マタイ12章

12:1 そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。

 イエス様と弟子たちは、食べ物を持っていませんでした。それでも、人々に福音を伝えるために旅をしていたのです。弟子たちは、麦畑で麦の穂を積んで食べ始めました。決して美味しいものではありませんが、そのようなものを食べなければならないほど空腹だったのです。

12:2 するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」

 パリサイ人は、弟子たちの空腹を理解することはありませんでした。彼らは、弟子たちの行動が安息日を破っている行為であるとしてイエス様に訴えたのです。安息日にしてはならないことの詳細は、律法の規定にはないことで、後に人の掟として付け加えられたものです。安息日は、聖なる日で、一切の労働の仕事をしてはならないと規定されていますが、麦の穂を積むことがそれに該当すると彼らは主張しているのです。

12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、

12:4 どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。

 イエス様は、聖書の記事を引かれました。読んだことはないのですかと問われ、彼ら自身が知っている聖書の根拠をもって説明されました。

サムエル第一

21:1 ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」

21:2 ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。

21:3 今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」

21:4 祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」

21:5 ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」

21:6 祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。

−−

 イエス様の言葉に沿って考えるならば、ダビデがどのように神の家に入ったかということについて、ダビデは、一人で神の家に入りました。連れの者は、神の家には同行しませんでした。

 また、どのように食べてはならない供えのパンを食べたかについては、彼は、祭司から供えのパンの提供を受けます。供えのパンは、祭司だけが食べることができました。しかも、祭司は聖なるところでそれを食べなければなりませんでした。すなわち神の家で食べるのです。しかし、この時は、祭司でない者たちが、しかも、神の家ではないところで食べたのです。

 イエス様は、このことを直接言及されませんでしたが、この日は安息日でした。この日、供えのパンが新たに捧げられて、古い物が取り下げられたと記されています。これは、安息日にするように規定されています。文脈からは、その事は特に意味を持ちません。

 ここでは、人の飢えを満たすためには、聖なるものとされているパンでも一般の人が食べても咎められないことを聖書の記事から示されたのです。

 パリサイ人は、その記事を読んでいたのです。しかし、ダビデのしたことが咎められることなく許されている理由について考えませんでした。空腹を満たすためには、聖なる物でも食べてよいのです。

 彼らは、安息日には労働をしてはならないという戒めを固く守ろうとしていました。そして、この時代には、律法の規定の他に、人の定めた戒めが追加されていました。ダビデの記事に示されている事柄があるにもかかわらず、神の戒めを正しく理解してはいませんでした。御言葉の解釈が変質したのです。

レビ記

24:5 あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。

24:6 それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。

24:7 それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。

24:8 彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。

24:9 これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」

−−

・「臨在」のパン。→「神の特別な目的のためにあらかじめ定めたもの。」臨在の意味はなく、定めや計画、備えを意味します。これは、御心とか摂理を意味します。パンは、人となられたイエス様を表していて、その方が、神の御心を全うされた方であることを表すために、このように呼ばれています。

12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。

 また、安息日に宮にいる祭司は、神様に捧げ物をするために務めを果たしています。イエス様は、それを労働とみなして、その労働をしても祭司が罪あるとはされないことを指摘されました。安息日だからということで、その務めを止めることはありません。彼らは、主に仕えているからです。安息日は、聖なるものです。しかし、祭司は、神に仕えているので、安息日の規定に優先され、安息日の規定が適用されないのです。

12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。

 祭司が神に仕えている時、安息日の規定が適用されないのであれば、宮よりも大いなる方であるイエス様に仕えている弟子たちにこの規定は適用されないのです。弟子たちがイエス様に仕えている間、安息日を破っても罪とはされません。

12:7 『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。

 そして、神様が喜びとすることは何かを御言葉から引用されました。「真実の愛」と訳されている語は、「契約に対する忠誠」を意味します。「神の言葉を正しく忠誠をもってあるいは誠実に行う」ことです。

 パリサイ人は、聖書の言葉を読んだにもかかわらず、正しく理解していませんでした。そして、間違った適用をしたのです。これでは、神に喜ばれることはありません。彼らのしていたことは、いけにえを捧げることが示すように、行いとしては形通りに正しく行っていましたが、神の言葉を誠実に守る心がありませんでした。いくら犠牲を払っていけにえを捧げても、神の契約を正しく守るのでなければ、神の前に価値がありません。

