マタイ17章
17:1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
イエス様が登られた山は、イスラエルの北の端に位置しているピリポ・カイザリヤの近くで非常に高い山です。その付近の高い山としては、ヘルモン山があります。
イエス様が連れていかれた三人は、特に選ばれた三人で、イエス様が特別に訓練された三人です。この時は、イエス様の栄光を彼らに見せることが目的でした。ご自分がどのような方であるかを明確に示すためです。
17:2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
弟子たちの目の前でその御姿が変わることで、それが間違いなくイエス様であるようにされました。突然変わった後の姿で現れたならば、それがイエス様であるかわからないかもしれません。
顔は、太陽のように輝きました。それは、神様の栄光の現れを表しています。
コリンと第二
4:6 「闇の中から光が輝き出よ」と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです。
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顔には、神の栄光があったということです。すなわち、主イエス様は、この時神としての栄光を現されたのです。
使徒
6:15 最高法院で席に着いていた人々が、みなステパノに目を注ぐと、彼の顔は御使いの顔のように見えた。
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御使いの顔に見えたというのは、ステパノが神の権威を帯びているように見えたことを表しています。
衣は、光のように白くなりました。衣は、人の行いを比喩として表します。それが白いことは、混じり気のない聖さを表しています。さらに、光のように輝いていたことは、その正しい行いによって、栄光を現されたことを表しています。人には、失敗は付き物ですが、イエス様は、その行いによって栄光を現されました。
17:3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
モーセとエリヤは、旧約聖書に記されている代表的な人です。モーセは、イスラエルに律法を与えました。エリヤは、預言者として働いたのです。彼らは、それぞれ神様から委ねられた働きをしていましたが、イエス様のことを証ししていたのです。彼らの関心事は、イエス様による贖いの御業です。モーセは、動物のいけにえについて多くのことを記しましたが、それは、イエス様の十字架の業を表していました。罪を取り除く業です。それがまさに実現しようとしているのです。神の御子がそのことを成し遂げようとすることに、二人は強い関心を抱いていたのです。
それと共に、二人は、神の御子と親しい交わりの関係にあることがわかります。私たちは今、同じように主との交わりを頂くことができるのです。
17:4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
ペテロは、主の栄光を目の当たりにすることが素晴らしいことであると思いました。しかも、偉大な預言者と共にいて、交わることができるかもしれません。ペテロは、ここにいることが続くことを願いました。彼にとって素晴らしいことであるからです。しかし、イエス様の目的はそこにはありませんでした。ペテロは、神様が成し遂げようとしていることを第一に考えたのではなく、彼にとっての幸せということが主体でした。三人の優れた方を自分のものにしておきたいという思いからです。イエス様の目的は、全ての人のために、罪を取り除くために命を捨てることです。ご自分にとって苦難があったにしても、人の幸を考えられておられました。
さらに、彼は、イエス様を自分のものとしておきたいという思いがあったのです。彼は、イエス様を自分の所有物のように考えていたのです。しかも、他の偉大な預言者たちに対しても、そのように考えたのです。
さらに、神としての栄光を現されたイエス様を他の二人と同じように考えていたのです。モーセとエリヤは、偉大な人物です。しかし、イエス様は、神の御子です。全然異なるのです。
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
イエス様は、ペテロに対して何も言われませんでした。しかし、父なる神様が直接弟子たちに語られました。それは、彼らがイエス様を正しく知っていなかったからです。父なる神様は、イエス様について、「これは、わたしのの愛する子。」と言われました。「これは」と言われまして、他の何者でもないことを明らかにされて上で、愛する子と言われました。ペテロは、目の前に肉体を取られたイエス様を見ていますので、どうしても、この方が神であるということを認識することが難しかったようです。父なる神様にとって。愛する子であるとわざわざ証しされたのは、そのペテロの誤りを正すためです。
「わたしはこれを喜ぶ。」と言われました。ペテロは、山の下で口出しして、指図しようとしたのです。自分の考えと異なると諌めました。しかし、神様にとっては、喜ぶ方であって、神様の御心に適った方であるのです。ペテロは、イエス様が本当に神様の御心に適って喜ばしい方であることを理解していませんでした。この点でも、神様は、べテロの考えを正されたのです。
