ピリピ4章

4:1 ですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。このように主にあって堅く立ってください。愛する者たち。

 パウロは、自分を捨てることの模範を示しました。それは、イエス・キリストに見られるものであり、キリストに従う者にもその模範があることを示しました。また、三章では、肉を誇る人々を引き合いに出しています。彼らは、教えにおいて間違っていたのですから、その点でも警戒しなければならないのですが、パウロは、彼らが肉の誇りのために律法の行いをしており、間違った教えをしていることを指摘し、そのような肉の誇りが価値のないものであり、真に価値あることは、肉を捨てて完全な者になることであることを示しました。それは、二人の姉妹の不一致の問題が肉の誇りに基づくものであるこ踏まえてのことです。自分を捨てることかできない彼らに対して、そのようなものが全く価値がないことを示しているのです。

 その上で、彼は、手紙の本題であるピリピの教会の不一致の問題に話を進めます。彼は、最初からその問題に直接は触れませんでした。しかし、キリストにある者のあり方を示すことで、不一致の状態にある彼らが、自ら進んで一致に進むように計らったのです。初めから前触れなしにその問題を指摘したら、心を頑なにするのです。人とはそういうものです。正しい指摘であったとしても、それに従うことが難しいのです。その勧めに従うことがどうしても必要なことであることを自ら認識した上でなければ従うことはできないのです。また、頭では分かっていても、感情に左右されて、従うことができないこともあるのです。また、面子を考えて従うことができないこともあります。自分が、そこにどうしても従わなければならないことを自ら自覚したときに、初めて従うことができるのです。

 このことは、他の人に勧めをするときにわきまえておかなければならないことです。正しいことを語れば相手は聞き入れるかというと、そうではないのです。その人自身が納得して、受け入れるのでなければ、効果は期待できません。

 勧めをするに当たって、彼の呼びかけが初めに記されています。このことも大事なことです。その勧めが、兄弟として心から愛してそれをなすことを初めに示すことで、その人の心を開いています。そうでないと、勧めの言葉が、彼らの心に入らないのです。勧めを受ける人にとっては、勧めをする人から、自分はだめなものと見られているという思いがあります。あるいは、自分が忠告を受ける以上、その人にとっては、不快な思いを抱いているという思いがあるのです。立場を逆にして考えると分かりますが、私たちが人に何かを言うというのは、よっぽど腹に据えかねたことがあるからです。人から忠告を受ける時には、相手もそのような思いを持っていると考えてしまうのです。きっと自分に対して不快な思いを持っていると思ってしまうのです。しかも、その人が霊的に低い状態あればあるほど、そのように考えるものです。その人が霊的成長を求めるのであれば、喜んでその勧めを受け入れるでしょう。しかし、それを求めない者にとっては、忠告の言葉は、いやなものあるいは煩わしいものであるのです。

箴言

12:18 軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし、知恵のある人の舌は人を癒やす。

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 パウロは、その知恵に従って、正しい言葉を語るにあたっても細心の注意を払いました。不一致という問題を公に現してしまった姉妹二人の霊的状態は低いものです。そのような状態にある彼らを導くために、細心の注意を払いました。

 パウロにとって、ピリピの人たちは、パウロの慕う兄弟たちでした。パウロは、勧めをするに当たっても、彼らが自分にとって慕う存在であることを示しました。それによって、彼らに対して何も悪い思いを持っていないことを明らかにしたのです。

 「私の喜び」とも言いました。パウロにとっては、彼らの存在が喜びなのです。私たちが、兄弟姉妹を心から喜びと言うことができるでしょうか。顔を合わせても笑顔が出てこないとすれば、返って顔が曇るとすれば、それは、たぶん心の中にその兄弟を喜びとしてはいないのです。パウロは、勧めをするのですが、それでもその兄弟のことを喜びとしていました。

 私たちは、勧めをしなければならないとすれば、よっぽど悪い状態がその人に見られるからです。その時、その人に対して悪い思いを持ってはなりません。その人を真に喜びとしていなけばならないのです。その上で勧めるのです。その人が間違ったことをしているので勧めるのですが、真に愛する兄弟として、その人を真に喜んで、その人の成長を願っているから、勧めるのです。その人の存在が喜びであるのです。子供を叱るとき、その子の存在が自分にとって喜びあると思わない親がいるでしょうか。自分にとってその存在が喜びであり、愛しているから叱るのです。

 また、「冠」と言いました。冠は、誇りです。他の人に誇れる存在です。そうです、彼らは、不一致という問題を起こしましたが、彼らの存在は誇りであるのです。パウロにとって非常に尊い存在であるのです。彼らは、偶像から真の神に立ち返ったのです。そして、キリストに従う者となったのです。世の滅びていく人たちの中で、真理に従う者になったのです。パウロにとって誇りではないでしょうか。

