マタイ10章
10:1 イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。
マタイは、イエス様が弟子たちを遣わされたことについて、まず記したことは、十二弟子を呼んで汚れた霊どもを制する権威を与えたことです。病気やあらゆる患いを癒やすためです。主たる目的は、「天の御国が近づいた」と宣べ伝えるためです。マタイは、権威ということについてしばしば記しています。それは、彼らの宣教が神からの権威によることを示すためです。
10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:3 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
10:4 熱心党のシモンと、イエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
10:5 イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
10:7 行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
十二弟子を任命されましたが、天の御国が近づいたことを宣べ伝えさせるためです。御国に入ることは、御国で報いを受けることを表しています。近づいたことを伝えるのは、人々がそれにも備えるためです。
イエス様は、弟子たちをイスラエルの家にだけ遣わされました。彼らについては、失われた羊と言われました。彼らは、神の羊でありながら、失われたのです。イスラエルにとっては、すでに聖書によって伝えられている御国に入る備えをするように語られたのです。御国の相続は、アブラハムが既に望んでいたことです。律法による契約は、全き者として歩むことをさらに具体的にかつ詳細に示したものです。
ローマ
2:19 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、
−−
10:8 病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。
彼らにこの権威が与えられたのは、彼らの言葉が神の権威によることを明らかにするためです。しかし、それを行う時、ただで与えなさいと言われました。彼らに与えられた権威は、特別なものですが、しかし、その権威が自分に属するかのように考えてはならないのです。また、自分の利益を目的として用いるようなことがあってはならないのです。
コリントの集会では、聖霊の賜物が自分の誇りのために用いられました。それを持っている彼らが特別な存在であるのではなく、それは、ただで受けたのです。それは、しるしとして与えられ、また教会の徳を高めるために与えられています。それらは、神の御心の実現のために用いられるべきであって、自分のために用いるようなことがあっては、ならないのです。
10:9 胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。
10:10 袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。
お金を一切持って行ってはならないこと、また、二枚目の下着、履物、杖を持たずに旅に出るように命じられました。彼らが旅の中で養われるように神様がされるからです。その働きを認める人がその人を支えます。それは、神の働きです。それを神の働きと認め、その言葉を受け入れた人は、神の働き人を支えることは当然のことであるのです。
10:11 どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
ですから、町や村に入ったならば、自分を養ってくれるにふさわしい人を調べるのです。そして、そこを立ち去るときまでそこにとどまるのです。
ふさわしい人は、その人を神の僕として認め受け入れる人です。神の言葉を受け入れない人が、受け入れることはありません。神の言葉を受け入れる人は、神の僕を喜んで支えます。
10:12 その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。
その家に入る時に、平安を祈ります。十二節には、「平安」を意味する語はありませんが、十三節に出てきます。この節には、挨拶をしなさいと記されています。それで、ここでは、補足して、平安の祈りとして訳されています。
この「平安」は、原意としては、「完全さ」です。福音伝道の目的は、御国で報いを受けることです。その目的のためには、平安は、何の意味も持ちません。最善の祈りは、その家の人が神の前に完全な者になることです。
10:13 その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
その家がそれにふさわしければ、その完全さがその家に来るようにするのです。すなわち、その家の者が神の言葉を受け入れ、神に従う態度を示すならば、神の完全さは、その家に来ます。その家の者は、神と一つになって歩む者となり、完全な者に変えられます。
