ペテロ第二1章
1:1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって、私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
彼は、自分が使徒であることを明確に伝えました。それは、キリストの復活の証人であり、キリストから啓示を受けた者としての役割と手紙での教えの根拠を示すためです。それと共に、自分は、キリストのしもべすなわち奴隷であることを証しし、自分もキリストを主として従う者であることを明確に示しました。
その宛先の信者に対しては、私たちの神と救い主イエス・キリストの義によって、私たちが得ているのと同じ尊い信仰を受けている人たちであると記しました。「救い主」と示されていますが、この救いは、次節以降記されている栄光と栄誉に与る約束に与ることです。未信者が信仰を持って永遠の滅びから救われることではありません。それは、神とイエス・キリストの義によって与えられた信仰です。そのことは、次節に記されているように、神と主イエスを知ることで、その約束の獲得がいよいよ豊かなものとされることによっても分かります。神の義を知り、イエス・キリストの義を知ることで、それが豊かにされるのです。この信仰は、神が義であり、キリストが義であることを知り、信じる信仰なのです。ですから、義を行う者が約束のものを豊かに獲得するという信仰なのです。
なお、「救い主」という語を、信じた未信者を滅びから救う方という面だけを強調するあまり、信者が御国において報いを受ける救いのために働かれるイエス・キリストが無視されてはなりません。ペテロの手紙では、救いは、すべてこの観点から記されています。
・「しもべ」→奴隷。他人に属する者、所有権を持たない奴隷。
・「同じ尊い」→同じ(等しい)価値を持つ。
・「救い主」→救うもの。救い出す者。
・「私たちの神であり救い主であるイエス・キリスト」→私たちの神と、救い主であるイエス・キリスト。
1:2 神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。
神と、私たちの主イエスを知ることによって、尊く大いなる約束をいただく恵みが豊かにされます。そして、その恵みを最大限にいただけるのは、私たちが御心を行うことで完全な者とされる時です。そのために祈りました。
なお、平安が豊かにされたとしても、御国での報いの相続には、関係ありません。
・「恵み」→神が好意によって備えた祝福で、信仰により獲得できます。
・「平安」→御心を行うことでもたらされる完全さ。
1:3 私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を、私たちが知ったことにより、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらすすべてのものを、私たちに与えました。
→「主イエスの、私たちに向けられた神としての御力の全ては、私たちをご自身の栄光と栄誉によって召してくださった神を私たちが知ったことにより、いのちと敬虔を与えました。」
栄光と栄誉をもって召した神を知ったことにより、いのちと敬虔が与えられました。「栄光と栄誉(→優れた特性)をもって召した」ことが取り上げられているのは、神が持つその栄光と優れた特性に与らせる約束をもって召されたことを表しています。それを望むので、神の御心を敬い、それを行うことでもたらさせるいのちを与えるのです。神が栄光をもって召したことは、私たちが御心を行う歩みに導く強い動機づけとなっています。そのような栄光に与ることを望むからです。また、優れた特性を持つ方がそのような特性を与えて、御心に適う者に変えてくださることを知るからで、強い励ましになります。
そして、それを実現してくださる方は、イエス・キリストです。私たちに向けられているイエス様の神として御力は、いのちを与え、敬虔を与えました。いのちは、御心を行うことで、キリストと共に歩むことで与えられますし、永遠の報いが与えられることもいのちです。敬虔は、神が神聖とするものへの敬意を現すことで、神の御心を尊び従うことで、敬意を表すのです。それは、いのちへ至ります。
・「敬虔」→神のものに対する内的な反応。神が神聖(崇敬に値する)とするものへの敬意を表す。
・「栄誉」→優れた特性。
1:4 その栄光と栄誉を通して、尊く大いなる約束が私たちに与えられています。それは、その約束によってあなたがたが、欲望がもたらすこの世の腐敗を免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
その栄光と優れた特性の獲得を伴う約束が与えられていて、今に至っています。それは、欲望がもたらすこの世の滅びを免れるためです。また、神との交わりに与るためです。肉に従い、欲望のままに生きるならば、尊く大いなる約束を獲得できません。永遠の滅びに入ることはありませんが、報いのない滅びなのです。いのちがないので滅びなのです。
神の性質に与る者とは、神の性質を同じくする者として交わりを共有する者という意味で、単に性質が似ることではありません。