 私たちは、兄弟姉妹を尊いものと考えているでしょうか。たとい問題を起こしたとしても、神の前には、尊いし、私たちは、その存在を誇りとしなければならないのです。問題そのものは、悪いものです。しかし、その人の尊さは変わりません。

 パウロは、彼らが堅く立つことを勧めました。彼らは、ピリピの一人一人が、勧めの言葉のように堅く立つことを願いました。「このように」と言うことによって、自分を捨てて、キリストのために生きることが堅く立つことであることが分かります。パウロにとって尊い彼らが、キリストの模範に従う者となることを求めたのです。それこそ、パウロの真の愛です。彼らにとっての最高の祝福の道に歩むことこそ、彼らの最高の栄誉です。それを願うことが真の愛です。

4:2 ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。

 これがパウロの勧めの核心です。ユウオディヤとスントティケという二人の姉妹の間の不一致の解消のために勧めました。この勧めは、一人一人になされています。どちらが悪いという扱いはされていません。彼女らも、相手が悪いと言っていてはならないのです。不一致という状態を解消しなければならないのです。

 「主にあって一致してください」と求めました。そこには、完全な一致が求められています。

4:3 そうです、真の協力者よ、あなたにもお願いします。彼女たちを助けてあげてください。この人たちは、いのちの書に名が記されているクレメンスやそのほかの私の同労者たちとともに、福音のために私と一緒に戦ったのです。

 この問題は、不一致の状態にある姉妹に勧められていますが、教会にとって重要な問題であり、教会として解決しなければならない問題であるのです。それこそ、教会の証しを損なうものであるのです。キリストにある者が、不一致の状態にあれば、世に対してキリストの愛を証しすることができないのです。

 パウロは、「真の協力者」に助けを求めました。これは、一致の点で躓いている二人の姉妹に対比して記されています。この二人は、パウロの同労者として働いてきた人たちです。それは、クレメンスや他の同労者と同じです。しかし、この二人は、真の協力者にはなり得ませんでした。なぜなら一致していないからです。福音のための働きに協力して戦ったとしても、真の協力者ではありませんでした。不一致は、主イエス様の教えに真っ向から反するものであり、教会を建て上げるためには大きな障害となります。それは、福音の働きを妨げるものになっているのです。兄弟姉妹を愛して、心一つになって歩むことは、福音の働きとともに、大変大切なことです。福音の働きに熱心であることで満足してはいけません。救われた兄弟姉妹を愛することはもっと大事なことです。その愛がなかったならば、神を証しすることはできません。

ヨハネ

13:35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

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 二人の姉妹の不一致は、教会の証しを破壊してしまうのです。これは、二人の姉妹の間の問題だけではないのです。福音の戦いを敗北に終わらせる重大なことであるのです。教会としてこの問題を解決しなければならないのです。

 パウロは、福音のために命を懸けました。迫害され、投獄されて、石投げを受けて命を落としたのです。そのような労苦を破壊するのが不一致の問題です。真に協力して戦うには、まず教会が一致して、一つになって戦う必要があるのです。

 クレメンスについては、「いのちの書に名が記されている」と形容しています。いのちの書に名が記されていることは、一つは、救いの立場に与っているということを表しています。そして、そう一つは、報いに関係しています。

黙示録

20:12 また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。

20:13 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

20:14 それから、死とよみは火の池に投げ込まれた。これが、すなわち火の池が、第二の死である。

20:15 いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

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 数々の書物の中に「いのちの書」がありました。死んだ人々は、「これらの書物」に書き記されているところに従って裁かれました。命の書に記される名は、その人の行いを意味しています。当然、名前も記されています。そうでないと誰の行いか分かりません。この裁きは、評価のための裁きです。その人たちの裁きは、永遠の滅びではありません。「その行いに応じて」裁かれたのです。その裁きは、彼らの行いを評価し、報いを与える裁きです。その報いに関する評価は、いのちの書にも記されているのです。

 十三節から記されている人々は、火の池に入れられる人たちで、十二節の人々とは異なります。

 ピリピの二人の姉妹は、命の書に名が記されていたのです。ここでいのちの書に言及しているのは、彼らの行いはいのちの書に記され、報いが備えられていることを覚えさせるためです。クレメンスは、正しく行なっていた人の一人です。しかし、不一致を現した二人の姉妹は、その点に関して報いを受けることはありません。不一致は、彼ら自身にとって大きな損失であり、彼らの永遠の報いが失われることを考えると厳粛なことであるのです。

4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 四節から七節まで、一連の勧めが記されています。それは、脈略なしに記されているのではないのです。一致の問題に関連して記されています。