ふさわしくない場合は、その完全さが、祈った人のところに帰ってくるようにするのです。その人は、その家の者から歓迎されない状態が発生するのですが、その時、その人は、それでも神に対して忠実に従って歩み、神の完全さがその人に来るようにするのです。あくまでも正しい態度振る舞いで行動することになります。人から拒まれるような状況では、人は動揺しやすいのですが、そのような経験を通して、全き者とされていきます。
・「平安」→完全さ。平安では意味が整合しない。
10:14 だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。
足のちりを払い落とすのは、ルカが記したように、弟子たちの言葉を拒んだ人に対する証言のためです。彼らの証言は、神の前にだけ明らかです。靴のちりが落とされても、誰も気に留めないし、ちりが払い落とされたことは、形としては何も残りません。しかし、神様の前に覚えられています。弟子たちの言葉を聞いたけれども、彼らを受け入れず、その言葉に耳を傾けなかったことです。「誰かが」と記されているように、もし一人でもそのような人がいたならば、ちりを払い落として、受け入れない者がいたことを証言するのです。家か、町を出るときにです。一人でもそのような人がいたならば、証言するのです。
10:15 まことに、あなたがたに言います。さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです。
神様は、そのような人に裁きを下されます。しかし、ここでは、かつて裁きが行われた町が取り上げられています。個人ではなく、町に対する裁きです。これは、一つの例としてこのように語られているのです。対象は、個人に対する裁きですが、裁きの程度は、町に対する裁きとして比較されています。条件を揃えるならば、仮定が含まれていて、「その町」の全員が御言葉を受け入れないということが想定されています。これは、「その町」全体が裁きを必ず受けるということを言っているではありません。
そのうえで、その裁きを比較すると、ソドムとゴモラに対する裁きのほうが耐えやすいということです。ソドムとゴモラは、好色によって裁かれた町です。ですから町が滅ぼされるほどのさばきを受けるのは当然と感じられます。十人の正しい者もいなかったのです。しかし、弟子たちがもたらした言葉を拒むことは、もっと大きな責任が伴います。それは、神様が与える救いの道を明確に示されながら、それを拒むからです。
神様は、彼らが罪人であることをご存知です。そのうえで、御国に入り永遠の祝福を受ける道について示し、救おうとされているのてす。救いの手を差し伸べておられるのに、その手を払い、拒むならば、どうして救われることができるでしょうか。
「その町」は、悔い改めの機会が与えられ、罪を赦して受け入れられる道まで示されているのです。しかも、それが神の言葉であることを示すために印が伴いました。どちらに対する裁きが重いでしょうか。
10:16 いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。
弟子たちは、狼の中に遣わされる羊のようでした。そのような状況の中でどのよう行動したらよいかを示されました。
一つは、蛇のように賢くあることです。蛇は、もっとも狡猾な生き物です。
創世記
3:1 さて蛇は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
−−
蛇は、女を巧みに誘惑し、自分の目的を成し遂げました。そのように弟子たちも、狼の中で賢く振る舞い、自分に与えられた使命を果たすのです。
それとともに、鳩のようであるのです。神の言葉に対して素直なのです。正しく従順に従うのです。蛇は、賢いですが、神に対しては反逆する者でした。賢く振る舞う必要がありますが、神の言葉に対しては、完全に服従するのです。
10:17 人々には用心しなさい。彼らはあなたがたを地方法院に引き渡し、会堂でむち打ちます。
人々に用心するのです。彼らは弟子たちを迫害するのです。議会に引き渡され、会堂で鞭打たれます。人々は、そのようなことをするので、用心し、賢く振る舞うのです。
10:18 また、あなたがたは、わたしのために総督たちや王たちの前に連れて行かれ、彼らと異邦人に証しをすることになります。
文の構成としては、「また、総督や王たちに対する証しすなわち証言のために、彼らの前に連れて行かれます。」となります。ここでは、総督や王たちの前に引かれていく理由が明確に示されています。
10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてもよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。
彼らに対する証人として証しをするのですが、どのように話そうかと心配する必要はないと言われました。話すことは、そのときに与えられるからです。その時、どのような言葉で話せばよいかは、人にはわからないのです。それは、彼らが何を考え、心に思っているかわからないからです。単に知識を伝えるだけであるなら、福音の言葉を語ればよいのですが、限られた時間で、彼らが必要としている言葉を語るとなると、人の能力を超えたことになります。ある程度見当をつけて語ることはできても、的外れとなるかもしれません。神様は、その時必要な言葉を知っておられるのです。ですから、その時に示されるのです。
