ヘブル13章

13:1 兄弟愛をいつも持っていなさい。

 今までは、忍耐することを勧めてきました。希望を持つことで忍耐できます。御国を待ち望み、その報いを待ち望むことで忍耐できるのです。

 同じように、苦難の中で、希望によって歩んでいる信仰者に対してどのように接するべきかを示しました。兄弟愛をいつも持っていることです。報いをいただくためには、御心を行うことが必要です。それが契約です。その御心とは、兄弟を愛することです。律法が神を愛し、人を愛することに要約されるように、愛は、律法の全てを包含します。今日、私たちは、主イエス様の直接的な命令を受けています。「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。」これが、最も大切な命令として語られたことです。イエス様の愛をもって互いに愛し合うことに全ての戒めが含まれます。

13:2 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、知らずに御使いたちをもてなしました。

 具体例として、旅人をもてなすように勧めました。旅人は、見ず知らずの人でももてなすのです。そのことは、ある人が御使いであると知らずにもてなした例から分かります。面識ある親しい者だけを対象にしていません。ただし、これは、兄弟愛を示す勧めという文脈で記されていることであり、旅にある兄弟を、面識がなくても、もてなす愛をいつも持っているように勧めたのです。

13:3 牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。

 そして、兄弟愛を示す対象は、牢に繋がれている人々を覚えていることで現されます。自分とは無関係としてはならないのです。その覚える程度は、自分も牢にいるように覚えるのです。想像力を働かせて、それがどれほどの苦難であるかを覚えるのです。

 また、虐待されている人々についても、自分も肉体を持っているのですから、その苦しみを理解できるはずです。そのように覚えるのです。

・「思いやる」→忘れない。積極的に思い出す(偶然ではない)。

13:4 結婚がすべての人の間で尊ばれ、寝床が汚されることのないようにしなさい。神は、淫行を行う者と姦淫を行う者をさばかれるからです。

 結婚を尊ぶとは、姦淫や不品行で汚さないことです。夫婦の正しい関係を維持することです。それは、神が引き合わせた者であり、それ以外の関係を持つことは、神に対する罪であることを明確に認識し、これを尊ぶのです。

13:5 金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」と言われたからです。

 金銭を愛する生活をしてはいけません。それは、あらゆる悪の根です。今持っているもので満足するのです。それは、主が守られるからです。主は、見放さず、見捨てないと自ら語られたからです。

13:6 ですから、私たちは確信をもって言います。「主は私の助け手。私は恐れない。 人が私に何ができるだろうか。」

 そのことは、金銭的な問題だけでなく、全てのことに適用できます。それで、「主が自分の助け手であり、恐れない。人は何もできない。」と言うことができます。

・「助け手」→適切な援助を適時提供する、つまり、緊急かつ現実的な必要に応える援助者。

13:7 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。

 神の言葉を話した指導者たちを記憶しておくのです。彼らの信仰がもたらした外面的な行動の変化の結果を見て、その信仰に倣うのです。

・「覚えていなさい」→記憶によって思い出すこと(以前に何かを忘れていたことの暗示でなく)。

・「生き方」→上向き。 (比喩的に)内なる信仰(前提など)の「好転」による外面的な行動の変化。

・「生まれたもの」→結果。(成功した)出口。

13:8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

 指導者たは、目に見える模範者であり、信仰による生き方を学ぶことがでます。しかし、イエス・キリストは、さらに優れた永遠の模範者であり、ぶれることはないのです。その意味で変わることがないのです。 

13:9 様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。(それで)食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。

 また、信仰に堅く立つためには、信ずべき確かな言葉を持っていなければなりません。様々な異なった教えがあるのです。神の言葉と異なる教えです。それに惑わされてはならないのです。

 そうですから、食物によってではなく、恵みによって強くなることが良いことです。信仰に堅く立つことを妨げるものとして、食物があります。この食物は、食物そのものではなく、自分たちの生活が支えられることです。ヘブル人は、迫害を受け、財産を奪われ、ユダヤ社会から閉め出されるのです。彼らの生活が脅かされていました。生活の安定を求めて生きていた人たちは、益を得ませんでした。迫害を忍んで、信仰に立って歩むべきなのです。