「彼のいうことを聞け。」と言われ、イエス様の言われることを全て聞いてまた従うように命じられたのです。ペテロの問題点は、自分の考えによってイエス様の言われることの全てをそのまま受け入れるのではないという点です。また、人間的な幸いという基準に従って行動してしまうことです。
・「子」→子。息子。
17:6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
弟子たちは、それを語られた方が権威ある方であることを認めました。それで、平伏し、また、非常に恐れたのです。神がすぐそばにおいでになられて、声をかけられるなどと考えもしないことでした。彼らは、それを経験した時には、非常に恐れたのです。それが神に対する自然な態度です。
17:7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
17:8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。
しかし、同じ神であられるイエス様は、弟子たちに近づかれ触れられる方です。そして、恐れることはないと言われ、彼らと親しく交わられる方であることを示されました。弟子たちは、目を上げることができました。イエス様があまりにも謙遜で柔和ですので、恐るべき神としての認識が薄いのです。
17:9 彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」
弟子たちには、イエス様がよみがえって、公に神の御子として証しされる時が来るまで、今見たことを黙っているように命じられました。確かに、弟子たちは、イエス様がよみがえったことを確信するまで、イエス様のことを正しく認識することができないのです。それでは、人々に伝えられないのです。
17:10 すると、弟子たちはイエスに尋ねた。「そうすると、まずエリヤが来るはずだと律法学者たちが言っているのは、どういうことなのですか。」
17:11 イエスは答えられた。「エリヤが来て、すべてを立て直します。
17:12 しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」
17:13 そのとき弟子たちは、イエスが自分たちに言われたのは、バプテスマのヨハネのことだと気づいた。
弟子たちは、イエス様がおいでになるはずの方であることがよく分かりました。それで、律法学者たちが聖書の知識に基づいて、まずエリヤが来るはずだと言っていたことの意味について知りたいと思ったのです。イエス様は、エリヤが既に来たことを証しされました。それは、弟子たちも気づいたように、バプテスマのヨハネのことです。人々がそれによって神を恐れていないことが明らかにされました。聖書に預言されて来た人を殺したのです。そして、イエス様は、同じようにイエス様に対しても人々は扱かい、苦しみを受けることを語られました。人々がどれだけ神を恐れないかが明らかになるのです。ペテロたちがそうであったように、ひれ伏して非常に恐るべき方なのです。しかし、彼らは、その方を見ようとしません。また、その方は、日常生活に何か介入して来るわけでもありません。彼らは、自分の誉を求め、それを自分の楽しみや喜びとしていたので、神は、邪魔な存在なのです。正しくないことでも自分を満足するならば、行いたいのです。神様の存在は、無視していたいのです。
17:14 彼らが群衆のところに行くと、一人の人がイエスに近寄って来て御前にひざまずき、
17:15 こう言った。「主よ、私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでいます。何度も火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました。
17:16 そこで、息子をあなたのお弟子たちのところに連れて来たのですが、治すことができませんでした。」
17:17 イエスは答えられた。「ああ、不信仰な曲がった時代だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
一人の人は、息子を癒やしていただくために弟子たちのもとに連れて来ました。てんかんでした。父親にとっては、切実な願いです。しかし、イエス様のお答えの最初は、今の時代が不信仰であることを嘆かれました。この時代と訳されている語は、「世代」という意味もあります。この時代の人々のことです。彼らは、不信仰であり、曲がった世代です。神の言葉をそのまま信じ、真っ直ぐに受け入れるということができないのです。人の考えが入り、神によって示されていることを曲げるのです。
父親や、弟子たちには、信仰によって何でも実現するという信仰がなかったのです。
マリヤは、エリサベツから次のように称賛されました。
ルカ
1:45 主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」
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弟子たちには権威が授けられていたのですが、彼らには癒すことができませんでした。また、この父親も半信半疑でした。
信仰は、既にイエス様を信じた弟子たちにも、そして、息子のためにイエス様を求める人にも、信仰がなければ答えられないのです。それは、今日、神様の存在を信じ、イエス様を救い主として信じることについても、聖書の示されているとおりにそのまま信じて受け入れることが大切なのです。
イエス様は、「いつまで我慢しなければならないのか。」と言われ、不信仰な状態を決して喜ばれませんでした。むしろ、神の御子が目の前に来ているのに、信じようとしない不信仰を嘆かれたのです。