10:20 話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。
そして、その言葉を語るのは、父の御霊であるからです。人が考えたことを語るのではないのです。当時の弟子たちには、聖霊の奇蹟的な力が現されていたことも事実ですから、何をどう話すかは、その時示されたのです。
今日、聖霊の奇跡としての賜物はありません。聖書が完成し、それをしるしとして示す必要がないからです。しかし、聖霊は内住しておられ、人のうちにあって働かれます。
私たちは、何を語るか、どう話そうかと用意しなくてよいのでしょうか。語る者に語る内容についての知識がないならば、語ることはできません。聖霊は、今日、奇蹟的な方法を用いることはありません。ですから、私たちが伝える御言葉についての知識がなければ、語ることができません。またさらに言うならば、その知識は、正しいものでなければ、神様の正しい御心を伝えることはできません。そのために聖書の研究が必要です。伝道者は、次のように言っています。
伝道者
12:9 伝道者は知恵ある者であった。そのうえ、知識を民に教えた。彼は思索し、探究し、多くの箴言をまとめた。
12:10 伝道者は適切なことばを探し求め、真理のことばをまっすぐに書き記した。
12:11 知恵のある者たちのことばは突き棒のようなもの、それらが編纂された書はよく打ち付けられた釘のようなもの。これらは一人の牧者によって与えられた。
−−
知識を民に教えるためには、思索し、探求し、適切な言葉を探し求め、まとめました。それは、神の言葉です。人間の思想や思いつき、発案による言葉ではありません。そのようにして編集された言葉は、つき棒のように羊や牛をたやすく動かすことができます。すなわち、人々を言葉によって変え、導くことができるのです。また、よく打ち付けられた釘は、簡単には抜けず、建物が固く建つことができるように、ほころびができることはありません。すなわち、その言葉は、嘘偽り、矛盾がないのです。それによって立つ人を固く立たせることができます。
このように、語ることについては、予め研究することで、適切な言葉を用意しておくのです。そのうえで、聖霊がそれを用いることができるのです。全ての業は、聖霊によります。聖霊は、聖霊に従う人を用いられるのです。普段から御霊によって歩む人を用いられるのです。そして、賜物は、そのような人に与えられます。肉にはよらないのです。
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に逆らって立ち、死に至らせます。
10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。
弟子たちは、イエス様の名のためにすべての人に憎まれます。それは、兄弟からも、親からも、子供からも憎まれます。通常は、憎むようなことが考えられない、もっとも身近な肉親からも憎まれるのです。ですから、他人から憎まれるのは当然なのです。
しかし、最後まで耐え忍ぶことで救われます。この「救い」は、御国で報いを受けることを表しています。なぜならば、弟子たちは、すでにイエス様を信じているのです。「救い」という語は、ペテロの手紙では、御国で報いを受けることだけを指して使われています。その救いを受けるためには、忍耐が必要なのです。
10:23 一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。
それで、迫害を受けた時には、別の町へ逃げるように命じられました。あくまでもそこに踏みとどまり、いのちを捨てることはないのです。彼らには、御言葉を宣べ伝える役割が委ねられたのです。まだ、福音を伝えられていない他の町でその働きが必要とされているのです。そのような町は、イエス様がおいでになるまで、巡り尽くせないのです。ですから、逃れ、福音を伝えるのです。
10:24 弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。
10:25 弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。
そして、弟子たちは、師であり主であるイエス様以上にひどい呼び方をされることを示されました。
そこで教えられたことは、弟子は、師以上の者ではないこと、また、しもべは、主人以上の者でないということです。彼らは、イエス様をベルゼベルと呼んだのです。
それとともに、イエス様は、弟子が師のようになり、しもべが主人のようになるならば、それで十分だと言われました。それが到達点なのです。主は、完全な模範者です。弟子として、しもべとしての私たちは、主と同じ者になることが求められています。
10:26 ですから彼らを恐れてはいけません。おおわれているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはないからです。
10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたが耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい。
