ヘブル12章

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 前章に挙げられている信仰者は、証人になっています。その信仰によって、数多く、雲が取り巻くように証ししています。

 それで、信仰によって歩むことを妨げる実生活の障害とまとわりつく内住の罪を捨てて、前に置かれている戦いをを全力で戦い抜くのです。

 なお、「競争」と訳されていますが、他の信者との競争ということはあり得ません。

・「重荷」→障害。実生活における妨げのことです。

・「まつわりつく罪」→内住の罪。単数定冠詞付きです。犯した罪のことではない。

・「競争」→闘争、戦い。信仰のための良い戦い。「走る」に引きずられて、競争と訳している。

・「走る」→走る。全力で前進する。

12:2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

 信仰の先駆者であり、信仰を完了に導く方であるイエスから目を離さず見続けるのです。先駆者は、信者の模範として、信仰による完全な歩みを全うし、肉体にあって信仰を全うすることを実証された方です。

 「完成者」は、信者の信仰を完了に導く方であるイエス様です。

 その方が先駆者としてどのように歩まれたかが示されています。イエス様にとってすべてを忍ぶ動機となったのは、ご自分の前に置かれた喜びです。それは、神から栄光を受けることです。神の右の座に着座されたことがそれを指しています。それで、辱めをものともしませんでした。十字架さえ忍んだのです。

 「着座」という表現が用いられているのは、詩篇二篇の聖句の引用以外では、ベブル書だけです。先に、信者の到達するところとして安息について記していることを受けています。なお、着座されましたが、仕えていることも記されています。これは、着座したという体勢のことではなく、安息の中におられることの比喩です。

・「創始者」→先駆者。信仰者としての完全な歩みを実証した先駆者。

・「完成者」→過程を完了に導く者。

12:3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

 この方がしのばれた罪人たちの反抗は、今、ヘブル人が受けている反抗と同じです。主は、それを忍ばれたのです。その方を見続けることで、元気を失うことなく、疲れ果てることなく、信仰の歩みを全うすることを勧めました。

12:4 あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。

 イエス様が忍ばれた反抗に比べて、手紙を受けたヘブル人は、血を流すような抵抗をしたことがなかったのです。イエス様の苦難には、比べようもないのです。

12:5 そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。

12:6 主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。」

 そして、その苦難は、父の子に対する訓練です。主は、訓練のために苦しみを与えます。その動機は、愛する子であるからです。訓練によって成長することこそ、その人にとって最高の祝福を受け継ぐ道であるからです。父は、子を愛しているので、子が永遠の祝福を受け継ぐことを望んでおられるのです。

箴言

3:11 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。

3:12 父がいとしい子を叱るように、主は愛する者を叱る。

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12:7 訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。

 訓練を受ける者とされていることは幸いです。父が子として愛していることの証しです。父が訓練しない子はいないのです。

12:8 もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。

 逆に訓練を受けない子であるとすれば、本当の子ではないのです。鞭を加えることは、父として辛いことです。しかし、それを控えることは、真に愛していないことになります。

 私たちは、苦しみを避けようとします。しかし、苦しみを受けなければ訓練はないし、成長はないのです。父は、それを良しとはしません。愛する子であるので、訓練するのです。私たちが大いなる栄光を受けるためです。永遠の祝福のためなのです。父は、私たちが永遠の報いを大いに受け、永遠の栄光を受けることを望んでおられるのです。最も価値あるものを受け継がせようとしているのです。それで懲らしめられるのです。

12:9 さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

 私たちは、肉の父を尊敬しています。父から訓練を受けていましたが、尊敬しているのです。

12:10 肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。

 肉の父は、わずかな期間、自分がよいと思うように訓練するのです。必ずしも正しいものではないし、常に訓練することはできません。しかし、霊の父は、私たちの益のために訓練されます。永遠の祝福を受け継ぐための訓練であり、人間的な思いによる訓練とは異なるのです。しかも、常に私たちをご覧になっておられます。このような父なのですから、父を尊敬し、服従すべきなのです。