17:18 そして、イエスがその子をお叱りになると悪霊は出て行き、すぐにその子は癒やされた。
イエス様は、彼らの信仰が薄いからといって、その息子を放置されることはありませんでした。その子は癒やされたのです。
17:19 それから、弟子たちはそっとイエスのもとに来て言った。「なぜ私たちは悪霊を追い出せなかったのですか。」
17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」
弟子たちは、追い出そうとしたのです。しかし、できませんでした。その理由をイエス様に尋ねました。イエス様は、真っ直ぐに応えられました。彼らの信仰が薄いからです。残念ながら、弟子たちは、追い出せるという信仰がありませんでした。
もし、からし種ほどの信仰があるならば、「この山」も移すことができるのです。この山と言われましたが、イエス様がたった今降りてきた山ヘルモン山を指していると推察されます。標高2,814mで、雪をたたえているような高い山です。巨大な山なのです。それは、目の前の小さな丘のことではないのです。ですから、できないことは何もありませんと言われたことは、本当なのです。
それは、人の力ではなく、信仰に神様が応えられるのです。神様がなされることに不可能なことはありません。心から信じて委ねるならば、神様が力を現されます。そのようにして、御自分が信仰に応える方であることを示してくださいます。神様を信じた人にとっては、神様の偉大さを知ることになります。神様は、実際に生きていて働かれる方であることを知るのです。
17:21 ☆
17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。
17:23 人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。
エルサレムに向かうガリラヤでのことです。イエス様は、弟子たちに御自分が殺されることを話されました。そして、三日目によみがえることも知らせました。弟子たちは、イエス様の言葉をそのまま受け入れることができるようになりました。少なくとも、イエス様が殺されることを悲しんだのです。
17:24 彼らがカペナウムに着いたとき、神殿税を集める人たちがペテロのところに近寄って来て言った。「あなたがたの先生は神殿税を納めないのですか。」
17:25 彼は「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスのほうから先にこう言われた。「シモン、あなたはどう思いますか。地上の王たちはだれから税や貢ぎ物を取りますか。自分の子たちからですか、それとも、ほかの人たちからですか。」
宮の神殿税を集める人たちがペテロに尋ねしまた。イエス様がおられることを知っていたのでしょうが、弟子に尋ねました。「あなた方の先生は、神殿税を収めないのですか。」と。これは、ペテロを試すものとなりました。彼がイエス様をどのように信じているのかが、彼の答えで明らかになります。
ペテロは、「納めます。」と答えました。それがふさわしい答えであったかどうかをイエス様の方から尋ねられたのです。それは、ペテロがイエス様の御身分について正しく理解していなかったからです。イエス様は、王とその子という比喩を用いられました。王は、父なる神様です。その子は、イエス様です。
神殿は、神の御名が置かれ、聖なるものとして神様に捧げられたものです。神様のものです。その維持のために税金が取られましたが、いわば、神様のためにその税金は捧げられるのです。ですから、王の家族が税金を収める義務がないように、神の子であるイエス様は、父なる神様の子として同じ神様ですから、神殿のための税金を捧げる必要はないのてす。
17:26 ペテロが「ほかの人たちからです」と言うと、イエスは言われた。「ですから、子たちにはその義務がないのです。
ペテロは、イエス様の質問に対して正しく答えることができました。王の子は、税金を収める義務はなく、他の人たちから集めるのです。すると、ペテロが「納めます。」と言ったことは、間違った答えであったのです。ペテロは、神殿は、神様に捧げられたいわば神のものであることは知っていました。しかし、イエス様御自身がその神の御子であることを正しく理解してはいなかったのです。
しかし、心配するには及びません。これは、良いことではありませんが、人は、そのようにイエス様について知ることは、最初から完全ではないのです。徐々に知ることになります。イエス様が神の御子であると信じる信仰は、最初から完全で、正しいものではないかもしれません。しかし、その信仰は、幸いなのです。
17:27 しかし、あの人たちをつまずかせないために、湖に行って釣り糸を垂れ、最初に釣れた魚を取りなさい。その口を開けるとスタテル銀貨一枚が見つかります。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」
イエス様がこのことを話されたのは、ペテロがイエス様を正しく知るためです。彼は、イエス様を人々に伝える者として、イエス様を正しく知らなければならなかったのです。
イエス様は、税を集める人々を躓かせないために、魚の口から取れた銀貨を納めるように言いました。税を集める人たちは、イエス様を信じていないのです。そのような人たちにいくら説明しても理解されません。神様のための捧げ物をしない人と誤解するだけです。また、ペテロの言葉も嘘になってしまいます。そのようなことで、その人達が耳を傾けなくならないように、税を納めたのです。