マタイ15章
15:1 そのころ、パリサイ人たちや律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て言った。
15:2 「なぜ、あなたの弟子たちは長老たちの言い伝えを破るのですか。パンを食べるとき、手を洗っていません。」
エルサレムから来たパリサイ人や律法学者たちは、イエス様の弟子たちを非難しました。それは、彼らが「長老」たちの言い伝えを破ったというものです。それは、言い換えるならば人の言い伝えです。彼らは、長老たちの権威によってそのことを責めたのです。具体的には、パンを食べるときに手を洗っていないというものです。しかし、その命令は、彼ら自身が言い表しているように、神の命令ではなく、人の言い伝えでした。
おててをあわせて かめさんと おやまにいったら おおかみさんを ぶんぶんばいくで つかまえた おみずでながしてぴかぴかだ -線路は続くよ-
15:3 そこでイエスは彼らに答えられた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを破るのですか。
15:4 神は『父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない』と言われました。
15:5 それなのに、あなたがたは言っています。『だれでも父または母に向かって、私からあなたに差し上げるはずの物は神へのささげ物になります、と言う人は、
15:6 その物をもって父を敬ってはならない』と。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために神のことばを無にしてしまいました。
これは、父と母を敬うことと神に捧げ物をすることについて、どちらの優先度が高いかということです。父と母を敬うことは、神の戒めです。そして、父や母を呪う者は、死刑に処せられる重い命令です。一方で、捧げ物をすることは、してもよいし、しなくてもよいのです。必ずしなければならないことでもないし、しないならば処罰を受けるというものではありません。もし、自ら進んで捧げるならば、神に喜ばれるのです。このことから、父や母を敬うことが優先度が高いと言えます。
これは、神に従うか、神に従わないかという選択の問題ではありません。もしそうならば、神に従うことを優先させるべきです。しかし、ここでは、そうではなく、どちらも良いことなのです。しかし、優先度が異なります。
人々のすべきことは、父と母を敬うということを満たした上で、神に捧げ物をしたら良いのです。捧げ物になりましたということを言い訳に、父や母を敬わないことは、律法を犯していることであり、たとい捧げ物をしても神は喜ばれません。
パリサイ人や律法学者たちは、捧げ物を優先するように教えたのです。父や母を敬うことを後回しにさせたのです。事もあろうに、その物をもって父母を敬うことを禁じたのです。他の物を犠牲にして捧げ物をするというのならばともかく、優先度の非常に高い命令を禁じたのです。
このことは、彼らが父や母をどのように考えているかという思いを反映しています。父や母を敬うということを軽く考えていたのです。捧げ物をすることこそ価値があると考えていました。
今日、公の働きのように人目につく働きこそ価値あるものと考えることは、慎むべきです。また、御言葉を正しく学ぶことのできない兄弟が、人前で語るという技術だけで語るのを聞くことは、残念なことです。語ることが正しくないし、益にならないで害になっているからです。そのような人は、御言葉を自分で正しく学習していないのですから、神様の御心を正しく行ってもいないのです。神の御心を正しく行う者でなければ、神の働きを担うことはできません。
15:7 偽善者たちよ、イザヤはあなたがたについて見事に預言しています。
15:8 『この民は口先でわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 彼らがわたしを礼拝しても、むなしい。人間の命令を、教えとして教えるのだから。』」
イエス様は、彼らが偽善者であると露骨に言われました。そこまで言わなければ、彼らは気付かないのです。自分たちが正しいと思ってしてきたことが、誤りであったと気付かなければならなかったのです。
そして、そのようなことは、はるか以前イザヤの時代にあったことであり、イザヤは、また預言としてそれを語ったのです。
イスラエルの民のしていることは、口先だけのことでした。心がなかったのです。口先では敬っていました。しかし、心が神様から遠く離れていました。それですから、彼らが礼拝という最も神様を恐れることを現す行為をしたとしても、虚しいと言われます。その理由は、彼らは、神を恐れてそれをしているのではないからです。彼らは、人間の教えに従ってその命令を守っているだけだからです。
今日、私たちも彼らと同じような過ちに陥っている可能性があります。形としては、聖書を読み、教会の集会に集いますが、心は、神様から離れているのです。パン裂きも、形式的です。心がないのです。主を覚える心がありません。
15:10 イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。
イエス様は、群衆を呼び寄せて教えられました。「聞いて悟りなさい。」と言われ、例えで話されました。例えで語られたのですから、その意味を理解しないと意味が分かりません。
悟ることは実践です。聞いたことを理解し、受け入れて従い自分のものとすることが悟ることです。
15:11 口に入る物は人を汚しません。口から出るもの、それが人を汚すのです。」
口に入る物は、食べ物のことです。食べ物は、人を汚さないのです。この汚れは、神の前に罪であるということです。
口から出る物は、直接的には言葉です。その言葉は、心から出てきます。そして、言葉だけでなく、心から出てくるものが人を汚すのです。
