ヘブル10章

10:1 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。

 動物のいけにえとキリストのいけにえが、義とするという観点から対比されています。これは、前章とは、異なる観点で記されています。ここに記されていることは、新しい契約の説明で、信じた者は、完全にされていることを示しています。完全とは、聖なるものとされることで、罪が完全に赦されていることです。そして、その説明の後で、二十一節から義とされた者が、前章に示したように清い歩みをすることを勧めているのです。

 まず、律法による捧げ物は、神に近づく人々を完全にすることができないのです。それは、来るべき良いものの影であって、本体でないからです。形式はあっても、実体がないのです。

・「実物」→鏡像のようによく似たもの。この場合には、影と対比されていますので、本体。

10:2 それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。

 義とされ、完全にされたならば、礼拝する人たちは、一度で清められて、もはや罪を意識しなくなるのです。それで、いけにえを捧げることは終わったはずです。新しい契約では、完全に罪赦され、義とされるのです。

10:3 ところがむしろ、これらのいけにえによって罪が年ごとに思い出されるのです。

10:4 雄牛と雄やぎの血は罪を除くことができないからです。

 ところが、罪のためにいけにえは、年ごとに捧げられます。罪がきよめられるという儀式を行うたびに、自分には罪があるということを思い出すのです。それは、雄牛と雄山羊の血は、罪を除くことができないからです。罪を除くとは、犯した罪が完全に赦されて、罪のない者とされることです。なお、罪を犯したという事実は、消えることはありません。

・「罪を取り除く」→罪:複数、冠詞なし。実際に犯された罪。取り除くと表現されていますが、これは、罪が赦されて、神が思い出すことをしないことを表してます。罪を犯した事実は、なくなりませんが、それを罪とはしないのです。義と認め思い出さないのです。

10:5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。

10:6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。

10:7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。神よ、あなたのみこころを行うために。』」

 そして、聖書に預言されているキリストの言葉が引用されています。そこには、キリストが喜んで神の御心を行うために来られたことが預言されています。体を持ったのは、命を捨てて罪の清めをなすためです。ご自分を捨てて、神の御心の実現を喜んで求められたイエス様の偉大さが表されています。

10:8 以上のとおり、キリストは「あなたは、いけにえやささげ物、全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物、すなわち、律法にしたがって献げられる、いろいろな物を望まず、またそれらをお喜びになりませんでした」と言い、

10:9 それから、「今、わたしはあなたのみこころを行うために来ました」と言われました。第二のものを立てるために、初めのものを廃止されるのです。

 第二のものは神の御心として実現されるのです。そのために、キリストに体を備え、神の言葉に従っておいでになられたのです。新たな御心の実現があるのですから、初めのものは、廃止されるのです。

10:10 このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。

 この御心に従って、イエス・キリストの体が捧げられたことにより、聖なる者とされるのです。そして、その効力が完全であるので、ただ一度なのです。

10:11 さらに、祭司がみな、毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえを繰り返し献げても、それらは決して罪を除き去ることができませんが、

10:12 キリストは、罪のために一つのいけにえを献げた後、永遠に神の右の座に着き、

10:13 あとは、敵がご自分の足台とされるのを待っておられます。

 キリストは、いけにえを捧げて後、神の右の座に着きました。そして、敵が足台になるのを待っておられます。それは、もう、罪を取り除く業は、完全に終わったことを表しています。

 「右の座に着く」ことは、敵を足台とするまで、座っているということです。これは、活動しないで、休んでいる状態です。実際は、今も信者のうちにあって、信者を完全な者にしようと働いておられます。座るという表現を使い、御業を終えたことが強調されています。対比して、祭司は、毎日立ってその務めをなしています。

10:14 なぜなら、キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって永遠に完成されたからです。

→「聖なるものとされる人々を永遠に完全にしました。」

 それは、ただ一度で人を聖なる者にし、一つの捧げ物によって永遠に完全にしました。それは、祭司が毎日同じいけにえを捧げても決して罪を除くことができないことと対比されています。