12:11 すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

 すべての訓練は、喜ばしくないのです。悲しく思われるのです。しかし、それを避けるべきではないのです。信者になったら、悲しみや苦しみがなくなるわけではありません。却って、父は訓練のために悲しい経験もさせるのです。それが悪いことではないし、避けるべきことでもありません。父に愛されているので、そのような訓練を受けるのです。クリスチャンになったら、それらの喜ばしくない、悲しい出来事は解決されるというのは誤りです。訓練としてそれらは与えられるのです。

 この節では、「平安の実」正しくは「完全さ」は、「義」の説明になっています。訓練と義を結びつける説明です。この訓練は、神の御心を知り、それに従うことを表しています。いわば、御言葉の実戦応用です。どのような状況でも御言葉に従うということを学ぶためです。そのような訓練を受けた人は、神の御心を行い、また御心だけを行う完全な者になります。主イエス様と同じ者になるのです。

・「苦しく」→悲しく。

・「平安の実」→完全な実。

12:12 ですから、弱った手と衰えた膝をまっすぐにしなさい。

 訓練を受けるならば、完全になり、これ以上ない祝福を受け継ぐのです。ですから、弱っていてはいけないのです。手と膝を強め、まっすぐにするのです。これは、比喩で、御言葉に従う行いをし、御言葉に堅く立つことです。

12:13 また、あなたがたは自分の足のために、まっすぐな道を作りなさい。足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒やされるためです。

 道は、これから歩む方向や状態を表しています。御心から逸れるような歩みを求めるのではなく、御言葉に対して真っ直ぐに歩むのです。

 足の不自由な人は、堅く立って歩む点で弱い人のことです。歩みがふらつきやすい人です。しかし、どのような道を歩むべきかが明確にされることで、そこを確実に歩むことができるようになります。ですから、御言葉を正しく、良く教えられ養われることは大切なことです。そのような人は、今まで間違った歩みをしたとしても、もはやそのような歩みはやめて、健全な歩みができるようになるのです。

12:14 すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

 すべての人とともに完全さを追い求めるのです。また、聖さを追い求めるのです。聖くなければ主を見ることができないからです。主と親しく交わることも、その栄光を知ることもできません。そのような人が、キリストの愛を知り、愛によって働く信仰によって歩むことはできません。御霊によって歩み、御心を行うことはできません。

 なお、「平和」と訳されていますが、平和は、貴重ですが、平和であることで御心を行うことができるわけではありません。御心を行うことがなければ、御国の報いを受けることはできません。私たちは、主の栄光を反映して、主と同じものになることが求められているのです。そのことが遥かに重要なのです。

・「すべての人との平和を」→すべての人とともに完全さを。

・「平和」→神の御心を行うことによってもたらされる完全さ

・「との」→前置詞。とともに。

12:15 だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。

 恵みは、神が備えた祝福です。信仰によって獲得できます。自動的に与えられるのではありせん。神が御言葉によって示しておられることを信仰によって受け入れ、従うことで獲得できるのです。信じない者が受け取ることはできません。恵みから落ちるとは、神が御言葉を通して示している祝福を、自分のものとしないことです。苦しみや悲しみのために御言葉を堅く信じることから落ちるのです。

 苦い根は、植物の本体から生え出ますが、その根の元は、内住の罪です。神の御心に逆らう、また従うことができないそのような行いをさせるのです。そのように、神の御心に従わない行いが教会の中に現れるならば、他の人々を悩ませるのです。また、そのような行いに同調する者が現れ、汚されるのです。

・「苦い」→胆汁。内住の罪の比喩。

12:16 また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。

 さらにエサウの例を引き、死ぬほどの空腹を感じていたとはいえ、腹を満たすために長子の権利を売ったことが、神以外のものと関係を持つ淫行に関連付られています。肉の欲に仕えることであり、神の祝福を蔑み欲の満たしを価値あるものとしたのです。

・「みだらな者」→性的不道徳者。

・「俗悪な」→信仰から離れて神に近づくために、神に近づく(知る)のにふさわしくないこと。形容詞。

12:17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

 エサウは、後に祝福を受け継ぎたいと思いましたが、退けられました。イサクは、信仰によって祝福を与えたのであり、変更することはできませんでした。悔い改めの機会さえ失ったのです。

