マタイ11章
11:1 イエスは十二弟子に対する指示を終えると、町々で教え、宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。
11:2 さて、牢獄でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、自分の弟子たちを通じて
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか。」
ヨハネは、獄中でキリストの御業について聞きました。ここでは、「キリスト」の御業と記されていて、ヨハネは、その業がキリストの業であるという認識でて聞いたということです。そうでないならば、文としては、「イエスの業」という表現であるはずです。すなわち、人としてのイエス様がなされている業という客観的な表現になります。これを記したマタイは、ヨハネがイエス様をキリストと認識していたので、このように表現したのです。
彼は、イエス様に言われるまでもなく、イエス様がキリストであり、イエス様のなされることがキリストの業であることを知っていて、その上で弟子たちを遣わし、このことを言わせたことが分かります。
ちなみに、ヨハネのこの行動について、ヨハネが獄中での苦しみのために不信仰になり、イエス様に確認したのだとか、ヨハネが抱いているキリスト像とイエス様の行動が違うので確認したのだという意見がありますが、ヨハネは、最初からイエス様をキリストと認識していて、その上で弟子を遣わしたことは「キリストの御業について聞いたヨハネ」の記述から明らかです。
ヨハネが、女から生まれた者の中で最も優れた者と評価されていて、預言者以上の者と言われている者が、自分の証ししたことに対して疑いを抱くことは考えられません。
ヨハネは、獄中にあり、その役割が終わることを認識していたはずです。弟子たちをキリストのもとに導かなければなりません。彼は、キリストのなしている御業を弟子たちが直接見て、確信を持ち、キリストについて行くように図ったのです。御業をなしておられることを聞いたのですから、ちょうど良い機会であったのです。そして、イエス様が御自分がキリストであることを証ししてくださるような質問を持たして遣わしたのです。
11:4 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。
イエス様は、ヨハネに報告するように言われましたが、これは、弟子たち自身が自分で確認するためです。彼らの報告の結果として、イエス様がキリストであることが明確になるわけで、弟子たちもそのことを確信することができるためです。
11:5 目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。
彼らが見たり聞いたりしていることは、イエス様が実際に行われた奇跡の数々です。その時死人のよみがえりを直接見るとはありませんでしたが、彼らは、人から聞いて確かめることができたのです。
最後に「貧しい者に福音が伝えられています。」と言われました。この方が救いのためにおいでになられたことが福音を伝えることで明確にされています。その奇跡は、ご自身が救いをもたらす方であることの証しです。
「貧しい者」は、霊的には「謙った信心深い者」を表します。神の御言葉を受け入れようと謙った者のことです。そのような人にこそ救いがもたらされるのです。たとい奇蹟を見たとしても。神の言葉を信じることがなければ救われないのです。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」
さらに、イエス様は、念を押されました。これは、ヨハネに対することではなく、ヨハネの弟子たちに対する言葉です。もし、弟子たちが最初からイエス様がキリストであることを確信しているならば、このように言うことはないのです。ヨハネのこともイエス様はご存知です。このことは、ヨハネの弟子たちのために語られたのです。
11:7 この人たちが行ってしまうと、イエスはヨハネについて群衆に話し始められた。「あなたがたは何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。
11:8 そうでなければ、何を見に行ったのですか。柔らかな衣をまとった人ですか。ご覧なさい。柔らかな衣を着た人なら王の宮殿にいます。
11:9 そうでなければ、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そうです。わたしはあなたがたに言います。預言者よりもすぐれた者を見に行ったのです。
11:10 この人こそ、『見よ、わたしはわたしの使いをあなたの前に遣わす。彼は、あなたの前にあなたの道を備える』と書かれているその人です。
ヨハネは、預言者より優れていました。それは、主の使いとして、主を証しする者であるからです。彼は、主にふさわしい道を備えるために、主にふさわしい聖さを持ち、人々に躓きを与えない聖さをもっていました。使いは、なんの粗相もあってはならないのです。王室の使いが、人々に非難されるようなことをしていれば、王の名が汚れます。ヨハネは、主を証しするにふさわしい者として生きていたのです。
