であることをたとえの中で証しした時です。イエス様が天の御国のことを完全に知っておられることを踏まえての質問です。しかし、彼らの質問は、誰が一番偉いかというもので、なおも肉的な思いが働いていて、自分たちこそ偉い者であるという考えが根底にあります。
なお、「天の御国」という表現は、御国で報いを受けることに関連しています。いわゆる救いの立場を頂くことではありません。ここでの質問の意味も、天の御国で最も高く評価される人は誰かということです。
18:2 イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、
18:3 こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。
「向きを変えて」は、通常方向を変えることを意味しますが、ここでは、その生き方を変えることです。僅かな変化ではなく、大きく変わることです。求められているその変化とは、子供のようになることです。そうしないと、天の御国に入れません。すなわち報いを受けられないのです。
弟子たちは、既にイエス様がキリストであると信じているのですから、いわゆる救いの立場を持っています。地獄の裁きから救われているのです。その彼らに、天の御国に決して入れませんと言われたのは、自分を高くすることで救いの立場が失われますということを話されたのではないことがわかります。「天の御国に入る」というのは、御国で報いを受けるということを意味しています。自分を高くするような者は、御国で決して報いを受けることがないことを言っています。
18:4 ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。
子供のようになるというのは、自分を低くすることであることを説明されました。すなわち、自分を偉い者のように考えることと対比されています。そのように自分を高めることは弟子たちのしていることでした。ですから、誰が一番偉いのかというよう考えが湧き起こるのです。
18:5 また、だれでもこのような子どもの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。
自分を高くすることは、相手を低く見、受け入れようとしないのです。それで、このことを話されました。自分のことしか考えていない人は、自分を高めることでもたらされる危険について考えていないのです。自分を高くするとき、相手を受け入れないのです。たとい相手が子供であろうと、受け入れることは大切です。彼らの救い主であるイエス様を受け入れることであるからです。逆に言うならば、相手を受け入れないことは、イエス様を拒むことになります。
18:6 わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められるほうがよいのです。
相手を受け入れないことは、相手を躓かせることにもなるのです。それこそ大きな問題です。自分を高くすることからもたらされる影響について、よく考えなければならないのです。
小さい者の一人でも躓かせるならば、大きな石臼を首に結わえ付けられて、海の深みに沈められる方が良いのです。ここには、単純な死でなく、深みに沈められるという方法です。彼は、自分を現そうとしたのに、彼の存在は、全く消し去られるのです。そうすれば、その人は二度と躓きをもたらすようなことはなくなります。そのほうが良いのですと示されているように、躓きをもたらすようであれば、存在しないほうが良いのです。
躓かせる人は、信者ですから、海の深みに入っても、ゲヘナの火に入ることはありません。
18:7 つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。
それですから、躓きを与えるこの世は、災なのです。この世は、躓きに満ちています。躓きが起こることが避けられないのです。しかし、躓きをもたらすものは、災なのです。弟子たちが心に抱いていた思いは、結果として躓きをもたらしますので災なのです。
18:8 あなたの手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろったままで永遠の火に投げ込まれるよりよいのです。
18:9 また、もしあなたの目があなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちに入るほうが、両目そろったままゲヘナの火に投げ込まれるよりよいのです。
ここでの対比は、箴言によく用いられている対比で、悪いものの最善と良いものの最悪とを比較して、それでも良いものの方が良いと示すことで、良いものを選ぶように勧めているのです。
ですから、悪い事柄の最善として、両手両足が揃っていることが取り上げられているのです。そして、良い事柄の最悪ものとして体の大事な部分を失うことが取り上げられています。しかし、悪い者は、永遠の火に入るのです。良い者は、命に入ります。それで、躓きがない方が良いのです。
18:10 あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。
さらに、小さい子どもたちも軽んじてはならないことについて、彼らの御使いが天の父の前に立つ者であることを示されました。御使いが信者に仕える者であることは、次の聖句にも記されています。
ヘブル
1:14 御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。
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このことを示したのは、子どもたちの霊の世界における尊さを示すためです。弟子たちは、この世の基準で人を見ていました。子供を小さい価値のない者と考えていました。この世にあっては、能力は小さく、社会的な身分も高いとは言えないのです。しかし、霊の世界では、御使いによって仕えられているのです。その御使いは、神の前に立つ者たちです。子は、神の前に尊いのです。
18:11 ☆
18:12 あなたがたはどう思いますか。もしある人に羊が百匹いて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 まことに、あなたがたに言います。もしその羊を見つけたなら、その人は、迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜びます。
18:14 このように、この小さい者たちの一人が滅びることは、天におられるあなたがたの父のみこころではありません。