 彼らは、安息日には労働をしてはならないという言葉を紋切り型のように適用していました。しかし、その神の戒めについての意味、あるいはその事に関する神の御心を正しく理解していなかったので、誤った適用をしてしまったのです。

 このように、御言葉を正しく理解していないことは、大きな危険を伴います。誤った適用をしてしまうからです。

 ここには、安息日の神聖を破っても罪にならない事柄について示されています。

12:8 人の子は安息日の主です。」

 安息日は、天地創造の時、神が七日目に休まれたことを証しするものとして守ります。その日は、聖なるものとされていて、神のものです。ですから、安息日は、創造主である神を覚え、その栄光を覚えることが相応しいのです。その中心は、主イエス様です。

12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。

12:10 すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。

 会堂でのこの質問の根底には、人を癒やすことは安息日の労働にあたるという考えです。彼らは、イエス様がなしておられることが安息日を破ることに該当すると考えていたのです。そして、安息日に病人を癒すことを取り上げ、イエス様が安息日を破るものであることを公に明確にしようとしました。

12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。

12:12 人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」

 イエス様は、安息日に良いことをすることは律法に適っていることを示されました。それは、してはいけない労働とはみなされません。それによって神の栄光を現すのであれば、良いことなのです。人の窮状を助けることは隣人を愛することであり、良いことです。安息日は、神聖なものであり、その安息日に良いことをして、神の栄光となるのであれば、それをすべきなのです。

 さらに、彼らは、羊のためには、安息日だからといって、穴に落ちた時に助けるのです。動物に対してさえ、窮状を放置せず、手を差し伸べていたのです。その彼らが、人を癒やすことに対して、してはならないとすることは矛盾していました。

 ここには、安息日にするべき良いことについて示されています。

12:13 それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。

12:14 パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。

 手の萎えた人については何も記されていません。しかし、癒やされる信仰があったのです。イエス様の言葉通りに手を伸ばしました。彼の手は、良くなったのです。

 その時、パリサイ人たちは、イエス様を殺そうとしたのです。イエス様の言われたことを一切受け入れませんでした。彼らがイエス様を訴えようとしていたのですが、その計略は破れ、彼らは、自分たちのしたことが、まるで間の抜けたようなことであることを人々の前にさらけ出してしまったのです。計略がうまくいくと思った事で恥を被ったのです。その時、殺そうとしたのです。

12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。

 イエス様は、安息日に、多くの人を癒やされました。それは、神様の御心に適った良いことでした。そして、その業自体が、神様がイエス様をとおしてしようとしておられたことです。

12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。

 しかし、それは病気で苦しむ人を助ける良い業のためであり、良いことをすることで神に栄光を帰するためです。それ以外のものを受けるためではないのです。それで、人々に知らせないように戒められました。

12:17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。

12:18 「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。

 神様が選んだしもべです。すなわち、神様の御心を実現する神の僕なのです。そして、その方によって神様は、満たされ、喜ばれました。神様の御心を実現するからです。主人にとって、喜びのしもべは、主人の願うことをすべて行うしもべです。

 その方は、異邦人に「裁き」を告げます。この裁きは、良い面対しても、悪い面に対しても使われる語で、この場合は、良い裁きを受けることを言っています。言い換えるならば、神から良いものと評価される道があることを告げるのです。

12:19 彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。

 これは、何も声を出さないということではありません。争わないことは、自分を主張し、相手を押しのけようとすることです。叫ぶことは、自分の思いを大いに知らせることです。通りでその声を聞く者もないことは、この方がご自分のことを知らせようとしなかったことを表しています。ご自分を信じるように示される方ですが、ご自分を現そうとはなさらないのです。

12:20 傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。

 傷んだ葦は、神の前に傷んだ人の姿です。しかし、それを無用なものとして折ってしまうことはないのです。また、くすぶる灯心は、もはや消えそうなのです。しかし、それを消してしまうことはありません。そのような人々を神に立ち返らせ、いのちを与える方です。

 裁きを勝利に導くことは、人々が神の前に良い評価を受けることを実現することです。そのために、傷んだ葦を断罪して見捨てることはありません。燻る灯心を諦めることもなく、消さないのです。罪人を見捨てることはありません。人々を救い、彼らが栄光を受けることかできるようにされます。