 恵みは、目に適うことを意味しますが。神が備えた祝福を信仰によって受け取ることです。これ以外の方法で目に適うことはありません。

・「食物の規定」→食物。単に食物のことであり、規定の意味はない。

13:10 私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。

13:11 動物の血は、罪のきよめのささげ物として、大祭司によって聖所の中に持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるのです。

→「私たちにはそこから食べる祭壇があります。幕屋で仕える者たちには、権利がありません。」

 私たちは、祭壇から食べることが出来ます。祭壇に捧げられた物は、イエス・キリストを表しています。これは、食べると表現し、キリストに与ることを表しています。

 この捧げ物は、民全体が罪を犯した時に捧げられる罪のための捧げ物を指しています。幕屋で仕えている者たちは、祭司たちですが、彼らは、その捧げ物を食べることが出来ません。権利がないのです。体が宿営の外で焼かれるからです。

 それと同じように、当時の神殿で仕えているユダヤ人は、この祭壇から食べる権利がありません。すなわち、神に捧げられたキリストに与ることが出来ないのです。神殿で仕える人たちは、キリストの比喩としてのいけにえを捧げます。本体であるキリストが来られた以上それにはもはや価値はありません。また、いけにえを捧げ続けることで、キリストから離れているのです。

13:12 それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

 動物の体が宿営の外で焼かれたように、キリストも門の外で苦しみを受けられました。

 罪のための動物の体が宿営の外で焼かれましたが、二つのことが重ね合わされています。一つは、キリストが人々から捨てられ門の外で苦しみを受けられたことです。そのことは、次節で辱めを身に負うことと関連づけられています。

 もう一つは、動物の体が灰捨て場で焼かれることは、肉を捨てることの比喩になっています。そのように、信者も肉を捨てるべきことが比喩として表されています。

 その血は、民を聖なる者とします。それは、すでに九章で記されているように、その血がキリストの愛を示すものであり、その愛によって働く信仰によって良心が聖められるからです。

 また、血は、純金の祭壇の角に塗られましたが、残りは、全焼のいけにえの祭壇の土台に注がれました。それは、肉の命である血を捨てることの尊さを表しています。キリストは、血も肉を捨てること表し、キリストは、完全な模範を示されたのです。

13:13 ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

 それで、私たちは、イエス様が負われた辱めを同じように負い、イエス様の方へ行くことを勧めています。宿営の外とは、ユダヤ人社会のことです。彼らは、そこから除外されたのです。

13:14 私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。

 私たちは、都を地上に持っているわけではないのです。ですから、この世のものを後にしても惜しくないのです。いつまでも続く都は、来るべき都であり、永遠のものです。

13:15 それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。

 それで、そのような都を備えてくださった神に、賛美のいけにえを捧げることができます。この地上でユダヤ人が形式的に捧げている捧げ物がなくても良いのです。イエス様をとおして御名を称える唇の果実を絶えず捧げることができるのです。迫害の中でも、称えることができます。

13:16 善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。(なぜならば)そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。

 さらに、善を行うことと、分かち合うことも神を喜ばせるいけにえです。

13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。

 指導者は神の備えた希望について説得します。それで、その言葉を信じて受け入れるように勧め、また、引き下がるように勧めました。自分を主張し、聞き入れることがないような態度を取ることがないと言う意味です。端的に言えば、従うことです。

 これは、指導者に何もかも言われるままに従うと言うことではなく、指導者が語る神の教えを聞き入れ、従うことです。

 そのことは、後半からもわかります。指導者は、信者のたましいの見張り役です。いかに神の御心に適って歩むことができるかを考えて見張っているのです。

 それで、指導者の語ることに対して、これを聞き入れなかったり、反発したりしてはいけないのです。引き下がるのです。聞き入れて従うのです。もし、指導者の語ることを聞き入れない態度をとっているならば、指導者は、喜んでそれをすることが難しくなります。嘆きながらすることになるのです。

 他にも、間違った教えについて聖書に基づいて指導しても、信用しないこと。また、是正されない。間違った言葉や、行いを指導しても、一時的に聞き入れても、すぐに元に戻ってしまう。頻繁に居眠りをして、語られることを聞こうともしない。これらは、指導者にとって嘆きです。

・「言うことを聞く」→説得する。(受動的)何が信頼できるかを説得すること(されること)。語源は、信仰。神の説得。

・「服従する」→引き下がる。従う。

13:18 私たちのために祈ってください。私たちは正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動したいと思っているからです。