 喜ぶことは、主の恵みを経験して喜ぶことです。肉によって喜ぶことではありません。恵みは、主が祝福として備えた良いものです。信仰によって受け取ることができます。そのような喜びのうちに歩むことが求められています。

 いつも主にあって喜ぶことは、あらゆる肉の働きから私たちを守ります。私たちを誘惑し迷わせるのは、肉の働きがあるからです。肉を喜ばせようとして様々な問題を生じるのです。主にあって喜ぶことは、肉の働きから守られます。

 不一致の問題の解決にも、主にあって喜ぶことは、非常に重要になります。不一致は、自分中心の考えらか出てくるのです。相手を主にある尊い者として考えることができないところから出てきます。それは、結局、自分の肉を満足させていて、主に喜ばれることを求めているのではないのです。自分が正しいという理論的な主張をするかもしれませんが、たとい正しくても、不一致が生じるのは、肉の働きです。自分を捨てることができないことから生じます。一致を何にも勝って優先させなければならないのです。たとい、自分の肉が満足しなくても主の栄光のために自分を捨てることは、主の喜ばれるところです。

・「喜ぶ」→神の恵みを経験することでの喜び。

4:5 あなたがたの寛容な心が、すべての人に知られるようにしなさい。主は近いのです。

 そして、寛容な心を全ての人に知らせるのです。彼らは、主からいかに大きな寛容をもって迎えられたでしょう。

 「主は近いのです。」の「近い」」は、原語の意味は、時間あるいは場所が近いことを表します。聖書では、誠実に御言葉に従って歩むことを勧めるときは、主の裁きがあることがしばしば示されています。それが強い動機付けになるからです。その一方で、御言葉に従う祝福については、主が共におられることが示されています。近いのではなく、ともに住まわれるのです。

 このように、近いは、空間的な近さではなく、三章二十六節との関連で、主がおいでになられることが間近であることです。そのとき、私たちは、一切の肉から離れ、栄光の体に変えられるからです。その時が近いならば、それにふさわしく歩むべきではないでしょうか。主が空間的に近いことは、あまり意味がありません。主は、目に見えず、また、偏在の方です。いつでも私たちのことを見ておられます。

 主が全てを知り、見ておられます。そして、正しく評価されます。私たちが寛容な心を閉ざすことは、主に対して恥ずかしいことです。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

 そして、彼らが自分を捨て一致することに困難を感じるなら、主に願うように勧めました。彼らは、何も思い煩う必要がないのです。どのような場合にも感謝をもって捧げる祈りと願いは、神が耳を傾けてくださいます。その方に知っていただくことができるのです。

 このことは、あらゆることに適用できます。なぜなら、「あらゆる場合に」と記されているからです。私たちは、煩うのではなく、祈ることによって、神に委ねることができるのです。

4:7 そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 理解は、一般的な理解とは異なり、人が信仰によって神の御心を受け入れる器官を指しています。それが神の御心に完全に整合していることは幸いですが、必ずしもそうではありません。そのようにその人の持つ教えの欠けたところを超えた神の完全さが、その人の心と考えをキリスト・イエスにあって守ってくれます。「心」は、良いことも悪いことも出てくるところとして一般的な心を意味します。「思い」は、行動の元となる(思いの結果としての)考えのことです。神様がそれらを神の教えの完全さをもって守ってくださるのです。心が神の教えを受け入れることができるようにしてくださり、たましいが神の教えに従って行動できるようにしてくださるということです。

 「平安」は、原意は、「完全さ」のことです。平安と訳したのでは、整合しません。なぜならば、その人の持つ教えや行動の元となる考えは、平安であるかどうかに依存しないからです。そのことは、九節のことからも明らかです。

 私たちが思い煩うのは、神の真理を完全に知っていないからです。人間的な思いや考えで判断しようとするので、思い煩うのです。神の御心は、私たちの思いを超えています。

・「理解」→人が信仰によって神の御心を受け入れる器官。

・「平安」→完全さ。

・「思い」→行動の元となる(思いの結果としての)考えのことです。

4:8 最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。

 パウロは、不一致の問題だけでなく、そのほかの全てのことについても心を留めるように勧めました。

「全ての真実なこと」これは、偽りでなく、表面的でないことを表しています。兄弟姉妹の間で真実でなければなりません。もちろん主に対して真実でなければなりません。

「全て誉あること」この誉れは、神の前に誉あることです。人の前に誉れを求めるべきではありません。

「全ての正しいこと」クリスチャンは、正しくなければなりません。

「全ての清いこと」汚れのない清さが求められています。

「全ての愛すべきこと」愛すべきことは、兄弟姉妹であり、主であり、父です。そして、すべての人です。

「全ての評判の良いこと」これは、人の評判です。霊的に価値ある良いことに対する評判です。

「そのほか徳と言われること」徳です。

「賞賛に値すること」霊的な良いことが賞賛に値します。

4:9 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。

 それらのことは、パウロから学んだことです。そして、パウロから学んだこと、受けたこと、聞いたことまた見たことは、教えと模範です。それを行うように勧めました。

 そうするならば、完全な神がともにいてくださいます。神が教えたことと異なったことを行っている者とともに歩むことはないのです。ともにいてくださることは、喜んでくださることを表しており、その人を通して御心を行おうと働かれるのです。それがともにいるということです。