12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

 その救いは、異邦人に永遠の栄光をもたらし報いをもたらします。それで、彼らは望みをかけるのです。

12:22 そのとき、悪霊につかれて目が見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが癒やされたので、その人はものを言い、目も見えるようになった。

12:23 群衆はみな驚いて言った。「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか。」

 群衆は、主イエス様の業に驚きました。そして、イエス様は、ダビデの子なのではないだろうかと言いました。その方は、聖書に預言されているとおりに、ダビデの子として人となっておいでになられる神の御子です。

12:24 これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」

 しかし、パリサイ人は、イエス様のことを認めたくないので、イエス様がしていることは、悪霊の業であると人々に言い、人々がイエス様を信じないようにしようとしました。

12:25 イエスは彼らの思いを知って言われた。「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。

12:26 もし、サタンがサタンを追い出しているのなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか。

12:27 また、もしわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らが追い出しているのは、だれによってなのですか。そういうわけで、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく者となります。

 イエス様、そんな理屈はないことを語られました。悪霊が悪霊を追い出すことはないのです。それでは、仲間割れであって、サタンの国は、成り立たないのです。サタンは、自分の属する悪霊を支配することができなくなります。

 それに、パリサイ人たちの中には、悪霊を追い出す業をしていた人たちがいたのです。彼らのしていることも悪霊によって追い出しているということになります。彼らの言っていることは、支離滅裂なのです。彼らは適当なことを言っていることが露見したのです。よく考えもしないで語っていたのです。

 このように、イエス様が彼らの誤りを正したのは、人々に何が正しいかを教えるためです。群衆まで、イエス様が悪霊によって追い出していると思ったら、イエス様を信じないのです。それでは、彼らは救われません。

12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

 そのうえで、イエス様の業が、聖霊による働きであることを正しく認めるならば、彼らの直ぐ側に神の国は来ているのです。「神の国が来る」という表現は、人が信仰により主を信じまた従って神の国に入ることができることができることが近づいていることを表しています。彼らが主を信じたならば、神の国は彼らのものとなるのです。彼らは、報いとしての資産を受け継ぐのです。

 変貌の山でのことについては、次のように言われています。

ルカ

9:27 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、神の国を見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」

--

 神の国は、イエス様の栄光の姿を指しています。主が栄光のうちに現れることは、私たちがキリストの裁きの座で報いを受けることと関係しています。ただし、見るという表現は、報いについては触れていません。

12:29 まず強い者を縛り上げるのでなければ、強い者の家に入って家財を奪い取ることが、どうしてできるでしょうか。縛り上げれば、その家を略奪できます。

 その人を支配していた悪霊を追い出したのは、その強いものを縛り上げて、その悪霊に憑かれた人を神様のものとして取り返すためです。そして、その人がイエス様を信じて神の国に入るためすなわち、報いとしての資産を受け継ぐためです。

12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。

 そして、そのための働きを認めない人は、イエス様に敵対する者です。パリサイ人たちは、自分たちのことしか考えていませんでした。自分たちの栄誉しか考えていなかったのです。それで、イエス様に反対しましたが、それは、神様が救い、神の国に入れようとしいる人を散らすことであるのです。

12:31 ですから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけますが、御霊に対する冒涜は赦されません。

 そのように、聖霊が人の救いのために働いているのを妨げたパリサイ人は、聖霊を冒涜するものであるのです。そのようなパリサイ人が赦されることはありません。

 イエス様が悪霊を追い出す目的は、その人を支配している強い者をまず無力にするためです。そうでないとその人を略奪できないからです。悪霊の支配から神の支配に移すことができないからです。その悪霊を追い出していたのは、御霊です。イエス様をとおして御霊が働いていたのです。御霊は、その人を神のものにしようと働いていたのです。イエス様のお心もそれと同じて、その人を神のものにしようと働いていたのです。しかし、パリサイ人は、それが悪霊の働きだと言ったのです。それは、聖霊の働きなのですから、聖霊を冒涜したことになります。