そして、子供が神の前に尊い存在であるということだけでなく、一人の子は、神の前にかけがえないものであることを示されました。迷いでた羊の例えによって示されましたが、迷い出たことが躓くことに当たります。そのことについては滅びると表現されています。躓きの程度は、人様々です。信者であっても、神から離れたならば、神の前に生きて実を結ぶ者ではないので滅びなのです。
18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
次に兄弟が罪を犯したときのことについて、罪を犯した兄弟を獲得する方法について示されました。
まず、二人だけのところでその罪を指摘するのです。それを受け入れたならば、兄弟を獲得することになります。彼は、もとの正常な交わりに回復するのです。この聞き入れるということが大切なのです。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
聞き入れない場合には、その状況について正確に正しく知るために、他に一人か二人を連れて行きます。その目的は、すべてのことが立証されるようにするためです。これは、次の段階のための備えで、事実関係を正確に証しできる証人を得るためです。これは、正確な事実関係によってのみ事を処置するためです。先入観や思い込みで事をなさないためです。この目的のために連れて行く一人か二人は、証人としての役割を担います。必ずしも長老でなくても良いですが、証人として責任ある証言をすることができる人でなければなりません。
事実関係が確認されないまま、一方の主張だけを聞いて問題を処置することはしてはいけません。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
証人が立ち会って事実関係が調べられます。その時点でその兄弟がその罪を認め、言うことを聞き入れたならば、兄弟を得ることができます。
それでも言うことを聞き入れないならば、教会に伝えるのです。この場合、教会は、教会全員ということではなく、監督者たちに伝えることになります。その時、証人がいなければなりません。監督者に伝えるのは、兄弟の処分について重大な責任ある判断を下さなければならないからです。霊的経験の浅い者や判断力のない者、また感情的に判断する者であってはならないのです。また、多数決でもありません。それは、聖霊が立てた監督の役割です。
18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
兄弟姉妹をどのように扱うかということは、重要な問題です。その人の霊的祝福に大きく関わります。間違った判断は許されません。しかし、その決定については、天が承認します。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」
そして、どのような祈りも聞かれること示されましたが、この問題について二人でも三人でも心を一つにして祈るならば、主は、そこにおられ、祈りを聞かれ、叶えてくださいます。その約束がありますから、判断を誤ることなく、正しく判断することができるように主に委ねることができます。
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」
ペテロは、罪を赦す回数の限度について主に尋ねました。七回まででよいかと尋ねたのです。
18:22 イエスは言われた。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。
それに対してイエス様は、七回を七十倍するまでと言われ、実質的に制限を設けられませんでした。四百九十回目とそれより一回多いときでは、何の違いもないのです。
18:23 ですから、天の御国は、王である一人の人にたとえることができます。その人は自分の家来たちと清算をしたいと思った。
18:24 清算が始まると、まず一万タラントの負債のある者が、王のところに連れて来られた。
そして、一つのたとえ話をされました。王は、神様の比喩です。負債は、罪です。一万タラントは、非常に大きな額です。→六千億円くらい
18:25 彼は返済することができなかったので、その主君は彼に、自分自身も妻子も、持っている物もすべて売って返済するように命じた。
18:26 それで、家来はひれ伏して主君を拝し、『もう少し待ってください。そうすればすべてお返しします』と言った。
この家来は、持ち物を売り払ったら返済できる目処があったわけではありませんでした。「もう少し待ってください。」とお願いし、「そうすれば全てお返しします。」と言い表していますが、待ってもらったら返済できるという保証はないのです。なんとか、返済を遅らせてもらうための言い訳です。彼は、王の処罰を受けたくなくて懇願したのです。
18:27 家来の主君はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった。
この人は、王の要求どおりにすることができませんでした。主君は、かわいそうに思って免除してやりました。これは、神様が、返済不可能な罪を赦してくださったことを表しています。
18:28 ところが、その家来が出て行くと、自分に百デナリの借りがある仲間の一人に出会った。彼はその人を捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。
彼は、道で自分に百デナリ(百日分の労賃 百万円くらい)の借りがある仲間に出会います。この仲間の負債は、百デナリと高額でした。簡単にいらないとは言えないような額です。この負債は、その家来に対して仲間が犯した罪のことです。
家来は、仲間に対して非常に強い態度で臨みました。「捕まえ」「首を絞めた」ことです。これは、自分に対して犯された罪に対して、人が取る態度をよく表しています。自分が正しいという立場にあると、罪を犯した人をひどく責めるものです。
18:29 彼の仲間はひれ伏して、『もう少し待ってください。そうすればお返しします』と嘆願した。
仲間は、家来と同じように懇願しました。すぐには返済できないのです。また、待ってもらったところで返済の保証もありません。必死に嘆願したのです。家来が処罰しようとするならば、逃れるすべがないのです。
18:30 しかし彼は承知せず、その人を引いて行って、負債を返すまで牢に放り込んだ。
しかし、家来がしたことは、牢に放り込むことでした。負債を返すまで、処罰として牢に閉じ込めるのであって、その負債を完全に精算しようとしたのです。
このことは、私たちに対して人が罪を犯したとき、それを赦すのではなく、犯した罪の償いを完全に求める態度を表しています。赦さないのです。
18:31 彼の仲間たちは事の成り行きを見て非常に心を痛め、行って一部始終を主君に話した。
他の仲間達には、それが非常に悪いことであることがわかりました。心を非常に痛めたのです。そして、主人に報告しました。