・「与えられています」→完了形、直接法、中態、あるいは受動態。実現する、起こる。ある点(領域、状態)から別の点(状態)に移行する。ここでは、与えられている。主動詞の延長・中動態形で、「~させる」、すなわち(反射的に)「~になる(ようになる)」。完了形は、すでに与えられていて今に至っていることを表しています。
・神のご性質に「与る者」→相互に所属し、交わりを共有する参加者。神の性質を同じくする者として交わりを共有する者。
・「腐敗」→内部の腐敗による破壊(劣化、腐敗)。
1:5 だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、信仰には徳を、徳には知識を、
1:6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
1:7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
だからこそ、そのような栄光と栄誉に最大限に与るために、列挙されていることを自分に備えるように命じています。それをするに当たってあらゆる熱意を傾けていて、備えるのです。
信仰は、栄光に与る約束を望む信仰です。その信仰がまず必要です。それは、私たちが熱心に、また、忠実に歩む強い動機づけになります。
信仰には、神の持つ優れた性質すなわち特性を加えるのです。神の栄光に与ることを望むのであれば、神の特性を身につけることが必要です。また、それを身につけるならば、備えられている祝福を最大限に獲得することになります。
それに知識を加えます。これは、経験して得た知識のことです。信じてその中に生きて自分のものとした知識のことです。神の特性は、その人が体現して初めて価値があります。それが評価されます。
そして、自制を加えます。この自制は、人間的な努力によるのではなく、聖霊によるうちからの真の支配によります。
そして、忍耐を加えます。神の試練の中でも耐え忍ぶのです。
そして、敬虔を加えます。すでに三節で触れたように、敬虔は、神が神聖とするものへの敬意を現すことで、神の御心を尊び従うことで、敬意を表すのです。それは、いのちへ至ります。
そして、兄弟愛を加えます。主にある兄弟としての信者に対する愛です。
そして、愛を加えます。これは、神の愛です。
これは、命令(アオリスト命令形)として記されていて、直ちに行うべきこととして記されています。
・「徳」→優れた特性。三節に記されている「栄誉→優れた特性」と同じ語。神の持つ優れた特性を持つのです。人間的な徳ではなく、神と同じ性質を持つことが求められています。
・「知識」→理論と応用を結びつける、直接の(個人的な)経験から得た機能的な(「実用的な」)知識。御言葉の教えに適うことを体現すること。
・「自制」→内からの真の支配。自分自身の力によるのではありません。聖霊の実として実現します。
・「敬虔」→神のものに対する内的な反応。神が神聖(崇敬に値する)とするものへの敬意を表す。
・「兄弟愛」→信者としての兄弟に対する愛情で、価値観に基づく(決断に基づく)愛に焦点を当てている。
・「愛」→神の愛。道徳的嗜好を中心とする愛。神が好む愛。
1:8 (なぜならば)これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、私たちの主イエス・キリストを知る点で、あなたがたが役に立たない者とか実を結ばない者になることはありません。
なぜならば、これらがあなた方に備わっていて、豊かにされていることは、主を知る点で、何も働かないすなわち知ろうとしない者や、実を結ばない者になることはありません。逆にいうならば、主を知るとは、このようなものを身につけることであるのです。
1:9 (なぜならば)これらを備えていない人は盲目です。自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまって、近視眼的になっているのです。
なぜならば、これらが備えられていない人は、盲目で、近視眼です。自分の以前の罪が清められたことを忘れています。
盲目であることは、神が示した光を受け取ることができないのです。御国での相続について何も考えていないのです。近視眼は、遠くが見えないのです。御国の報いが見えないのです。そして、以前の罪が清められたことを忘れ、もとの欲望のままに生きる者になっているのです。
1:10 ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。
これらを備えて生きることは、召しと選びを確かなものとすることです。召しは、栄光と神の優れた特性に与ることです。そのために選ばれたのです。それを最大限に獲得するために生きることは、自分がその栄光と神の優れた特性を得る召しに召されていることを確かなこととすることです。この世の欲によって生きるようなことをしているとすれば、その栄光と神の優れた特性に与ることを心に留めていないのであり、召しの目的を見失っているのです。尊い栄光と神の優れた特性を受ける選びに与っているのに、それをみすみす台無しにしているのです。
・「栄誉」→優れた特性。
1:11 (なぜならば)このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。