12:18 あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、

12:19 ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。

12:20 彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。

12:21 また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。

 かつて、ホレブで神の命令を聞いた人たちは、それ以上一言も語らないで下さいと懇願しました。その命令に恐れを覚えたのです。彼らは、獣でも山に触れるものは、石で打ち殺されなければならないと命じた、神の聖さをを恐れたのです。命令に背いた場合の処罰を恐れました。

 モーセ自身、その光景を見て、恐ろしさを覚えたのです。

12:22 しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い、

 しかし、あなた方の近づいているものは、恐れではなく、祝福に満ちたものであることを示しました。

 彼らもシオンの山に近づいています。かつて詩篇の記者が記したように、都上りの詩は、シオンを目指す詩です。しかし、そのシオンは、天上のエルサレムです。生ける神の都です。

 そこは、無数の御使いたちの喜びの集いです。彼らが喜んでいることは、イエス様が迷い出た羊、なくした銀貨の話などで、天に大いなる喜びがあることを話されたことからも分かります。

ルカ

15:10 あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」

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12:23 天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、

 また、天の教会に近づいています。そこは、登録された者だけが入ります。彼らは、長子と記されていて、相続を受け継ぐことが意味されています。

 すべての人の裁き主である神です。「すべて」は、この場合、天に入る者たちの全てです。この裁きは、評価のための裁きです。

 そして、義人たちの霊は、信仰によって義とされた人たちのことです。いわゆる永遠の滅びから救われただけでなく、信仰の歩みが義とされている人たちです。このことは、裁き主である神の裁きを受けた者たちのことです。彼らは、彼らは、そのいわゆる立場置いて、また歩みにおいて完全な者とされています。

12:24 さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。

 イエス様は、新しい契約のすべての条件の履行を保証する方です。そのことは、続いて記されている血に基づくものです。まず、血は、人を義とします。そして、豊かな愛を示すものであり、その愛に応える愛によって働く信仰に応え、イエス様がその人を完全な義とするために働かれます。その歩みが神の御心を行い、キリストを現すものとなるのです。

 「注ぎかけられた血」は、祭壇に注ぎかけられた血のことで、神がその血の尊さを披露される血です。それは、ご自分を捨てたことを表しています。血は、肉のいのちとして与えられましたが、それを捨てて、神の御心を行うことを表しています。肉体を取られた方が、御心を完全に行うことを実践され、肉体にあってそれができる根拠を与えたのです。そのようにして、契約を全うさせるのです。義なる歩みをさせることを保証できるのです。肉によらず、信仰によって歩むところに実現します。

・「仲介者」→契約に定められたすべての条件を履行することを保証する仲裁人。

12:25 あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。

 地上に於いて警告を受けたのは、次節に「あの時」と記されていますので、ホレブの山で警告を受けたことを指しています。その時、山の上から地上に於いて警告を与えました。その律法の言葉を拒むならば、処罰されたのです。それで、天から語られる警告を与える方に背を向け、聞き従わないならば、なおのこと処罰を受けます。

 ここでは、地上で警告を与えたことと、天から警告を与えたことが対比されています。

12:26 あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」

 その時、地が震えたことが記されていますが、そのことを捉えて、揺るがないものについて示しています。

出エジプト

19:18 シナイ山は全山が煙っていた。主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。煙は、かまどの煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。

ハガイ書

2:6 まことに、万軍の主はこう言われる。『間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。

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12:27 この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。

 もう一度という言葉が意味していることは、揺り動かされないものが残るためです。ホレブで山が震えたことは、揺り動かされないものが残るこためであることを意味しています。その警告を受けても神の従わない人々が除かれることを表しています。揺り動かされない人々が残されるためです。

12:28 このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。

 揺り動かされないものは、御国です。神の言葉に従って生きる者が御国を受け継ぐのです。また、御国は、揺り動かされることがないので、感謝できるのです。

 この礼拝は、神殿での礼拝に対比されています。ですから、文字通りに礼拝を捧げることを勧めているのではなく、新しい契約に歩んで、神に栄光帰すことを勧めているのです。

12:29 私たちの神は焼き尽くす火なのです。

 最後の言葉は、強い警告となっています。神の御心に適わない者は、焼き尽くされます。火は、評価を表しています。その評価に適わないものを焼き尽くすのです。