18:32 そこで主君は彼を呼びつけて言った。『悪い家来だ。おまえが私に懇願したから、私はおまえの負債をすべて免除してやったのだ。
18:33 私がおまえをあわれんでやったように、おまえも自分の仲間をあわれんでやるべきではなかったのか。』
家来のしたことは、主君にとって非常に悪いことでした。彼は主人から受けた負債の免除という恵みについて覚えていませんでした。彼が受けたもののほうが遥かに大きいのです。彼も、同じようにあわれんでやるべきであるのです。
この「あわれむ」という語は、「契約に対する忠誠」を表しています。また、「懇願する」という語は、王の前に彼が負債の猶予をいただくための根拠を申し立てることを表しています。単にお願いしますと言ったのではなく、彼は、律法に基づいて猶予をいただけることを主張したのです。この場合、たとえですから、王と家来の関係であり、赦しの根拠は、律法です。
申命記
15:1 あなたは七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。
15:2 その免除の仕方は次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人や同胞から取り立ててはならない。主が負債の免除を布告されたからである。
15:3 異国人からは取り立ててもよいが、あなたの同胞があなたに借りているものは免除しなければならない。
15:4 もっとも、あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主が必ずあなたを祝福されるので、あなたのうちには貧しい人がいなくなるであろう。
15:5 ただしそれは、もしあなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じるこのすべての命令を守り行ったなら、である。
15:6 あなたの神、主はあなたに約束したようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。また、あなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。
15:7 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みの中ででも、あなたの同胞の一人が貧しい者であるとき、その貧しい同胞に対してあなたの心を頑なにしてはならない。また手を閉ざしてはならない。
15:8 必ずあなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。
15:9 あなたは心によこしまな考えを抱き、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい同胞に物惜しみして、何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に叫ぶなら、あなたは罪責を負うことになる。
15:10 必ず彼に与えなさい。また、与えるとき物惜しみをしてはならない。このことのゆえに、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださるからである。
15:11 貧しい人が国のうちから絶えることはないであろう。それゆえ私はあなたに命じる。「あなたの地にいるあなたの同胞で、困窮している人と貧しい人には、必ずあなたの手を開かなければならない。」
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例えは、神が律法で命じられていることを挙げて、ご猶予くださいとお願いしたのです。
これは、神と人との関係に適用するならば、神の前に罪の赦しをお願いするのであれば、人が挙げる罪の赦しの根拠は、贖い主です。神様は、そのような罪人をかわいそうに思われて赦されます。罪の赦しの根拠があるからです。
ですから、この負債の赦しは、罪の赦しを信じることに対して与えられる神の契約の履行を表しています。
そのような負いきれない罪の赦しを愛のゆえに受けたのですから、他の信者に対して愛を現し、赦すべきなのです。この家来に対して求められたことは、「あわれむ」ことです。仲間を「あわれむ」というのは、人の側に適用された場合、契約すなわち神の言葉に対する「誠実」を表しています。彼は、王に律法の根拠をあげてあわれみを求めたのですから、彼自身も律法を守り、仲間の負債を免除すべきであったのです。それを行うことがあわれむことであり契約に対する誠実さなのです。
これを神と人の関係で見るならば、信者のすることは、罪赦された者として他の人を愛し、その罪を赦すべきなのです。それは、主御自身が命じておられることです。それが命じられていることを守ることであり、契約に対する誠実を現すことです。
18:34 こうして、主君は怒って、負債をすべて返すまで彼を獄吏たちに引き渡した。
それをしない場合について、家来は、獄吏に引き渡され、全てを返済するまで牢に繋がれました。これは、負債の弁済を求められることを表しています。
信者に適用した場合、他の人の罪を赦さないという行為によって、御言葉を守らないのです。罪を犯すことになります。
「負債をすべて返すまで」と記されていますが、この負債は、訳出されていませんが、「彼(主君)に負っている全て」この場合、主君は、不法行為を裁く立場にあります。負っているものであって、負債に限りません。法的な義務を指しています。この話の他の箇所では、直接負債を指しています。しかし、この家来は、借金に関しては、赦されたのです。彼が新たに犯した罪によって、その赦しが帳消しにされることはないのです。主君は、家来の借金に対して、免除したのですから、それを取り立てる権利はないのです。
ここでは、彼が仲間の負債を免除しなかったことが不法であり、そのことに対する法的義務を要求しているのです。要求事項は、仲間をあわれまなかった責任です。あわれむというのは、既に見たように、契約に対する誠実を意味していて、この人の行為は、神との契約違反なのです。その罪に対する代償の要求なのです。
18:35 あなたがたもそれぞれ自分の兄弟を心から赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに、このようになさるのです。」
それで、その要求は、具体的には、兄弟の罪を心から赦すことです。兄弟の罪を心から赦すことをするまでは、父は、彼の不法を赦すことがありません。その結果として、父との交わりが壊れるのです。既に見たように、借金に関しては、免除されているように、信仰によって、罪の赦しを得ています。しかし、この点に関しては、赦されないのです。
人は、父の前に罪を告白し、兄弟を心から赦すならば、父に赦され、父との交わりが回復するのです。