15:12 そのとき、弟子たちが近寄って来てイエスに言った。「パリサイ人たちがおことばを聞いて腹を立てたのをご存じですか。」
パリサイ人たちは、腹を立てました。間違いを指摘されたとき、それを認めることがない人の悪い性質を現したのです。人は、自尊心を打ち砕かれると腹を立てるのです。そうすると、そのような人たちは、正しい教えを受け入れることができなくなってしまいます。
15:13 イエスは答えられた。「わたしの天の父が植えなかった木は、すべて根こそぎにされます。
イエス様は、彼らが天の父が植えなかった木であり、根こそぎにされると言われました。もはや悔い改めることがなく、祝福には与れないのです。
彼らに、正しい教えがされたのです。しかし、それを全く受け入れる余地のない人たちが悔い改めて救われることはないのです。
15:14 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を案内する盲人です。もし盲人が盲人を案内すれば、二人とも穴に落ちます。」
彼らのことは放っておくように言われました。彼らを正すことはできないのです。正しい教えを受け入れない限り、正しい道に立ち返ることはできないのです。彼らは、それを既に現してしまったのです。父が飢えた木でないことが明らかになりました。ですから、放っておくのです。
彼らは、民衆を教えていました。しかし、彼らは、目の見えない案内人です。彼ら自身は穴に落ちるし、導かれる人も穴に落ちるのです。
15:15 そこでペテロがイエスに答えた。「私たちに、そのたとえを説明してください。」
15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ分からないのですか。
ペテロは、その例えの意味を教えてくださるように願いました。彼は、理解できていなかったのです。イエス様も、まだ分からないのですかと問われています。
例えで示されていることは、理解しないといけないのです。聞いて悟らないといけないのです。聖書には、多くの比喩が示されています。その比喩は、論理的なものです。なんとなく似ている程度のものではないのです。よく調べて、理解する必要があります。
15:17 口に入る物はみな、腹に入り、排泄されて外に出されることが分からないのですか。
口から入る物は、腹に入り、厠で出されるのです。分からないのですかともう一度言われ、弟子たちは当然理解すべきであることを示されました。
15:18 しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。
そして、口から出るものについて説明されました。口から出るものは、心から出てきます。それが人を汚すのです。それによって罪ある者とされます。
15:19 悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。
悪い考えは、悪の考えです。神の前に悪である考えです。
殺人は、人を殺すことです。その人がいなくなれば良いと考えることもそうです。
姦淫は、既婚者が配偶者以外との関係を持つことです。
淫らな行いは、それ以外の性的な関係を持つことです。
盗みは、ものを盗むことです。
偽証は、嘘の証言です。
罵りは、神に対する直接的な冒涜と、他人に対する中傷や誹謗。
15:20 これらのものが人を汚します。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません。」
これらが神の前に罪であり、このようなものが心から出てくることがその人を汚すのです。洗わない手で食べることは、人を汚しません。
15:21 イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。
15:22 すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます」と言って叫び続けた。
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。弟子たちはみもとに来て、イエスに願った。「あの女を去らせてください。後について来て叫んでいます。」
15:24 イエスは答えられた。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」
イエス様は、カナン人の女の求めに応えられませんでした。弟子たちも、女のことを気遣うほどでした。イエス様は、その理由について話され、ご自分は、イスラエルとの契約に基づいて来たが、異邦人であるカナン人の女とは契約関係にないので、応えることができないということです。
事実、彼女が娘の癒しを求めたのは、「ダビデの子よ。」と言い、預言されているメシヤとしてのイエス様に求めたのです。そして、「あわれんで」くださいと言っています。この語の意味は、「契約に対する忠誠」です。イエス様を信じて求めているのですから、契約に基づいて預言の通りにメシヤとして癒しを賜りますようにということを求めているのです。彼女自身が「契約に基づいて」ということを言っているのです。ですから、契約関係のない者にその者の言葉どおりに答えることはできないのです。
15:25 しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。「主よ、私をお助けください。」
15:26 すると、イエスは答えられた。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。」
彼女は執拗に求めました。しかし、イエス様は、契約関係を無視して、応答することはできないことを言われたのです。ただ、彼女を癒しても損失はないのです。
15:27 しかし、彼女は言った。「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」