11:11 まことに、あなたがたに言います。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネより偉大な者は現れませんでした。しかし、天の御国で一番小さい者でさえ、彼より偉大です。
これは、箴言によく用いられる物事の比較の仕方です。人の間で最も優れたヨハネと、御国の子で一番小さいものが比較されています。そして、御国の子のほうが偉大であることを示して、御国に入ることの尊さが示されています。御国に入ることは、報いを受けることを表しています。救いの立場だけであるなら、大小を言うことはできません。
ヨハネについては、「女から生まれた者の中で」と記されているように、人の間の評価ということが取り上げられているのです。ヨハネは、もっとも偉大であり、アブラハムやモーセはもとより、ノア、ヨブ、そして、あのダニエルよりも偉大なのです。ですから、彼には人間的な落ち度というようなものはないと言えます。
その一方で、御国に入ることは、神の評価であり、その栄光は、永久のものです。ヨハネに対する評価は、人の評価として取り上げられています。しかし、神の評価は、決して廃れることはないのです。
11:12 バプテスマのヨハネの日から今に至るまで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
天の御国が激しく責められているのは、ヨハネが御国の来るのを語ったからです。そして、メシヤが来ることを語ったからです。人々は、その言葉を信じて天の御国を求めたのです。
天の御国を奪い取るというのは、それを自分のものにしているということです。それは、天の御国で報いを受ける者になることを表しています。しかも、彼らはそれを強く、自ら求めて自分のものにしたのです。
11:13 すべての預言者たちと律法が預言したのは、ヨハネの時まででした。
この節の冒頭には、訳出されていませんが、理由を示す接続詞があります。前節のバプテスマのヨハネの日から今日まで天の御国が激しく攻められていることの理由について説明しているのです。「ヨハネの日から」と「ヨハネの時まで」が対比されて説明されています。
天の御国を自分のものにする条件は、まず、主イエス様を信じることです。ダビデの子孫として約束されているキリストとして信じることです。人の姿を取りましたが神の御子です。その方を信じることは、最低限の条件です。
次に、御言葉の内を生きることです。神の御心を行うことで報いを受けます。それは、信仰によることであり、内住のキリストによることです。
11:14 あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。
そして、ヨハネについて、自ら受け入れる意思があるならば、彼は、預言されている来たるべきエリヤであると言われました。その意味は、主がおいでになる前に遣わされる者という意味です。そのことに言及されたのは、御国の到来の証明のためです。主が来られる前にエリヤが遣わされることが預言されています。ですから、主としておいでになられた方がイエス様であるためには、エリヤが来る必要があるのです。それがヨハネであり、預言が実現したのです。イエス様は、間違いなく、来たるべき主すなわち神であということです。ですから、御国に関する預言は、このとき実現したのです。
11:15 耳のある者は聞きなさい。
このことについて、十分気をつけて聞き、受け入れるべきことであることを示すために、「耳のあるものは聞きなさい。。」と注意を促されたのです。聞いている人々が目の前に見ている方がおいでになるはずの主であることを信じるためです。そうしなければ、御国に入ることは決してできないのです。
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょうか。広場に座って、ほかの子どもたちにこう呼びかけている子どもたちのようです。
11:17 『笛を吹いてあげたのに君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってあげたのに胸をたたいて悲しまなかった。』
この時代の人達は、無関心でした。笛を吹いてあげたのに踊らなかったのです。「あげた」という言葉によって表されていますが、原語では、「あなた方のために」という言葉が入っています。自分のためであるという関心を一切持たず、反応しなかったのです。
イエス様は、天の御国に入るために彼らのために語りました。また、奇蹟の業によってその言葉の真実を証明されたのです。しかし、彼らは自分のこととして捉えなかったのです。
聖書の言葉が取り次がれるとき、それを自分のこととして捉え、受け入れることがなければ、なんの価値もないのです。これは、求道者だけの話ではないのです。御国で報いを受けるためには、事実通り神の言葉として受け入れ、その中に生きなければならないのです。聞くだけで終わることがあります。自分で御言葉を調べてみることをしなことがあります。その時には聞くが、忘れることがあります。さらには、聞いていないこともあります。眠っていれば、何もわかりません。