 手紙の記者は、自分たちのためにも祈ってくださることを願いました。彼は、正しい良心を持っていると確信していました。良心は、その人のうちにある、その人の行動を最終的に決定する判断基準です。その判断基準は、その人の持つ教えによります。その良心が正しいとは、良心が神の教えに整合している状態です。ですから、その人の言葉や行いは、神の御心に適ったものです。

13:19 私があなたがたのもとに早く戻れるように、なおいっそう祈ってくださるよう、お願いします。

 彼は、ヘブル人の元へ早く戻れることを願っていました。そのために祈ってくださることを願いました。彼らのそばにいて、信仰に堅く立つことができるように、働くことができます。

13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを、死者の中から導き出された平和の神が、

13:21 あらゆる良いものをもって、あなたがたを整え、みこころを行わせてくださいますように。また、御前でみこころにかなうことを、イエス・キリストを通して、私たちのうちに行ってくださいますように。栄光が世々限りなくイエス・キリストにありますように。アーメン。

 イエス様に関する説明について、「永遠の契約」は、この方を通して、御国で報いを受け、栄光に与ることを約束したことを意味していて、その希望の中に歩む勧めに沿ったものです。

 「血による羊の大牧者」は、羊のために命を捨てた牧者の愛を表しています。その愛によって導く大牧者です。小牧者は、地上の指導者です。

 そして、「主イエス」は、私たちが従うべき方です。

 神に関する説明として、「イエスを死者の中からよみがえらせた」ことは、その全能の力で、信者に働き、信者を復活の状態に達せしめることができることを表しています。その神は、御心を行わせ、信者を完全なものに変えます。

 神の御心は、信じる者が永遠の命を持つことです。それは、今の命を持ち、未来の命を持つことですが、今の命は、キリストと一つになって歩むことで経験できる命であり、未来の命は、神の御心を行なって、報いとして資産を受け継ぐことです。ですから、神は、その報いを最大限に獲得できるように、私たちが御心を完全に行うものとなるように働かれるのです。

 その業は、イエス・キリストを通して実現されます。イエス様は、信仰により私たちのうちに住んでくださいます。そして、御心を行うように今も働いておられます。そして、その愛を知らせ、信者が御心を完全に行うことができるように働かれます。それですから、栄光がイエス・キリストにあるように祈っているのです。

・「平和の神」→完全さの神。続く内容は、御心を行うことです。平和ではなく、神の御心を行うことによってもたらされる完全さのことです。

13:22 兄弟たちよ、あなたがたにお願いします。このような勧めのことばを耐え忍んでください。私は手短に書いたのです。

 このような勧めの言葉を聞き入れてくださるように願いました。

・「耐え忍んでください」→忍耐する。聞き入れる。この動詞に続いて、属格で「勧めの言葉」続いており、他の箇所では、「聞き入れる」こととして訳されています。

使徒

18:14 パウロが口を開こうとすると、ガリオはユダヤ人に向かって言った。「ユダヤ人の諸君。不正な行為や悪質な犯罪のことであれば、私は当然あなたがたの訴えを取り上げるが、→取り上げるすなわち聞く。この例では、当然聞くのであり、忍耐の意味はない。

テモテ第二

4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、→耳を貸す。

--

13:23 私たちの兄弟テモテが釈放されたことを、お知らせします。もし彼が早く来れば、私は彼と一緒にあなたがたに会えるでしょう。

 テモテが釈放されました。ともに行くことを期待していました。

13:24 あなたがたのすべての指導者たち、また、すべての聖徒たちによろしく。イタリアから来た人たちが、あなたがたによろしくと言っています。

 この手紙は、すべての指導者とすべての聖徒に宛てられました。そして、イタリアから来た人たちも、彼らのことを案じていました。

13:25 恵みがあなたがたすべてとともにありますように。

 恵みは、神の目になうことです。神の好意を意味しています。信者にとって、神が備えた祝福を意味しています。それは、信仰によって獲得できます。ヘブル人たちは、信仰により、勧めの言葉を受け入れ、また、すでに持っている御言葉のうちを歩むことで、その祝福を獲得できるのです。それが、彼らすべてにあることを祈りました。