10:15 聖霊もまた、私たちに証ししておられます。というのも、

10:16 「これらの日の後に、わたしが彼らと結ぶ契約はこうである。──主のことば──わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにこれを書き記す」と言った後で、

10:17 「わたしは、もはや彼らの罪と不法を思い起こさない」 と言われるからです。

 そして、聖霊の証しとして、聖書の言葉を引用しました。すでに引かれた預言の後に、記されていることは、もはや彼らの罪と不法を思い出すことをしないというものです。

10:18 罪と不法が赦されるところでは、もう罪のきよめのささげ物はいりません。

 罪と不法が赦されるならば、もはや罪の清めの捧げ物は、いらないのです。

 ここでは、罪を除くことが罪を清めることと言い換えられています。

10:19 こういうわけで、兄弟たち。私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。

10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

 それで、信者は、大胆に聖所に入ることができます。もはや決して罪を思い出されることがないからです。イエス様がご自分の体を通して、この新しい、生ける道を開いてくださったからです。

 なお、前章で「もっと偉大な、もっと完全な幕屋」と記されているのは、イエス様の肉体のことです。

10:21 また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから、

10:22 心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。

 偉大な祭司がおられることが取り上げられています。その祭司が罪の完全な赦しを保証していることと、私たちが全き信仰をもって真心から神に近づくことができるように働いてくださるからです。

 具体的には、心に血が振りかけられたことです。それは、キリストの愛を表しています。それで、邪悪な良心を清められ、神の御心に適った判断をもつのです。体を清い水で洗われました。それは、清めの水を表していて、聖霊によって働く御言葉の比喩です。

 ですから、全き信仰と言われているように、神の御心を完全に受け入れ、完全に従う信仰によって歩む者に変えられるのです。

10:23 約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか。

 希望は、前章に記されているように永遠の資産を受け継ぐことです。約束は、その資産を受け継ぐことです。約束した方は、真実です。必ずそれを相続できるようにしてくださるからです。既に見たように、九章では、キリストの血が私たちを死んだ行いから離れさせ、神に仕える者とするので、報いを受けることができるのです。また、十章では、罪が除かれ、完全な者とされていることが明確にされていて、そのような立場にあって実を結ぶことができるのです。それで、永遠の資産が約束されているので、動揺する必要はないのです。告白することは、心の確信を言い表すことです。その確信を持ち続けるのです。

ヘブル

9:14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

9:15 キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。

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10:24 また、愛と善行を促すために、互いに注意を払おうではありませんか。

 資産を受け継ぐために必要なことは、愛と善行を行うことです。永遠の資産は、そのような実に対する報いであるからです。それで、互いがよい行いを促すための注意を払うことで、皆、その報いを受けることができるためです。

 教会における指導や勧めは、このような観点から行われるものです。現状のぬるま湯を望む信者にとって、勧めの言葉は煩わしいと感じるのです。しかし、そのような人こそ、永遠の資産を受け継ぐことを心掛けるために、勧めの言葉が必要なのです。

10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

 集まることを止めてはいけないのです。ある人たちは、集まることをしない習慣を持っています。集まることは、聖書の教えと実例によって明らかです。

 むしろ、励まし合って集まるのです。それは、その日が近づいていることが分かっているからです。評価のための裁きを受け、報いを受ける時が近づいているからです。ますます、励むのです。より多くの報いを受けるためには、より励むことを求めないでしょうか。

10:26 もし私たちが、真理の知識を受けた後、進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、

10:27 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。

 この罪は、二十九節に記されているように、神の御子を拒む罪です。信仰の根本にかかわる罪です。この警告は、未信者に対して語られているのではなく、信仰を告白した人たちで、そのような罪を犯している人に対して語られています。彼らは、イエス・キリストを信じて、聖なる者とされる契約に与った人たちです。

