マタイ16章

16:1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。

パリサイ人やサドカイ人は、「天からのしるし」を求めました。今まで、様々な奇跡を見聞きしていたのです。それは、天からの奇跡ではないと考えていたということです。「天からのしるし」は、ヨハネの福音書では、次のように記されています。

ヨハネ

6:30 それで、彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。

6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」

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 それは、マナを与えるような奇跡です。

また、例えばエリヤの時代に天から火を呼び下したような奇跡を想定していたと考えられます。

「試そうと」来たとあります。これは、イエス様を信じるために来たのではありません。試す目的は、イエス様が天から来たのではないとことを証明するためです。彼らは、イエス様がそのようなしるしを行うことができない考えていました。

16:2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、

16:3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。

 イエス様は、天からのしるしにこだわっている彼らに対して、「時のしるし」を見分けることができないのですかと言われました。時のしるしとは、時の流れに従って起こる出来事のことで、この場合には、メシヤが来られることを証明するような出来事です。東方の博士が、その誕生をエルサレムの王と住民に知らせました。バプテスマのヨハネが現れたこと、イエス様が福音を語られ、その言葉の確かなことを業で示されました。信じた人々は、信仰に応えていただいたのです。それらは、メシヤとしての業として預言されていたことでもあります。彼らは、このようなしるしとしての出来事に心を留めるべきでした。

 朝焼けや夕焼けによって天気の変化を知ることができるのです。時のしるしに彼らが心を留めたならば、それが、メシヤの到来のしるしだと知ることができるのです。

16:4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。

 彼らがしるしを求めていることについて、「悪い、姦淫の時代」であると言われました。

 なぜ悪いでしょうか。神様がいくつものしるしを示しておられるのにそれを見分けようとしないからです。そのようなしるしは、人のために与えられます。人が信じて、神からの祝福を受け継ぐためです。

 なぜ姦淫の時代なのでしょうか。神以外のものを求め、仕えるからです。それは、彼らの教えが間違っているからです。神様の真理をそのまま受け入れて従うのではなく、人の考えた教えの中に生きていました。律法を守ると言いながら律法から逸れていました。偶像を捨て、主を拝んでいながら、信仰は形式的でした。

 そのうえで、しるしが一つ与えられることも示されました。それは、ヨナのしるしです。十字架にかかられて、三日目によみがえられたことを指しています。このしるしについては、聖書に次のように記されています。

ローマ

1:2 ──この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、

1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、

1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

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 御子のよみがえりは、公のしるしとされたのです。その他の奇跡について信じなかった人々も、イエス様の復活を見たならば、これは、神様の証しであり、この方を神の御子と信じなければならないのです。

16:5 さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。

16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」

 イエス様は、パリサイ人やサドカイ人のパン種にくれぐれも用心するように言われました。パン種は、純粋な教えに入り込む間違った教えのことです。彼らの教えは、聖書を基にしていましたが、形式的な信仰です。その結果、パリサイ人には、偽善がありました。また、サドカイ人は、聖書に記されいることを信じていませんでした。御使いも霊もないと言い、復活を否定していました。神の言葉を正しく受け入れ、従うのでなければ、信仰による救いを獲得することはできません。この救いは、信仰によって義とされることと、信仰の歩みにおいて御心を行うことによって義とされ、報いを受けることの両方を指します。

16:7 すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。

 弟子たちは、イエス様の比喩を全く理解できませんでした。パン種ということから、パンのことと考え、パンのことであるなら、パンを持って来なかったことだと考えたのです。では、パリサイ人やサドカイ人のことはどのように説明されるのでしょうか。

 これは、聖書の言葉を理解する際、陥りやすい間違いについて教えています。書かれていることを理解しようとする場合、鍵となる言葉に注目することは大切です。しかし、文に記されているどのような情報も見逃すことはできません。意味なくそのような語が使われているわけではないからです。そして、注目している文だけでなく、文脈に沿って理解しなければならないのです。

 例えば、御言葉を取り次ぐとき、聖書の各所から同じ語を引いて話を構成することがありますが、同じ語でも書かれている箇所によって、意味が異なることがあるのです。それを無視して、同じ語つながりで同じ意味として語ることは危険です。