それで、ひどい扱いを受けることは、分かっていることなので、彼らの迫害を恐れてはならないのです。たとい迫害を恐れて、弟子であることや教えを隠していても、現されないものはないのです。隠されているもので知られずに済むものはないのです。必ず明らかにされるので、最初から、それを明らかにするように命じられています。主が暗闇で言うことを明るみで言うのです。隠しておかないのです。耳元で聞いて、その人だけが知ることであっても、屋上で語るかのように言い広めるのです。屋上で語るならば、多くの人に明らかになるのです。
弟子たちに示されることは、主が人々に伝えようとしていることです。それを、人を恐れて隠しておくようなことはしてはならないのです。
10:28 からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。
そして、人を恐れてはいけないことを示されました。ここでは、体とたましいが対比されています。人は、体を殺します。しかし、神様は、体も、たましいもゲヘナで滅ぼすことができる方です。それは、永遠の死です。そのような権威を持つ方を恐れるべきなのです。信者は、その滅びから救われているのです。しかし、迫害する者は、ゲヘナの滅びに定められているかもしれません。信者の永遠の祝福を覚えるとき、恐れる必要はないのです。
ここでは、人が「体を殺す」という句には、可能を意味する助詞がついていません。人は人を殺しますが、それは、殺すことができるのではないのです。人の死は、神の主権によります。例えば、人に害を加えて、その結果死に至ったとしても、その死は、神様の主権によってもたらされたのです。
10:29 二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。
10:30 あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。
10:31 ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。
そして、神の前には、一人ひとりが価値ある存在として覚えられているのです。二羽の雀は、ローマの通貨で一アサリオンで、デナリの十六分の一の価値があります。一デナリは、一日の労賃です。ちなみに、コドランとは、デナリの六十四分の一、レプタは、百二十八分の一です。一アサリオンは、日本円で六百円程度です。
ルカ
12:6 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。
−−
ルカの記事と比較して、ルカの記事では、一羽は、おまけだと学ばれますが、商売としては、おまけということで売られていたとは考えられません。数がまとまれば値引きするという値段の付け方です。ですから、おまけとは違います。おまけであると主張する人は、おまけには、価値がないとしいますが、価値がないのではなく、五分の二アサリオンの価値があるのです。
ここでの趣旨は、雀のように価値が小さいものでも、神の前に覚えられているということです。雀が地に落ちることがないのは、神様が養っておられるからです。人は、価値を値段で表現されるとわかりやすいので、値段の話をされたのです。
人に関しては、髪の毛さえも全て数えられています。イエス様が言われたのですから本当です。そのように、信じた者は神の前に価値があるのです。神様が尊い者として覚えておられるのであって、御自分にとって価値のないもののように見捨てることはないのです。
10:32 ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。
10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。
そして、与えられる報いについて話されました。人の前で主を認めるならば、主は、天におられる父の前で認めます。天の父ということで、その評価が人前ではなく、天での神の前での評価であることを強調しています。
しかし、知らないという者は、天の父の前で知らないと言われます。これは、滅びて地獄に行くことを表していません。彼は、信者と認められ、神の前に立つのです。この神の前に認めることは、その人の行いを評価することです。次の聖句が参考になります。
黙示録
3:1 また、サルディスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊と七つの星を持つ方が、こう言われる──。わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
3:2 目を覚まし、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いがわたしの神の御前に完了したとは見ていない。
3:3 だから、どのように受け、聞いたのか思い起こし、それを守り、悔い改めなさい。目を覚まさないなら、わたしは盗人のように来る。わたしがいつあなたのところに来るか、あなたには決して分からない。
3:4 しかし、サルディスには、わずかだが、その衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らがそれにふさわしい者たちだからである。
3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。またわたしは、その者の名をいのちの書から決して消しはしない。わたしはその名を、わたしの父の御前と御使いたちの前で言い表す。