 では、なぜそのような罪を犯しているのでしょうか。彼らは、ユダヤ人です。彼らは、悔い改めてバプテスマを受けることで、キリストを十字架につけた罪を赦され、聖霊を受けました。その彼らが、迫害を避ける等の理由のためにユダヤ人社会に帰り、神殿礼拝をするとすれば、彼らは、たとい心ではキリストを否定していなくても、イエス様がキリストであり、この神の御子が打ち立てた契約を否定することになります。神の御子を踏みつけることになります。また、契約の血を汚れたものとみなすことになります。その血は、罪の清めができないとするに等しいのです。そして、御霊が内住し、御霊によって実を結び、永遠の資産を受け継ぐことができることを否定することです。そのことについては、二十九節に「恵みの御霊」と記されています。それは、自動的に与えられるのではく、御霊によって御心を行うことができることは、信仰によって受け入れることで、信仰に応えて実現してくださることです。それで、恵みなのです。

 そのような人たちは、裁きを受け、激しい火の中に入れられます。永遠の滅びなのです。

10:28 モーセの律法を拒否する者は、二人または三人の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死ぬことになります。

10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものと見なし、恵みの御霊を侮る者は、いかに重い処罰に値するかが分かるでしょう。

 モーセの律法を拒否する者は、あわれみを受けることなく死ぬことになります。それで、神の御子によって打ち立てられた契約を否定するのであれば、永遠の滅びという思い処罰を受けるのです。

10:30 私たちは、「復讐はわたしのもの、わたしが報復する。」また、「主は御民をさばかれる」と言われる方を知っています。

10:31 生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。

 神は、復讐する方です。御子に対するひどい仕打ちに対して、当然復讐されるのです。また、主は、御民を裁かれるのです。御民であるから、裁かれないことはないのです。

10:32 あなたがたは、光に照らされた後で苦難との厳しい戦いに耐えた、初めの日々を思い起こしなさい。

 ヘブル人の信者が迫害の中にあったことが分かります。初めの日には、その迫害に耐えていたのです。それを思い起こすように勧めました。このように勧めることは、彼らが迫害に対して、弱くなっていることが分かります。

10:33 嘲られ、苦しい目にあわされ、見せ物にされたこともあれば、このような目にあった人たちの同志となったこともあります。

 彼らは、かつては、嘲られ、苦しい目に会わされ、見世物にされ、また、そのような人たちの仲間になったのです。

・「同志」→相互に属し、交わりを共有する参加者。

10:34 あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたので、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。

→「なぜならば、あなたがたは、牢につながれている人々と苦しみをともにし、また、自分の財産が奪われても、それを喜んで受け入れました。自分たちにはもっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたからです。」

 彼らは、牢につながれている人々と苦しみを共にしました。また、自分の財産が奪われてもそれを喜んで受け入れました。三十三節からの一連の苦しみが列挙された最後に、いつまでも残る財産があることを知っていることが述べられています。彼らがそれらの苦しみを忍ぶことができたのは、永遠の資産に目を留めていたからです。

10:35 ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。

 ですから、彼らの確信を投げ捨ててはならないのです。必ずその資産を受け継ぐことができる確信です。大きな報いがあると記しましたが、永遠の資産の相続という報いです。

 彼らは、迫害の中で確信が揺らいでいたのです。弱音を吐いて、迫害を避ける道を探ろうとしていました。しかし、そこに大きな罠がありました。

10:36 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。

 神の御心を行うことで、約束のものとしての永遠の資産を報いとして受け継ぐのです。それを受け継ぐためには、忍耐が必要です。

10:37 「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない。

10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」

 その方は、来られます。遅れることはないと記されています。

ハバクク書

2:3 この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。

2:4 見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」

→「そのたましいがまっすぐでない者は、膨らむ。あるいは、不注意に上がる。」恐れ退くことは、不信仰によります。たましいがまっすぐでないのです。そのような者は、ヘブル書では、恐れ退く者に当てはめています。そして、それは、神の言葉に対する信頼を失うことであり、主は、喜ばれないのです。

10:39 しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 恐れ退くことは、ヘブル人の置かれた危険性を表しています。迫害を恐れて、確信を投げ捨てるようなことがあり、ユダヤ人社会に戻るならば、滅びるのです。しかし、確信にとどまるならば、信じていのちを保つ者であるのです。