16:8 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。

16:9 まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。

16:10 七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。

16:11 わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」

 イエス様は、彼らの誤りを指摘されるにあたって、彼らの信仰が薄いことを責められました。彼らの解釈で導き出した結論は、イエス様がなされたパンを与えた奇跡を全く無視したものでした。弟子たちは、それを二回も経験したのです。しかし、いずれの折りにも、不信仰を露呈しました。このとき、まだイエス様を信じて委ねるということができないでいたのです。信仰が薄いのです。彼らは、導き出された結論が間違いだと気づかないです。イエス様が言われたのがパンのことではないとわからなかったのです。

 イエス様は、すぐには解き明かさないで、もう一度彼らに考えさせました。

16:12 そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。

 弟子たちは、もう一度よく考えたととき、パン種は、教えのことであると理解したのです。

16:13 さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。

 ピリポ・カイザリアは、イスラエルの北の地方です。そこには、北に高い山ヘルモン山があります。変貌の山と言われる山は、そのヘルモン山と考えられます。そこでご自分の栄光の姿を弟子たち見せますが、その前に弟子たちの信仰を確認しました。

 初めに聞かれたことは、人々がイエス様のことを誰だと言っているかということです。

16:14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。」

 人々は、イエス様が預言者であると考えていました。バプテスマのヨハネのよみがえりとも考えていました。しかし、イエス様が神の御子キリストであることを言い表しているということはなかったのです。

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」

 イエス様は、今度は、あなた方はイエス様を誰だと言うかを問われました。

16:16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」

 シモン・ペテロは、正確に言い表しました。「生ける神」と言い表し、実在し、生きて働かれる神であることを明確に言い表しています。そして、イエス様が神の子であり、キリストであることを言い表しました。

16:17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。

 イエス様は、この言い表しが良い言い表しであることを認め、幸いであること言われました。この「幸い」という言葉は、神様が与えようとしているものを受け取る人が信仰によって受けとる時に使われます。続くイエス様の言葉も、これを知らせたのは、父であると言われました。父なる神様がペテロに示そうとしておられたのです。ペテロは、それを信じることができたのです。そして、イエス様を正しく言い表すことができました。ですから、幸いなのです。

16:18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。

 岩は、教えを表しています。他の例えで、岩が教えを聞いて従うことであることが示されています。

マタイ

7:24 ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。

7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。

7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。

7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」

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 岩の上に家を建てることは、主の教えを聞いて従うことです。教えを自分のものとすることを表してます。岩は、基本的には教えを表してます。

 まず、イエス様が「あなたはペテロです。」と言われたのは、誰に対してこのことを話すのかを明確にするためです。ペテロの個人的な役割について話す前に、そのことを明確にされました。それがどのような役割であるかを順序立てて話されたのです。

 はじめに、彼の役割が教会に関するものであることを示しました。イエス様が建てる教会について、「この、その岩」と明確に指し示しています。ですから、これは、「イエス様が生ける神の御子キリストである」という教えなのです。その教えを信じて聞き従う人が教会として建て上げられるのです。

 よみの門とは、よみの権威を表しています。よみは人を滅びに至らしめる権威です。それは、神様の定めによります。神の前に罪が赦されない者は、よみに入り滅びるのです。しかし、イエス様が生ける神の御子キリストであると信じた人は、決して滅びることがないことを表しています。

16:19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」

 その上でべテロに与える役割について示しました。これは、ペテロだけに与えられた役割です。彼には、御国の鍵が与えられました。ペテロが地上で決定したことは、天においても有効なのです。しかも、それは、御国の鍵ですから、御国に入るかどうかを決定することになります。実際、ペテロは、異邦人の救いに関して非常に重要な役割を担います。異邦人も信仰によって救われることを神からの啓示として示され、異邦人の救いを目の当たりにしたのです。約束の民ユダヤ人から異邦人と交わることを非難されましたが、神の示した通りに異邦人の救いについて証しし、全てのユダヤ人が異邦人の救いについて確信を持つに至るのです。

16:20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。

 弟子たちは、イエス様について信仰による告白はしていましたが、イエス様がどのように救いを打ち立てるのか知りませんでした。彼らは、イエス様がすぐにでも王として立たれると考えていました。それに、十字架の御業について知らず、その意味も知りませんでした。彼らは、正しい知識もなく、また彼らの誤解のままにキリストのことを証しすることはできないのです。