11:18 ヨハネが来て、食べもせず飲みもしないでいると、『この人は悪霊につかれている』と人々は言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」
また、福音を語る者に対していわれのない非難を浴びせ、その教えを真っ向から否定するのです。ヨハネが食べもしないし飲みもしないことは、肉にはよらないこれ以上ない優れた生き方です。もちろん、体を養うためのものは食べたり飲んだりしたのです。しかし、その優れた生き方について、彼らの生き方とは異なるとして、悪霊に憑かれていると非難するのです。
イエス様が食べたり、飲んだりすると大食いの大酒飲みと非難するのです。イエス様は、他の人と同じように食べました。また、ぶどう酒も飲みました。それは、食事の交わりが必要であったからです。人々の心を開くために、共に食事をされたのです。
自分の欲望の満たしのために、大食らいをし、大酒を飲むようなことは一切ありません。キリストは、肉において苦しみを受けたのです。肉の欲に従った生きたりはしませんでした。ある人は、キリストは、大食らいの大酒飲みだと思っているようですが、それは、間違いです。
ここで、彼らの非難は、不当なものであるということでここで取り上げられているのであって、彼らの非難は、イエス様の食事の目的を理解していないからです。
11:20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。
イエス様は、町々を責められました。町々については、彼らと言いかえられていますので、そこに住む人々のことです。その理由は、彼らが悔い改めなかったからです。イエス様の力ある業を見ながら悔い改めなかったからです。彼らは、目の前に驚くべきことを見ながら、イエス様を知ることがありませんでした。無関心であったのです。自分たちの罪の歩みを止め、神に立ち返ろうと考えませんでした。しかし、その結果は、滅びです。
悔い改めについては、ユダヤ人にとっては、救いの条件です。彼らは、行いで信仰を証明する必要があるのです。
11:21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
11:22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
11:23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。
11:24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」
悔い改めない町々の人々は、ツロやシドン、ソドムの町よりも悪いのです。彼らは、悔い改めの機会が与えられ、明らかなしるしを見たのです。それでも悔い改めなかったからです。かつて、悪い町として裁かれた町であっても、イエス様がされたようなしるしを見たならば、悔い改めたのです。ですから、この時代の人は、非常に心が鈍くなっていたのです。
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
父を天地の主と言い表したのは、この方の主権の偉大さを示すためです。その方を褒め称えました。その天地を支配される方は、これらのことを幼子に現してくださったからです。
これらのこととは、イエス様が主であるということです。来たるべきメシヤであり、神の御子であるということです。その方を信じる者に御国が与えられるということです。
幼子は、知恵ある者や賢い者に対比されています。その知恵や賢さは、人間的な知恵や賢さです。幼子には、そのような知恵や賢さはまだ備わっていません。しかし、彼らは、疑うことをせずイエス様の言葉を受け入れる人です。そのように、人間的な知恵や賢さで捉えようとする人ではなく、そのようなものがなくても、示されたことをそのまま受け入れる人に真理が明らかにされるのです。それが父の偉大さです。神の言葉をそのまま信じて受け入れる者に良いものを与えられるのです。
11:26 そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。
それが、父の御心に適ったことなのです。そのまま信じることです。
11:27 すべてのこと(全て)が、わたしの父からわたしに渡されています。父のほかに子を知っている者はなく、子と、子が父を現そうと心に定めた者のほかに、父を知っている者はだれもいません。
この時、父の他には子を知っている者はいませんでした。弟子たちもこの時点では、主を知ってはいなかったのです。この知ることの意味は、次の節以降に示されています。
また、イエス様と、イエス様が父を現そうと心に定めた者のほかには、父を知る者がいないです。
ヨハネ第一
2:12 子どもたち。私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
2:13 父たち。私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