3:6 耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。』
−−
白い衣は、彼らの行いです。行いそのものではなく、行いに対する報いです。彼らは、その行いにふさわしい報いを受けて、主とともに歩むのです。衣を汚さないことは、外に現す振る舞いが汚れていないことを表していて、白い衣は、報いですが、それは、彼の地上の歩みにふさわしいと記されているので、彼の行いに対するふさわしい報いを表しています。
勝利を得る者に与えられるのは、報いです。ここでは、報いについて記されていて、その一つが白い衣です。そして、「その者の名」は、その人の行いです。救われた者は、救いの立場を持つ者としてその名がいのちの書に記されていて、滅びる者と区別されます。しかし、いのちの書には、その人の行いも記されています。それについてここでは、「名」と記されています。その名を消さないというのは、その行いは、記録され、決して消されることはないことを表しています。
そして、主がその名を父の御前と御使いの前に言い表すことは、彼の称賛に値する行いを披露することです。単にその人の名を言い表すだけではありません。
天の父の御前で知らないと言われるのは、その人の行いについて、全く称賛に値しないので、知らないと言われるのです。
ペテロは、イエス様を知らないと言いましたが、悔い改めたのです。彼は、滅びたのではありませんでした。彼は、滅びませんが、知らないと言ったことに対して、報いを失ったのです。
10:34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
10:35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
10:36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
イエス様は、肉親の間でも、信仰に関して敵対関係が生まれることを示されました。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
10:39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
そして、イエス様に従うには、自分を捨てなければならないことを示されました。そうでなければふさわしくないのです。
イエス様に従う者は、十字架を負うのです。十字架を負うというのは、十字架に自分をつけて殺すことです。すなわち、肉を殺すことを表しています。自分の労苦を負うことではありません。イエス様に従うことを妨げるのは、肉です。それが現れるならば、御心に適うように歩むことはできないのです。
「自分の命を得る者」とは、イエス様に従うことに反して、自分を追求し自分の肉の思いに従うことです。あるいは、自分の地上での幸いを考えて、主に従うことをしないことです。主のためにそれらを失う即ち捨てるならば、いのちを得ます。このいのちは、永遠の報いのことです。
10:40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。
10:41 預言者を預言者だからということで受け入れる人は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だからということで受け入れる人は、義人の受ける報いを受けます。
10:42 まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」
そして、弟子たちを受け入れる者は、主を受け入れる者であり、父を受け入れる者なのです。受け入れた人は、幸いです。預言者を預言者だからということで受け入れるならば、預言者の受ける報いを受けます。彼は、預言者は神から遣わされたものであることを認め、その言葉が神の言葉であることを認めて受け入れるのです。その言葉は、その人のものになります。その人は、その言葉を受け入れた者として、預言者の受ける報いを受けるのです。
また、義人を義人であるとして受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。義人は、神の言葉に従って正しく生きる者のことです。義人を義人として受け入れることは、その人の行いが神の言葉に従っていることを認め、それが正しい歩みをしていることを認めて受け入れることです。その人も、神の言葉の正しさを認め、義人のように歩むようになるのです。その人は、義人の受ける報いを受けます。
このように、神から遣わされた者を受け入れることの幸いが示されています。その人自身が神の言葉を認め、それを受け入れるからです。
そして、遣わされた弟子たちは、「この小さい者たち」です。預言者らしくなく、義人らしくない弟子たちです。しかし、神の言葉を携えているのです。その人を認め、その人を受け入れたしるしとして、水一杯をその人に飲ませるならば、その人は、神の言葉を認め受け入れる人なのです。その人は、必ず報いを受けます。
単に人間的に親切にしても、報いを受けることはありません。地獄に落ちたならばなんの価値があるでしょうか。神の言葉を受け入れ信じることが必要です。