16:21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。

 その時からイエス様は、十字架と復活について示し始められました。イエス様に関して正しい知識を伝えるためです。 

16:22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」

 ペテロにとって主が苦しみの会うことは、起こるはずのないことです。彼の肉からは、起こってほしくないことであったのです。「とんでもないことです。」は、「主のあわれみがあなたにありますように。」という意味です。それは、「神の目に適っている者に対する契約による祝福がありますように。」という意味です。神の御心は、主が苦しみの会うことではなく、他のところにあるはずだと言っているのです。

16:23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

 ペテロは、イエス様の苦難は神の御心でないと言い、イエス様を神様の御心を行うことから逸らせようとしたのです。しかし、それは、人のことを中心に考える考えでした。苦しみに遭うことは神の御心でないという考えです。そのような考えは、神の御心の実現ということを考えてのものではありません。

16:24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

 その上で話されさたことは、イエス様について行きたい者は、自分を捨てなければならないということです。自分中心の、自分を満たし喜ばすことを第一とする考えを捨てることです。それは、肉を満たすことであるのです。それが、自分の命を救うことです。それを捨てるように言われたのです。自分の十字架を負うというのは、自分の肉を捨てることです。それは、バプテスマの教えが示しているように、キリストと共に死ぬことです。

・「自分を捨てる」「自分の十字架を負う」→アオリスト、命令法。相手にある決定的な決断を促す意味を込めた命令

・「わたしに従って来なさい」→現在、命令法。~し続けなさい。酒に従うことは、ずっと継続することです。

16:25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

 自分の命を救おうと思うことは、自分の肉によって生きて、自分を満たすことを求めることです。しかし、そのようにする者は、自分の命を失います。自分の命については、次節以降に説明されています。それは、御国で報いを受けることです。肉に従って生き、そのために罪の支配を受け、情欲や欲望に従い、この世のものを求めて生きたとしても、神の前に生きているとは言えず、実を結ぶことがなく、報いを受けることはありません。それが、自分の命を失うことです。

 しかし、イエス様のために、肉に死に、御霊によって歩むならば、神の御心を行い、神と共に歩んで命を経験し、実を結び、御国で報いを受ける命をを見出します。

16:26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。

 これは、未信者のための福音として語られているわけではありません。信者が全世界を手に入れたとしても、自分の命すなわち御国において受ける報いを失ったら、何の益があるかということです。地上で手に入れたこの世のものは、全て失われます。ここでは、自分の命を求めることが、肉の欲望の実現として全世界を手に入れることとして取り上げられています。

 人は、まことの命を買い戻すことはできません。初めからこの世のものを捨てて、主に従って生きる以外に、それを獲得する手段はないのです。後からは、取り返しがつきません。

16:27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

 そのような歩みに対して、主は報いてくださることを語られました。これがまことの命であり、御国で受ける永遠の栄光です。それは、報いとして与えられます。

16:28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

 イエス様は、人の子が御国と共に来ることを語られました。それは、イエス様が栄光の姿を山上で見せることです。ここで、御国と共に来ることを示されたのは、御国での報いがまことの命なのです。それが確かなものであることをイエス様の栄光の姿を示して、弟子たちに確信させるためです。

▪️十字架を負うことについて

 これは、単にそれぞれが自分の重荷を負うことを意味しません。社会では、そのような意味で使われることがしばしばですが、聖書では、そのような意味で使われていません。

ローマ

6:6 私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。

 古い人に死ぬこと。罪の体と言われる、内住の罪に支配されて行動する肉に従う歩みに死ぬこと。

 「罪」は、単数定冠詞付きです。これは、内住の罪を指しています。

ガラテヤ

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。

 律法に対して死んだこと。もはや信者が律法を文字通り守ることはない。割礼や、儀式などは守らないのです。それを行わなければ、信者が神の前に義の実を結ぶことがないという誤りを正すために記されている。

5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。

 肉に対して死ぬこと。それは、情欲や欲望に死ぬこと。信仰により、御霊によって歩むことで実現する。

6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが、決してあってはなりません。この十字架につけられて、世は私に対して死に、私も世に対して死にました。

 世に対して死ぬこと。ここでは、特に世にあっての誇りに対して死ぬこと。