 そのような冒涜は、赦されないのです。

12:32 また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。

 パリサイ人は、御霊に逆らうことを言ってしまったのです。彼らは、永遠に赦されることはありません。

 イエス様に逆らうことを言うことは、赦されます。イエス様は、それを赦される寛容な方なのです。

 聖霊に逆らうことは、救いの福音を拒むこととは違います。イエス様に逆らう言葉を口にしても赦されます。そのことも、救いの福音を拒むことでもあります。それでも赦されます。ですから、聖霊に逆らうことを言うというのは、もっと直接的な意味です。聖霊によって奇跡が行われたのです。それを聖霊の業と認めず、悪霊の業であると言ったことが冒涜なのです。

 聖霊による奇跡は、使徒の時代に行われます。それ以降は、そのようなしるしは与えられません。そのような時代に、このことを適用することはできません。

12:33 木を良いとし、その実も良いとするか、木を悪いとし、その実も悪いとするか、どちらかです。木の良し悪しはその実によって分かります。

12:34 まむしの子孫たち、おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が話すのです。

 聖霊に逆らうことを言うことは、軽いことではないのです。言葉は、その人の心の内の現れであるからです。彼らは、呪われた者として、良いことが言えないのです。

 彼らについては、まむしの子孫たちと言われました。非常に厳しい言葉ですが、彼らの心は、そのように神に敵対することで心が満ちていたのです。神に喜んで従うのではなく、自分のことしか考えていないのです。

12:35 良い人は良い倉から良い物を取り出し、悪い者は悪い倉から悪い物を取り出します。

12:36 わたしはあなたがたに言います。人は、口にするあらゆる無益なことばについて、さばきの日に申し開きをしなければなりません。

12:37 あなたは自分のことばによって義とされ、また、自分のことばによって不義に定められるのです。」

 その人の語る言葉は、その人の永遠を決定します。聖霊の働きを否定するような言葉を語る者が救われることはありません。

 また、その人が語ることは、その人の心から出てくるのです。私たちが語る言葉で、無益なものは、裁きの日に裁かれるのです。

12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちの何人かがイエスに「先生、あなたからしるしを見せていただきたい」と言った。

 律法学者、バリサイ人の幾人かは、しるしを求めました。しるしとは、証拠としての奇蹟のことで、イエス様が聖書に約束されているキリストであることを証明する奇蹟のことです。

12:39 しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。

12:40 ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

 しかし、イエス様は、しるしは与えられないと言われました。それは、この時代は、悪い姦淫の時代であるからです。悪いというのは、神の前に正しくないのです。多くの人が神に対して正しく生きようとしないのです。自分の心の欲望のままに生きようとする時代なのです。それは、今と変わりません。

 また、姦淫というのは、神様の真理の教えから離れて、多くの人が間違った教えの中に生きているのです。

 律法学者、パリサイ人は、神の前に正しく生きることを求めたのではありません。彼らは、自分たちの名誉と誇りのために生きていました。彼らの関心は、人から良く見られることです。ですから、偽善を行う者が少なくなかったのです。人にはよく見られるような行動を取りますが、その動機は、自分の誉れのためです。そして、実際の生活は、神の前に正しくないのです。

 さらに、彼らは、律法に対して熱心であるかのように見えました。律法に書いてある以外に、自分たちで考え出した多くの教えを追加しました。手を洗うことや身を清める規定です。しかし、その教えは、却って律法に背く教えにもなっていたのです。規則を多く作って守れば、熱心であるかのように考えていたのですが、彼らには、心が伴っていませんでした。

 そのような彼らに、奇蹟を行っても。彼らはそれによってイエス様を神の子キリストと認めることはないのです。彼らは、神を信じ、神を恐れているのではないのですから、奇蹟を見て神を受け入れることはないのです。今まで、あまりにも神を無視し、神が生きて存在し、働かれる方であることを認めないで、人間的な誉れを求める考えの中に生きてきたのですから、今更、神を恐れて従うことはないのです。実際、彼らは、既にしるしを見たのです。多くのしるしについて見聞きしていました。この人は、直接見たことのない律法学者パリサイ人であったかもしれません。しかし、多くの人の証言を聞いていたはずです。しかし、彼らは、信じなかったのです。

 彼らは、神の民として、生まれながらにして、神様を教えられ、家族も皆、神に従うような家庭に生きて来たのです。しかし、多くの人が実際は神から離れて生きていました。そのような時代の中で、本当に神を恐れて従う人が育たないのです。

 ヨナのしるしは与えられると言われました。それは、イエス様が十字架にかかられて三日目によみがえられることです。そのしるしは、イエス様が神の御子であることを公に示すしるしです。