 七節の「平安」と訳されている語は、ここでは、「平和」と訳されています。その人が教えのうちを歩むことと、平和とは直接関係しません。神の教えを行う者と完全な教えを持つ神がともにおられるのです。

 私たちは、自分の不完全さを思うかもしれませんが、その解決は、既に六節に記されています。その不完全さを神は、守ってくださるのです。

4:10 私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです。

 パウロに対する援助は、しばらく途絶えていたようです。しかし、このとき、エパフロデトをとおして、パウロに贈り物がされました。彼は、それを非常に喜びました。

4:11 乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。

 乏しいからこういうのではないと言いました。彼が、このことを言うのは、十七節に記されているように、パウロに贈り物をすることができる、彼らの霊的祝福を喜んでいたのです。

 パウロ自身は、どのような境遇でも満ち足りることを学んだ人です。

4:12 私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

4:13 私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。

 パウロは、どんなことでもできると言いました。それは、彼があらゆる境遇に対処できることをいっています。彼がそれをすることができるのは、彼を強める方がいるからです。彼は、その方に信頼していましたので、確信をもってどんなことでもできると言いました。パウロが何でもできるといったのは、彼が神の力によって事をなすからです。彼自身の力を誇っているのではありません。

4:14 それにしても、あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。

 彼は、ピリピの教会と困難を分け合ったことを思い出していました。ピリピの人たちは、パウロの必要を満たすという役割を担ってその困難を分け合ったのです。

4:15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、福音を伝え始めたころ、私がマケドニアを出たときに、物をやり取りして私の働きに関わってくれた教会はあなたがただけで、ほかにはありませんでした。

 「福音を宣べ伝え始めたころ」は、第二次伝道旅行のときと考えられます。ピリピで伝道して、マケドニヤのテサロニケに向かい、ギリシャからエルサレムに向かいました。マケドニヤを離れる時には、誰もパウロを援助する者がありませんでした。ピリピの教会だけがパウロを助けたのです。

4:16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは私の必要のために、一度ならず二度までも物を送ってくれました。

 テサロニケにいた期間は、三つの安息日に渡ってと記されていますのです、一月弱です。その間に、二度も物を送ってパウロの乏しさを補いました。

4:17 私は贈り物を求めているのではありません。私が求めているのは、あなたがたの霊的な口座に加えられていく実なのです。

 パウロは、物そのものを喜んだのではなく、それを送ったピリピの人たちの霊的祝福を喜びました。それは、物理的な犠牲が伴いましたが、彼らのしたことは、霊的祝福に基づくことでした。

4:18 私はすべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロディトからあなたがたの贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。

 パウロは、満ち足りていました。それをもたらしたのは、エパフロデトですが、ピリピの人たちの愛と共に、いのちをかけたエパフロデトの手を通して与えられました。そのような、霊的祝福を見て、彼は満たされたのです。そのような行為は、神の前に香ばしい香りであって、神が喜んで受け入れてくださる供え物です。

4:19 また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 物質的犠牲を払ったピリピの人たちに対して、神は、その必要を満たした下さるのです。神は、それを満たしてくださる栄光の富を持っておられます。

4:20 私たちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 パウロは、そのようにピリピの人たちを祝福した下さった父なる神様を覚えて、賛美しました。

4:21 キリスト・イエスにある聖徒の一人ひとりに、よろしく伝えてください。私と一緒にいる兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。

4:22 すべての聖徒たち、特にカエサルの家に属する人たちが、よろしくと言っています。

4:23 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。

 主イエス・キリストの恵みがピリピの人たちの霊と共にあることを祈りました。ここで、「霊」と記されているのは、霊は、教えを受け入れる部分であるからです。パウロは、ピリピの人たちへの恵みを求めていましたが、それは、霊に恵みがあることです。霊は、御言葉を受け入れる部分ですが、彼らの霊が御言葉にかなったものになることが、恵みです。彼らが神の言葉をそのまま受け入れることが恵みです。そして、彼らは、受け入れた言葉に従って御心にかなった者に変えられるのです。まず、御言葉をそのまま受け入れることが大切です。