2:14 幼子たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。父たち。私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。若者たち。私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。
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御父を知ることは、幼子にもできることです。しかし、主イエス様を知ることは、父にできることです。
御父は、御子を知っていました。それは、御父と御子は、一つであられたからです。それは、イエス様が信者との関係について示した次節以降の説明で、主と信者が一つになって歩むことで、主を知ることができる関係と同じです。主イエス様は、父と一つになって生きられたので、父を知っておられました。それとともに、逆の関係として、御父は、一つになって歩まれ、御心を行われる主イエス様をご覧になられて、満たされたのです。父は、その意味で主を知られたのです。
・「知る」→経験として知ること。直接的な関係で知ること。この時点では、まだ御霊は信者に内住しておらず、主がその人のうちに住まわれて業をなすという経験をした者は、誰もいません。すなわち、そのような経験を通して主を知ることができた者は、誰もいないということです。
11:28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
文脈としては、主を知ることが主題として背景にあります。ヨハネのことについての話から、主を受け入れないことが責められています。その上で、主を経験として知ることができるためには、主の元に来る必要があります。疲れた人、重荷を負っている人は、たましいに関して疲れた人であり重荷を負っている人のことです。たましいは、神の言葉に従う部分です。その点に関して疲れて重荷を負っている人のことです。神の御心を行う努力をしている人のことです。そのような人が主の元に来ることで労苦から解放されるのです。
11:29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。
主とくびきを負うことすなわち主と一つになることで、神の御心を行うことができる者となり、たましいに安らぎが来るのです。主と一つになることで、主から学ぶことができます。主を知り、主と同じ歩みができる者になるのです。これが知識と経験において主を知ることです。主と一つになる時、主は、私たちの罪深さや弱さを責めることはありません。柔和で謙っているからです。もちろん悪い点についても教えてくださいます。私たちは、主と一つになることができるのです。そして、主を知ることができるのです。
11:30 (なぜならば)わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
なぜならば、主の与えるくびきは、主のいつくしみ深い御思いから、良いものとして備えられたものであるからです。喜んで、良いものとして負うことができるのです。
なお、「負いやすく」は、重荷と対比した意訳です。
・「負いやすく」→良い。この形容詞は、与える側から見ると、いつくしみ深いと訳される語で、有用で親切なものです。受け取る側は、良いものとして受けることができます。いつくしみによって与えられた良いものとしてです。
そして、くびきを負って一つになった時、負う重荷は、軽いのです。なぜならば、神の御心を行うという歩みは、肉の力ではなく、一つになっておられる主が行われるからです。
ヨハネ
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
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主にとどまり、主がその人のうちにとどまられて歩むことを表しています。その人は、もはや自分のために生きないのです。その人は、主が父によって生きたように、主によって生きるのです。主が父の御心だけを行われて生きたように、主の御心を行って生きるのです。そのようにして、主を学ぶことになります。神の御心を知り、行うことがどういうことかを学びます。それによって主ご自身を知ることになるのです。
「たましいに」安らぎが来ます。たましいは、神の御心に従って歩む部分すなわち座です。神の御心を完全に行うことで、たましいは安らぐのです。
疲れた人は、神の御心を行うことができずに疲れた人のことです。なぜならば、御心を行うことで安らぐことができるからです。
重荷を負う人は、神の御心を行う点において、これを重荷と考える人のことです。実際、人の力で行うことは困難ですし、神によって評価されることはありません。しかし、主と一つになって生きることで、御心を行うことが容易いのです。
ですから、私たちが神の御心を行うことについて、悩まないでください。罪赦された喜びのうちに歩むことができるのです。いつまでも罪人であることに悩まなくていいのです。私たちは、その罪に支配されることなく、主イエス様といつでも一緒に歩めるからです。そうするならば、喜ばれる歩みができるのです。私たちのうちに内住されるキリストの業として御心を行うことができるからです。