彼女は、主の言われることがよく分かりました。主の権威を認めていたからです。その上で、主の同情によるおこぼれをいただくことができると言いました。主イエス様には、そのような心があると言い表しています。
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えられた。「女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」彼女の娘は、すぐに癒やされた。
イエス様は、彼女の信仰を褒められました。イスラエルは、契約関係にあるのに、イエス様を信じ、その祝福をいただくことを考えていませんでした。しかし、異邦人の女は、契約関係がないと断られても、なお、その方が神の御子であり、メシヤであることはゆるぎませんでした。そして、その方の恵みに頼ることができたのです。信じる者に対して喜んで応える方と信じていたのです。その信仰を褒めたのです。
15:29 それから、イエスはそこを去ってガリラヤ湖のほとりに行かれた。そして山に登り、そこに座っておられた。
15:30 すると大勢の群衆が、足の不自由な人たち、目の見えない人たち、手足の曲がった人たち、口のきけない人たち、そのほか多くの人をみもとに連れて来て、イエスの足もとに置いたので、イエスは彼らを癒やされた。
イエス様は、病人を癒されました。彼らは、イエス様が癒すことができると信じてやって来たのです。
15:31 群衆は、口のきけない人たちがものを言い、手足の曲がった人たちが治り、足の不自由な人たちが歩き、目の見えない人たちが見えるようになるのを見て驚いた。そしてイスラエルの神をあがめた。
病人が癒されたのを見た人々は、イスラエルの神を崇めました。イエス様がなしていたことは、神様の業であることを認め、神を崇めたのです。イスラエルの神として崇めました。イスラエルをご自分の民とし、イスラエルの救いのためにイエス様を遣わされたと覚えて、神を崇めたのです。それは、預言の通りでした。
15:32 イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はすでに三日間わたしとともにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま帰らせたくはありません。途中で動けなくなるといけないから。」
群衆は、病人の癒しと、イエス様の話を聞くために、三日間もそこにいました。彼らには食べ物がなくなりました。その時、イエス様は、弟子たちに空腹のまま帰らせたくないという話をされたのです。途中で動けなくなるといけないからと。イエス様は、一人一人の状態について心配しておられました。
この時には、弟子たちが与えなさいとは言われませんでした。ただ、「かわいそうに」と言われたのです。前の時には、弟子たちの信仰を求められました。それは、訓練のためでもあります。しかし、弟子たちは、信仰がありませんでした。今度は、弟子たちに同情を求めたのです。空腹の群衆のために、なんとかしてあげることが求められています。このことも、弟子たちに必要なことでした。彼らは、信者を養う役割も担うのです。その時、人々の必要を知り、その必要を満たす心が必要です。同情も必要なのです。
15:33 弟子たちは言った。「この人里離れたところで、こんなに大勢の人に十分食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れることができるでしょう。」
彼らは、二つの点で失敗しました。一つは、信仰が全く働かなかったことです。すでに、同じ状況で、イエス様がパンを与えるという経験をしたのです。少なくとも、イエス様にお願いすることで、解決するという道があることを経験として知っていたのです。しかし、イエス様を信じ、委ねることをしていないのです。人は、一度経験しても、不信仰になるのです。信じないのです。
もう一つは、「たくさんのパンをどこで手に入れることがてきるのでしょう。」と言い、イエス様に逆に問いかけて、イエス様でもできないでしょうと言っているのです。全くの不信仰であることがわかります。
私たちは、自分に起こった問題について、神様には解決できないと考え、怒り、あるいは、神様に文句を言うのです。神様を信じていないからです。
15:34 すると、イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。」彼らは言った。「七つです。それに、小さい魚が少しあります。」
イエス様は、バンの数を聞かれました。七は、満たす意味での完全さを表します。信じる者の真の食物としてのイエス様は、完全な方であり、人の完全な模範者となられた方です。その方を信じ受け入れることで、私たちは、イエス様と同じ者に変えられるのです。
15:35 そこで、イエスは群衆に地面に座るように命じられた。
15:36 そして七つのパンと魚を取り、感謝の祈りをささげてからそれを裂き、弟子たちにお与えになったので、弟子たちは群衆に配った。
イエス様のことを人々に取り次ぐ働きが、弟子たちに委ねられていることの比喩です。彼らは、言葉と模範によって教えます。
15:37 人々はみな、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、七つのかごがいっぱいになった。
イエス様は、人を満たし、七によって、なお完全な食べ物として人の食物となっていることを表しています。
15:38 食べた者は、女と子どもを除いて男四千人であった。
四千は、千を単位として、四つです。あまねくと言うことを表します。全ての人を満たすことができることを表しています。
15:39 それから、イエスは群衆を解散させて舟に乗り、マガダン地方に行かれた。
イエス様は、七つのパンと少しの小さい魚で、女と子供を除いて男四千人に分け与え、満腹させました。彼らは、満たされたので帰ることができたのです。