ローマ

1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

−−

 それは、信じる者にも信じない者にも与えられたしるしです。

12:41 ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。

 この時代の人々の問題点は、悔い改めないことです。神から離れているのにそれを認めないし、神に立ち返ろうとしないのです。しかも、神の民とされ、律法が与えられているにもかかわらず、神を知らないのです。ニネベの人々は、異邦人であり、神を知らず、律法もない人々です。聖書の言葉が朗読されていることもないのです。しかし、彼らは、ヨナの説教で悔い改めました。イスラエルは、神様のことをずっと良く知っているはずでした。そして、ヨナに勝った方を目の前にしたのです。その人格、言葉、そして力ある業です。それを見たのです。それなのに信じないのです。ニネベの人々は、そのようなこの時代の人々をさばくことにならないでしょうか。

12:42 南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。

 南の女王は、アラビヤ半島の南端シェバという国から来ました。直線距離で2,100kmです。九州の端から、青森ぐらいの距離です。彼女は、神様がソロモンに与えた知恵を聞くために来たのです。神様の偉大さを知るためでした。彼女にとっては、その長旅の犠牲を払う価値があったのです。女王を守る家来としては、無謀とも言える旅です。しかも、多くの宝を運んだのです。異邦人であるこの女王にとって、神様を知ることは、そのような犠牲を払ってでも惜しくない価値がありました。

 しかし、この時代の人々は、イエス様によって神様を知る機会が与えられたのです。さらに言うならば、この方自身が神です。彼らは、その方が語る言葉を受け入れようとしませんでした。しかも、奇蹟の業を見ても気に留めないのです。シェバの女王は、ソロモンに謁見して、息も止まるばかりになったのです。

列王記第一

10:3 ソロモンは、彼女のすべての問いに答えた。王が分からなくて、彼女に答えられなかったことは何一つなかった。

10:4 シェバの女王は、ソロモンのすべての知恵と、彼が建てた宮殿と、

10:5 その食卓の料理、列席の家来たち、給仕たちの態度とその服装、献酌官たち、そして彼が主の宮で献げた全焼のささげ物を見て、息も止まるばかりであった。

−−

 彼女が、イエス様の知恵の言葉を聞き、イエス様の奇蹟を見たならば、息が止まったのです。

 しかし、この時代の人たちは、全く受け入れないのです。

12:43 汚れた霊は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、

12:44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。

12:45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い時代にも、そのようなことが起こります。」

 そして、イエス様を受け入れないこの時代に人々に対して警告を与えました。イスラエルの人々は、家に例えられています。もとは、悪霊が住んでいたのですが、掃除されてきれいに片付いていました。それは、イスラエルがかつて、偶像礼拝をし、神様から離れた時、アッシリヤやバビロンに滅ぼされ、再び国が回復し、偶像礼拝をしなくなったことを表しています。

 しかし、回復した当時の神様を恐れて仕えるという態度は次第に失われ、悪魔はそこに付け入りました。神様に仕えるように見えていたのですが、形だけの信仰がはびこりました。儀式は守っても、神様を恐れることがないのです。そして、人間的な教えが蔓延しました。聖書の言葉に基づかないのです。熱心なように見えても、偽善でした。誠実に神の言葉を守ることをしなかったのです。形だけです。

12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。

12:47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。

12:48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。

 イエス様は、血の繋がりとして、母と兄弟について言われたのではありません。家族について、真の価値ある交わりの関係について教えました。それは、誰よりも勝って近い交わりの関係です。父と母は、敬うべきものです。また、兄弟は、どのようなときにも愛するものです。

12:49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。

12:50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

 そのように、イエス様にとって、価値ある尊い交わりの関係を築くことができる人は、父の御心を行う人です。父については、天におられると言われました。人間的な基準や教えで行動するのではなく、神聖な、人とは分離した、聖なる神の御心を行う者です。そのような人こそ、イエス様を信じるし、その声に耳を傾け、その言葉に従おうとするのです。単に血の繋がりがその交わりを深めるのではないのです。父の御心を行うことが必要なのです。

 律法学者、パリサイ人は、天の父の御心を行うことを心がけていませんでした。彼らは、神が預言した言葉のとおりに遣わした御子を信じることができなかったのです。