永遠の御国に入ることは、恵みとして与えられています。信仰によって獲得するのです。これは、この世の欲のもたらすものを捨てて、栄光と神の優れた特性に与ることを求めて、神の目に適うことを求める者が入ることこととして示されています。
なお、「入る」ことは、単純な行為で、入ること自体が恵みとして豊かに与えられることを意味していないことは明らかです。永遠の御国に入ることを永遠の滅びから救われることに当てはめることはできません。
・「永遠の御国に入る」→御国で永遠の資産としての報いを相続すること。永遠の滅びから救われることだけを意味していない。
・「与えられる」→未来形、直接法、受動態。必ず与えられる。
1:12 ですから、あなたがたがこれらのことをすでに知り、与えられた真理に堅く立っているとはいえ、私はあなたがたに、それをいつも思い起こさせるつもりです。
ペテロは、自分の決意を述べました。彼らは、すでに知っていても、与えられた真理に堅く立っていても、それをいつもからなず思い起こさせようとしていると。相手がどのような信者であれ、御国に入ることすなわち御国での永遠の報いを受ける恵みを豊かに与えられるように、いかに歩むべきかを思い起こさせることは、重要なことであるのです。
・「つもりです」→未来形、直接法、能動態。やろうとしている、まさに行動の時点で; 準備ができている。必ず(思い起こさせようと)しています。
1:13 それを思い起こさせて、あなたがたを奮い立たせることを、私は地上の幕屋にいるかぎり、なすべきだと思っています。
これらの教えを思い起こし、御国に入る恵みが豊かに与えられることを望むならば、奮い立つことができます。信者を熱心にし、堅く立って歩むように変えます。ペテロは、それが神の御心に適った正しいことと考えていました。
・「なすべきこと」→正当な、正しい。「神によって承認された」
1:14 私たちの主イエス・キリストが示してくださったように、私はこの幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています。
1:15 ですから、ぜひとも、私が去った後いつでも、あなたがたがこれらのことを思い起こせるようにしておきたいのです。
ペテロは、間も無く幕屋を脱ぎ捨てることを知っていました。それですから、彼が去った後いつでも、彼らがこれらのことを思い起こせるようにしておくために、必ず熱心にこのことをします。
ペテロが死を前に熱心にしようとしていたことは、御国の相続を望んで歩むことを思い起こさせることであったのです。
・「しておきたい」→信仰を通して神が割り当てられたすべてのことを成し遂げるために熱心に行動すること。未来形、直説法、能動態。必ずする。
1:16 (それで)私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。
ペテロは、キリストの力と来臨について知らせました。それは、作り話によったのではないのです。彼は、目撃者として伝えたのです。
1:17 (なぜならば)この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」
1:18 私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。
なぜならば、彼は、かつて山の上で父なる神からの声を聞いたのです。キリストは、父の息子として紹介され、父が喜ぶ方です。彼は、聖なる山にいた時、主とともに、天からもたらされたこの声を聞いたのです。
1:19 また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
ただし、彼は、さらに確かなものとして預言の言葉を取り上げました。それは、暗いところを照らす灯火です。今は、夜明け前です。明けの明星が上る時は、キリストの来臨の時です。その時を待つ間、暗いところを照らす光として頼るのです。
1:20 ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。
ただし、その人自身の解釈として聖書の預言がもたらされることはないことをまず心得ておきなさい。
聖書の預言を修飾している「その人自身の解釈」は、預言者の解釈のことです。聖書の預言は、すでに記されているものです。他の人あるいは後の時代の人の解釈のことを意味していないことは明らかです。記されている聖書の預言は、その預言をする人自身の解釈からもたらされたものではないことを言っています。訳出されていませんが、預言が(もたらされる)という動詞が記されていて、預言がもたらされた過程について記しているのであり、その後の解釈について記しているのではない。
・「勝手に」→形容詞。属格。その人独自の。その人自身の。その人特有の。その人自身の。
・「解釈」→属格。(その人自身の)解釈の(聖書の預言)。将来の聖書預言の真の意味を見分けるために「解釈の結び目を解く」ことを指す。
・「G1096」→なる。状態、場所の変化を意味する。もたらされる。
1:21 預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。
人の意思すなわち預言者自身の解釈からもたらされたのではなく、聖霊によってもたらされたのです。聖霊に動かされた人たちが、神から受けて語ったからです。